アニの都市遺跡 |
神谷武夫
アニの名は5世紀に始まる。海抜約1,500m、カルスの東南 45km にあるアニは、トルコとアルメニアの国境をなすアルパ(アフリアン)川に面する都市遺跡で、9〜11世紀にバグラト朝アルメニアの首都であった。8世紀初めまではカムサラカン家の領地で、5世紀に城塞も築かれたらしい。 722年にアラブ軍に敗れたのをバグラト朝が取戻し、961年にアショット3世 (在 953-977) がバガランから首都を移した。以後1045年まで6代の王がここを本拠にした。とりわけアショット3世は都市を美化し、最盛時には人口10万人、千のアルメニア聖堂があったと伝える(ありえないが)。 ガギク1世 (在 990-1020) の時代に最も繁栄した。
しかし ガギグ4世の1045年にビザンティン帝国に奪われ、バグラト朝は滅亡した(ジョージアのバグラト朝は 1801年まで続くが)。アニは 1064年にはセルジューク朝の手に落ち、1072年から1199年まではイスラームのチェッダディード朝に支配されたが、12世紀にはたびたびジョージアに支配された。13世紀には再びアルメニアの都市として栄え、1236年にモンゴル軍が来襲するまでは、多くの建物が建てられた。その後も都市は存続したが 1318年に大地震に襲われて壊滅状態になり、14世紀のうちに完全に放棄されて、次第に廃墟となった。 かつては 30の聖堂や多くの墓地聖堂、 400軒の民家や 16の鳩舎、大ホールや倉庫群があったというが、大部分の建物は失われてしまった。それでも これほど多くのアルメニア建築の遺跡が まとまって残る地は他にない。20世紀初めにニコライ・マル Nicholas Marr の指揮で発掘が始まった。2016年には、都市遺跡全体がユネスコ世界遺産に登録された。
私が初めて ここを訪れたのは 1980年だから、もう 35年も前のことになる。かつてはここを訪れるには カルスで許可をとらねばならず、しかも 写真撮影は厳しく禁じられていた。ソ連の崩壊後 次第に制約が緩み、今では許可証が不要で、城塞から南以外は 撮影もできるようになった。 交通の便はないので、カルスからタクシーで行き、夕方 迎えにきてもらう。 ( PC.416-433, AA.481-489, MH.114-187, ET.I-356-378, DOC.12, Ani, ANI ) アニの遺跡地図
01 市壁と櫓
櫓の断面図(と平面図) (From "Ani, Capitale de l'Arménie en l'an mil" Raymond H. Kévorkian) アショト3世は城塞の北に 最初の市壁を 963ー64年にかけて造ったが(その東端部がマヌッチ・モスク)、これはまもなく都市の拡大に適応しなくなり、その後継者スンバト2世 (977-990) が、ずっと北方により大規模な市壁を 989年に建設した。総延長が 2.5kmにもおよぶ、まことに雄大な城壁と円筒状の櫓群である。後にジョージア領時代とセルジューク朝支配時代に増拡された(13世紀)。構造的にバットレスを兼ねる 半円筒形の櫓は半壊しているが、内側の架構は実に雄大で、下から見上げると 圧倒的な迫力がある。 ( AA.482, ET.I-360-1, DOC.12-19, Book )
市壁の西端に残るアーチと柱の断片は、かつてあったろう華やかなアーケードを思わせて 印象的である。軍事的な要塞壁の装飾としては、ずいぶんと立派で 美しい。背後の都市域の外に広がる岩山には穴居住居群が数多く残る。
アニの都の西北端に残る、通称 領主館 "Baron's" Palace は、碑文が残されていないので 所有者は不明である。もしかすると、領主ではなく、いくつもの聖堂を寄進した、ティグラン・ホネンツだったかもしれない。
