『 原爆体験記 』 |
神谷武夫
毎年 夏になると、いわゆる「終戦記念日 (8月15日) 」が やってきます。その前には 広島 (8月6日) と 長崎 (8月9日) の原爆投下記念日における 死没者の追悼記念式が行われ、大多数の日本人が あの戦争に、また核兵器に、思いを馳せます。広島では 一瞬にして十数万の市民が命を奪われ、長崎では7万人余の市民が亡くなった とも伝えられますが、正確な数字は不明です。今は 終戦記念日には遠い冬ですが、いよいよ核戦争が 起こるやもしれぬケハイであり、 トランプとキムは ハッスルし、アベは 扇動し続けているので、我々は スタンリー・キューブリックの終末論的映画『 博士の異常な愛情 または 私は如何にして心配するのを止めて 水爆を愛するようになったか』でも見て、心の準備をしているべきかもしれません。
![]() 某某のペシミスティックな心底は、これ(水爆戦)によって、もう そろそろ 悪の権化である人類が滅亡するのも 悪くないかもしれない、と 観じているような フシがありますが、今回の「古書の愉しみ」では、あまり愉しかった読書とは言えないけれど、学生時代に読んで 大きな衝撃を受けた『原爆体験記』を採りあげ、それに関連して2冊の画集を紹介することにしました。戦争と原爆に関する本は無数に出版されてきたので、私が手にしたのは ほんのわずかですが、その中で 最も強い印象を与えられたのが『 原爆体験記 』です。私の長い読書生活の中でも 最も読むのが 辛かった、忘れがたい本の一冊です。 この本が朝日新聞社から刊行されたのは、今から 約半世紀前の 昭和40年 (1965) のことですが、本当は その15年前の 昭和25年 (1950) に出版される筈でした。原爆投下の5年後です。その 印刷と製本が済んでいながら 未刊行に終わった 130ページの小冊子『原爆体験記』には、次のような「刊行のことば」が付されていました。
![]() 「編者」というのは 広島市の市長および職員であり、「応募 164編」というのは、広島市が 原爆投下後3年目の昭和23年 (1948) に、原爆の惨禍から生き延びた市民に呼びかけて その被爆体験記を募集した時に寄せられた、職業文筆家ではない 一般市民によって綴られた 生(なま)の思い出 164編のことです。「二つの世界の激しい対立」というのは、今の若い人には解りにくいでしょうが、戦後すぐに アメリカを中心とする資本主義圏(西側)と、ソ連を中心とする社会主義圏(東側)に分断され 敵対していた世界の、いわゆる「冷戦構造」のことです(ホットな戦争である「朝鮮戦争」が1953年に休戦して以後は、戦火は交えないながら、東西のクールで陰険な戦争状態になったのでした)。それに伴って 日本における反核運動も分裂し、共産党系の「原水協(原水爆禁止日本協議会)」と 社会党系の「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)」とが対立し、広島、長崎で毎年 それぞれが別々に「原水爆禁止世界大会」を開くようになります。世界の平和団体は これに困惑したことでしょうが、アメリカに追随する自民党は どちらにも一切参加せず、今度の国連の「核兵器禁止条約」にも反対して、世界の多数の国から、日本政府の二枚舌に対する厳しい非難を招いています。 そうしたイデオロギーの対立や 政治的駆け引きとは無縁の、ただ 多数の肉親や知己を原爆で失いながら、また自分自身も生死の境をさまよいながら かろうじて生き延びた被爆市民の 率直な体験記は、大局的な平和運動とは異なりますが、人の「生きる権利」を踏みにじる巨大兵器の結果するところを、『原爆体験記』は最も簡明に伝えてくれます。
