白井晟一 『原爆記念堂 計画』1954、透視図と平面図
(『建築』1961年12月号より
この翌年(1955)が 原爆投下10周年で、
広島平和会館・陳列館の竣工の年でもある。





原爆堂について   白井晟一
(『新建築』1955年4月号より

 TEMPLE ATOMIC CATASTROPHES は 1954年からの計画である。私は はじめ不毛の曠野にたつ愴然たる堂のイメージを逐っていた。残虐の記憶、荒蕪な廃墟の聯想からであろう。だが構想を重ねてゆくうちに 畢竟は説話的な このような考え方をでて 自分に与えられた構想力の、アプリオリな可能性だけを おいつめてゆくよりないと 思うようになった。概念や典型の偏執から自由になることは そのころの自分にとって難しい、大きい作業であったが、悲劇のメモリィを定着する譬喩としてではなく、永続的な共存希待の象徴をのぞむには、貧しくともまず、かつて人々の眼前に表れたことのない造型のピュリティが なにより大切だと 考えたからにちがいない。