| ファテプル・シークリーの都 |

ムガル帝国の第 3代皇帝アクバルは、1571年から1585年にかけて新首都ファテプル・シークリーを建設し、アーグラからその宮廷を移した。 しかし戦いにあけくれた皇帝は、突然、新都に背を向けると、ふたたび戻ることがなかった。 その後、宮廷地区が放棄されると、住民は広大な都市の市壁を取り崩してその石材を売って生計の資とした。 けれども大モスクは聖者廟とあわせてその後も参詣者が絶えることなく、アクバル帝のつくった都の高台には、ドームやパビリオンやアーケードが今も美しいシルエットを連ねている。 |
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アーグラから 40キロメートルほどのシークリーの地に遷都することを決めたムガル朝の第 3代皇帝アクバル (在位 1556〜1605) は、できるだけ早く新都に移り住みたいと考え、遠い諸国に住む工匠や職人たちまで北インドによび集めた。 すでに工事の過程は綿密に計画が立てられていて、1571年に始められた工事を、皇帝は期待感とともに見守っていた。
アーグラ門の近くのナウバト・ハーナ
「平安なるイーサーいわく、現世は 1本の橋のごときものなれば、渡り行くほかなし。 しかしそこに建物を建てることなかれ。 現世は汝が礼拝して過ごす束の間に過ぎざれば」。 権力の絶頂にあったアクバル帝は、ファテプル・シークリーのモスクにこう刻ませたのだが、この悲観的な言葉がこの新首都の未来の姿を表すことになろうとは、誰も想像だにしなかったことだろう。
宮廷地区のアーヌープ・タラーオ
それでも 1619年に、思いがけずファテプル・シークリーの宮殿が使われたことがある。 ふたたび首都となっていたアーグラでペストが発生し、アクバルの息子のジャハーンギール帝 (在位 1605〜1627) がアーグラから避難して、この赤砂岩の石壁の内で身を守ったのである。 しかし彼もまた、わずか 3ヵ月でファテプル・シークリーを去っていった。
宮廷地区の木造建築のようなパビリオン
ファテプル・シークリーの都はきわめて大きな構想の都市であった。 市壁の長さは 11.2キロメートルにおよび、諸方に門があったが、メインとなるのは東のアーグラ門である。 当時の市街は残っていないが、中心を占める丘の上にモスク地区と宮廷地区が、放棄されたおかげで戦乱にもあわず、そっくり残されている。
金曜モスクの内部 モスクの西側 (メッカ側) の礼拝室はすべて赤砂岩で建てられ、インドの伝統的な柱・梁の軸組み構造と、ペルシアのアーチ構造が組み合わせられて、諸宗教の融和をはかるアクバル帝の思想を最もよく表現したモスクとなっている。
宮廷地区の平面図 ( アンリ・スチールラン 「イスラムの建築文化」 より )
宮廷地区はモスク地区の北東にあり、多くの建物が完全に幾何学的なグリッドの上に配置されている。 その軸線はモスクと同じくメッカに向けられているために、45度振れた丘の地形にあわせて雁行型となり、変化に富んだ外部空間を体験させてくれる。 個々の建物も巨大でなく、住宅的な 住み心地のよい宮廷をつくろうとした意図が読み取れよう。
宮廷地区のパンチ・マハル (五層閣)
宮廷地区でひときわ目を引く建物は、5層のパンチ・マハル (五層閣) である。 頂部にドーム屋根のチャトリが載る 5層のパビリオンでありながらまったく壁がなく、アーチも用いず、まるで木造のように柱と梁、腕木( うでぎ ) と方杖( ほうづえ )、それに大きく突き出た板庇( いたびさし ) で構成した独創的な建物である。 この頂部からは宮廷地区の全体が見渡せ、足元にはパチシ・コートとよばれる庭が広がっている。
宮廷地区のマリアムの館
この東側には回廊で囲まれた広場のような中庭をもつディーワーニ・アーム (公謁殿) があり、南側にはアヌープ・タラーオとよばれる矩形の池と皇帝の居室、北側にはディーワーニ・ハース (内謁殿) がある。 1570年に完成した珠玉の建物である内謁殿の中央には高さ 7メートルの柱があり、その樹木のような形につくられた柱頭の上に玉座があった。
宮廷地区の内謁殿 ・中央柱
ファテプル・シークリーが突然放棄された理由については、まだ定説がない。 今までたびたび言われてきた、水不足のためという説も確かではない。 というのも、今日では干あがっているが、都市の西側には三方を厚い壁で囲まれた人造湖があったからである。 |