第7章 ジョ-ジア・トルコ・イラン
ARMENIAN CHURCHES in NEIGHBORING COUNTRIES

周辺国アルメニア聖堂

神谷武夫


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地図
ージア (グルジア) GEORGIA

ジョージア(グルジア)はアルメニアの北側に位置し、国土面積はアルメニアの約2倍、人口は約1.5倍だが、両国の首都 トビリシとイェレヴァンは、ほぼ同規模である。ジョージアは 歴史的にはアルメニアと良く似た境涯をたどり、兄弟国家と言ってもよいほどだが、民族的にも言語的にも別系統で、隣りあった小国どうしながら、決して一体化することがなかった。日本ではロシア語風にグルジアと呼んできたが、近年は英語風に ジョージアと呼ぶようになってきた。ジョージア人自身は、サカルトベロと称する。 アルメニアに次いで4世紀に、世界で二番目にキリスト教を国教とし、5世紀には アルメニア文字のあとを追って、ジョージア文字が創られた。ジョージア聖堂もアルメニア聖堂とよく似ていて、相互影響関係にあったが、ジョージア人は 建築よりも絵画に、より多く才能を発揮した感がある。アルメニア聖堂には 壁画が稀なのに対して、ジョージア聖堂は 基本的に壁画、天井画で満ちている。そのせいで、ジョージアにあるアルメニア聖堂にも、壁画が多い。
本サイトの当初の予定では、ジョージア国内のジョージア聖堂群(撮影済み)を 詳しく紹介する章を設けるつもりだったが、そこまでの時間は とれそうにないことがわかり、やめにした。せめて アルメニア建築との対比のための 典型的なジョージア聖堂の ほんのいくつかを、ここで採りあげる。地図上に青字で書いてある地名がそうである。 この章では、東から西へ、すなわち首都のトビリシから 第二の都クタイシへ向かう順序で配列している。


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トビリシ(ティフリス) TBILISI (TIFLIS) ***

聖ゲヴルグカテドラル *
SURP GEVORG, 13c. 17-19c.

トビリシ  トビリシ

 かつてティフリスと呼ばれた ジョージアの首都 トビリシは、アルメニアの首都 イェレヴァンと ほぼ同規模で、人口は約 120万人である。都が5〜6世紀に造られた当時からアルメニア人が居住し、特にアニの滅亡以後は多くのアルメニア人が流入した。18,19世紀には人口の多数派はアルメニア人だったようで、多くのアルメニア聖堂が建てられ、その数は24に達したと伝えるが、現在残るのは 14聖堂である。
 聖ゲヴォルグ・カテドラルは、富裕な商人のウメク・カリアン Umek Karian の寄進で1251年に創建されたが、17世紀に再建された。さらに1832年と1881年に改修されて現在の姿となった。聖ゲヴォルグとは古代ローマ末期の殉教者・聖ゲオルギウスで、英語では聖ジョージという。躯体はレンガ造で、内部にはヨヴナタン・ヨヴァンタヴェアン Yovnatan Yovantavean の壁画で飾られている。ドラムが長い塔状部のデザインはジョージア風で、十二角形シャフトの頂部が外に広がっている。( AA.586, Brd.115 )


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(ジョージア) ムツヘタ MTSKHETA ***

(聖十字架)聖堂 ***
JVARI (Holy Cross) CHURCH, 586-605

ムツヘタ  ムツヘタ

 トビリシの中心から北へ25kmの地に、5世紀までイヴェリア Iveria(カルトリ Kartli)王国の首都であった 古都ムツヘタがある。日本で言えば奈良のような聖都で、多くの古寺がある(アルメニアにとっての ヴァガルシャパトに相当すると言えよう)。なかでもアラグヴィ Aragvi 川とムトゥクヴァリ Mtkvari(クラ Kura)川の合流点に面する丘の上に建つジュヴァリ聖堂は、ジョージア建築にとってもアルメニア建築にとっても 先祖と見なされ、古拙ながらも 歴史的に最も重要な聖堂である。アルメニア建築に特徴的な四アプス型の聖堂の原型をなしている(ヴァガルシャパトの聖フリプシメ聖堂や アテニの聖シオニ聖堂の平面図と比較すれば一目瞭然)。

平面図  ムツヘタ
         ジュヴァリ聖堂の平面図
 (From "Art and Architecture in Medieval Georgia" 1980, Louvain-la Neuve)

 ビザンティン建築としては、コンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂や、ラヴェンナの聖ヴィターレ聖堂に半世紀くらい遅れる建立であるが、ここには モザイク装飾はない。
「ムツヘタの歴史的建造物群」として、スヴェティツホヴェリ・カテドラルおよびサムタヴロ聖堂とともに、1994年にユネスコ世界遺産に登録された(しかし 2009年には危機遺産に指定)。( AG.31, 64, 80-87, 151, MG.386, AMG.50, Brd.139, Book )

