LAL QILA (Red Fort) in AGRA
アーグラ
アーグラ城 (赤い城)
神谷武夫
北インド、ウッタル・プラデシュ州、デリーの南約200km
1983年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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ムガル朝の第3代皇帝アクバルがアーグラを首都に定めて赤砂岩による広大な居城を建設すると、後のデリー城と同じく「赤い城」とよばれた。首都はアクバル帝の名をとってアクバラーバードともよばれたが、彼による建造物はわずかしか残っていない。むしろ後継者のシャー・ジャハーン帝が城内にも城下にも燦然と輝く建物を多く建て、ムガル朝の建築芸術を絶頂へと導くのである。この栄光の都も 17世紀には首都がデリーに移されると凋落を始め、その後の略奪やシパーヒー(セポイ)の反乱によって、赤い城のかつての栄華は闇に沈んだ。今は多くの建物が修復されているとはいえ、近くを高速道路が通るなど、歴史的環境は損なわれつつある。



神は偉大(アクバル)なり

 「神はただひとり、天地の創造者である。そしてアクバルこそが、地上における神の代理人である。」こう布告したのは、すでに 30年以上も帝位にあり、みずから「大帝(アクバル)」と名乗ったムガル朝第 3代皇帝、ジャラール・アッディーン・ムハンマド(在位 1556〜1605)であった。
 ムガル帝国の始まりは 1526年、デリーの北方のパーニーパットの戦いで、バーブルの軍がローディー朝を打ち破った時点にある。 クトゥブ・アッディーン・アイバクの奴隷王朝に始まった「デリーのスルタン朝」は 300年以上もつづいたが、ここに終焉を告げ、ムガル朝に奪われることになる。
 ムガル朝の初代皇帝バーブル(在位 1526〜1530)は中央アジアのフェルガナ出身の文人皇帝で、モンゴル帝国のティムールの血を引いていた。ムガルとはすなわちモンゴルのことである。北インドのデリーとアーグラに地歩を固めたバーブルは王朝の基礎をつくったが、それを大帝国にまで発展させたのは、わずか 13歳で帝位につき、50年の長きにわたって倦むことなく征服と統治にあけくれたアクバル帝であった。


アマル・シング門の内側のアクバル門

 彼はまた文化の擁護者でもあり、アーグラ、デリー、そして ファテプル・シークリー の3つの都を拡大、建設し、ムガル帝国を壮大な石の建築で飾った。 彼はまた皇帝というものを「神の放つ光明、世界を照らす陽光」と考えていた。北インドの大半を征服すると、イスラーム教徒とヒンドゥ教徒との融和をはかり、ヒンドゥ教徒を帝国の要職に登用したりもした。
 それは帝国の統一と安定をはかってのことであり、そのためには西インドのラージプート族の諸侯の半独立を認め、ヒンドゥの女性を妻に迎えもした。こうしたことは建築にもおよび、ヒンドゥやジャイナの伝統的な建築と外来のイスラーム建築とを統合して、「アクバル式」とでもいうべき、インドに独特のイスラーム建築を生みだしたのである。
 晩年、彼はイスラームとヒンドゥに限らず、さまざまな宗教の積極面を総合して「ディーネ・イラーヒー(神聖宗教)」という新しい宗教をつくり、人々に「アッラーフ・アクバル 神は偉大なり)」というイスラームの典礼句を唱えさせたが、それはまた「アクバルは神なり」の意でもあった。


アーグラ城の平面図  ( from "Mughal Architecture" by Ebba Koch,1991 )
1. デリー門、 2. アマル・シング門 と アクバル門、 3. 公謁殿、
4. ジャハーンギール殿、 5. 寝殿とアングリー庭園、 6. 内謁殿、 7. 真珠モスク、 8. バーザール街


ヒンドゥとイスラームの融合

 1566年にアクバル帝は、ヤムナー河の西岸の岩盤上に半ば完成した城塞をもって、帝国の首都とした。城壁も城門も、この地方で産出する赤砂岩で建設されたので「赤い城」とよばれることになるが、1世紀後には第6代のアウラングゼーブ帝(在位 1658〜1707)が外郭の城壁をつくり、二重の城壁のあいだを濠とした。背後の東面は 2.5キロメートルにわたって深いヤムナー河に面しているので、これは比類のない堅固な城塞であった。
 城内には宮殿ばかりでなく、バザールや住区、そして大モスクもある「都市」であって、ここを彼は自分の名をとってアクバラーバードと名づけたのである。


赤砂岩によるジャハーンギール殿

 門は南と西の2ヵ所にあり、デリー門とよばれる壮麗な西門は バザールへと通じ、南のアマル・シング門は宮廷地区へと通じた。ほとんどの宮殿はのちのシャー・ジャハーン帝(在位 1628〜1658)の造営によるが、宮廷地区で最も興味深いのはアクバル帝によるジャハーンギール殿である。彼の跡継ぎの皇帝の名前がつけられているものの、これは紛れもなくアクバル式の建物であって、左右対称のファサードの上にはチャトリ(小塔)が両端に載り、赤砂岩の壁面には白大理石の象嵌がほどこされている。
 入り口ホールを抜けると中央中庭に出るが、ここはヒンドゥの古文献に示される矩形(くけい)の配置パターンにしたがって諸室が囲んでいる。その南北のホールは木造的な柱・梁構造からなり、腕木には木彫的なレリーフ彫刻がほどこされ、軒持ち送りの上には石の板庇(いたびさし)が突き出るのである。 この東側にあるヤムナー河に面した中庭はずっとペルシア的で、南北にはイーワーンが面している。この宮殿にはアジアの諸地域に由来する要素が総合されており、とりわけヒンドゥの伝統技術とペルシアの建築様式とが折衷されているのである。

