| インド・イスラーム建築史 |
新潮社の 『新潮世界美術辞典』は 世界的に見ても優れた美術辞典ですが、1985年の出版なので 少々内容が古くなっていました。 25年ぶりに改訂することになり、私はインドのイスラームと その後の建築の項の改訂を担当しました。今回 出版社の了解を得て、多くの写真を加えながら、辞典項目でたどる 簡潔な 「インド・イスラム建築史」 として ここに掲載することにしました。 次の 「項目一覧」 から どれかをクリックすると、その項に飛びます。 辞典の改訂版の出版は、来年になるということです。 (2010/11/01 ) |
| クトゥブ・コンプレクス | ムガル朝の美術 | 階段井戸 | ||
| ガウル | アーグラ | チャトリー | ||
| アフマダーバード | デリー | 四分庭園 | ||
| チャンパーネル | フマユーン廟 | ラ-ジプート美術 | ||
| ジャウンプル | ファテプル・シークリー | ゴア | ||
| マンドゥー | シカンドラ | アムリ トサル | ||
| グルバルガ | シュリーナガル | ムンバイ | ||
| ビジャープル | タ-ジ・マハル廟 | インド・サラセン様式 | ||
| ササラーム | ニューデリー |
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インドに最初に誕生したイスラーム政権である 奴隷王朝(1206-1290) に始まり、ハルジー朝(1290-1320)、トゥグルク朝(1320-1413)、サイイド朝(1414-51)、ローディー朝(1451-1526)と継起する王朝は いずれもデリーを首都とし、君主がスルタンを名乗ったので、これらを一括してデリー・スルタン朝と呼び、その 320年にわたって展開した 北インドのイスラーム美術を総称する。
ヒルキー・モスクの平面図と、モト・キ・マスジド 広域デリーには 歴代の王朝が新首都を建設していったので、後に 「デリーの七つの都」 と称された。 中でも トゥグルク朝は クトゥブ地区のある第 1の都 ラールコートの東方に 第 3の都 トゥグルカーバードを造営して、壮大な石造の城壁で囲んだ。 そのスルタンであったギヤース・アッディーンの廟(1325)は 小規模ながら、赤砂岩のキュービックな本体に白大理石のドーム屋根を架けて、後のムガル朝の華やかな廟建築の原型となる。
トゥグルカーバードの都と、ギヤース・アッディーン廟 トゥグルク朝は さらに北方にも第 5の都 フィーローザーバードを建設、ここには フィーローズ・シャー・コトラの城塞と モスクの一部が残る。 またデリーには 無数の方形廟が建てられたが、サイイド朝末からローディー朝の時代に、周囲に柱廊をまわした 八角形プランの廟形式が発展した。 ロ ーディー公園のムハンマド・シャー廟(1443/4)と シカンダル・ローディー廟(1517/8)がその代表で、後者は、外観の見栄えを向上させるために ドームを二重殻として高くするとともに、境内を塀で囲んで整形の四分庭園とした 最初の作例である。
ローディ公園の シカンダル・ローディ廟
クトゥブ・モスク以来、壁面装飾としての アラビア語のカリグラフィーや 幾何学紋、唐草紋による石彫が大いに発展したが、偶像表現と見なされ得る細密画は ヒンドゥーやジャイナ美術に比して、いまだ隆盛をみなかった。
デリー南部のメフローリ地区に残る、インド最初のモスクを中心とする一群の建物の遺跡。
西側から見た クトゥブ・モスクと 鳥瞰図
後に 「イスラームの力」 を意味する クッワト・アルイスラーム・モスク (Quwwat al-Islam Mosque) と呼ばれるようになるこのモスクは、幅広の礼拝室に 5連ドームを戴き、縦長の中庭を 回廊で囲んでいた。 後継スルタンの シャムス・アッディーン・イルトゥトミシュは、1230年に境内を左右に拡大して 4倍の面積とした。 次いでヒルジー朝の スルタン・アラー・アッディーン(位 1296-1316)が 右手と前方に大々的に拡大して、当初の約 10倍の面積とした。 しかし 真のアーチやドームの技法を知らなかったインドの職人たちは、これを持ち出し構造の擬似ドームで建てたために、全長で 225mにもなる礼拝室の 20連ドーム屋根は、後世ことごとく崩壊し、新しい建物の資材として持ち去られた。 最初期の廟建築である イルトゥトミシュ廟(1235 頃)もまた、ドーム屋根が失われている。
イルトゥトミシュ廟と クトゥブ・ミナール
アラー・アッディーンは第 2次拡大の折に、この 2倍の規模の アラーイー・ミーナール を中庭に建設しようとしたが、基部のみを残して未完に終わった。 この時建てた門、アラーイー・ダルワーザでは 真のドームを架けることに初めて成功した。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「デリーの最初のモスクと クトゥブ・ミナール」
インドの西ベンガル州と バングラデシュにまたがる古都の遺跡で、30km北の パンドゥア(Pandua)の遺構と並んで ベンガル地方のイスラーム建築を代表する。 12世紀には ヒンドゥーのセーナ朝の首都で ラクシュマナーヴァティーと呼ばれていたが、13世紀初めに デリー・スルタン朝が奪って東方領土の首都とし、ラクナウティーと呼んだ。
バーラソーナ・モスク
ベンガルは沖積平野で 石材に乏しく、古代から レンガが建築の主材料であった。 チョータソーナ・モスク(1493−1519)とバーラソーナ・モスク(1526)は レンガ造の壁を 石のパネルで仕上げているが、多くは レンガをそのまま見せ、レリーフ彫刻をほどこしたテラコッタ・パネルによる装飾を 古代の仏教建築から受け継いで、近世のヒンドゥー寺院建築に伝えることになる。 彩釉タイルも用いられたが、今は わずかしか残っていない。