ムツヘタ  ムツヘタ


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(ジョージア) サムタヴシ SAMTAVISI **

カテドラル **
CATHEDRAL, 1030-68

サムタヴィシ  サムタヴィシ

 トビリシとクタイシを結ぶ幹線道路の近く、レフリ Lekhuri 川のほとりのサムタヴィシ村に、ヨーロッパのロマネスク前期と同時代の11世紀の聖堂が残る。東壁面の碑文は、この聖堂がイラリオン・サムタヴネリ Ilarion Samtavneli (Hillarion Kanchaeli とも)司教によって 1030年に建設されたと伝えている。一説によれば、彼は建築家でもあったという。オリジナルのドーム屋根は ムツヘタのスヴェティ・ツホヴェリ Svetitskhoveli 聖堂と同じく ティムール軍によって破壊され、現在のものは15世紀の再建である。西面の碑文は、ここを一家の聖堂と墓地にしたアミラホリ家 Amilakhori の王族によると伝える。

サムタヴィシ    サムタヴィシ

 ドラムの長い、典型的なジョージア聖堂で、アルメニア聖堂との違いがよくわかる。12角形のドラムに12の極長縦長窓があるのは、スヴェティツホヴェリ聖堂などと同じである。外壁は各面の扱いが違い、入口側の西面は平滑な壁であり、南北面は縦長の ブラインド・アーチ列が並んで垂直性を強調し、内部には4本の独立柱が立ち、ドームを支持する。アプスとドームには17世紀の壁画、天井画がある。東側のファサードには、アプスの両側に深いVカットのニッチ設けているが、これはアルメニア建築に受け継がれ、大きなアルメニア聖堂における標準的な手法となる。( AG.116, 158-9, MG.113, 429, AMG.209, Brd.141 )

サムタヴィシ  サムタヴィシ


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アテニ ATENI **

聖シオニ聖堂 **
SURP SIONI, 7c.

アテニ  アテニ

 スターリンの生地として知られるゴリの南 12kmのアテニ村の近くにあるアルメニア聖堂。風光明媚なタナ Tana 渓谷に建つ。1080年に制作された多くの壁画、天井画が残ることでも知られるが、それらの画工はジョージア人だった。聖堂のプランはムツヘタのジュヴァリ聖堂(6世紀末)と ほとんど同じ形状の四アプス式で、その他の類似点からも、建設年代は7世紀と考えられている。台座にあるアルメニア語の碑文は、建築家の名をトドス Todos(Todosak とも)と伝えている。10世紀および16世紀に修築された。

平面図  アテニ
アテニ・シオニ聖堂の平面図              .
(From "Armenian Art" Jean-Michel Thierry, 1987, Harry N. Abrams)

 外壁の石材は下部が赤い砂岩で、上部は緑がかった黄灰色の凝灰岩。建設が一時中断したのかもしれない。塔状部のドラムは八角形で、屋根も瓦葺きの八角錐である。ジョージア聖堂と違ってドラムが短く、ヴァガルシャパトの聖フリプシメ聖堂と似た、やや ずんぐりした印象を与える。ソ連時代の1976年から1982年にかけて すっかり修復された。( AA.492, AG.88, 169-71, 224, MG.109, 288, AMG.67, Brd.146 )

アテニ  アテニ


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(ジョージア) アハルツィヘ AKHALTSIKHE **

サパラ修道院(聖サバ聖堂) **
SAPARA MONASTERY (Saint Saba) 13-14c.

サパラ

アハルツィヘのサパラ修道院は、9年前に『世界建築ギャラリー』の中で紹介したので、そちらを参照( AG.178, 218, 225, AMG.314, Brd.175 )



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(ジョージア) ゲラティ GELATI ***

ゲラティ修道院(聖母聖堂) ***
GELATI MONASTERY (The Church of the Virgin) 12c.

ゲラティ  ゲラティ

ゲラティ  ゲラティ

クタイシの北東 10kmの山中、ツハルシテラ Tskhalsitela(Tskal-Tsikela とも)川のほとりに、ジョージアいちの名刹、ゲラティの大修道院がある。ダヴィッド4世建設王の命で 1106年に建設が始まり、その息子のデメトリオス王 Demetrius(1125-56)の治世に完成した。主聖堂 (Katholikon) は聖母に捧げられていて、その内部は16-17世紀の壁画・天井画で満ちている。12世紀にナルテクスが、13世紀に南側の祭室が、13世紀末あるいは14世紀初めに北側の二つの祭室が付加されて、複雑な構成の大聖堂となった。
クタイシのバグラティ・カテドラルとともに、1994年にユネスコ世界遺産に登録された(しかし 適切でない再建計画のゆえに、2010年には危機遺産に指定された)。( AG.173, 181ー88, MG.112-116, 328, AMG.228, Brd.188 )

平面図
ゲラティ修道院の平面図
(From "Art and Architecture in Medieval Georgia" 1980, Louvain-la Neuve)


ゲラティ  ゲラティ



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地図
トルコ  TURKEY

アナトリア(トルコのアジア側)の東部は、かつての大アルメニアの一部で、第一次世界大戦まで、多くのアルメニア人の街や村があり、聖堂があった。しかし オスマン帝国末期のアルメニア人大虐殺(1894、1915)以後、アルメニア人は現在のアルメニア共和国および 中東全域、ヨーロッパ、さらにはアメリカにまで移住して、離散の民となった(10〜12世紀の異民族支配期に次ぐ)。トルコ国内の聖堂建築の大半は破壊され、崩壊して、上部構造が満足に残る聖堂は、わずかしかない。 政情が安定してからも、アルメニア共和国内のようには 修復が十分には なされず、まして再建などは行われない。その中では、バグラト朝の首都 アニの都市遺跡と、ヴァン湖の小島に残るアフタマール修道院(ヴァンク)が、最も見るに値する。しかしページ規模が大きくなりすぎたので、アニは独立させて、次章の第8章で扱うことにした。

