周辺国のアルメニア聖堂 |
ジョージア (グルジア) GEORGIA |
聖ゲヴォルグ・カテドラル *
かつてティフリスと呼ばれた ジョージアの首都 トビリシは、アルメニアの首都 イェレヴァンと ほぼ同規模で、人口は約 120万人である。都が5〜6世紀に造られた当時からアルメニア人が居住し、特にアニの滅亡以後は多くのアルメニア人が流入した。18,19世紀には人口の多数派はアルメニア人だったようで、多くのアルメニア聖堂が建てられ、その数は24に達したと伝えるが、現在残るのは 14聖堂である。
ジュヴァリ(聖十字架)聖堂 *** トビリシの中心から北へ25kmの地に、5世紀までイヴェリア Iveria(カルトリ Kartli)王国の首都であった 古都ムツヘタがある。日本で言えば奈良のような聖都で、多くの古寺がある(アルメニアにとっての ヴァガルシャパトに相当すると言えよう)。なかでもアラグヴィ Aragvi 川とムトゥクヴァリ Mtkvari(クラ Kura)川の合流点に面する丘の上に建つジュヴァリ聖堂は、ジョージア建築にとってもアルメニア建築にとっても 先祖と見なされ、古拙ながらも 歴史的に最も重要な聖堂である。アルメニア建築に特徴的な四アプス型の聖堂の原型をなしている(ヴァガルシャパトの聖フリプシメ聖堂や アテニの聖シオニ聖堂の平面図と比較すれば一目瞭然)。
ビザンティン建築としては、コンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂や、ラヴェンナの聖ヴィターレ聖堂に半世紀くらい遅れる建立であるが、ここには モザイク装飾はない。
カテドラル ** トビリシとクタイシを結ぶ幹線道路の近く、レフリ Lekhuri 川のほとりのサムタヴィシ村に、ヨーロッパのロマネスク前期と同時代の11世紀の聖堂が残る。東壁面の碑文は、この聖堂がイラリオン・サムタヴネリ Ilarion Samtavneli (Hillarion Kanchaeli とも)司教によって 1030年に建設されたと伝えている。一説によれば、彼は建築家でもあったという。オリジナルのドーム屋根は ムツヘタのスヴェティ・ツホヴェリ Svetitskhoveli 聖堂と同じく ティムール軍によって破壊され、現在のものは15世紀の再建である。西面の碑文は、ここを一家の聖堂と墓地にしたアミラホリ家 Amilakhori の王族によると伝える。
ドラムの長い、典型的なジョージア聖堂で、アルメニア聖堂との違いがよくわかる。12角形のドラムに12の極長縦長窓があるのは、スヴェティツホヴェリ聖堂などと同じである。外壁は各面の扱いが違い、入口側の西面は平滑な壁であり、南北面は縦長の ブラインド・アーチ列が並んで垂直性を強調し、内部には4本の独立柱が立ち、ドームを支持する。アプスとドームには17世紀の壁画、天井画がある。東側のファサードには、アプスの両側に深いVカットのニッチ設けているが、これはアルメニア建築に受け継がれ、大きなアルメニア聖堂における標準的な手法となる。( AG.116, 158-9, MG.113, 429, AMG.209, Brd.141 )
聖シオニ聖堂 ** スターリンの生地として知られるゴリの南 12kmのアテニ村の近くにあるアルメニア聖堂。風光明媚なタナ Tana 渓谷に建つ。1080年に制作された多くの壁画、天井画が残ることでも知られるが、それらの画工はジョージア人だった。聖堂のプランはムツヘタのジュヴァリ聖堂(6世紀末)と ほとんど同じ形状の四アプス式で、その他の類似点からも、建設年代は7世紀と考えられている。台座にあるアルメニア語の碑文は、建築家の名をトドス Todos(Todosak とも)と伝えている。10世紀および16世紀に修築された。
外壁の石材は下部が赤い砂岩で、上部は緑がかった黄灰色の凝灰岩。建設が一時中断したのかもしれない。塔状部のドラムは八角形で、屋根も瓦葺きの八角錐である。ジョージア聖堂と違ってドラムが短く、ヴァガルシャパトの聖フリプシメ聖堂と似た、やや ずんぐりした印象を与える。ソ連時代の1976年から1982年にかけて すっかり修復された。( AA.492, AG.88, 169-71, 224, MG.109, 288, AMG.67, Brd.146 )