ラッタン・モスクと、カダム・ラスール・モスク モスクは 中庭のない独立礼拝室型が一般的で、ラッタン・モスク (15世紀末)に代表される 独特な単一ドーム屋根のモスクは、外見上、廟建築と ほとんど区別がつかない。 他に 城門やカダム・ラスール・モスク(1530)、フィーローズ・ミーナール (1487頃) など 多くの遺構がある。
西インド、グジャラート州の都市で、15世紀から 18世紀にかけて イスラーム都市として発展し、英領時代には綿織物産業によって 「インドのマンチェスター」 とうたわれ、20世紀後半には インドにおけるモダン・デザインのメッカとなった。 1970年に 州都が新都市ガンディーナガルに移されたあとも、最大の商工業都市である。
アフマド・シャー・モスクと、金曜モスクの内部 最初のアフマド・シャー・モスク(1414)は 既存寺院から得た柱を併用した列柱ホール式モスクであるが、中庭に面した開口部とミフラーブ以外は アーチを用いずに 木造的な柱・梁構造とし、小ドーム群も 持ち出し構造でつくった。 この方式は 352本もの柱が林立する ジャーミ・マスジド (金曜モスク、 1424) にも受け継がれ、以後の多くのモスクと同様、アーブ山 や ラーナクプルのジャイナ寺院に きわめて親近性が高い。 中でも ラーニー・シープリー (サーブライ) 廟(1514)は 一見西方的なドーム屋根の廟建築であるにもかかわらず、真のアーチや真のドームを一切用いない、インド固有の軸組的な石造建築である。
ラーニー・シープリ廟と、シディ・サイイド・モスクのジャーリー
工芸作品としては シディ・サイイド・モスク(1572)の大半円窓を飾る ジャーリー(石造の格子細工)が名高く、枝を広げた樹木をモチーフにした繊細なデザインは 秀逸である。 近代のアフマダーバードが インドのモダン・デザインの中心地となったのは、ル・コルビュジエの元で修行した バルクリシュナ・ドーシ(Balkrishna Vithaldas Doshi, 1927- )が 1956年以来 この地に定着して モダニズム建築の設計と アフマダーバード大学における教育活動に挺身するばかりでなく、ル・コルビュジエの サンスカラ・ケンドラ美術館(1957)や ルイス・カーンの インド経営大学(1962-74)を ここに実現させたことによる。 彼自身の作品としては 自邸兼事務所の サンガト(1980)や グファー美術館(2004)などがある。
ル・コルビュジエのサンスカル・ケンドラ美術館と、ドーシのグファー美術館
西インド、グジャラート州に残る イスラームの都市遺跡。 アフマド・シャーヒー朝(1403-1573)最盛期のスルタン、マフムード・ベガラー(Mahmud Beghara 位1459-1511) は アフマダーバードの東南 110kmにあった ヒンドゥー王朝のパーヴァーガドの都城を 1484年に奪い、この丘の麓に 西方伝来の水利施設やイスラームの都市計画技法をもとに、23年をかけて 新首都チャンパーネルを建設した。
チャンパーネルの 金曜モスク
最大の ジャーミ・マスジド (金曜モスク 1508)は アフマダーバードの同名モスクに大きく影響されながらも、礼拝室前面に高さ 36mのスレンダーなミナレットを 2本立て、中央部の 3層吹き抜けの上に 真のドームをかけて (他のドームは持ち出し構造)、より立体的で 完成度の高いモスクとなった。 その エントランス・パビリオン も秀逸である。
チャンパーネルの ボラー・モスク ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「チャンパーネルの都市と建築」
北インドのウッタル・プラデーシュ州で、ヴァーラーナシーの北東約 60kmにある都市。 起源は 11世紀に遡るが、ゴマティ川の氾濫で壊滅、1359年に デリー・スルタン朝のフィーローズ・シャー・トゥグルクが ベンガルのスルタンに対する砦として再建し、市壁で囲んだ。
アタラ・モスクのピシュタークと、金曜モスクの内部
今は城塞の遺跡とともに、少数ながら ジャウンプル様式というべき華々しいモスクや廟が散在している。 それらは、グジャラート地方のモスクがアラブ型であったのに対して ペルシア型の四イーワーン型プランをなし、そのインド最初の作例である デリーのベガンプリー・モスク(トゥグルク朝の 1375 頃 )に範をとっている。 ところが礼拝室正面入口に、イーワーンと呼ぶには奥行きの浅い、エジプトの ピュローン(塔門)を思わせる 内転び壁面の壮大なピーシュタークを建て、他の 3基のイーワーンは 中庭にではなく外部に向けて開いている。 外向きで彫刻的な外観を誇示したい インド人気質の顕れであって、結局 内向きの四イーワーン型はインドには根付かなかった。
ラール・ダルワーザ・モスクと、アクバリー橋 1559年に ムガル朝のアクバル帝が再征服した後、総督のムニム・ハーンは ゴマティ川にインドの石造橋の代表作となる アクバリー橋(1568)を架けた。 15連アーチの橋上に 見晴し台や商店として用いられるチャトリー群を並べた橋は、アフガンの建築家 アフザル・アリーの作と伝える。
中インド、マディヤ・プラデーシュ州のイスラーム系都市遺跡。
マンドゥーの金曜モスクと、ホシャン・シャー廟
マンドゥーの建築は デリーのトゥグルク朝からの移植で出発したものの、装飾を控えて質実剛健につくり 簡明な構造表現をしたことから、インドの機能主義建築と形容される。 モスクはすべて単純なアラブ型で ミナレットさえもなく、列柱ホールの礼拝室と 中庭を囲む回廊とが連続的で均質につくられている。 ダールに残る 2つのモスクと同じく、初期のディラーワル・ハーン・モスク(1405)と マリク・ムギース・モスク(1432)は、破壊されたヒンドゥ寺院の部材の転用によって建てられたので、インド伝統の木造的な柱・梁構造と、多くが持ち出し構造のドームからなる。