この小冊子が出版されようとした時、原爆を投下して広島と長崎の数十万人の市民(非戦闘員)の命を奪うという「戦争犯罪」を犯したアメリカは、それを、戦争を終わらせるために必要だった と言って正当化し、原爆のもたらす悲惨さを最大限 包み隠そうとしていたため、GHQ(連合国軍総司令部)、すなわち日本を占領する「進駐軍」は この小冊子を「反米的」として、すでに印刷・製本が できあがっていたにもかかわらず、これを配布させず、出版禁止処分にしたのでした。そのために これらの原稿と小冊子は、以後 15年間も 広島市役所の倉庫に収蔵されたまま「ホコリをかぶって」眠りについてしまったのです。 やっと昭和40年 (1965) になって、朝日新聞が この未出版原稿について大々的に報道したことによって、「原爆体験記」は 広く世間に知られました。その世論の後押しを受けて 朝日新聞社は、小冊子に載せられていた 18編に 新たに選んだ 11編を加えて、全 29編からなる、軽装の廉価な単行本『原爆体験記』を、同年の7月20日に発行しました。私の手元にあるのは 数年前に買い直したもので、9月5日発行の第6刷りとありますから、短期間に いかに大きな反響があったかが わかります(わずか1か月半の間に6刷り!)。
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この『原爆体験記』には 29人の広島市民の手記が収録されていますが、その内訳は ウィキペディアによると、男性が 21人、女性が8人で、被爆当時の年齢は8歳の小学生(国民学校生)を最年少に、10歳未満が2名、10代が8名、20代が5名、30代が3名、40代が5名、50代が4名、年齢不詳が2名であり、学童・学徒9名を除けば、職種は会社員、事務員、軍人、教員のほか、自動車運転手、貸席業主など多様であり、また被爆時の場所も、ほぼ爆心直下の燃料会館で被爆した男性事務員を筆頭に、爆心地から1km以内が4名、1〜2kmが13名、2〜3kmが5名、3〜4kmが3名、4km以上が4名という具合に、さまざまな状況で被爆した 多様な人々がピックアップされています。
![]() 私がこの本を読んだのは、大学に入学した年の7月26日と「読書記録」に書いてありますから、出版されると すぐに購入し、読んだようです。その4日前には、出版されて間もない 大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読了とあるので、原爆に対する関心は 高かったものと見えます。しかし、『原爆体験記』を読むのは 難渋しました。というのは、それらの体験記録の あまりの悲惨さ、あまりの痛ましさに、一気に読み通すということが できないのです。何度も何度も 本を閉じては、長い休息をとりました。何日もかかって やっと読み終えたときには、ホッとしました。若くて感受性が「うぶ」だったこともあるでしょうが、これほど 読むのがつらい読書は、後にも先にも なかったような気がします。今回、この文を書くために読み返したときも、一度に読み通すことは できませんでした。 ところで、我々は 原爆投下というと すぐに広島を思い浮かべてしまい、長崎を あとまわしにしがちです。広島のほうが3日早いので、「人類最初の被爆地」といえば広島になるし、被害の規模も大きかったので、それに応じて小説や映画でも ナガサキよりヒロシマが舞台にされることが多かったのでしょう。マルグリット・デュラスの脚本で アラン・レネ(1922 -2014)が監督した 古いフランス映画 『 ヒロシマ、わが愛(Hiroshima Mon Amour) 』は ヌヴェル・ヴァーグの傑作として、世界的に絶賛されました(邦題は「24時間の情事」という ひどいものです)。『原爆体験記』の刊行の前年の 1959年に公開され、岡田英次(1920 -95)が、フランス語を話す 日本人建築家の役で 主演していました(実際には 岡田はフランス語が まったくできず、耳から聞いたフランス語のセリフを「丸覚え」していったそうですが)。 私が初めてインドを旅行した 1976年には、行く先々でインド人に、日本はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下されて 何十万人も殺されたにもかかわらず すばらしい復興を遂げたと、絶えず称賛されました。誰も彼も、私が日本人だと知ったとたんに 口をそろえて そう言ったのは、きっと 小中学校の教科書にそう書いてあって、全国の教師が熱心に そう教えたのでしょう、インドは日本を見習うべきだと(アメリカの教科書が 原爆投下を正当化して、市民の被害には あまり言及しないらしいのとは対照的に)。インドでは、いつもヒロシマとナガサキが 不可分に並べられていました。