サパラ修道院(聖サバ聖堂) **
ゲラティ修道院(聖母聖堂) ***
クタイシの北東 10kmの山中、ツハルシテラ Tskhalsitela(Tskal-Tsikela とも)川のほとりに、ジョージアいちの名刹、ゲラティの大修道院がある。ダヴィッド4世建設王の命で 1106年に建設が始まり、その息子のデメトリオス王 Demetrius(1125-56)の治世に完成した。主聖堂 (Katholikon) は聖母に捧げられていて、その内部は16-17世紀の壁画・天井画で満ちている。12世紀にナルテクスが、13世紀に南側の祭室が、13世紀末あるいは14世紀初めに北側の二つの祭室が付加されて、複雑な構成の大聖堂となった。
INDEX
|
トルコ TURKEY |
聖使徒カテドラル **
飛行場のあるカルスは、トルコ最東部にある 人口10万ほどの都市で、海抜 1,750mの寒冷地である。アニをはじめとする カルス県に残るアルメニア遺跡を訪ねるための基地でもある。
聖使徒カテドラル(スルプ・アラケロツ・カトリケー)は四アプス式だが、正方形の本体から四方に半円形のアプスが突き出るプランは、これより一回り大きい マスターラの 聖ホヴハネス聖堂(7世紀)と 良く似ている。どちらもアプスの外側を半八角形にしていて、中央ドームの屋根は円錐形である。メイン・アプスの両脇が マスターラでは小祭室になっているの対して、こちらは規模が小さいせいか 祭具室になっている。メイン・アプス以外の三方のアプスは入口になっているが、カルスでは19世紀のロシア領時代に ポーチが付加された。内部にも、ロシア正教の聖堂として メイン・アプス前に内陣障壁(イコノスタシス)が加えられ、荘厳なたたずまいを見せている。( PC.441, AA.544, MH.98, ET.I-350-1, Phai.340, Book )
三アプス聖堂
カルスの東 40kmのオーウズル村に、巨大な聖堂の遺跡がある。半壊する前の写真が残っているので、往時の姿がよくわかる。全体の規模は大きく、幅が16mに 奥行きが21mもある。長方形の外郭の中に三アプス式の聖堂を埋め込み、西側は矩形のエントランス・ホールとし、メイン・アプスの両側は小祭室にしている。いずれのアプスも、その両側の外壁にV字形の切り込み(ニッチ)があり、外形に立体感を与えている。
ドゥプレ・ヴァンク * オーウズルからさらに東、アルメニアの国境近く。クズル・キリセとは「赤い聖堂」の意。1228年に創建され、1887年に修復された。現在 入口は野石でふさがれているが、全体として カルス近郊のアルメニア聖堂では 最も保存が良い。構内に住む農家が管理 していて、現在は納屋に用いている。周囲に猛犬がたくさんいて、よそ者に吠え立てるのが 困りもの。( PC.439, ET.I-424 )
イシュハン(イシュカニ)・カテドラル ** アナトリア地方、エルズルムの北の、いわゆるグルジア渓谷に、グルジアの大聖堂が3つ残っている。イシュハン(イシュハニ)とオシュキ(オシュク)とハホ(チャチュリ)である。最北のイシュハンのカテドラルは 828年に創建され、1032年に拡大 再建されてドーム型になった。創建時には四アプス(テトラコンク)式の聖堂であったらしく、東のアプスのみがその遺構で、柱廊(アーケード)がめぐっている(全壊に近い バナの大聖堂に倣ったらしい)。現存聖堂はラテン十字の平面形で、交差部に高くドーム天井が架かり、円錐形の瓦屋根が載っている。ドラムの外壁は装飾的である。交差部まわりの わずかに尖頭形をしたアーチ以外、この聖堂のアーチはすべて半円形をしている。( ET.II-8, AG.98, 114, 148, Phai.97 )
オシュキ(オシュク)・カテドラル **