ガギク王の聖グリゴール聖堂は アニの最大の建物で、ガグカシェーンとも呼ばれる円形聖堂である。ヴァガルシャパトの近くの 壮大な ズヴァルトノッツの大聖堂 と同じく、完全な四弁形の聖堂を周歩廊がとりまき、それを36辺の円形外周壁が囲うという独特の形式である (規模は1割ほど小さい)。ズヴァルトノッツ大聖堂がすでに崩壊していたので、バグラト朝のガギク1世 (990-1020) が建築家トルダトに命じて、同じ形式で建てさせたという(1001-05年)。同じくトルダトが これのすぐ前に設計したアニのカテドラルよりも大規模である。しかし これもまた崩壊してしまった。この形式のものがジョージアのバナ Bana にもあったが (たぶん7世紀)、露土戦争で破壊されてしまったし、さらに小規模なものがアゼルバイジャンのリアキト Liakit にもあったが (7世紀) これもまた 今は廃墟となっていて、この形式の上部構造は一つも現存しない。したがって、この興味深い空間形式を実際に体験することはできない。
この大胆な構造には、何らか無理があったのかもしれない。発掘時に発見された碑文によると、創建当初に西側に弱体部が発見され、1013年に補強工事が行われたが、それから時を経ずに崩壊してしまったという。トラマニヤンは、この建物が崩壊した原因は、トルダトが用いた石材が不適切だったのではないかと推測したが、立証はされていない。 祭壇は東のアプスに置かれていた。外周壁には南、西、北の3か所に入口があるが(ヴァガルシャパトでは北西と南西にも)、スヴァルトノッツと違って、前面ポーチがない。周歩廊は2層で、下層は縦長窓から、上層は丸窓から採光されていた。ズヴァルトノッツとの一番の違いは、メイン・アプスの背後が壁ではなく、他のアプスと同じく柱列になっていることと、中央ドームが より小さくなっていることである。
T・トラマニヤンによる1905-6年の発掘で、ガギク1世が聖堂の模型を捧げ持っている彫像が発見された。模型のプロポーションはやや縦長すぎるようだが、これに基づいて トラマニヤンが復元図を作成した。
( Ani.22, PC.430, AA.485, MH.126, ET.I-363, DOC.12-44, 92 ) パフラヴィ朝のヴァフラム王の息子のアブガムルが1031年に寄進した聖堂。矩形の外形の中に四アプス聖堂を置き、その四隅に小聖堂を配したプランで、主たる聖使徒聖堂(スルプ・アラケロツ)は ムツヘタのジュヴァリ聖堂の流れをくんでいる。インドの五堂形式のように、中央ドームの四方の対角上に小ドームを従えるという、珍しい構成をしているが(アヴァンのカトリケーに次いで2番目)、残念ながら全壊しているので、その外観を見ることができない。
現存するのは、13世紀に南側に加えられたナルテックス(玄関廊)としてのガヴィットで、きわめて装飾的な建物である。不思議なのは、その位置が、メイン・アプスの対面の西側でなく、屈折した南側であり、しかもエントランスがさらに 90度屈折した東側にあることである。参拝者は何度も向きを変えて祭壇に面することになる。ガヴィットには各柱から対角方向にアーチが架けられて、中央の菱形部分にトップライトのあるムカルナス・ドームが載る。アーチで区画された その他の天井面は、茶色と黒色の石の寄木細工による幾何学パターンが描かれている。( Ani.3, PC.427, AA.485, MH.178, ET.I-365, DOC.12-60, 95 ) アブガムル家の聖グリゴール聖堂は、アニの都の西端にあって ツァグコツァゾル峡谷に面している。10世紀末に、パフラヴィ家の分家であるアブガムル家のグリゴール王、あるいはその妻のシュシャンによって建てられたと考えられている。碑文によると、アブガムル・パフラヴィの子孫の葬祭聖堂として用いられたという。六アプス式の円形聖堂で、各アプスは中央に窓をうがち、中央ドームのドラムの窓群とともに内部に十分な採光をしている。小聖堂であるが、シンボリックな造形が目を引く。円錐屋根も石造であるが、低層部の屋根仕上板は失われている。( Ani.21, PC.426, AA.482, MH.124, ET.I-362, DOC.12-56, 90 )