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長崎が不当に「あとまわし」にされすぎる、とは感じているのですが、建築家の立場からすると、それも無理もない、という気もあります。それは、建築のモニュメンタリティ(記念性)ということです。長崎には大浦天主堂や、北村西望の大彫刻「平和祈念像」や、ガウディに倣った今井兼次の設計による「長崎26聖人記念館」があるとはいえ、映画やテレビで映像化するのに、これぞという「場」がないのです。両都市の爆心地に作られた「平和公園」を比べるとき、広島のほうが「モニュメンタリティ」において 圧倒的に優れていると 言わざるをえません。それは 昭和24年 (1949) に制定された「広島平和記念都市建設法」(長崎は「長崎国際文化都市建設法」)に基づいて 同年に行われた、「広島市平和記念公園及び記念館」コンペで一等をとった 丹下健三案が実現された 建築・地域計画でした。
広島と長崎の爆心地につくられた「平和公園」の質、あるいは魅力度の差は、広島市が 平和記念公園と主要な建築施設(資料館や陳列館、国際会議場など)を一体として、全国の建築家に 設計の機会を与える「公開コンペ」(競技設計)にしたことにあります。コンペの全応募案にこめられたエネルギーの総体は 莫大なものがあります。そしてクリエイティヴな建築家が応募していれば、単に官庁の公園課の職員が 事務的に決めて発注するものよりも 優れたものができるのは当然です。長崎の場合は 十分に情報がないので、どのような経過で平和公園が作られたのかは分かりませんが、昔訪れた時の おぼろな記憶と、現在インターネットで見る写真からは、格別 魅力的な場所には見えません。
広島の場合は、前述の浜井信三市長が 広島再建のために情熱を傾け、努力を惜しまなかったので、優れた都市計画や『原爆体験記』の出版などに結果したのだと思われます。まず市長は 都市を貫く100メートル道路(平和大通り)を計画し、その上で 平和公園のコンペを昭和24年 (1949) に開催しました。1等案を作った建築家の丹下健三 (1913 -2005) は その時まだ36歳でしたが、東大の丹下研究室のメンバーとともに、都市計画的に優れていると同時に、きわめてモニュメンタルな設計案を提出しました。 ![]()
広島市平和記念公園計画、平面図(赤線と青字は 筆者加筆)
丹下健三は 大学浪人時代から ル・コルビュジエに心酔して 都市設計への傾斜を強めていたので、この広島コンペは 彼の能力を発揮する格好の場所でした。しかも、戦後すぐに 広島市を含む地方都市の調査・計画の委託研究を受け、「広島市復興都市計画の基礎問題」という論文も まとめていたので、広島の都市条件は十分に把握していました。
さらに象徴性を高めるために、プログラムには無かった コンクリートの「平和記念アーチ」を建てて、その頂部に5つの「平和の鐘」を吊り、広場にいる人々にとっての よりしろ のようにするとともに、原爆ドームを焦点とする眺めのフレームにすることも意図しました。 こうして、大アーチが実現しなかったのが残念とはいえ、全体としては、人類最初の被爆地にふさわしい (?) きわめてモニュメンタルな「5万人の広場」が、ル・コルビュジエの影響が強いにしても 実に堂々たる陳列館とともに コンペ案どおりに できあがり、ニュース映画やテレビで記念式典を中継するのに 格好の舞台となったのでした。(ただ、公会堂の実施設計が よその設計事務所の手にわたって、レベルの低い建物になるというトラブルには みまわれましたが、平和公園の全体計画にはあまり影響がありませんでした。しかし、こうした 建築家のプロフェッションを否定するような事件は、その半世紀後のオリンピック用「新国立競技場」まで続いています。建築家が自らを業者扱いする国にあっては、今後もずっと続くことでしょう。)
ともあれ 広島平和公園には 丹下健三によって、強いモニュメンタリティ(記念性)が与えられました。この計画の焦点として扱われた「原爆ドーム」は、今に至るまで 広島ー原爆 のシンボルとして機能し続けています。丹下は、この後も 代々木の屋内競技場から 東京都庁舎に至るまで、公共建築や地域計画にモニュメンタリティを与える 最適の建築家として活動し続けました。