エルズルムの北東 90kmのオシュキ(オシュク)村に、小さな村には不釣り合いに大きな カテドラル聖堂が、村の斜面地に堂々と聳える。中世には都市があり、オシュキ修道院は ジョージアの文化中心の一つであった。このカテドラル聖堂は ジョージア渓谷の3聖堂のうちでは最大で、洗礼者ヨハネに献じられていた。ジョージアのバグラト朝のタイク(タオ)王、バグラト2世とその弟のダヴィド3世の建立で、竣工は 961年とも 970年とも言う。建築家の名はオシュキのグリゴールと伝え、石工の棟梁でもあったらしい。ラテン十字に近いプランだが、本来は3アプス(トリコンク)式で、交差部の4本柱の上に高くドーム天井が架かる。その上の円錐屋根が膨らみを持った帽子のように見えるのが特徴的である。壁面装飾にはブラインド・アーチが多用されている。 本来は西側にナルテクスがあって 正面入口だったのだろうが、南側に柱廊が作られ、ここに現在の入口がある。プランが複雑に見えるのは、3つのアプスのそれぞれ両側に小祭室があるためで、全部で9つの祭壇が設けられたことになる。しかし南北の大アプスは入口に転換されたようで、南アプスの外側には 切妻屋根のポーチが建っている。イシュハンのカテドラルと同じように、交差部まわりのアーチのみが わずかに尖頭形をしていて、他のアーチは すべて半円形である。( ET.II-7, AG.111, 138-41, 223, AMG.119, Phai.210 )
ハホ(チャチュリ)修道院(ヴァンク)** エルズルムの北北東 82km、オシュキに至る手前のハホ村に 大きな修道院聖堂が残る。ハホは ジョージア語で ハフリ Khakhuli、あるいはチャチュリ Chachuli という。エルズルムからジョージア渓谷を北上すると、最初に現れるのがハホの修道院なので、ハホとオシュキの聖堂のみを訪ねる旅行者も多い。かつて 主聖堂がモスクに転用されたおかげで、現在まで生き延びた。ジョージア渓谷の3つの大聖堂の中では、最も保存が良い。 聖母を祀る主聖堂は ラテン十字のプランの交差部にドーム屋根を架けた聖堂で、タイク・バグラトTaik Bagratid朝のダヴィッド2世クロパラトKuropalat王によって10世紀に建立された。西側に広いナルテクスをもつほか、南側と北側に柱廊があり、オシュキのカテドラルと同じように 南柱廊が現在の入口になっている。内部は交差部をはじめ良く保存されている。今もモスクとして用いられ、床にはカーペットが敷きつめられている。ほとんどの壁画は失われたが、ドームとアプス上部には一部が残る。南側ファサードの前に独立した小聖堂が建っている。( ET.II-10, MG.70-73, Phai.208 )
セルジューク朝の墓地と 墓廟群 アフラトは アナトリア東方のヴァン湖に南面する ローマ時代からの古都で、大アルメニア王国時代にはケラトと呼ばれた。11世紀にはセルジューク朝の支配を受けたが、アルメニア風の文化を 色濃く伝えた。広大なセルジューク朝の墓地には 石彫を施した墓石が、すべてマッカの方向を向いて並んでいて、ノラトゥスなどのアルメニア墓地のようなたたずまいである。町の各所には 全部で11のアルメニア風円錐屋根の廟(キュンベット)が散在している。アルメニアの職人や彫刻家の制作になるのだろう。最大のものが ウル・キュンベットで、高さは約20メートル、二重墳墓で、半地下にドーム天井の墓室がある。
クズヴァク聖堂
タトヴァンから 6kmのクズヴァク村に残る聖堂で、トルコ語でクズヴァク・キリセと呼ばれている。外観は農家の納屋の趣で、実際、今は村の納屋に用いられている。内部はガヴィットのような正方形の大広間で、4本の柱と尖頭アーチが9つのベイに仕切っている。各ベイは粗い石のヴォールト屋根だが、柱とアーチは切り石で造られている。西側ファサードの入口も尖頭アーチで、両脇に小さなニッチがあるが、それ以外には 一切の装飾が無い。( PC.391 )
アフタマール修道院(ヴァンク)***
ヴァン湖は日本の琵琶湖の約5倍の面積をもつ湖で、南のほとりのゲヴァシュ村からフェリー・ボートで 3km 沖に出たところのアフタマール島に、聖十字架(スルプ・ハチュ)聖堂が残る。現代のトルコ語では アクダマール島 と発音する。バグラト朝の最盛期を築いたアルトゥルニ家のガギク1世 (在989-1020) は、その首都をヴァンからアフタマール島に移し、建築家マヌエール Manuêl (Imprints p.64)に 聖堂をはじめとする種々の施設を設計させた(His p.110)。ちなみに、ヴァン湖は塩水湖なので、その水は飲料や灌漑用には使えなかったという。不便な首都ではなかったのだろうか?