もともとは 住居ないし宮殿(おそらくカトリコスの)として建てられたが(ミフラーブもない)、イスラーム時代にモスクに転用されて、ミナレットが付加された。チェッダディード朝の総督 マヌッチの建立と伝えられているが、実際の建設者は 1世紀後のアブル・マームラン(Abul-Maamran)であろうと推測されている。アショト3世の城壁頭端部を、後にモスクに造り替えたともいわれる。現地には、1072年、アナトリアに建てられた最初のモスクと書かれている(セルジューク朝)。
側面に並ぶ4つの窓からは アフリアン川の谷と 向こうの風景が眺められ、モスクとしては珍しい構成をしている。大ホールの大きさは 18.5m×15.7mで、アーチ列は6本の独立柱と10本の壁付柱に架かる。六角形のミナレットは頂部が水平に切れているが、かつては錐状の屋根か バルコニーがあったのかもしれない。( Ani.10, ET.I-366, 374, DOC.12-54 )
アニのカテドラル 往時の姿 アルメニアの最も偉大な建築家、トルダト(Trdat)が設計した カテドラル。 ヨーロッパ建築が まだプレ・ロマネスクの時代に、アルメニア建築は大いに発展していた。それがロマネスク的な技術と美学であるゆえに、アルメニア建築はロマネスク建築の源流のひとつと見なされる。トルダトはコンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂の、地震で崩落したドームを修復したことでも知られるが、このカテドラルの中央ドーム屋根とその胴部(ドラム)が、建設の 300年後の 1319年の大地震で失われてしまったのは まことに残念。碑文によれば、建設は バグラト朝のスンバト2世 Smbat II によって 989年に始められ、12年後の 1001年に、その弟で後継者ののガギーク王 Gagik I(在989-1020、バグラト朝)の王妃カトラニデー Katranidê によって完成された。セルジューク朝に支配された1014年からモスクに転用されていたが、1124年にジョージアのダヴィデ王によってキリスト教聖堂にもどされた。
堂は、バガルシャパトの聖ガヤネ聖堂をプロトタイプとする四柱式ドームのバシリカで、単アプスの三廊式聖堂である。ラテン十字のプランに似ているが、トランセプトはなく、外形は完全な長方形である。しかし屋根の起伏は十字架をなし、交差部にドームが架かっていて、立体的な造形となる。ドームは4本の独立剛柱に架かる四アーチの上に載り、ア−チ間の三角小間はスキンチではなくペンデンティヴである。剛柱は線の多い束ね柱をなし、ゴチック様式のような強い垂直性を見せている。ドーム上の屋根は円錐状であったろうか、唐傘状であったろうか。( Ani.17, PC.425, AA.484, MH.120, ET.I-372-3, DOC.12-38, 93 )
聖救世主聖堂(スルプ・アメナプルキチュ)は、コンスタンチノープルから持ち帰られた真の十字架の断片を祀るために、パフラヴィ家のアブルガリブ公によって1036年に建てられた。これもまた、おそらくトルダトの設計だと考えられている(その名が南面の頂部に刻まれているので)。1064年以降のセルジューク朝の襲来によって損傷したが、1193年に修復され、其の際 ガヴィットも増築されたというが、現存しない。ドームは地震で崩壊したのか、ザカレ公の孫のヴァフラム・アタベク Vahram Atabek によって1342年に再建された。
聖堂は八アプス式の円堂であるが、外壁は八角形ではなく 19角形となっている。祭壇の置かれる東側のアプスが他より大きくつくられていて、南アプスが入口となっている。この外側にガヴィットが設けられていたのだろう。上層の19連めくらアーケードには、一面おきに縦長窓があけられている。これだけでは、堂内は薄暗かったかもしれない。内部のアプスの半ドームには、諸所に壁画の断片が残っている。ある碑文によると、サルギス・パルシキアンが描いたという。
