CHHATRAPATI SHIVAJI TERMINUS
ムンバイ(ボンベイ)
トラパテイ ・ シヴージー駅舎
神谷武夫
チャトラパティ・シヴァージー駅舎
中インド、マハーラーシュトラ州
2004年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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コロニアル・インド

 インドは 長いこと大英帝国(Greater Britain)の植民地として支配され、搾取され続けた。インド人による独立運動は困難をきわめたが、ガンディーの指導による 非暴力・非協力の闘争は、世界にも 稀な 平和裡の独立を ついに達成した。1947年のことである。
 ユネスコ世界遺産には、ポルトガルの植民地であったゴアのキリスト教聖堂と修道院が 登録されているが、それらは 16世紀から 18世紀の建設と、かなり古いものであった。今回初めて 英領時代のコロニアル建築が登録されたのだが、それは 19世紀後半の鉄道駅であり、今もなお機能している施設である。
 それは長いこと ヴィクトリア・ターミナス(終着駅)、略して VT駅と呼ばれてきたが、英領時代のネーミングをインドの言葉に置き換えよう という運動によって、今では チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(CST駅)と名称変更されている。(ボンベイが ムンバイとなり、その国際空港の名前もまた、サハル国際空港が チャトラパティ・シヴァージー国際空港と変更されたように。)

  
チャトラパティ・シヴァ-ジー駅の 北翼ファサ-ドと 中央塔

 ヴィクトリアというのは、言うまでもなく 英女王の名であり、その半世紀以上にわたる在位期間(1837-1901)に 英国は世界中に植民地をつくり、そこから吸い上げた富によって 英国史上最も豊かな「黄金時代」を築いた。1858年に東インド会社が終息してからは インドは英国政府の直轄植民地となり、女王が インドの王を兼ねるようになったのである。
 その没後には インド総督のカーゾン卿の音頭によって、英国によるインド支配を讃えるため、カルカッタに壮大な ヴィクトリア記念堂も建設された。インド人にとっては、それは屈辱の歴史の記念館であるにちがいない。しかし、それらモニュメンタルなコロニアル建築の建設に費やされた、莫大な労力はまた インド人自身によるものでもあるのだから、老朽化するそれらの施設を 修復して保存することは、インド人のアンビバレンツな感情を超えて、緊急の課題となっている。
 新しい名称の チャトラパティ・シヴァージー(1627-80)というのは ヒンドゥの武将の名で、イスラームのムガル朝に対抗して マラータ王国を創始した。19世紀のインド独立運動においては 反英運動の精神的支柱として、国民的英雄に祀り上げられたのである。

  
シヴァ-ジ-駅の出札ホ-ルと ポ-チ内部


ボンベイと鉄道駅

 前章で述べたように、大都会ムンバイ(ボンベイ)は、海に面して良港をもつ商業都市で、かつ 建物が密集する島や半島から成るという点で、アメリカのニューヨークに似ている。永年の埋め立てによって、今でこそ一続きの半島のようになっているが、かつては 多くの島々から成り、ニューヨークのマンハッタン島に相当するのが ボンベイ島であった。
  ここが繁栄するのは 19世紀になってからで、拡大した英国領土が カルカッタ管区、マドラス管区、ボンベイ管区と三分割され、行政上の首都はカルカッタであったが、ボンベイは商業都市として栄えた。スエズ運河が開通すると英本国との航路はずっと短縮され、インド亜大陸の東側の カルカッタ、マドラスよりも近くて便利であったから、名実ともに 「インドの門」となったのである。
 さらにボンベイの都市景観が ヴィクトリアン・ゴチック様式で作られることになったのは、1862年から 5年間 ボンベイ管区の知事を務めた ヘンリー・バートル・フレアのおかげである、ということも前章で書いた。

ヴィクトリア・タ-ミナス駅舎、平面図
(From "Splendours of Imperial India" by Andreas Volwahsen, Prestel)