テコール

テコールの聖サルキス聖堂(Tekor トルコ、アニの近く)5世紀頃
ファーガスンの『世界建築史』にも載せられて、ヨーロッパで 最も
よく知られたアルメニア聖堂だったが、今は ほとんど崩壊している。
(From "History of Archirtecture" vol.1 by J. Fergusson)

エルズルムの北の、いわゆる「ジョージア渓谷」に、アルメニア建築と密接な関係のある 中世のジョージアの大聖堂が3つ残っている(地図上の青字:イシュハン、オシュキ、ハホ)。距離的に近い アニのカテドラルとの比較の上でも重要なので、ここで紹介しておく。
この節では、カルス地方、ジョージア渓谷、ヴァン地方の順に配列し、最後にずっと西方(地図の外)、イサウリア地方のアラハン・モナスティールを添える。本サイトの当初の予定では、アナトリアの初期キリスト教(ビザンティン)建築を紹介する章を 設ける予定だったが、時間的に無理とわかり、せめて アラハンだけを残したものである。



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カルス KARS ***

聖使徒カテドラル **
CATHEDRAL OF HOLY APOSTLES ( Surp Arakelots ), 930-943

カルス  カルス

カルス"

飛行場のあるカルスは、トルコ最東部にある 人口10万ほどの都市で、海抜 1,750mの寒冷地である。アニをはじめとする カルス県に残るアルメニア遺跡を訪ねるための基地でもある。
バグラト朝のスンバト1世(在 890-914)の息子のアショット2世(在 914-918)は カルスを首都とした(アニの砦も取得した)。952年にアニを首都としたアショット3世(在 952-977)の弟のムシェーグ王(在 989-1020)はヴァナンド(カルス)王国を開き(バグラト朝)、カルスを都として繁栄させた。1585年にはオスマン朝のムラト3世に奪われ、1807年にはロシア領となり、1921年にトルコ領となった。現在、カルスの人口の5%くらいがアルメニア人だが、皆ムスリムになっているので、アルメニア教会はない。
旧カテドラルは アニ(バグラト朝)のアッバス1世(在 929-953) によって建設された。1579年にオスマン朝によってモスクに転用され、キュンベット・ジャーミイ Cümbed Camii と呼ばれてたので、カルスの南方のアルメニア聖堂、キュンベット・キリセの遺跡とまぎらわしい。トルコ領となってからは博物館として用いられている。かつてカルス近郊には多くのアルメニア聖堂があったが、大半が崩壊あるいは破壊されてしまった。国境近くのものは、地雷が埋められているために 近づけないか、訪問不可となっている。

平面図  カルス
          カルスの聖使徒カテドラル 平面図
 (From "La Cathédrale des Saints-Apôtres de Kars (930-943)" by J.M. Thierry, 1978, Paris)

聖使徒カテドラル(スルプ・アラケロツ・カトリケー)は四アプス式だが、正方形の本体から四方に半円形のアプスが突き出るプランは、これより一回り大きい マスターラの 聖ホヴハネス聖堂(7世紀)と 良く似ている。どちらもアプスの外側を半八角形にしていて、中央ドームの屋根は円錐形である。メイン・アプスの両脇が マスターラでは小祭室になっているの対して、こちらは規模が小さいせいか 祭具室になっている。メイン・アプス以外の三方のアプスは入口になっているが、カルスでは19世紀のロシア領時代に ポーチが付加された。内部にも、ロシア正教の聖堂として メイン・アプス前に内陣障壁(イコノスタシス)が加えられ、荘厳なたたずまいを見せている。( PC.441, AA.544, MH.98, ET.I-350-1, Phai.340, Book )

カルス  カルス


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オーウズル OGUZLU *

三アプス聖堂
THREE-APSED CHURCH, 10c.

オーウズル  オーウズル

カルスの東 40kmのオーウズル村に、巨大な聖堂の遺跡がある。半壊する前の写真が残っているので、往時の姿がよくわかる。全体の規模は大きく、幅が16mに 奥行きが21mもある。長方形の外郭の中に三アプス式の聖堂を埋め込み、西側は矩形のエントランス・ホールとし、メイン・アプスの両側は小祭室にしている。いずれのアプスも、その両側の外壁にV字形の切り込み(ニッチ)があり、外形に立体感を与えている。
碑文に、ハサン・グトゥニ Hasan Gutuni の建立とあるから、建設は895年以前と推定されている。別の碑文は、1001年にアショット・パフラヴィドが修復したと伝えている。(PC.436, AA.562, ET.I-424 )

オーウズル


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クズルキリセ KIZIL KILISE *

プレンク *
DPRE VANK, 13c.