ヒンドラー宮殿と、ジャハーズ・マハル (水の宮殿)
世俗建築も多く残り、剛毅なアーチ構造を示す ヒンドラー宮殿(1425)とは対照的に、ジャハーズ・マハル (船の宮殿)が 巧みな空間構成と繊細な造形を見せる。 往時の彩釉タイルを失ったものの人造湖に面する愉楽の宮殿として、イスラームの楽園願望を表している。
マンドゥの 『カルパ・スートラ』
南インド、カルナータカ州北部にある イスラーム系の都市。 デリー・スルタン朝のトゥグルク朝は 1327年に南インドのデカン地方に 新都市ダウラターバードを建設して遷都したが、3年後にはデリーに戻った。 そのデカン総督となった アラー・アッディーン・ハサンは デリーの弱体化に乗じて1347年に独立し、バフマニー朝(Bahmani, 1347-1527)を建てると グルバルガを首都とした。 1424年にビーダルに遷都されて廃れるまで、80年にわたって南インドのイスラーム文化の中心地となった。 二重の城壁と堀で守られた都城では、トゥグルク朝の影響を強く受けながらも 前期デカン様式というべき建築が発展した。 ここには 北インドのスルタン諸国とちがって、土着建築の影響があまり見られず、装飾も少ない。
ジャーミ・マスジド (金曜モスク) マッシブなバラ・ヒサール城塞の向かいに建つジャーミ・マスジド (金曜モスク、1367)がその代表で、ペルシアの建築家 ラフィー・ブン・シャムスが設計したと伝えるが、完成は 15世紀初めとする説もある。 本来中庭に当たる部分を室内化して、全体に尖頭アーチの連続の上に 大中小 80のドームと 27の尖頭形ヴォールト屋根をシステマティックに架け、それまでのインドの伝統建築とまったく異なった 純粋立体幾何学のような厳格な建築を生んだ。 さらに ミナレットもミンバルも浄めの泉もないことから、これは本来 モスクとは別の用途の建物ではないかという説もある。
金曜モスクの平面図、グルバルガ、1367 市外にはハフト・グンバズ (Haft Gumbaz 七つの墓廟) があり、内転びの壁の上に半球ドームを載せる 14世紀のアルカイックな造形から、15世紀の 2層 2連のフィールーズ廟までの発展過程を見せている。 他に 2ヵ所のダルガーをはじめ シャー・バーザール・モスク、キャラバンサライ、厩舎などがある。 バフマニー朝が衰退すると 15世紀末から ビジャープルをはじめとするデカン五王国に分裂し、後期デカン様式へと進んだ。
ハフト・グンバドと、ダルガー
南インドで 最も多くのイスラーム建築遺産を抱える都市で、カルナータカ州北部にあり、その名は ヒンドゥー時代の古名、ヴィジャヤプラ (勝利の町) に由来する。
イブラーヒーム・ラウザ (廟とモスク複合体) アラブ型列柱ホールの上に そのシンボリックなドームを戴く初期のモスク、としては ジャーミ・マスジド (金曜モスク、 1570頃)があり、内部は 連続するアーチと小ドーム列が 優雅で快い幾何学的リズム感をつくる。 より装飾的なのは 王国の絶頂期を導いたイブラーヒーム・アーディル・シャー 2世 (位 1589-1626) の 廟とモスクの複合体 (Ibrahim Rauza Comlex, 1626-33)である。 回廊で囲まれた広い境内の中央の基壇上に、泉水をはさんで廟とモスクが向かいあいながら、その軸線が 門からの進入軸と泉水上で直交する構成は、単一軸の対称形よりもダイナミックである。 マーリク・サンダルという ペルシアの建築家の設計と伝えるが、廟の内回廊の構造は ヒンドゥー的である。
金曜モスクと、ゴル・グンバズ (廟) 建築的に頂点を極めるのは、その跡を継いだ ムハンマド・アーディル・シャー 2世の廟、ゴル・グンバズ(1659)である (この地方ではゴンバドをグンバズという)。 正方形プランの上に 交差アーチを環状に連続して架け渡し、その上に内径 38mの巨大なドーム (インドで最大、空間の容量では世界一) を戴く、天井高 50mにおよぶ大空間は、外来のイスラーム建築の技術を インド人が完全にマスターし、中東の建築をも凌駕したことを示している。 ドームの厚みは約 3mもあり、ローマのパンテオンのように一種のコンクリートになって 強度的に一体化していたらしい。
メフタル・マハルと、「イブラーヒーム・アーディル・シャー2世」
一方、市内の特異な建物は メフタル・マハルと呼ばれる楼門(1620 頃)で、ヒンドゥー建築のような木造的構造と装飾が行われた。 他に、城址、宮殿、モスク、墓廟、バーオリ(貯水池) などが 数多く散在する。
東インド、ビハール州西部の都市。 アフガン系のシェール・シャー・スール (Sher Shah Sur) は ここを起点に勢力を伸ばし、1535年に *デリー・スルタン朝 のローディー朝から独立して スール朝を建てた。 1540年にムガル朝のフマユーンを破って 北インドの全域を手中にしたが、1545年に没すると国が弱体化し、ペルシアから帰還したフマユーンによって 1555年に滅ぼされた。
ハッサン・ハーン廟 ササラームには、デリーで修行した建築家 アリワル・ハーンの設計による 君主 3代の廟があり、ムガル建築の前史として重要である。 最初は 市内にあるシェール・シャーの父親のハッサン・ハーン廟 (1535 頃) で、デリーで確立していた八角形プランに基づきながら 柱を内転びでなく垂直にして、直径 19mのドーム屋根を架けた。
シェール・シャー廟の全景と 回廊 シェール・シャー廟(1545)では 湖中に造成した方形の島の上に基壇を造り、その上に ハッサン・ハーン廟と同形式で 46mの高さに建て、ドーム内径を 22mと拡大した。 ドームが内包する容積としては、北インドで最大となる。 砂岩で建てられたために ムガル朝の白大理石によるドーム建築には見劣りするが、廟本体と相似形のチャトリー群が 2層に並ぶ華やかな造形と プロポーションの良さで、八角形タイプの廟建築の最高作と見なされる。 方形の島の角度が 廟とずれて工事されてしまったことも、水上に浮かぶかのような廟の姿に、却ってダイナミックな効果を与えた。