 港には毎日 ヨーロッパからの船が着き、その物資を内陸に運ぶのと、逆にインドの資源を港に運んで積み出すためには 鉄道が必要であり、港に隣接するところに ボンベイ終着駅を建設することになった。鉄道は 19世紀における 近代化と工業化のシンボルであり、1853年に ボンベイ〜ターナ間に 33kmの鉄道が開通して以来、英国はインド全土に鉄道建設を推し進めつつあった。日本の新橋〜横浜間に鉄道が開通したのが 1872年だから、それよりも約 20年先行していたことになる。
 最初の鉄道を開通させたのは「大インド半島鉄道会社」といい、その本部オフィスを ボンベイ終着駅と複合させた大規模ビルが、今回のヴィクトリア・ターミナス駅舎である。一見すると、これは駅舎というよりは カテドラルのような外観をしているが、これこそ ヘンリー・バートル・フレアが抱いた建築的理想であり、それを設計したのが 建築家の フレデリック・ウィリアム・スティーヴンス(1848-1900)であった。

フレデリック・W・スティーヴンス
(From "Bombay to Mumbai," 1997, Marg Publication)


F・W・スティーヴンス

 スティーヴンスは英国のバースに生まれ、19歳の時に インド省・建設局(PWD)の試験に合格して インドに渡った。数年間をプーナ(現・プネー)で過ごした後はボンベイに定着し、数々の重要な施設を設計することになるので、建築家としての彼の名は ボンベイと切っても切れないものとなる。
 それまでのインドのコロニアル建築で 最大規模となる VT駅の設計を彼が担当することになったのは 1870年で、2年後には工事が開始され、1887年の竣工までの 10年間、まだ 30代の若さだったスティーヴンスは、ボンベイのシンボルとなる広壮な建築作品の実現に 心血を注ぐ。1888年には 10カ月の休暇をとってヨーロッパをまわり、主要な駅舎の調査をするとともに 建築様式の研究もした。
 彼が最も参考にし 影響を受けたのは、英人建築家 ジョージ・ギルバート・スコット(1811-78)のベルリン市会議事堂計画(実現せず)と、ロンドンに竣工して間もない セント・パンクラス駅舎であった。
 当時の英国は ギリシア・ローマに範をとる新古典様式から 中世のゴチック様式に帰る運動の全盛期へと、大きく様相を変えていた (これを「ネオ・ゴチック様式」ともいう。)英領インドの首都 カルカッタ(現・コルコタ)は 前者の様式の建物で満ちていたが、新興商業都市ボンベイには 後者(ヴィクトリア女王の時代に栄えたのでヴィクトリアン・ゴチックとも呼ばれる)が導入され、主流となっていた。
 英国において ゴチック・リバイバルの立役者となったのが ジョージ・ギルバート・スコットで、彼はインドには来住しなかったが、すでにボンベイ大学の講堂と 図書館・時計塔(1868-74)を 完璧なゴチック様式で実現していた。

  
シヴァ-ジ-駅舎の 前面ア-ケ-ド細部と彫刻

 スティーヴンスは VT駅舎ビルをレンガと石の組み合わせで構成し、あらゆる細部を念入りにデザインして、英本国の どんな建物にも引けを取らない 意欲的なモニュメントに練りあげた。完成したときの威容は絶賛を浴びて、一躍彼の名を、コロニアル・インドを代表する建築家として高からしめたのである。
 しかし、ここには純粋なゴチックだけでなく、さまざまにオリエンタルな要素を持ち込んでもいる。最も顕著なのは、中央塔と階段シャフトの頂部に、ゴチックの尖塔のかわりに ドーム屋根を架していることである。これは彼の新機軸であったが、注意深い細部の飾りによって、違和感を生んでいない。そしてよく見ると、ゴチック様式の最大の特徴である 尖頭アーチが、ここでは それほど尖らずに、ほとんど半円アーチに近いもののほうが多い。 これによって この駅舎には鋭角的なものを和らげた温かみが もたらされている。