クズル・キリセ  クズル・キリセ

オーウズルからさらに東、アルメニアの国境近く。クズル・キリセとは「赤い聖堂」の意。1228年に創建され、1887年に修復された。現在 入口は野石でふさがれているが、全体として カルス近郊のアルメニア聖堂では 最も保存が良い。構内に住む農家が管理 していて、現在は納屋に用いている。周囲に猛犬がたくさんいて、よそ者に吠え立てるのが 困りもの。( PC.439, ET.I-424 )

クズル・キリセ


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アニ ANI ***
アニ遠望

中世アルメニアの バグラト朝の首都 アニ は 16世紀には放棄され、都市遺跡となってしまった。 現在はトルコ領であるが 多くの聖堂やモスクの遺構が残されているので、独立した章で扱う。
第8章の「アニの遺跡」 (The Medieval Capital, Ani) のページを参照。


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(ジョージア) イシハン ISHHAN (ISHKANI) ***

イシハン(イシュカニ)・カテドラル **
ISHHAN CATHEDRAL, 1032, 15c.

イシュハン  イシュハン

アナトリア地方、エルズルムの北の、いわゆるグルジア渓谷に、グルジアの大聖堂が3つ残っている。イシュハン(イシュハニ)とオシュキ(オシュク)とハホ(チャチュリ)である。最北のイシュハンのカテドラルは 828年に創建され、1032年に拡大 再建されてドーム型になった。創建時には四アプス(テトラコンク)式の聖堂であったらしく、東のアプスのみがその遺構で、柱廊(アーケード)がめぐっている(全壊に近い バナの大聖堂に倣ったらしい)。現存聖堂はラテン十字の平面形で、交差部に高くドーム天井が架かり、円錐形の瓦屋根が載っている。ドラムの外壁は装飾的である。交差部まわりの わずかに尖頭形をしたアーチ以外、この聖堂のアーチはすべて半円形をしている。( ET.II-8, AG.98, 114, 148, Phai.97 )

平面図  イシュハン
イシュハン修道院聖堂、平面図        .
(From "The Armenians" Adriano Alpago Novello, 1986, Rizzoli )


イシュハン  イシュハン


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(ジョージア) オシ OSHKI (OSHK) **

オシ(オシュク)・カテドラル **
OSHKI CATHEDRAL, 963-973

オシュク

オシュク  オシュク

エルズルムの北東 90kmのオシュキ(オシュク)村に、小さな村には不釣り合いに大きな カテドラル聖堂が、村の斜面地に堂々と聳える。中世には都市があり、オシュキ修道院は ジョージアの文化中心の一つであった。このカテドラル聖堂は ジョージア渓谷の3聖堂のうちでは最大で、洗礼者ヨハネに献じられていた。ジョージアのバグラト朝のタイク(タオ)王、バグラト2世とその弟のダヴィド3世の建立で、竣工は 961年とも 970年とも言う。建築家の名はオシュキのグリゴールと伝え、石工の棟梁でもあったらしい。ラテン十字に近いプランだが、本来は3アプス(トリコンク)式で、交差部の4本柱の上に高くドーム天井が架かる。その上の円錐屋根が膨らみを持った帽子のように見えるのが特徴的である。壁面装飾にはブラインド・アーチが多用されている。

平面図  オシュキ
オシュキ修道院聖堂、平面図         .
(From "The Armenians" Adriano Alpago Novello, 1986, Rizzoli)           .

本来は西側にナルテクスがあって 正面入口だったのだろうが、南側に柱廊が作られ、ここに現在の入口がある。プランが複雑に見えるのは、3つのアプスのそれぞれ両側に小祭室があるためで、全部で9つの祭壇が設けられたことになる。しかし南北の大アプスは入口に転換されたようで、南アプスの外側には 切妻屋根のポーチが建っている。イシュハンのカテドラルと同じように、交差部まわりのアーチのみが わずかに尖頭形をしていて、他のアーチは すべて半円形である。( ET.II-7, AG.111, 138-41, 223, AMG.119, Phai.210 )

オシュキ  オシュキ


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(ジョージア) ハホ HAHO (CHACHULI) **

ハホ(チャチュリ)修道院(ヴァンク)**
HAHO MONASTERY, 976-1001

ハホ  ハホ

ハホ

エルズルムの北北東 82km、オシュキに至る手前のハホ村に 大きな修道院聖堂が残る。ハホは ジョージア語で ハフリ Khakhuli、あるいはチャチュリ Chachuli という。エルズルムからジョージア渓谷を北上すると、最初に現れるのがハホの修道院なので、ハホとオシュキの聖堂のみを訪ねる旅行者も多い。かつて 主聖堂がモスクに転用されたおかげで、現在まで生き延びた。ジョージア渓谷の3つの大聖堂の中では、最も保存が良い。 聖母を祀る主聖堂は ラテン十字のプランの交差部にドーム屋根を架けた聖堂で、タイク・バグラトTaik Bagratid朝のダヴィッド2世クロパラトKuropalat王によって10世紀に建立された。西側に広いナルテクスをもつほか、南側と北側に柱廊があり、オシュキのカテドラルと同じように 南柱廊が現在の入口になっている。内部は交差部をはじめ良く保存されている。今もモスクとして用いられ、床にはカーペットが敷きつめられている。ほとんどの壁画は失われたが、ドームとアプス上部には一部が残る。南側ファサードの前に独立した小聖堂が建っている。( ET.II-10, MG.70-73, Phai.208 ) 

平面図  ハホ
ハホ修道院聖堂、平面図        .
(From "The Armenians" Adriano Alpago Novello, 1986, Rizzoli)


ハホ


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(イスラーム) アフラト AHLAT *

セルジーク朝墓地墓廟群
Seljuk Cemetery & Cümbet, 12-15th c.