シェール・シャー廟の 配置図、ササラーム その息子のサリーム・シャーの廟(1550 頃)は、さらに大規模に 別の湖上に計画されたが、基部のみで未完に終わった。 やはり未完であるが、建築家 アリワル・ハーンの廟も南郊外に残る。
320年にわたる *デリー・スルタン朝 時代のあとを受けて、アーグラおよびデリーを首都とするムガル朝時代 約 300年の盛期インド・イスラーム美術をいうが、実質的には 初代皇帝バーブルから第 6代アウラングゼーブ帝までの約 130年間の建築、庭園、絵画、工芸を内容とする。 他のイスラーム圏との大きな違いは、モスクよりも廟建築に多くの傑作を残したことで、これは中庭を囲むモスクの内向きの構成よりも、外向きの彫刻的建築としての廟のほうに インド人の美意識が発揮できたからである。
アーグラの イティマード・アッダウラー廟 第 4代ジャハーンギール帝の時代(1605-27)には アーグラのイティマード・アッダウラ廟(1628)が、白亜の廟として タージ・マハルに先鞭をつけた。 第 5代シャー・ジャハーンの時代(1628−58)に ムガル朝は最盛期を迎え、アクバルの赤砂岩に対して 豪華な白大理石の宮殿、廟、モスクで 帝国を飾りたてるとともに、新首都 シャージャハーナーバード (現 オールド・デリー) を造営し、デリー城 (赤い城) とインド最大の金曜モスク(1650-56)とを 市内に建設した。 とりわけ 亡き愛妃を悼んで造営した アーグラの タージ・マハル廟は、その完璧なプロポーションの純白な姿によって 全世界から愛でられた。
ムガル朝後期の三つの廟
第 6代アウラングゼーブ帝(1658-1707)は 敬虔なムスリムとして華美を好まず、クルダーバードの自身の廟(1707)は 屋根さえもない ごく簡素なものである。 ラホールの バードシャーヒ・モスク(1674)は ムガル朝 4大モスクの掉尾を飾るが、妃の廟である アウランガーバードのビービー・カ・マクバラー(1678)は タージ・マハル廟を手本としながら、規模もプロポーションも 造形意欲にも衰えが見られる。
北インド、ウッタル・プラデーシュ州の西部にある古都で、ムガル朝のイスラーム建築遺産の宝庫。 200km北のデリーとは ヤムナー川で結ばれ、どちらに首都が置かれている時も 密接な関係にあった。
城内の真珠モスクと、ラーム・バーグ 初代のバーブルが庭園を愛好し ティムール朝の 四分庭園 の形式をもたらしたことから、後継者たちは ヤムナー川沿いに競って庭園をつくり、イランのシーラーズに比肩する 庭園都市に育てあげた。 バーブルが造園して 後に改変されたラーム・バーグは、最初のムガル庭園である。
庭園都市・アーグラ ( from Ebba Koch, The Complete Taj Mahal, 2006, Thames & Hudson ) こうした親水庭園の多くは 貴顕の邸宅であったが、園亭としての廟を中央に置く 大規模な四分庭園は 公衆に開放された。 第 4代ジャハーンギール帝の后妃 ヌール・ジャハーンの父である イティマード・アッダウラの廟と庭園 (1628)は その典型で、廟は白大理石による白亜の堂でありながら、色石を用いた精巧な象嵌細工の壁面によって 珠玉の作品となった。 同様のアフザル・ハーン廟(1635 頃)は、かつては彩釉タイルで覆われていたことから チニ・カ・ラウザ (中国風の廟) とも呼ばれる。
チニ・カ・ラウザと、金曜モスク
最高潮をなすのは シャー・ジャハーンが亡き王妃ムムターズのために造営した *タージ・マハル廟 の庭園(1647)と、その対岸のマフタブ・バーグ (月光庭園) であった。 廟は その洗練度の高さと絶妙なプロポーションの純白の姿によって、インド・イスラーム建築の最高傑作とみなされている。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「アーグラ城 (赤い城)」
インド共和国の首都で、その名は 前 1世紀にカナウジ国のデール王が築いた ディッリ (Dilli)の都に由来し、今でも現地では そう呼ぶ。 この小都市を 8世紀以来 ラージプート諸族がヒンドゥーの都市として発展させていったが、その時代の遺構は 何もない。
プラーナ・キラーと ラール・キラー 1526年に始まるムガル朝は 首都をアーグラに移したが、第 2代皇帝フマユーンは 1534年、デリーに第 6の都ディーン・パナーの建設を始めた。 *ササラーム 出身で スール朝を興したシェール・シャーは 1540年に フマユーンを打ち破るとこれを受け継ぎ、シェールガルに名を変えて建設を進めた。 中心のプラーナ・キラー(古い城の意で、後の新しいデリー城に対して こう呼ばれる) に残る キラーイ・クナ・モスク(1541)は、ローディー朝からムガル朝の建築への橋渡しをするものである。
シャージャハーナーバードの鳥瞰図 ムガル朝の第 3代皇帝アクバルは デリーに父王 フマユーンの廟 を建てたものの、首都はデリーとせず、 *アーグラから *ファテプル・シークリー、ラホールへと変遷させた。 デリーが新たな繁栄を迎えるのは、第 5代皇帝のシャー・ジャハーンが ディーン・パナーの北に第 7の都 シャージャハーナーバード (現在のオールド・デリー) を建設し始めてからである。赤砂岩の城壁によってアーグラと同じく ラール・キラー(赤い城) と呼ばれる デリー城(1639-48)の 諸宮殿 と四分庭園群には、地上の楽園を実現しようという皇帝の意図が貫かれた。