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広島市平和公園、平和記念資料館(陳列館)観覧券の半券
私は学生時代に2回、広島ピースセンターを訪れました。1年生のときの夏休みと、翌年の春休みに。もちろん ここを訪れることだけが目的ではなく、奈良・京都から 中国・四国にかけての 古典建築および現代建築を見るための、ユースホステルに泊まり歩く 貧乏旅行でした。建築の勉強を始めたばかりの若造が、この旅で最も感動した古典建築は『厳島神社』であり、現代建築では大谷幸夫の『天照皇大神宮教 本部』だったと記憶しています(つまり、内部と外部が入り組んだ空間、ということか?)。それぞれの宗教に開眼したわけでもなければ 帰依したわけでもないので、建物の目的や内容と、その芸術的価値とは、必ずしも同調しないのではないかと思います。
さて、この『原爆体験記』に描かれている、地獄のような被災地の情景を 絵にしていった画家が いました。広島出身の丸木位里 (まるき いり 1901 -95) と丸木俊 (まるき とし 1912 -2000) の夫妻です。二人は東京に出て画業に励んでいましたが、広島に「新型爆弾」が落とされた知らせを聞くと、位里は3日後に 東京から最初の列車で広島に向かい、俊も数日後に広島に行きました。この時 日本画家の位里は44歳で、洋画家の俊(旧名・赤松俊子)は33歳、この4年前に2人は結婚していました。
![]() 多くの家族、知人、友人を原爆で失った2人は 毎日 被災地を見て回り、死者を焼き、怪我人を搬送し、食べ物をさがし歩きました。その1か月間は、画家の眼よりも 被災者の同胞、被爆地・焼け跡の目撃者として生きていたことでしょう。それが画家として 広島の惨劇を絵に描こうと思い立ったのは、3年後のことでした。反骨精神や独立心にも燃えていた2人は、戦後の混乱期であるとともに 戦中の愛国精神からの自由・解放の時期でもあったその頃、伝説的な「アンデパンダン展」などに参加していました。 昭和25年 (1950) 2月に、『原爆の図』第1部「幽霊」(その時の題は、占領軍の圧力による展示禁止を避けるための「8月6日」というものでした)を、上野の東京都美術館における 第3回「日本アンデパンダン展」で発表しました。位里は 53歳、俊は 42歳の時です。技法は水墨画ですから「日本画」ではあっても、その題材は「花鳥山水」の「床の間芸術」とは無縁のものであり、原爆で焼けただれた人々の裸体の群であり、「見るも おぞましい」モチーフの大作(四曲一双、すなわち畳8枚分の、折りたたみ屏風)ではありました。しかし 絵は評判を生み、翌月には日本橋丸善画廊で展覧して、さらに反響を呼びました。
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これ以後2人は『原爆の図』の制作に熱中し、シリーズ として、昭和30年 (1955) までに、完結予定の第10部までを完成させました。この間 日本各地で『原爆の図』の展覧会を催し(巡回展)、1952年には「国際平和文化賞」を受賞し、翌年からは海外巡回展が始まります。
当初の美術館は小規模なものでしたが、その後 順次 増築されて、現在では 後期の大作も展示できる規模のものとなり、付属施設も多くあります。ぜひ一度 たずねましょう。と言いながら、実は私は まだ行ったことがありません。何度も 今度こそ、と思いながら、その都度 行き方を調べると 、これでは私の住まいから遠すぎて 時間が足りないと、中止にしてしまうのでした。 ![]() それでも、この田園書房版の画集『原爆の図』の広告が 1967年に新聞に載ると すぐに書店に注文し、大学3年生の時でしたが、折にふれて見たものです。 この田園書房版が 最初の『 原爆の図 』の画集だと思い込んでいましたが、今回調べてみたら、早くも昭和27年 (1952) に青木書店から小さな文庫版で出ていました。描きだしてから わずか2年目ですから、収録したのは《幽霊》から《少年少女》までで、著者名は 丸木位里・赤松俊子でした。