アフラト   アフラト

アフラトは アナトリア東方のヴァン湖に南面する ローマ時代からの古都で、大アルメニア王国時代にはケラトと呼ばれた。11世紀にはセルジューク朝の支配を受けたが、アルメニア風の文化を 色濃く伝えた。広大なセルジューク朝の墓地には 石彫を施した墓石が、すべてマッカの方向を向いて並んでいて、ノラトゥスなどのアルメニア墓地のようなたたずまいである。町の各所には 全部で11のアルメニア風円錐屋根の廟(キュンベット)が散在している。アルメニアの職人や彫刻家の制作になるのだろう。最大のものが ウル・キュンベットで、高さは約20メートル、二重墳墓で、半地下にドーム天井の墓室がある。

アフラト   アフラト


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タトヴ TATVAN *

クズヴク聖堂
KIZVAK KILISE, 13c. 17c.

タトヴァン

タトヴァン  タトヴァン

タトヴァンから 6kmのクズヴァク村に残る聖堂で、トルコ語でクズヴァク・キリセと呼ばれている。外観は農家の納屋の趣で、実際、今は村の納屋に用いられている。内部はガヴィットのような正方形の大広間で、4本の柱と尖頭アーチが9つのベイに仕切っている。各ベイは粗い石のヴォールト屋根だが、柱とアーチは切り石で造られている。西側ファサードの入口も尖頭アーチで、両脇に小さなニッチがあるが、それ以外には 一切の装飾が無い。( PC.391 )

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アフタマール(アグタマール) AKHTAMAR (AGHTAMAR) ***

アフタマール修道院(ヴァンク)***
AKHTAMAR VANK (聖十字架聖堂 Surp Khach) 915-921

アフタマール  アフタマール

アグタマール

ヴァン湖は日本の琵琶湖の約5倍の面積をもつ湖で、南のほとりのゲヴァシュ村からフェリー・ボートで 3km 沖に出たところのアフタマール島に、聖十字架(スルプ・ハチュ)聖堂が残る。現代のトルコ語では アクダマール島 と発音する。バグラト朝の最盛期を築いたアルトゥルニ家のガギク1世 (在989-1020) は、その首都をヴァンからアフタマール島に移し、建築家マヌエール Manuêl (Imprints p.64)に 聖堂をはじめとする種々の施設を設計させた(His p.110)。ちなみに、ヴァン湖は塩水湖なので、その水は飲料や灌漑用には使えなかったという。不便な首都ではなかったのだろうか?
聖堂はアルトゥルニ家のガギグ王が 10世紀に建立した (Zod.300では915-921)。宮殿および宝庫、官衙や学校、店舗や倉庫、兵器廠や監獄など、首都としての建物はすべて消失してしまい、聖十字架聖堂のみが残存している。小さな島に取り残されていたために 破壊を免れ、修復を受けながら現代まで生き延び、1113年から1895年まではアフタマール総主教の座となった。北側の二つの小聖堂は 13世紀から14世紀の増築であり、西側のガヴィットと南側の鐘楼は 18世紀の建設である。 ( PC.331, AA.475, ET.I-192-200, DOC.8, Book )

平面図 立面図
アフタマール修道院の平面図      .
(From "Documenti di Architettura Armena 8. Aght'amar", 1974 )


アフタマール  アフタマール

聖堂のプランは バガルシャパトの聖フリプシメ聖堂の流れをくむが、全体を矩形の枠取りには納めなかったので、むしろ十字架型平面と言える。後述のソラディールの聖エチミアジン聖堂のプランとよく似ているので、それがモデルだったのかもしれないが、造形上は似ていない。ドラムは16角形で、1面おきに8つの窓を設けている。
石灰石 Tufa の外壁にほどこされた、聖書に題材をとった数多くのレリーフ彫刻が、アルメニア美術の貴重な宝庫となっている。これほど数多く彫刻を施した聖堂は 他に無い。上方に彫刻帯をまわしているのも興味深い。種々の動物や狩猟場面が彫刻されているのは、この聖堂が王室の一群の建物のひとつだったことを示している。

アフタマール

アフタマール  アグタマール

* さらに対岸近くのクトゥツ島(トルコ語では チャルパナック島)にも、15世紀創建で18世紀に再建された聖ヨブハネス聖堂と修道院の遺跡があるが、筆者は未訪である。 ( PC.332, AA.549 )

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オールド OLD VAN *

城址と聖堂遺跡群
CITADEL and VANKS, 15-17c.

ヴァン

ヴァンはクルド語ではワンと言い、ヴァン湖の東岸近くの都市である。起源は紀元前に遡り、古代ウラルトゥ王国の首都であった。中世のアルメニア王国の重要都市ともなったが、10世紀からは 主にトルコ人の都市となった。旧市 (Eski Van) は、露土戦争で 1917年にロシアによって破壊されて 完全な廃墟になってしまったが、岩山の反対側に新市が発展している。
岩山の上に古城塞があり、かつては山の下に 市壁で囲まれた都市が広がっていた。多数のモスクや聖堂の遺址があり、アルメニア聖堂も 10世紀の聖パウロ聖堂や、15世紀から17世紀のものがいくつか廃墟になって残っている。しかし 案内人がいないと、見出すのは難しい。( PC.326, ET.I-179-185, Phai.514)

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キリセ YEDI KILISE *

ラガ修道院(ヴァンク)*
VARAG VANK, 10-11c. 17-19c.