![]() デリーの金曜モスクと、ジャンタル・マンタル 市内の ジャーミ・マスジド(金曜モスク、 1656)は ラホール のものと並んで、彫刻的建築としての 3連ドーム式 インド型モスクの典型である。 またラージプートのサワイ・ジャイ・シング王によるジャンタル・マンタル (天文観測所、 1724)の造形は、市内で異彩を放っている。
インドの首都デリーにある、ムガル朝第 2代皇帝フマユーン (位 1530-40, 1555-56)の廟。 インドのイスラーム建築では 内部空間や中庭を重視するモスクよりも、外観を重視する彫刻的建築としての 墓廟が発展するが、その最盛期のムガル朝における廟建築の原理が ここで確立した。 フマユーン廟の平面図、1571年、デリー すなわち、広大な *四分庭園 の中央に基壇を造り、正方形プランの廟本体を園亭として定置する。 廟は 四方にイーワーンを開く四面堂となし、中央墓室の上に 白大理石のドーム屋根を架ける (水と酸に強いインド産白大理石によって 初めて可能となった)。 屋上に *チャトリー を立てて華やかに飾る。 内部空間が要請する高さの天井ドームと、外観上望ましい高さの屋根ドームとの二重殻ドームとする。 地上階の墓室には 模棺 (セノタフ) を置き、地下の墓室に本棺を置く 二重墳墓とする。
フマユーン廟の全景と、屋上 ペルシア系の建築家 ミーラーク・ミールザー・ギヤースの設計で 1571年に完成したこのフマユーン廟の芸術的成功によって、以後の大多数の廟建築が この形式を踏襲することになるが、その頂点を極めるのが タージ・マハル廟 である。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「*デリーのフマユーン廟」
北インド、ウッタル・プラデーシュ州の西部にあるイスラーム都市の遺跡。
ファテプル・シークリーの金曜モスク
ムガル朝 4大モスクのひとつ、ジャーミ・マスジド(金曜モスク、1571)は 他の 3つと違って、ドーム屋根を外観で傑出させるよりも 赤砂岩の柱・梁構造による清冽な 内部空間 を創り上げた。
宮廷地区のジョド・バーイ殿と、公謁殿
一方 宮廷地区は モスク地区と方向を揃えたグリッド上に雁行配置され、ジョド・バーイ殿(1569)、五層閣 (パンチ・マハル、1570)、公謁殿 (ディーワーニ・アーム、1570)をはじめとして、チャトリー以外には ほとんどアーチやドームを用いない 木造的な 「アクバル式」 石造宮殿から成る。 これは 帝国の安定のためにヒンドゥーとムスリムの和合を目指したアクバル帝が それを建築にも適用したもので、すべてが赤砂岩であることもあって、世界に例を見ない特異な宮殿群となった。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「*ファテプル・シークリーの都」
インド北部、ウッタル・プラデーシュ州 アーグラ西郊の史跡。 デリー・スルタン朝の掉尾をなす ローディー朝のシカンダル・シャー(Sikandar Shah)が 1492年に新都市を造営した地なので この名が残るが、その遺跡はわずか。
アクバル廟の大門と、廟本体 その 120年後の 1613年に、ムガル朝 第3代皇帝アクバル (Akbar, 位 1556-1605)の墓廟が建設された。 *フマユーン廟 にならって 四分庭園の中央に廟を置くが、境内の面積は 前者の 4倍の 48ヘクタールもあり、世界最大の四分庭園であった。 廟本体は 大ドーム屋根を戴く通常の形態とはせず、高い基壇の上に 赤砂岩のチャトリー群を ジャングル・ジムのように 積層させ、テラス状の最上階を 屋根のないオープンな墓室とした。
アクバル廟の地下墓室入口、チャトリ群、屋上墓室 建設の開始は アクバルの存命中の 1603年なので、帝国の統治のために ムスリムとヒンドゥーの融和を計った彼の意図を、建築においても適用したものである。 ここに木造建築に起源をもつヒンドゥー建築の柱・梁構造と、純粋幾何学に基づくイスラーム建築が融合して、他に例を見ない 鮮烈な廟建築が誕生した。 ペルシア的な造形のタージ・マハル廟に対して、これは 最もインド化したイスラーム建築と言える。 「アクバル式」 と呼ばれるこの方式は、彼の新首都 ファテプル・シークリーから受け継いだものである。
北インドの ジャンム・カシュミール州の州都で、海抜 1593mの、インドには珍しい寒冷地の文化を育んだ。 多雨に起因する二段重ねの勾配屋根と、扉口の三弁アーチを内包する切妻破風が カシュミール様式の特徴で、それらは 古代の木造仏教寺院から 中世の石造ヒンドゥー寺院へ、さらには 近世イスラームの木造モスクに受け継がれたと考えられる。
パンドレータンのシヴァ寺院と、ザイン・アルアビディーンの母の廟 古代の仏教時代の遺構はないが、中世のヒンドゥー教時代の建築としては、南郊外の パーンドレータン (Pandrethan)に 石造のシヴァ寺院 (10世紀)が残る。 典型的なカシュミール様式で、内部には 木造的なラテルネンデッケ天井が架かる。 デリー・スルタン朝時代のイスラーム期には、ザイン・アルアビディーンの母の廟(1430頃)が レンガ造によるドーム屋根のペルシア風造形を見せるものの、次第に建築の主流は木造となり、石造寺院の屋根形態を もっと複雑にしたような木造モスク群が建てられた。
シャー・ハマダン・モスクと、金曜モスク内部 丸いドーム屋根ではなく 尖塔屋根の木造モスクというのは、世界でも カシュミール地方にしかない。 シャー・ハマダン・モスク(1395 創建)は単室型で、最大の金曜モスク(1585 創建)は ペルシア型の四イーワーン型のプランをとる。 どちらも たびたび火災にあって再建を繰り返したが、後者の 370本ものヒマラヤ杉の柱が立ち並ぶインテリアは壮観である。
シャーラマール庭園