堂の南側に、鐘楼が1260年(1291年とも)に建てられたらしいが、現存しない。本堂は20世紀初めには大きなクラックがはいり、1912年に補修したものの、1957年に(1930年頃とも)堂の東半分が崩落してしまった。一千年近くの石積みの古建築の半分だけが、風圧を受け続けながら倒壊しないでいるのは 不思議である。( Ani.2, PC.422, AA.486, MH.128, ET.I-368,DOC.12-52, 88 ) アニの都の東端、アフリアン川の20mの断崖の上に建つ聖グリゴール聖堂は、裕福な市民のティグラン・ホネンツによって1215年に寄進された。アニで最も保存のよい建物である。聖堂は矩形の外形をしていて、内部の壁付の4本の剛柱の上にドームが載るホール型であるが、奥の2本の剛柱には奥の祭室への通路と、その上の窓が開けられているのは驚きだ(主構造を傷めている)。内外とも装飾的な建物で、アルメニアには珍しく、カラフルなフレスコ画で満ちている。壁画の主題は、使徒の聖体拝領、受胎告知、キリストの降誕、復活、最後の晩餐、啓発者 聖グリゴールの事績など。
西側にオープンなナルテックスとしてのガヴィットがあるのも珍しい。後の増築だったのだろう。その屋根が崩落してしまったので、聖堂入口の上の大小のタンパンの壁画が白日のもとにさらされている(キリスト磔刑像など)。壁画にはジョージア語で簡単な説明が加えられているので、画家もジョージア人だったのではないかと考えられる。ガヴィットの北側には小聖堂が建てられたが、半壊している。( Ani.24, PC.424, AA.487, MH.180, ET.I-369, DOC.12-46, 94 )
アフリアン川の峡谷に下る南の崖の先端に建つ小堂は クサナツ・ヴァンク(処女の修道院)と呼ばれる。処女とは、聖母マリアのことである。これもまた ティグラン・ホネンツが寄進者であると碑文にある。ティグラン・ホネンツの聖グリゴール聖堂と装飾の細部が似ていることから、建築家も同じだったのではないかと推測されている。聖堂は 六アプス式の六弁形円堂で、唐傘型の石造屋根を戴いた12辺形の上層部(胴部)はハリチャ・ヴァンク(1201年)のミニ版といったところ。今は崩壊してしまったが、オープン・ポーチが、侵入しやすい丘側でなく 崖側に設けられたのは、東のメイン・アプスの反対側にするため。南の崖側には、小祭室が独立して建ち、山側には、修道施設のなごりの壁が散在している。( Ani.23, PC.423, AA.488, MH.184, ET.I-375, DOC.12-64, 87 ) 丘の上の城塞は 今は廃墟となっているが、かつては一番高いところに宮殿があった。西側に門があり、90mにおよぶ通路が宮殿を南北に二分していた。北側の二層の建物は住居部で、2階が大広間だったらしい。ローマ式の浴場もあった。宮廷の聖堂は南地区の、広い中庭の東側に面していた。単廊式のヴォールト天井が壁付き柱(ピラスター)の上に架けられていた。内部のピラスターには溝彫りがあり、アーチを受ける部分には幾何学紋あるいは唐草紋が彫刻されていた。建設年代は知られていないが、10世紀頃ではないかと言われている。他にも 四アプス式や 六アプス式など くつかの聖堂址があるが、調査できない。( Ani.6, AA.482, PC.417, ET.I-376, DOC.12-86 )
城砦と聖堂の平面図 アニの最南部、U字形を描くアフリアン川に突き出た半島部の丘上に「処女の砦」Kiz Kale と通称される小さな砦があった。その中に建つ聖堂址は、近づくことが許されず、城塞から写真を一枚撮るだけだった。単室型の小聖堂で、ドーム屋根があったかどうか不明。( Phai.70 ) |
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