イェディ・キリセ  イェディ・キリセ

イェディ・キリセ  イェディ・キリセ  イェディ・キリセ

イェディ・キリセとは、トルコ語で7つの聖堂の意だが、今は断片的にしか残っていない。( PC.322, AA.587, MH.224, ET.I-190-2, 418)

平面図
イェディ・キリセの平面図
(From "Armenian Art" Jean-Michel Thierry, 1987, Harry N. Abrams)

イェディ・キリセ  イェディ・キリセ



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アルバイラク ALBAYRAK *

聖バルドギメオス修道院(ヴァンク)*
BARDUGHIMEOS VANK, 13c. 17-18c.

アルバイラク

アルバイラク  アルバイラク

ヴァンの東方、イラン国境の近く。アルバイラク村の丘の上に、アクロポリスのパルテノンのように屹立している。軍のキャンプ内にあるので撮影は困難だが、キャンプの司令官から特別許可をとった。軍関係者以外でこの構内に入ったのは、私が初めてだという。なぜキャンプ内にしているかというと、この聖堂の地下には金銀が埋まっているという伝説があるので、放っておくと人々がこの聖堂を破壊してしまうので、軍がプロテクトしているのだという。
バシリカ形式の 聖バルドゥギメオス修道院聖堂。聖バルドゥギメオスとは、12使徒の一人、聖バルトロマイのこと。 1715年の地震で屋根崩壊。プランの外形は ガヴィットまで含めて 完全な矩形をしている。AAではアグバク。( PC.315, AA.472, ET.I-215-7, DOC.13, Phai.236 )

平面図   アルバイラク
聖バルドゥギメオス聖堂、平面図
(From "Eastern Turkey, vol.1, T.A. Sinclair. 1987)


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ソラデール(ゾラディール) SORADIR (DZORADIR) ***

聖エチミアジン聖堂 **
SURP EJMIACIN, 6c. 17c.

ソラディール  ソラディール

ソラディール  ソラディール

アルバイラクの北 20km、車で悪路を30分。イラン国境の近く 。標高2,300m。6世紀の四アプス聖堂。かつてはカルミール・ヴァンク(赤修道院)の一部だったという。現在、内部は保存がよいのに、床は汚物にまみれている。

平面図   ソラディール
           聖エチミアジン聖堂の平面図
  (From "Armenian Art" Jean-Michel Thierry, 1987, Harry N. Abrams)

プランはアグタマールの聖十字架聖堂ときわめて良く似ているが、天井の構成はユニークである。普通の聖堂よりもガヴィットに近い。二組の直行横断アーチの交差部にムカルナス型スキンチの小ドーム天井が架かり、トップサイド・ライトを設けている。また 角を丸くした方形の胴部(ドラム)は非常に珍しい。現在の形になったのは17世紀。( PC.314, AA.577, ET.I-250, Phai.230 )

ソラディール  ソラディール


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(ビザンティン) アラハン ALAHAN ***

アラハン修道院 **
ALAHAN MONASTERY, 5c.

アラハン  アラハン  アラハン

かつて南アナトリアにアルメニア人がつくったキリキア王国の西隣がイサウリア Isauria 地方で、ここに残る5世紀のアラハン・モナスチールは、シリアの やはり5世紀の 聖シメオン聖堂 と並ぶ、最も重要な初期ビザンティン建築の遺構である(ユスティニアヌス帝が再建したイスタンブルの聖ソフィア大聖堂より半世紀も早い)。イサウリア出身の、ビザンティン帝国の皇帝ゼノ Zeno (位 474-491) が建立したと考えられている。

アラハン   平面図
アラハン修道院、全景と東聖堂の平面図
(From "ALAHAN, An Early Christian Monastery in Southern Turkey"
by Mary Gough, 1985)

ここには石窟に始まり、西のバシリカ遺跡と東の聖堂、洗礼堂、それらを連結する長い列柱廊があった。なかでも重要なのは東聖堂で、三廊式バシリカに中央ドーム屋根という、アルメニア建築の一タイプの原型を、1世紀も早く示している(ただし、木造屋根だったという説もあるが)。ゼノの死後、国の内乱によって、イサウリアの高度な技能の建築家や石工たちは、新しい仕事場を求めて離散の民(ディアスポラ)になったというから、アルメニアに移住した者たちもいたことだろう。( Phai-52, Stierlin 45-47, Book )

アラハン  アラハン



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地図
イラン  IRAN

イラン最北部は アゼルバイジャン地方と呼ばれ、アゼリー人が多く住む。アルメニア人も多く、北側のアルメニア共和国に隣接するので、イランのアルメニア人は タブリーズの北の国境の町、メグリを経由して 自由にアルメニアに行き来している。
アゼルバイジャン地方には、マークーの近くの 聖タデウス修道院(ヴァンク)と、国境の町 ジュルファ(ジョルファ)の近くの 聖ステファノス修道院(ヴァンク)があるが、1979年のイスラーム革命時に無人となってしまい、今は文化財として保存されている。2008年に聖タデウス修道院と聖ステファノス修道院が、マークーの近くの ジョルジョル(コルコル)に再建された聖母(スルプ・アストヴァツァツィン)聖堂(筆者未訪)と合わせて、イランにおけるアルメニア修道院建築群として、ユネスコ世界遺産に登録された。
また、南の古都 イスファハーンには、サファヴィー朝の シャー・アッバース大王が ジュルファのアルメニア人を移住させて商業活動を託した、ニュー・ジュルファ(ニュー・ジョルファ)地区がある。

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マークー MÂKÛ ***

聖タデウス修道院(ヴァンク)***
SURP TADÊ (Thaddeus) VANK (Qareh Kalisa), 14, 19c.