シャー・ジャハーンの宮廷

 たえず行動的でありつづけたアクバル大帝は、夏のアーグラの耐え難い暑さを避けるため、城塞の工事が完成しないうちに、ここから 40キロメートル離れたファテプル・シークリーに新都を建設した。さらに いくらも たたないうちに新都を後にして、北のラホールへと居城を移すことになる。

   
  公謁殿(ディーワーニ・アーム)    寝殿(ハース・マハル)とアングリー庭園

 現在のアーグラ城にアクバル帝の足跡はあまり多くない。彼の孫にあたる第 5代皇帝のシャー・ジャハ−ンが、アクバル時代の建物の多くを取り壊し、改築したためである。木造だったディーワーニ・アーム(公謁殿)は白大理石による三廊式の列柱ホールとなり、その広い前庭を囲む柱廊も石で置き換えられた。この前庭は宮廷地区と、デリー門からの市街と、そして大モスクとを結ぶ広場でもあって、皇帝はここで市民の訴えを聞き、裁きを下したのである。高さ7メートルの花弁形の大アーチが9連もつづくファサードは圧巻であり、中央の奥には一段高い玉座が設けられている。

 この建物の裏側には、一般市民の立ち入れない マッチ・バワン(魚の館)とよばれる中庭に面して、やはり列柱ホールのディーワーニ・ハース(内謁殿)があった。かつては中庭に、魚で満ちた大きな池があったのだが、それも荒れ果ててしまった。しかしここの隣の ゼナーナ(後宮)には、美しく保たれたチャハルバーグ(四分庭園)があり、これはアングリー(葡萄)庭園とよばれている。
 庭園の中央には四角い池のある白大理石のテラスがあり、正面のハース・マハル殿と相呼応している。それはシャー・ジャハーン帝の寝殿であり、そこから皇帝は池で水浴する女官たちを眺めたのである。ハース・マハル殿の両脇にはまた皇帝のふたりの娘、ローシャン・アラとジャハーン・アラのための館が建てられた。金色のベンガル風の屋根をもつのでゴールデン・パビリオンとよばれるこれらの館からは、ヤムナー河と対岸の風景が眺められる。


公謁殿の広場から真珠モスクを望む


真珠のようにけがれなき

 アーグラ城内には大モスクがひとつと小モスクが2つある。大モスクは城塞の中央部の高台にあり、デリー門の外側に現在のジャーミ・マスジド(金曜モスク)が建設されるまでは、これがその役割をしていたので、城外の市民はデリー門からバザール街を通って集団礼拝にやってきた。
 礼拝室はもちろん、中庭を囲む回廊から東側の正門にいたるまですべて白大理石でつくられ、そのデザインの清楚さとあいまって、これはモティ・マスジド(真珠モスク)とよばれる。この白亜のモスクはシャー・ジャハーン帝によって 1648年から 1655年にかけて建設され、その白いドームの並びは城内の景観に華やかな彩りを添えている。
 やはり総白大理石でつくられながら、しかし小規模なナギーナ・マスジド(宝石のモスク)は宮廷の女官たちの礼拝堂であり、さらに小さくドーム屋根もない ミーナ・マスジド(珠玉のモスク)は、皇帝のための私的な礼拝室であった。

   
城内のナギーナ・マスジド     ジャハーンギール殿の内部

 ムガル朝の歴史のなかでシャー・ジャハーン帝ほどに、城や宮殿や廟といった建築や、自身の物語によって後世に名を残した皇帝はいない。彼の治世に、ムガル建築は爛熟期を迎える。財政状態にかまわず用いた白大理石におびただしい貴石で象嵌をし、モニュメンタルな建物群で首都を飾ったのである。
 それは、かつての赤砂岩による剛健な建築とは対比的な、優雅と洗練の建築であった。けれどもその乱費のゆえに、晩年は跡継ぎの皇帝によって城内のムサンマン・ブルジュ(ジャスミンの館)に幽閉され、先立った最愛の王妃タージ・マハルの廟を、ヤムナー河の向こうに眺めながら7年間を暮らして、世を去ったのである。

略奪された宮殿

 1707年、ムガル朝の第6代皇帝アウラングゼ−ブが遠征先のデカン高原で倒れると、その後継者たちはもはや帝国の手綱をさばききれなくなる。各地の藩王国は独立性を高め、帝国は弱体化した。それまで帝国と戦ってきたインド中西部のマラ−タ王国は逆に侵攻を始め、2度にわたって騎馬軍団がアーグラ城を占拠、略奪した。兵士たちはシャー・ジャハーン帝による大理石の宮殿から金細工や宝石、貴石を奪い、調度品を運び去った。1803年にイギリスの駐留軍がアーグラ城を占領したとき、荒れ果てた宮殿の広間には何ひとつ残っていなかったという。
 1857年、インド人傭兵のシパーヒー(セポイ)がイギリスに対して大反乱を起こしたときには、アーグラは戦場と化した。公謁殿の前には、戦死したイギリス人司令官コルビンの慰霊碑がある。反乱が平定された後には、かつては 500もあったであろう建物のわずか数分の一が、城塞の南東側に残るだけだった。空いた土地にイギリス軍が建てた管理棟や兵舎は醜悪きわまりなく、もはや往時の壮観を知ることはできない。
 1946年から 1949年にかけてのイギリスによる修復工事では、ハース・マハル殿のシンプルな石の梁が鉄骨の梁に替えられてしまった。 蛇行するヤムナー河の流れと調和した城塞や廟の景観は、古い絵画や写真にしのぶのみである。



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