1586年に *ムガル朝 の支配下にはいってからは、パッタル・モスク(1623)など 石造モスクも建てられた。
カシュミールの風景を描いた G・ハーデンフェルトの絵
インド北部、ウッタル・プラデーシュ州 アーグラにある 墓廟、ムガル朝第 5代皇帝シャー・ジャハーン (Shah Jahan, 位 1628-58)が 愛妃アルジュマンド・バーヌー・ベグム(Arjumand Banu Begum)の死を悼んで建てたイスラーム建築。
タージ・マハル廟 廟の工事は 1632-43年、庭園 を含む境内全体が完成したのは 1647年で、市内を流れるヤムナー河沿いに並ぶ 大庭園群の掉尾を飾る。 楽園としての正方形の *四分庭園 の中央にではなく、庭園の奥のヤムナー河に面した 基壇上に廟を配したことが新機軸で、南の 大門 からの深いパースペクティヴ効果をもたらした。 四分庭園と同じ広さの南側の商業地域から 対岸のマフタブ・バーグ (月光庭園) に至るまで、幅 300mで全長 1 ,500mに及ぶ 完全に幾何学的な地域計画であった。
タージ・マハル廟と マフタブ・バーグ 赤砂岩による モスクと迎賓館を東西に従えた廟本体は、基壇からドーム屋根の頂に至るまで すべて 白大理石 で仕上げられ、贅を尽くした壁面の 象嵌細工も 白亜の廟のイメージを妨げぬ程度に抑制された。 墓室空間よりも巨大な 屋根裏部分を内包する二重殻ドーム(高さ 64m)を架け、廟には 不要なミナレット(高さ 42m)を 4本も立てて美化するなど、ムガル朝の永遠のモニュメントにしようとする 強烈な意欲がうかがわれる。 設計者は デリー城の設計にも携わったウスタド・アフマド・ラホーリーという記録があるが、すべてのデザインを決定したのは 皇帝自身であったと考えられる。 彼は他にも アーグラ城内やラホール城内の多くの宮殿の改築、新都市シャージャハーナーバード(現 オールド・デリー)と デリー城 の造営、インド最大のモスク(デリーの 金曜モスク)の建設など、インド史上 最大の普請王であった。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産 (インド)」 のサイトの 「*アーグラの タージ・マハル廟」
インドの水利建築のひとつで、北インドではバーオリ(Baoli)、西インドではヴァーヴ (Vav)と言う。 インドでは 生命の源である水に神性を認めることから、水源としての海、川、湖、貯水池、さらには井戸までを 神聖な親水空間として聖化する。 屋根がない代わりに 水辺まで降りていける石造階段が造られ、しばしば神々を祀る小祠堂(群)を併設するので、宗教建築の趣を呈する。 特に井戸の場合には、周囲の土圧を支えるために 柱・梁の構造体が必要となり、建物に似てくる。
ダーワド階段井戸の断面図 ( from Jutta Jain-Neubauer "The Stepwells of Gujatar" 1981 ) これらは王侯、特にその夫人が民衆への慈善事業として造営することも多く、それらに寺院や宮殿のような密な彫刻がほどこされると、世界に類を見ない豪華な地下建築となる。 これらは J・ジャイン・ノイバウアーが “The Stepwells of Gujarat”(1981)を出版して以来 世界的に注目され、英語の ステップウェルの名で呼ばれるようになった。
ブンディと ヴィキアと アダーラジの階段井戸 単純なものは 古代から各地に造られたが、タール砂漠をかかえて乾燥した西インドの中世から近世において最も多く、イスラーム時代になっても受け継がれた。 代表作は アダーラジの ルダ階段井戸(1502)、最大のものとして パータンの王妃の階段井戸(11世紀)がある。 また 階段池はクンダ(Kunda)と呼ばれ、アーバーネリーの チャンド・バーオリ (9世紀創建)と、モデラーのスーリヤ寺院(1027)のクンダが名高い。
![]() パータンの階段井戸と、モデラーの階段池
インドのイスラーム建築、とりわけ *ムガル朝 の建築で発展、流行した建築装飾。 小型のドーム屋根 あるいは角錐屋根の下に 石造の庇(チャッジャ) を出し、石柱 (基本的には 4本)で支えた小塔を言う。
![]() 単純なチャトリーと 大規模なチャトリー
西方のイスラーム建築においては ドームを支えるのは壁であるが、木造建築で出発したインドは 木造的な柱・梁構造に執着したために こうした軽快な建築要素を生み出し、あらゆる種類の建物の壁上、屋根上、塔頂部を飾るようになった。 大型のものは 柱の数が 6本、8本、12本と増し、多角形の平面形をとる。
ビーカーネルの チャトリー群
ペルシア語で チャハール・バーグ(Chahar Bagh)、ウルドゥ語で チャールバーグ(Charbagh)と言い、四つの庭園の意だが、塀や建物で囲まれた矩形の庭園を 水路や歩路によって田の字形に四分割した幾何学庭園を言う。 イスラーム庭園の基本形をなし、ペルシアで形成された形式が スペインから中央アジアまで普及し、特にインドの ムガル朝 のもとで大発展した。
フマユーン廟の庭園と、ラホールのシャーラマール庭園 古代ペルシアでは 囲まれた庭がパイリダエーザと呼ばれてパラダイスの語源となったが、これがイスラームの楽園願望と結びついて、敬虔な信者に約束された来世の楽園が そのように描かれるようになった。 天上の楽園には四大河(水、乳、葡萄酒、蜂蜜の流れる川)があると 『コーラン』 に記述されていること、矩形の庭園の周囲と、中央で交差する 2本の軸に水路を配置するのが 乾燥地帯で庭園を灌漑する合理的な方法であること、の 2つが組み合わさって 四分庭園の形式が定着した。
アルハンブラ宮殿の獅子のパティオ の平面図と、フィン庭園 特に名高い四分庭園には、アルハンブラ宮殿(スペイン)の獅子のパティオや、やや変形である カーシャーン (イラン) の フィン庭園などがあるが、インドではムガル朝を創始したバーブルが カーブルから伝えて以来、フマユーン廟 や タージ・マハル廟 のような 正方形の墓廟庭園としての四分庭園が特に好まれた。