![]() 1959年には 虹書房という出版社から、のちの田園書房版よりも大きい 27×36cm の大きさの画集『原爆の図』が出ていることがわかりました。全20ページで、収録作品は《幽霊》、《火》、《水》、《虹》、《少年少女》、《原子野》、《竹やぶ》、《救出》、《焼津》(加筆前)、《署名》(加筆前)、《火》(高野山版)、《水》(高野山版)です。著者名は 丸木位里・丸木俊子となり、定価は480円だったということです。
![]() 『 原爆の図』の第10部までの題名と制作年度を列記すると、次の通りです。
第1部 「幽霊」 昭和25年(1950) 田園書房版の画集には、丸木夫妻の意向によって第8部までしか収録されていません。第9、10部には不満の部分があり、のちに手が加えられたようです。この第10部で完結の筈だったのですが、そうはならず、その10年後に再び原爆の図のための筆をとり、第15部まで 続編を2人で共同制作しました。各部は基本的に四曲一双、つまり畳の大きさの3尺×6尺の絵を8枚つなげて屏風にしたものです。これだけの大作を、しかも 描いていて楽しくなるような主題ではないものを 15部も描き続けるには、大変な根気と努力、そして絵画力がなければ できないことです。
![]() さらに2人は『原爆の図』の 15連作に加えて、日本が被害者意識ばかり持つのは おかしいと、日本人が加害者であった「南京大虐殺の図」を描き、さらに その虐殺の範囲をナチスによるユダヤ人虐殺、ひいては水俣などの「公害問題」にまで手を広げた続編を、伊里は 94歳で、俊は 88歳で亡くなるまで 描き続けました。 画集『 原爆の図 』の新版は それら続編まで含めて掲載し、田園書房版とほぼ同じ 正方形に近い大きさの 改訂版として出版されました。これは 丸木美術館の発行、小峰書店の発売という形で、数次にわたって増補改訂され、定本のようになっていますが 、他にも文庫版(講談社)から、高価な増補保存版(小峰書店)まで、種々出版されてきました。続編の絵の一覧を示すと、次のようです。
第11部 「母子像」 昭和34年(1959)
「南京大虐殺の図」 昭和50年(1975) 田園書房版の『原爆の図』は 第8部までしか載っていないし、後の新版や豪華版に比べると、古いだけに 製版・印刷のレベルも やや落ちますが、私にとっては一番 好印象の画集です。新版と同じ 手頃な大きさ (24.5 x 22.5 cm) で、本の厚さは薄いですが すべてカラー、絵は全部 片面印刷で、各部ごとに 四曲一双を4ページ見開きにしていることが、絵の全体を見るのに最も優れています。後の画集が そうしなかったのは、製本代が高くつくからでしょうか? 私が 昔買った 想い出深い本だということもあるでしょうが、やはり一点の絵は全体としてみるのが一番よい、という気持ちが根柢にあります。映画は好きだが TVドラマは好きでない、という感情にも 似ているかもしれません。
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『原爆の図』画集と『ジェノサイド画集』(次節)とを開いたところ。
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日本では あまり知られていませんが、第二次大戦中に ナチスによってユダヤ人が徹底的に虐殺されたのにも似て、第一次大戦中には オスマントルコによって アルメニア人が大量虐殺されました。一種の「民族浄化」と言われています。英語では、ユダヤ人の虐殺は「ホロコースト the Holocaust」 と言い、アルメニア人などの虐殺は 一般的に「ジェノサイド Genocide」と呼ばれます。
