QUTUB MOSQUE AND MINAR in DELHI
デリー
最初モスク クトゥブ・ミナール
神谷武夫
クトゥブ・ミナール
北インド、首都デリ-の南郊
1993年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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トルコ系のムスリムで、デリーに奴隷王朝を創始することになる 将軍アイバクは、破竹の勢いで インド北部を征服すると、その勝利の記念に クッワト・アルイスラーム・モスクを建設した。これは「イスラームの力」を意味する、インド最古のモスクである。建設にあたって、アイバクは取り壊した 27のヒンドゥ寺院やジャイナ寺院の部材を用いた。次いで、クトゥブ・ミナールとよばれるミナレット、じつは「勝利の塔」を建造する。これは今もなお、インドで最も高い石造の塔である。これらの建物群は、いまだ西方の技術に習熟しないインドの工匠たちが、その伝統技術を用いながら実現したイスラーム建築として、きわめて興味深い。



デリーの イスラーム政権

 デリーは歴史的に「七つの都」が重なった都市である。最初のラールコートは 現在のデリーの南郊で、土着のラージプート族による都市であった。1192年に アフガニスタンの君主、ゴール朝のムハンマドがインド北部を征服すると、将軍 クトゥブ・アッディーン・アイバクに その統治をまかせて国へ戻った。アイバクは ここにあった都城、ヒンドゥのプリトヴィラージ王の建設になる キラー・ラーイ・ピトラを占拠し、拡張した。
 アイバクはゴール朝の奴隷軍人出身でありながら、1206年にムハンマドが暗殺されると、独立して自らの王朝を建て、ここを首都とした。後継者にも トルコ系の奴隷軍人出身者が多かったので、後世 これを奴隷王朝とよぶ。それは世界史の上で、エジプトの白人奴隷(マムルーク)軍人出身者が打ちたてた マムルーク朝と並ぶ、二大奴隷王朝のひとつである。

  「クトゥブ・アッディーン(宗教の軸)」という称号をもつアイバクは、臣下の日々の礼拝の必要を満たすとともに、土着のインド人に対して「真の宗教」であるイスラームの優位を示すべく、大モスクを建設した。彼自身はこれを金曜モスクと呼んだが、次第に「イスラームの力」を意味する「クッワト・アルイスラーム・モスク」と呼ばれるようになった。その後 アイバクのあとを継いだスルタンや、さらには後継王朝によっても拡張されたが、最初のスルタンを記念して、このモスクを中心とする遺跡を「クトゥブ地区」と呼んでいる。


アラーイ・ダルワーザ(門)


最初のモスクの建設

 やがてインド人は、アイバクが ヤムナー河のほとりのこの町で どのような宗教政策をとるのかを知ることになる。ムスリムは、ヒンドゥ寺院のことを「ブッダの家」とよんでいたが、これを貶(おとし)め、27におよぶヒンドゥ寺院やジャイナ寺院を破壊したのである。 あげくに、その暴挙を みずからたたえる碑文まで刻んでいる。
 建築家たちは 破壊された、ヴィシュヌ神に献じられた寺院の上に中庭をつくり、列柱のある礼拝室を設計した。建設資材、とくに柱として使う石材は、破壊された寺院へ行けば いくらでも手に入れることができた。
 ヒンドゥ教徒と違って、ムスリムは いかなる偶像も彫刻したり、描いたりすることはできない。『コーラン』で禁じられているので、神はおろか人間や動物の像も 造ることができなかった。このため モスクを建てる際には、柱や梁は できるだけ生き物の像の彫られていないものが選ばれた。表面に それらが刻まれた石材は、向きを変えたり、目障りな彫刻を削り取ったりして使ったのである。

   
クトゥブ・モスクの回廊と、持ち出し構造のドーム天井


新しい技術の習得

 モスクの設計が まだ細部までできていなかった頃、アイバクは ヒンドゥの建築家や地元の工匠を多数登用して、モスク建立の事業を推し進めることにした。インド北部はもとより、インドのどこの工匠と比べても 彼らの技術力はきわめて高い水準にあった。彼らはイスラームのモスクがもつ 幾何学的な厳格さにまだ あまりなじんではいなかったが、新しい統治者の意向に添う建物をつくるべく努めた。しかし、それでも 自分たちが慣れ親しんできた伝統様式を、無意識のうちに出してしまいがちであった。

 ヒンドゥの建築家を困惑させた要素が いくつかあった。まず第一に、彼らが礼拝室の広さというものに慣れていないことだった。ヒンドゥ教徒は 神と一対一で話すために寺院に出かけて行く。そのため、ヒンドゥ寺院では さほど広いスペースを必要としないが、モスクは 金曜日の集団礼拝時に大勢のムスリムを一度に収容できるよう、ずっと広大なつくり でなければならなかった。
 次に問題なのは アーチとドームである。迫石(せりいし)を放射状に積んで大きなスパンを架け渡す「真のアーチ」を知らなかったので、ヒンドゥの工匠たちは それまでどおり 水平に石を積んで、上の石を少しずつ持ち出す擬似的なアーチで形を真似た。ドームもまた「真のドーム」でなく、ジャイナ寺院やヒンドゥ寺院に見られる伝統的な持ち出し構造によってつくった。それでは力学的に限界があるので、小規模なもの以外の ほとんどのアーチやドームは崩壊して、今は残っていない。