イランにおける 現代の大規模四分庭園、イスファハーン ラホールのシャーラマール庭園のプランを ほぼ踏襲した、2連の四分庭園。 ( Gadir Bagh, from Google Map )
ラージプートというのは、5世紀頃にインドに入った中央アジア種族や インドの土着種族の系統で、古代クシャトリアの子孫を名乗る 尚武の氏族をいう。 その美術は、広義にはカジュラーホのチャンデッラ朝や 南インドのハイダラーバード藩王国まで含んだラージプート系諸族による 古代から近世までの美術全体をさすが、それではあまりにも範囲が広く、全般的な定義はしにくい。 通常の美術史では 16世紀以降、西インドのヒンドゥー系諸王国において展開した、狭義のラージプート美術をさす。
ブリンダーバン、オルチャ、ビジョリアのヒンドゥ寺院
建築的には、時代が進むとともに イスラームの影響が強くなり、ドーム、*チャトリー、ジャロカー、バンガルダール屋根 などを取り入れた外観が、コロニアル建築の *インド・サラセン様式 と きわめて類似することになる。
アルワルのバクターワル・シング廟と、ディーグの宮殿 一方 城塞と宮殿建築は ジョードプル、ジャイサルメル、ビーカーネルなどの城塞では 宮殿が不整形に連続して伸びていくプランだが、18世紀以降のディーグやアルワルの宮殿は ムガル建築のように *四分庭園 を囲んだ 幾何学的な構成をとるようになる。 ウダイプルのジャグ・ニワス離宮(1754)は 湖に浮かぶように建てられ、イスラームの楽園願望を受け継いでいる。
ジャイプルの都市計画 特筆すべきは 18世紀のジャイプルの都市計画で、インドの伝統思想と イスラームの四分庭園的な幾何学構成が結合して、インド史上 最も注目される都市計画となった。 19世紀以降、各地のマハーラージャの宮殿は 次第に欧風化し、設計を依頼されたイギリスの建築家による *インド・サラセン様式 が展開していく場ともなった。
中インド、ゴア州の史跡で、インド最初のコロニアル都市に 多くのキリスト教聖堂や修道院が残る 博物館都市。 *ビジャープル王国の第 2の都市だったゴアは 1510年にポルトガルに奪われ、リスボンをモデルとした街づくりが行われた。 インドのイスラーム建築は 土着の建築と融合したが、キリスト教はそれを許さず、ヨーロッパ建築をそのまま移植しようとした。 現存建物は、「黄金のゴア」 と称されるほどに都市が栄えた 16、17世紀のルネサンス様式とバロック様式のものだが、良質の石材が得られなかったので 石造ではなく、内外ともラテライト (紅土)で建てられ、プラスターで仕上げられた。 ルネサンス様式では ゴアで最大の セ・カテドラル(1619)や アッシジの聖フランシス修道院(1661)、バロック様式では ボム・ジェズ・バシリカ(1605)や、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を模した 聖カジェタン修道院(1651)などがある。 どの聖堂にも 木製の壮麗な祭壇があり、インドの伝統的な木彫工芸技術によって実現された。
パナジのイマキュリット・コンセプション聖堂と、ポンダのシャーンティ・ドゥルガー寺院
17世紀中期に 疫病の蔓延とともに 都が海岸沿いのニュー・ゴア (現在の州都 パナジ)に移って、宗教施設のみが残る廃都は オールド・ゴアと呼ばれるようになった。 以後、インドのコロニアル建築は イギリス主導の新古典主義、ゴシック・リヴァイヴァルへと移る。 ● 参照 「ユネスコ世界遺産(インド)」 のサイトの 「*ゴアの聖堂と修道院」
北インド、パンジャーブ州北部にある都市で、シク教 (Sikhism)の総本山としての聖地でもある。 シク教は グル・ナーナク(Nanak 1469-1538)が ヒンドゥー教とイスラーム教の長所を合わせて創始した宗教で、パンジャーブ地方を主としながらも インド中に広まった。
アムリトサルの黄金寺院 シク教の寺院を グルドワーラー(Gurdwara)といい、インドにおける後発宗教ゆえに 独自の建築伝統をもたなかったので、ムガル朝の宮殿建築に範をとり、より装飾的にして 純白に仕上げるのを常とする。 また モスクと同じく 偶像彫刻をもたない。 本山となる アムリトサルのダルバール・サーヒブ あるいはハリ・マンディル(神の寺院)と呼ばれる寺院は、創建は 1589年に遡るが、アフガンに破壊された後 1764年に再建された。 1802年に金箔で覆われてから 黄金寺院(Golden Temple)の名が通称になった。 白大理石のテラスで囲まれた 120m×150mの甘露の池(アムリタ・サロヴァル)の水面に 浮かぶごとくに建ち、これが都市名のもととなった。 橋で渡る本堂 はヒンドゥー寺院と対照的に開放的で、周囲の池やテラスと 空間的に一体化している。 こうした境内全体の構成が 優れた環境芸術となっていて、その性格を 各地のグルドワーラーが取り入れようとしている。 ● 参照 「世界建築ギャラリー」 のサイトの 「アムリトサルの黄金寺院」
中インド、マハーラーシュトラ州の州都で、インド一の商業都市。 16世紀にボンベイ(Bombay)の名で、初めはポルトガルの、次いでイギリスの殖民都市となり 19世紀に大発展したが、独立後の 1995年になって 古名のムンバイに名称変更された。 1862年に ヘンリー・バートル・フリアがボンベイ管区の知事になると、旧市の塁壁をすべて取り除いた跡に一連の公共施設をつくり、ゴシック様式による統一を計った。 ジョージ・ギルバート・スコットによるボンベイ大学図書館(1878)は その代表で、ラジャバイ・タワー と呼ばれる時計塔が 市のシンボルになった。