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ジャンセン『ジェノサイド画集』よりー1 20世紀に入っても、ヨーロッパ列強の悪しき振る舞いと中東情勢の混乱、トルコにおける「青年トルコ革命」などが重なり、アルメニア人の安全は守られず、トルコとロシアの対立が オスマントルコによる 1915年から19年までの アルメニア民族大虐殺を生み、「第2次大虐殺」と呼ばれます。トルコ領内の 100万人から 200万人のアルメニア人が シリアとメソポタミアの砂漠に移住させられ、その強制移住(死の行進)の間に、広島・長崎の原爆被災者数に匹敵する数十万人が、徒歩による移住の苦しみや虐殺で命を落としました(映画『 消えた声が、その名を呼ぶ 』が その一部を描いています)。また 数十万人が 現在のミャンマ−におけるロヒンギャの人々ように、離散の民(ディアスポラ)となって 中東、南亜、欧米に 避難民となって亡命したのでした。 現在のアルメニア共和国の首都、イェレヴァンの西方にある ツィツェルナカベルドの丘の頂部には、それらのオスマントルコの虐殺による死者を慰霊する コンクリートのモニュメントが 1967年に建設され、その中央では絶えず慰霊の火が焚かれています。塔の高さは44メートルで、毎年4月24日が、その「虐殺記憶の日」です。 ![]()
この慰霊碑の南側、イェレヴァンの町を見下ろす丘の 頂部斜面を削って、半地下式の「虐殺博物館」が、虐殺80周年の 1995年にオープンしました。アルメニアの建築家、サシュール・カラシアン Sashur Kalashian と リュドミラ・ムクルチャン Lyudmila Mkrtchyan の設計です。 ![]() そうした 離散アルメニア人の芸術家としては、小説家のサローヤン (1908 -81) や、画家のアーシル・ゴーキー(1904 -48)、歌手のシャルル・アズナヴール(シャーヌール・アズナヴリアン 1924-2018)、映画『アララトの聖母』を作った監督 アトム・エゴヤン (1960- ) などが知られていますが、画家のジャン・ジャンセンも、その確かなデッサン力の上に立った静謐な画風は 日本にもファンが多く、1993年以来 長野県の安曇野(あずみの)に「ジャンセン美術館」があるほどです。4年前に 93歳で世を去りました。つまり丸木夫妻よりも 10〜20年遅く生まれ、同じくらい長生きをして 絵を描き続けた人です。
丸木夫妻の『原爆の図』は 1978年にフランス巡回展をし、パリをはじめ 10都市で展覧しましたから、ジャンセンは その時に見て衝撃を受けたに ちがいありません。自分が幼い時に体験し、絶えず話を聞かされ、本で読んできた「アルメニア人の大虐殺」を連想し、アルメニア人画家としての自分もまた 丸木夫妻のように、それを描かねばならない、しかも『原爆の図』のような大画面で、と。 ![]() それを描きためて、2002年にイェレヴァンで『虐殺』の大展覧会をして、フランスやアルメニアから勲章を授けられました。その時のカタログを兼ねた画集は 今もジェノサイド博物館で販売されています。カタログには35点の絵が掲載されていて、表紙に使われている絵は2メートル×3メートルもの大きさがあります。しかし 画風は きわめてスタティスティックなので、丸木夫妻の絵のようなダイナミックさに欠けるようです。
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ジャンセン『ジェノサイド画集』よりー2 ![]()
ジャンセン『ジェノサイド画集』よりー3 ジャンセンは、挿絵本も多数 制作しています。ボードレールの『パリの憂愁』や、セルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』などですが、これらはリトグラフ(石版画)なので高価です。印刷本にも エルヴェ・バザンの "QUI J'OSE AIMER" (1957, 邦題『愛せないのに』) や ジルベール・セスブロンの "LES SAINTS VONT EN ENFER" (1970, 邦題『聖人、地獄へ行く』) など 見るべきものがありますが、ジャンセンの絵は「虐殺」の絵ばかりでなく、ほとんどの絵が やや暗い印象で、悲哀感がただよっているようです。以前にアルメニアの音楽を紹介していた時に、
と書いたことがあります。ジャンセンの絵もまた、若い頃から そうした性格をもっているのではないでしょうか。 ![]() ![]() エルヴェ・バザン『愛せないのに』、ジャンセンの挿絵
( 2017 /12/ 09 )
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