イレトゥミシュ廟のミフラーブまわり

 インド・イスラームの最初の廟建築である イレトゥミシュ廟が モスクの外側に建てられたのは 1236年のことであるが、ここでも アーチは水平積みであり、ドーム屋根は崩壊してしまっている。けれども 内壁に見られる唐草模様や蓮華(れんげ)の装飾には、インドの工匠たちの技量が 十分に発揮されている。さらに、ナスヒー体の文字で刻まれた『コーラン』の章句は、壁をおおう他のレリーフ彫刻と相まって、丹念に編まれた織物のような印象を与える。インドにおけるレリーフ彫刻芸術の逸品といえるだろう。

イスラーム世界拡大のシンボル

 アイバクはスルタンとなる前の 1199年に「神の影を東西世界に投影するために」クトゥブ・ミナールの建設を命じた。ミナールというのはミナレットのことで、本来はその上から日に 5回礼拝の呼びかけをするための塔である。 しかし、このクトゥブ・ミナールはアフガニスタンのジャームの塔をモデルにした、イスラームの勝利を記念する「勝利の塔」であろう。じつに力強い、堂々とした造形で、今もインドで最も背の高い石造の塔である。
 5層の高さは 72.5メートルに達し、基部の直径は 約 15メートルであるが、最上部は 直径が約3メートルと細くなっている。ほぼ同じ頃、スペインのセビーリャのモスクには、これより少し高い塔が建てられた。のちに「ヒラルダの塔」とよばれることになるミナレットである。どちらも、中世初期、イスラーム勢力拡大の 東西のシンボルであった。

   
クトゥブ・ミナール 見上げと壁面彫刻

 赤とベージュの砂岩でできた クトゥブ・ミナールの第1層には、半円形のリブと三角形のリブが交互にくりかえされているが、第2層には半円形のリブだけ、第3層には三角形のリブだけが つけられている。諸処に『コーラン』の章句が刻まれた水平層がまわって、装飾効果を高めている。 礼拝の時を告げ知らせるムアッジンが登ったバルコニーは、鐘乳石紋の複雑な張り出し帯の上にある。
 落雷で塔の最上部が壊れてから、トゥグルク朝のスルタン、フィーローズ・シャーが 1368年に第4層を修理し、その上に5層めを付け足して、白大理石によるドーム屋根を架けた。しかし、のちに地震でこのドームが壊れたので、19世紀に後期ムガル様式のドーム屋根がつくられた。ところが イギリスのスミスという少佐によって付け足されたこの部分は、建物全体とうまく調和していないという理由から、結局 1848年に取り外され、境内の芝生の上に 降ろされたのだった。


クッワト・アルイスラーム・モスクの第 3次拡大平面図
(アンリ・スチールラン「イスラムの建築文化」より)


モスクの拡大

 アイバクに始まる奴隷王朝が 1290年に滅びた後も、デリーには トルコ系とアフガン系のイスラーム王朝が継起して、北インドを支配した。それら 奴隷王朝からローディー朝までを一括して「デリーのスルタン朝」と総称するが、クッワト・アルイスラーム・モスクは つねに尊重され、2回にわたる拡大をみた。
 第1次拡大は、1211年に アイバクの後を継いだイレトゥミシュによって行われ、平面的規模が 3倍以上となった。 それまでは 幅よりも奥行きの深い長方形であった境内が、幅広矩形(はばひろくけい)のモスクへと転換し、モスクの外に位置していたクトゥブ・ミナールも 境内に取り込まれたのである。
 第2次拡大は 1295年から 1315年にかけて ハルジー朝のスルタン、アラー・アッディーンによって行われ、その規模は 最初のモスクの、じつに 10倍に達した。これに合わせて 1311年には、境内への南入り口に アラーイ門が建てられている。ここに初めて 本格的なアーチとドームの建物が実現し、インドの工匠たちが 外来のイスラーム建築の技術に習熟したことを示している。


未完成に終わったアラーイ・ミナールの基部

 アラー・アッディーンは新しい中庭に、クトゥブ・ミナールに優る第二の塔を建てて イスラームの勝利を祝おうとしたが、1316年に暗殺されてしまったために、第1層も完成しないうちに 工事は中断されてしまった。そのアラーイ・ミナールの塔の基礎部分は 赤砂岩でつくられ、直径が 25メートルもあるので、完成していれば 100メートルを超える高さとなったであろう。不運のスルタンは、彼がモスクの隣に建てた マドラサ(イスラームの高等教育機関)、アラー・アッディーン学院の中に眠っている。

ヒンドゥの鉄柱

 イスラームの栄光を宣揚するために造営された クッワト・アルイスラーム・モスクの境内には、「ヒンドゥ教の忘れ形見」ともいうべきものが残されている。最初のモスクの中庭に、4世紀に鍛造された 高さ 7.2メートルの独立した鉄柱が立っているのである。その基部に刻まれた碑文によれば、この鉄柱は 偉大な王、チャンドラを記念しているという。それがグプタ朝の チャンドラグプタ2世(在位 375〜413頃)のことであるのは間違いない。

   
クッワト・アルイスラーム・モスクの鉄柱とアーチ・スクリーン

 この鉄柱が、壊されたヴィシュヌ寺院で使われていたものかどうかは、明らかでない。しかし柱頭に 深いくぼみがあることから、ヴィシュヌ神が乗り物として利用したという、鷲に似た伝説の巨鳥 ガルダの像が載っていたと考えられる。おそらく、柱はイスラームの侵入前に デリーまで運ばれてきたのであろう。
 イスラーム建築の中にある このヒンドゥの遺産は、霊験あらたかなことで知られている。ここを訪れた者は柱に背を付け、両腕を後ろに回してみる。両手の指先が柱の後ろで合えば、その人の人生は 良い星に恵まれる。すなわち、幸福になれるというわけである。



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