ボンベイ大学と、プリンス・オヴ・ウェールズ博物館 市の中心部には イギリスの建築家による多くのコロニアル建築が建ち並ぶが、掉尾を飾るモニュメントとなったのが フレデリック・W・スティーヴンス(1848-1900)による *ヴィクトリア・ターミナス (現チャトラパティ・シヴァージー駅舎、1887)で、細部の豊穣な彫刻に至るまで 中世の美学で完遂された。 最後のコロニアル建築である、ジョージ・ウィテットによる プリンス・オヴ・ウェールズ博物館(1905-37)は インド・サラセン様式* による。
エロス映画館と、新インド保険会社ビル インド独立直前の 1930年代には モダニズムの波が到来し始め、ボンベイにアール・デコの建築がもたらされた。 それまでの様式主義の建築と打って変わって、曲線を用いた自由なデザインの商業建築が、新興インドの建築家によって数多く建てられ、新しい彫刻や装飾工芸を伴った。 代表作としては エロス映画館(1938)や 新インド保険会社ビル(1937)がある。
インドのコロニアル建築において ヴィクトリアン・ゴシック様式をベースとして、インドの伝統建築、とくにムガル建築をとりいれた 1870年代から 20世紀初めの様式。 インドを植民地にしていったイギリスは 現地の風土や伝統と無関係に、ヨーロッパの古典様式による政庁や公共施設を建設した。 ところが そうした傾向の支配形態に反抗する 「大反乱」(1858)が起こったために、コロニアル建築においても 現地の伝統様式である ムガル朝のイスラーム建築をとりこむようになる。 当時は ゴシック・リバイバルの全盛期だったので、これをベースとして ドーム屋根や *チャトリー、バンガルダール屋根 などを盛り込んで インド風の外観をつくった。
マドラスのハイ・コート ヨーロッパでは 19世紀まで イスラーム建築がサラセン建築と呼ばれていたので、「インド・サラセン様式」 という奇妙な名がついたものの、インド人のナショナリズムを イギリスの建築家たちが代弁したものとして好意的に受け入れられ、津図浦々に広まった。 その背景には、政府考古局が設立されて 古建築の調査・研究が進んだことと、ジェイムズ・ファーガソンの 『インドと東方の建築史』(1876)が出版されて、インドの建築伝統が明らかになってきたことがあった。
コルハープルの新宮殿と、アラハーバードの ミュア・カレッジ その初期の推進者として コルハープルの新宮殿(1881)を設計した チャールズ・マント(1840-81)と、ミュア・カレッジ(1886)の ウィリアム・エマーソン(1843-1924)が挙げられる。 当初インドの伝統建築として イスラーム建築が選ばれたのは、柱・梁構造のヒンドゥー建築よりも アーチやドームに基づくムガル建築のほうが ヨーロッパ建築と相性が良いと考えられたからだが、ロバート・フェローズ・チザム(1840-1915)は イスラーム以外の伝統建築をも自家薬篭中のものとして 西洋建築と折衷させた。 南インドの木造建築の伝統をとりいれた トリヴァンドラムのネイピア美術館(1880)はその代表作である。
チザムのインド博物館と、関野貞の軍事博物館 インド・サラセン様式という言葉は、ヒンドゥ建築や仏教建築の要素をとりいれたものまで含む、広い範囲に用いられるようになった。 この様式の絶頂をなすのは、ヘンリー・アーウィンが完成させた マドラスのハイ・コート(1892)である。
帝都 ニューデリー計画の中心部 ( 左端の赤が インド総督官邸、次の 2棟が 政庁舎、円形が 国会議事堂、右端が インド門 ) ムガル朝を滅ぼしたイギリスは 英領インド帝国の首都を 長くカルカッタに置いたが、独立運動を抑える意図から、第 8の都というべき新都市を 中原の デリー に建設することを、国王ジョージ 5世が 1911年に宣言する。 新帝都の敷地に選ばれたのは シャージャハーナーバード の南の荒蕪地で、その都市計画 および主要施設の設計を委嘱されたのは イギリスの建築家 エドウィン・ラチェンズ(Edwin Lutyens, 1869-1944)と ハーバート・ベイカー(Herbert Baker, 1862-1946)であった。
ニューデリーのインド総督官邸 バロック的な六角グリッドによる軸線計画と 当時の新理論であった田園都市の思想とを結合して、様式主義的でありながら機能的でもある 緑陰都市を計画した。 両人は建築的には古典主義者であったが、総督の要請をいれて *インド・サラセン様式 をもとりいれ、ラチェンズは インド総督官邸 (現・大統領官邸、1929)や インド門(1931)を、ベイカーは 政庁舎(1931)や 議事堂(1920)を設計した。 1931年に完成した ニューデリーは、モダニズム以前の首都デザインとしては、アメリカの ワシントン、オーストラリアの キャンベラに並ぶものである。
ニューデリーの政庁舎と、アングリカン・カテドラル 市内には H・A・N・メッドによるアングリカン・カテドラル(1935)など 多くの後期コロニアル建築があるが、ラチェンズの弟子の アーサー・ゴードン・シュースミスによる セント・マーチンズ・ガリソン聖堂(1930)が、装飾のない、インド最初の近代建築である。 現在のデリーは、ラールコート(クトゥブ)以来の 8つの都を内包しつつ 更に広大なエリアを市街地化して、人口 1,400万のメトロポリスを形成している。 芸術の施設としては、ニューデリー国立博物館や インディラ・ガンディー芸術センターがある。 |
● なお、イスラーム建築を含め、インドの宗教建築の全体を 宗教別に概説して、それぞれの特性と歴史を 簡潔に描いたものとして 次の本がありますので、お読みいただければ幸いです。
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