マークー  マークー

マークー  マークー

トルコ国境から 20数キロメートルに位置するマークーは、かつてはアルタズ (Artaz) と呼ばれた 人口4万ほどの小都市で、人里離れた 聖タデウス修道院を訪ねるための基地である。修道院はマークーの南、直線なら 20kmの距離だが、道路が大きく迂回するので、車で1時間弱かかる。トルコ国境のバーザールガーンへも、車で1時間半弱である。
要塞修道院のようなスルプ・タデー・ヴァンク(聖タデウス修道院)は、現地ではカレー・カリーサー(黒聖堂)と呼ばれてきた。トルコ語ではカラ・キリセ (Kara Kilise) である。最初に ここに礼拝堂が建てられたのは 371年と言われるが、拡大されて聖堂になったのは7世紀である。14世紀はじめの 1319年に大地震で倒壊し、それから ちょうど10年間で再建された。この 14世紀の「古聖堂」の祭壇まわりは、古い10世紀のままのものが残っているという。

Plan  Maku
           聖タデウス修道院の平面図
  (From "Documenti di Architetture Armena 4. S.Thadei Vank", 1971)

14世紀の古聖堂が黒い石灰石で建てられていることから、黒聖堂と呼ばれたが、西側の より大きな白い聖堂は 19世紀初めに増築された「新聖堂」である。新聖堂は、バガルシャパトの聖エチミアジン大聖堂に似た四アプス式プランを基とし、4本の剛柱で中央ドームを支えるが、奥にこれ自体のアプス(後陣)を持たないので、機能としては 古聖堂の「ガヴィット」の役割だったのではないかと思う。外観上は、ふたつの円錐屋根の塔が並んだ、他に例のない姿が 強い印象を与える。境内の周囲には、インドの仏教僧院のように 修道士の個室が並んでいるのも珍しい。
人里離れた寂寥の地の修道院であるから、守りのために 周囲は櫓のついた城壁のような 高く厚い石壁で囲われている。自給自足の生活をするためには農園経営も必要なので、西側に農作業のための作業場と施設が囲み取られている。

Section
聖タデウス修道院の断面図
(From "History of Armenian Architecture", 1992)

聖タデウス(タダイ)は アルメニア語ではスルプ・タデー (Surp Tadê) と言い、 キリストの十二使徒のひとりであり、もう一人の使徒・聖バルトロマイ(ナタナエル)と共に アルメニアに宣教したと伝えられることから、アルメニアでは最も重要な聖人とされる。ここから、アルメニア正教は「アルメニア使徒教会」と称することとなった。タデウスは1世紀に この地で殉教したという伝説がある。毎年6月19日頃が聖タデウスの祝日で、夥しい数のアルメニア人巡礼者がここに集まって祝う。修道院の周囲にテントを張って、一大宿泊キャンプを形成するのである。
私が初めて この聖堂を訪れたのは 1980年であったが カメラが故障して撮影できず、再訪した 2007年には、次節の聖ステファノス修道院とともに、ユネスコ世界遺産への登録をめざして 内部の修復工事中であった。( PC.297, AA.493, DOC.4, 20-102 )

マークー  マークー

マークー  マークー



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ダラシンブ DARASHAMB ***

聖ステフノス修道院(ヴァンク)***
SURP STEPHANOS VANK, 14, 16-17c.

ダラシャンブ  ダラシャンブ

ダラシャンブ  ダラシャンブ

イランとアゼルバイジャンの国境近くの町 ジュルファ(ジョルファ)から、ナヒチェバンとの国境をなすアラス川沿いの道を車で20分、ダラシャンブ村の近くに 1979年のイスラーム革命まで活動していた聖ステファノス修道院(ヴァンク)がある。かつてはタブリーズで訪問許可をとり、猛烈な悪路をタクシーで行ったものだが、今では許可もいらず、道路も舗装されて、楽に行ってこられる。筆者が再訪した 2004年は、ユネスコ世界遺産への登録をめざして 大々的な修復工事中であった。

平面図
聖ステファノス修道院の平面図
(From "Documenti di Architetture Armena 10. S.STEPHANOS", 1980)

現在の聖堂が建設されたのは14世紀であるが、そこには、はるか昔の AD 62年頃に建てられた 使徒・聖バルトロマイの聖堂があったという伝説がある。聖ステファノス修道院は 数度の地震で倒壊したのち、1814年に ペルシアのガージャール朝の王子であったアッバース・ミールザーによって再建されたという。北側の聖堂と 南側の修道院が隣り合う配置で、全体は壘壁で囲まれ、各コーナーには円形の櫓が立って、要塞修道院となっている。敷地は斜面なので、前面道路からは特に要塞のようにそそり立っているが、聖堂の前庭は 広いテラスのようになっている。

