| イスラーム都市と その建築 |

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13世紀の初め、デリーに最初のイスラーム政権が誕生すると、次第に北インド全体が その支配に服していくことになる。 地方にはまた、そこから分枝して独立したイスラーム政権も生まれ、それぞれの地の伝統をとりいれた 個性的なイスラーム建築を育んでいった。 中でも力強い発展をしたのは、西インドのグジャラート地方である。
チャンパーネルの都市壁と 北の市門
アフマダーバードの南東約 110kmの平原に パーヴァーガルという山が屹立している。 その山上には起源が紀元前にまで遡ると言われる都城が 難攻不落を誇り、山の足元には チャンパーネルの町が広がっていた。 15世紀の終わり近く、イスラームのアフマド・シャーヒ朝のスルタン (王)、マフムード・ベガラ (在位 1459-1511) は このヒンドゥ王国を攻囲し、20ヵ月を費やして、ついに 1484年に陥落させた。
金曜モスクの礼拝室中央部と 外壁バルコニー 略奪された都市は ジャングルに覆われていき、その帰属も ムガル朝からマラータ王国、さらに大英帝国へと移っていった。 インドの独立後、近年になって やっと都市遺跡としての公園整備や発掘が行われてきたが、遺跡の全貌を記述するような調査報告書は まだ出版されていない。 ユネスコ世界遺産の登録名称は 「チャンパーネル・パーヴァーガル考古遺跡公園」 となっているが、かつてカーリーマート寺院が頂部に聳えていたパーヴァーガルの城砦には めぼしい物が残らず、見るべきものは 主としてチャンパーネルの都市遺跡であり、とりわけ グジャラート様式の 4つのモスクと 周囲の小廟群である。
都市全体は、高さ 9mあまりの堅固な市壁に囲まれ、街道からの入口には広壮な門が築かれた。 東門のすぐ近くにあるのが、最も規模の大きな金曜モスク (ジャーミ・マスジド) で、荒廃していた建物が すっかり修復されてよみがえった。 私が初めて訪れた 1985年には、まだ修復中で撮影禁止だったが、今は完全な姿で人々を迎え入れている。
平面図 (規模は 53m×65m) ( from "Muhammadan Architecture" A.S.W.I. Report vol. VI, 1896 )
中庭を囲む回廊の外側には 三方に入り口があり、東側正面に建つエントランス・パヴィリオンは、とりわけ印象的である。 正方形プランで 四方に開口があり、尖頭アーチの内側には ジャーリ (石の格子スクリーン) が嵌められている。 雨季のあるインドのイスラームらしく、壁の上には四方に チャッジャ (石の板庇) が張り出し、今は崩壊してしまったが、かつては頂部にドーム屋根を戴いていた。 そしてこの全体と相似形のようなチャトリ (小塔) が 屋根の四隅を飾っている。
金曜モスクのエントランスと 礼拝室ドーム天井
金曜モスクの内部は、176本もの柱が林立する アラブ型の列柱ホールである。 しかしそこには イスラームのアーチ構造が用いられず、インドの伝統建築から受けついだ 石造の柱・梁構造による 直角的なジャングル・ジムを形成するのが、グジャラート様式の大きな特徴である。 相並ぶドーム屋根も イスラームの真のドームではなく、ジャイナ寺院で用いられているような 「持ち出し構造」 のドームであるが、中央の三層吹き抜けの上に載るドーム屋根だけは イスラームの半球ドームとなっている。 このほかに ナギーナ・モスク、ボラー・モスク、ケーウラ・モスクと その周辺の墓廟群が、かつてのチャンパーネルの繁栄をしのばせながら、諸所に堂々と建っている。 全体に印象深いのは、出窓を支える腕木 (ブラケット) その他が、ヒンドゥ寺院のそれのように 肉付き豊かに彫刻されていること、礼拝室内部のスレンダーな柱のデザインが、ヒンドゥ建築と違って 装飾過剰に陥らずに、洗練された姿を見せていることである。
ボラー・モスクのファサードと ナギーナ・モスクの柱
インドとイスラームを巧みに融合させた建築のうち、アクバル大帝のものは、ムガル帝国を維持していくために ヒンドゥとムスリムを融和させようという アクバルの意志が建築にも反映されたものであったが、グジャラートの場合には 為政者の意志というよりは、ソーランキー朝のもとで高度に発展した ジャイナ教やヒンドゥ教の建築を作った職人たちの 同業者組合の力が強かったためだと考えられる。 ( 2005年 2月 「中外日報」)
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