 数年前に日本では 伊東忠太(1867-1954)の展覧会が開かれて、彼の建物の諸所に現れる「妖怪」が話題になったが、この VT駅もまた 妖怪や動物の彫刻があふれかえり、その数は忠太の比ではない。 それらの装飾には ボンベイ美術学校の教官と学生が全面的に参加して制作した。 最も重要な中央塔頂部の「進歩の女神」像と、門の上にペアをなす 獅子(イギリス)と 虎(インド)の像は、彫刻家の トマス・アープの作品である。

  
シヴァ-ジ-駅舎の孔雀窓と ライオン門

 赤いレンガと白い石による クラシックな駅舎を見ると、日本人なら 辰野金吾(1854-1919)が 1914年に竣工させた中央停車場(東京駅)を思い浮かべることだろう。辰野はスティーヴンスよりも 6歳若いだけだったから、ほとんど同世代であり、彼もまた ロンドンのウィリアム・バージェスのもとで ヴィクトリアン・ゴチックを学んだ建築家である。
 両者の駅舎の完成には 27年の差があるので、東京駅のほうがモダーンであるとも言えるが、大英帝国と大日本帝国の国力差の反映であろうか、様式建築としての豪華さと 完成度の高さにおいて、東京駅は VT駅に遠く及ばない。

ヴィクトリアン・ゴチックの終焉

 ヴィクトリア・ターミナス駅舎で評判を得た スティーヴンスが、独立してボンベイで設計事務所を始めると、設計の注文は次々とやってくる。中でも重要なのは、VT駅の真向かいに建つ ボンベイ市の行政庁舎(1893)である。もともとは設計コンペで ロバート・フェローズ・チザム(1840-1915)の インド・サラセン様式の案、というよりも ヒンドゥ・サラセン様式の案が 1等をとっていたのだが、英国支配下のボンベイ市は インドの伝統に深入りしすぎたチザムの案を気にいらず、曲折の末に スティーヴンスが設計し直すことになったのである。

ボンベイ行政庁舎 1888-93

 「インド・サラセン様式」という奇妙な名称は、英国の一方的なヨーロッパ文化の押しつけが インド大反乱を招いたという反省から、インドの伝統文化を尊重する気運が高まり、ムガル朝のイスラーム建築(当時は サラセン建築と呼ばれた)の要素を取り入れたコロニアル建築を、そう呼ぶようになったのである。チザムはさらに、ヒンドゥ寺院や 南インドの木造建築の伝統までをも咀嚼(そしゃく)して、独自のデザインを作り上げた才気あふれる優秀な建築家であった。しかしスティーヴンスとの闘いに敗れ、彼の作品は ボンベイには一つも残っていない。

 スティーヴンスの建てた行政庁舎によって、ヴィクトリアン・ゴチックのボンベイの町が完成したとも言えるが、しかし 彼も時代の趨勢には逆らえず、ゴチック様式で生涯を貫くことはできなかった。行政庁舎には中央塔をはじめとして、いくつもの球根形のドーム屋根を載せて、インド・サラセン様式との折衷を図ったのである。なるほど このような形の建物は、ロンドンのヴィクトリアン・ゴチックには 見ることがないであろう。

  
ヴィクトリア・タ-ミナス駅舎の透視図と、チャ-チゲイト駅舎 1894-96

 ボンベイには もう一つの鉄道が通り、その「ボンベイ・バローダ・中央インド鉄道会社」の本社ビルを、チャーチゲイト終着駅の向かいに建てることになり、この設計もまた スティーヴンスに委託された(今では駅と一体化している)。19世紀の最後に建設されたこのビルは、下部は堅実にゴチック様式を守りとおしているものの、上部は一層インド・サラセン様式に傾斜している。 どんな建築家も 時代の波を逃れることはできない。一個人の性向を超えたところに存在する形の傾向、それが「様式」というものである。
 そしてボンベイにおけるゴチック・リバイバルは、1900年のスティーヴンスの死と、翌年のヴィクトリア女王の死とともに 終焉を迎えるのである。

(2005年3月「中外日報」)



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