ダラシャンブ  ダラシャンブ

ダラシャンブ  ダラシャンブ

テラス状の前庭に面する聖堂のファサードは明るい石灰岩で造られていて、入口のポータルと両側のニッチ、それに上部の窓回りと、装飾密度が高い。聖堂のインテリア、特にドーム天井とペンデンティヴはペルシア建築の影響が濃い。ドラムは16角形で、その一つ置きのアーチが窓になっている。壁画が描かれたのは1827年という。ドームの上は唐傘型の屋根で、その下のドラムの外部は おびただしい量の彫刻で飾られている。( PC.293, AA.513, DOC.10, 20-102 )

ダラシャンブ



聖母(アストヴァツァツィン)聖堂
SURP ASTVATSATSIN, 1518.

ダラシャンブ

聖ステファノスから さらに奥に行ったところ、アラス川とカルミール川の合流する岸辺に 16世紀の三廊式の聖堂が残る。 奥行き3スパンで、中央にドーム屋根が立ち上がる。外壁は切り石ではなく 野石を積んでいるが、ドームとドラムはレンガで造られている。アプスまわり以外には まったく装飾のない、シンプルな建物である。ファサードの中央に横一列に穴があるのは、木造差し掛け屋根のポーチがあったのだろう。1915年までは この周りにダラシャンブ村があった。(PC.732 plan, 294, DOC.20-88 )

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ムズンバル MUZUMBAR *

聖フリプシメ聖堂
SURP HRIPSIME, 17c.

ムズンバル

ムズンバル  ムズンバル

ムズンバル村の中央に建つ3廊式のバシリカ型聖堂。( PC.303, AA.589, DOC.20-42 )



聖アネレヴイト聖堂
SURP ANEREVOYT, 1810

ムズンバル  ムズンバル

ムズンバル村の東の丘の上に建つ聖堂。( PC.302, AA.589, DOC.20-46 )

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ソルフル SORHUL **

聖ホヴハネス聖堂 *
SURP HOVHANNES, 19c.

ソルフル

ソルフル  ソルフル

ソルフル村はタブリーズの北。岡の上に孤立して建つ。( PC.304, AA.589, DOC.20 )
聖ホヴハネスとは聖ヨハネのこと。

アクソメ図
聖ホヴハネス聖堂の断面アクソメ図
(From "Documenti di Architetture Armena 20. SORHUL", 1989)


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イスフハーン(エスパハーン)
ISFAHAN (ESPAHAN)
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古図
ニュー・ジュルファ地区の古図

イスファハーン南部のニュー・ジュルファ地区は サファヴィー朝のシャー・アッバース 1世が 17世紀につくったアルメニア人地域で、多くのペルシア型アルメニア聖堂がある。 シャー・アッバースはペルシア北部のジュルファ(ジョルファ)から多くのアルメニア人の商人や職人を移住させ、信仰の自由を与えるとともに、新イスファハーンの商工業の発展に寄与させた。それが現在にまで続くアルメニア人コミュニティとなり、13のペルシア型アルメニア聖堂を残している。( AA.561, DOC.21 )

地図

ニュー・ジュルファ地区の 聖堂群地図
(From "Documenti di Architetture Armena 21. NOR DJULFA", 1991)
1:ヴァンク・カテドラル  2:聖母聖堂  3:ベツレヘム聖堂
4:聖ゲヴォルグ聖堂  5:聖グリゴール聖堂
6:聖ステファノス聖堂  7:聖サルギス聖堂  8:聖ミナス聖堂
9:聖ニコラヨス聖堂  10:聖ネルセス聖堂  12:聖カタリネ聖堂





ンク・カテドラル **
VANK CATHEDRAL (Surp Amenaprkitch), 1108-12

イスファハーン

イスファハーン  イスファハーン

ニュー・ジュルファ地区の中心となるのがヴァンク・カテドラルで、1108〜1112年の建立という(1655〜64年とも)。DOCでは 1664年。境内には図書館やアルメニアの文化を展示する博物館もある。入口の事務所脇には売店があり、アルメニアの工芸品や書籍、音楽CDなどを販売している。
聖堂の内部は近代の壁画、天井画で満ち、ペルシアのイスラーム建築のような印象を与える。ただし壁画は19世紀のもので、レベルはあまり高くない。中央ドームは、ペルシア式の二重殻。( AA.561, DOC.21-22, Book )

平面図  本
ヴァンク・カテドラルの平面図と、研究書
(From "Documenti di Architettura Armena 21. NOR DJULFA", 1991)

イスファハーン  イスファハーン

イスファハーン  イスファハーン





聖母聖堂 *
KHUCHAP VANK (Surp Astuvatsatsin), 1062

イスファハーン  イスファハーン

イスファハーン

カテドラルの東方にあるペルシア型のアルメニア聖堂。道路をはさんだ向こうに ベツレヘム聖堂のドームが見える。DOCでは 1613年。( DOC.21-37, Book )



ベツレヘム聖堂 **
BET VANK (Meydani Betghahem), 1077

イスファハーン  イスファハーン

イスファハーン

聖母聖堂の向かいにあるペルシア型のアルメニア聖堂。イスファハーンのアルメニア聖堂の中では一番古い。DOCでは 1628年。( DOC.21-45, Book )


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