聖堂のプランは バガルシャパトの聖フリプシメ聖堂の流れをくむが、全体を矩形の枠取りには納めなかったので、むしろ十字架型平面と言える。後述のソラディールの聖エチミアジン聖堂のプランとよく似ているので、それがモデルだったのかもしれないが、造形上は似ていない。ドラムは16角形で、1面おきに8つの窓を設けている。
* さらに対岸近くのクトゥツ島(トルコ語では チャルパナック島)にも、15世紀創建で18世紀に再建された聖ヨブハネス聖堂と修道院の遺跡があるが、筆者は未訪である。 ( PC.332, AA.549 )
城址と聖堂遺跡群
ヴァンはクルド語ではワンと言い、ヴァン湖の東岸近くの都市である。起源は紀元前に遡り、古代ウラルトゥ王国の首都であった。中世のアルメニア王国の重要都市ともなったが、10世紀からは 主にトルコ人の都市となった。旧市 (Eski Van) は、露土戦争で 1917年にロシアによって破壊されて 完全な廃墟になってしまったが、岩山の反対側に新市が発展している。
ヴァラガ修道院(ヴァンク)* イェディ・キリセとは、トルコ語で7つの聖堂の意だが、今は断片的にしか残っていない。( PC.322, AA.587, MH.224, ET.I-190-2, 418)
聖バルドゥギメオス修道院(ヴァンク)*
ヴァンの東方、イラン国境の近く。アルバイラク村の丘の上に、アクロポリスのパルテノンのように屹立している。軍のキャンプ内にあるので撮影は困難だが、キャンプの司令官から特別許可をとった。軍関係者以外でこの構内に入ったのは、私が初めてだという。なぜキャンプ内にしているかというと、この聖堂の地下には金銀が埋まっているという伝説があるので、放っておくと人々がこの聖堂を破壊してしまうので、軍がプロテクトしているのだという。
聖バルドゥギメオス聖堂、平面図 (From "Eastern Turkey, vol.1, T.A. Sinclair. 1987)
聖エチミアジン聖堂 ** アルバイラクの北 20km、車で悪路を30分。イラン国境の近く 。標高2,300m。6世紀の四アプス聖堂。かつてはカルミール・ヴァンク(赤修道院)の一部だったという。現在、内部は保存がよいのに、床は汚物にまみれている。
アラハン修道院 ** かつて南アナトリアにアルメニア人がつくったキリキア王国の西隣がイサウリア Isauria 地方で、ここに残る5世紀のアラハン・モナスチールは、シリアの やはり5世紀の 聖シメオン聖堂 と並ぶ、最も重要な初期ビザンティン建築の遺構である(ユスティニアヌス帝が再建したイスタンブルの聖ソフィア大聖堂より半世紀も早い)。イサウリア出身の、ビザンティン帝国の皇帝ゼノ Zeno (位 474-491) が建立したと考えられている。
by Mary Gough, 1985) ここには石窟に始まり、西のバシリカ遺跡と東の聖堂、洗礼堂、それらを連結する長い列柱廊があった。なかでも重要なのは東聖堂で、三廊式バシリカに中央ドーム屋根という、アルメニア建築の一タイプの原型を、1世紀も早く示している(ただし、木造屋根だったという説もあるが)。ゼノの死後、国の内乱によって、イサウリアの高度な技能の建築家や石工たちは、新しい仕事場を求めて離散の民(ディアスポラ)になったというから、アルメニアに移住した者たちもいたことだろう。( Phai-52, Stierlin 45-47, Book )
INDEX
|
イラン IRAN |
聖タデウス修道院(ヴァンク)***
トルコ国境から 20数キロメートルに位置するマークーは、かつてはアルタズ (Artaz) と呼ばれた 人口4万ほどの小都市で、人里離れた 聖タデウス修道院を訪ねるための基地である。修道院はマークーの南、直線なら 20kmの距離だが、道路が大きく迂回するので、車で1時間弱かかる。トルコ国境のバーザールガーンへも、車で1時間半弱である。
人里離れた寂寥の地の修道院であるから、守りのために 周囲は櫓のついた城壁のような 高く厚い石壁で囲われている。自給自足の生活をするためには農園経営も必要なので、西側に農作業のための作業場と施設が囲み取られている。
聖タデウス(タダイ)は アルメニア語ではスルプ・タデー (Surp Tadê) と言い、 キリストの十二使徒のひとりであり、もう一人の使徒・聖バルトロマイ(ナタナエル)と共に アルメニアに宣教したと伝えられることから、アルメニアでは最も重要な聖人とされる。ここから、アルメニア正教は「アルメニア使徒教会」と称することとなった。タデウスは1世紀に この地で殉教したという伝説がある。毎年6月19日頃が聖タデウスの祝日で、夥しい数のアルメニア人巡礼者がここに集まって祝う。修道院の周囲にテントを張って、一大宿泊キャンプを形成するのである。
聖ステファノス修道院(ヴァンク)***
イランとアゼルバイジャンの国境近くの町 ジュルファ(ジョルファ)から、ナヒチェバンとの国境をなすアラス川沿いの道を車で20分、ダラシャンブ村の近くに 1979年のイスラーム革命まで活動していた聖ステファノス修道院(ヴァンク)がある。かつてはタブリーズで訪問許可をとり、猛烈な悪路をタクシーで行ったものだが、今では許可もいらず、道路も舗装されて、楽に行ってこられる。筆者が再訪した 2004年は、ユネスコ世界遺産への登録をめざして 大々的な修復工事中であった。
現在の聖堂が建設されたのは14世紀であるが、そこには、はるか昔の AD 62年頃に建てられた 使徒・聖バルトロマイの聖堂があったという伝説がある。聖ステファノス修道院は 数度の地震で倒壊したのち、1814年に ペルシアのガージャール朝の王子であったアッバース・ミールザーによって再建されたという。北側の聖堂と 南側の修道院が隣り合う配置で、全体は壘壁で囲まれ、各コーナーには円形の櫓が立って、要塞修道院となっている。敷地は斜面なので、前面道路からは特に要塞のようにそそり立っているが、聖堂の前庭は 広いテラスのようになっている。
テラス状の前庭に面する聖堂のファサードは明るい石灰岩で造られていて、入口のポータルと両側のニッチ、それに上部の窓回りと、装飾密度が高い。聖堂のインテリア、特にドーム天井とペンデンティヴはペルシア建築の影響が濃い。ドラムは16角形で、その一つ置きのアーチが窓になっている。壁画が描かれたのは1827年という。ドームの上は唐傘型の屋根で、その下のドラムの外部は おびただしい量の彫刻で飾られている。( PC.293, AA.513, DOC.10, 20-102 )
聖ステファノスから さらに奥に行ったところ、アラス川とカルミール川の合流する岸辺に 16世紀の三廊式の聖堂が残る。 奥行き3スパンで、中央にドーム屋根が立ち上がる。外壁は切り石ではなく 野石を積んでいるが、ドームとドラムはレンガで造られている。アプスまわり以外には まったく装飾のない、シンプルな建物である。ファサードの中央に横一列に穴があるのは、木造差し掛け屋根のポーチがあったのだろう。1915年までは この周りにダラシャンブ村があった。(PC.732 plan, 294, DOC.20-88 )
聖フリプシメ聖堂
ムズンバル村の中央に建つ3廊式のバシリカ型聖堂。( PC.303, AA.589, DOC.20-42 )
ムズンバル村の東の丘の上に建つ聖堂。( PC.302, AA.589, DOC.20-46 )
聖ホヴハネス聖堂 *
ソルフル村はタブリーズの北。岡の上に孤立して建つ。( PC.304, AA.589, DOC.20 )
聖ホヴハネス聖堂の断面アクソメ図
イスファハーン南部のニュー・ジュルファ地区は サファヴィー朝のシャー・アッバース 1世が 17世紀につくったアルメニア人地域で、多くのペルシア型アルメニア聖堂がある。 シャー・アッバースはペルシア北部のジュルファ(ジョルファ)から多くのアルメニア人の商人や職人を移住させ、信仰の自由を与えるとともに、新イスファハーンの商工業の発展に寄与させた。それが現在にまで続くアルメニア人コミュニティとなり、13のペルシア型アルメニア聖堂を残している。( AA.561, DOC.21 )
ニュー・ジュルファ地区の 聖堂群地図
ニュー・ジュルファ地区の中心となるのがヴァンク・カテドラルで、1108〜1112年の建立という(1655〜64年とも)。DOCでは 1664年。境内には図書館やアルメニアの文化を展示する博物館もある。入口の事務所脇には売店があり、アルメニアの工芸品や書籍、音楽CDなどを販売している。
カテドラルの東方にあるペルシア型のアルメニア聖堂。道路をはさんだ向こうに ベツレヘム聖堂のドームが見える。DOCでは 1613年。( DOC.21-37, Book ) 聖母聖堂の向かいにあるペルシア型のアルメニア聖堂。イスファハーンのアルメニア聖堂の中では一番古い。DOCでは 1628年。( DOC.21-45, Book )
|