GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
イスタンブル(トルコ)
聖ソフィア大聖堂と キブラ
神谷武夫
聖ソフィア大聖堂
聖ソフィア大聖堂 内部

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コンスタンティノープルの大聖堂

 トルコに旅行する人なら 必ず訪れるのが、イスタンブルの 聖ソフィア大聖堂である。英語では セント・ソフィア、トルコ語では アヤソフィア、古典ギリシア語では ハギア・ソフィア、現代ギリシア語では アギア・ソフィアというので、これらのどれかで、その名を記憶しているだろう。なぜ 古典ギリシア語の ハギア・ソフィアの呼び名が 今でも流布しているかというと、これを 325年に 新首都 コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)の建設とともに創建した(らしい)のが、古代ローマ帝国の(キリスト教を公認した)コンスタンティン大帝(コンスタンティヌス 1世、在位 306-337)であり、360年に竣工させたのは、その息子のコンスタンティウス2世であり、ニカの乱で炎上後、532年から 537年にかけて、現在の聖堂を再建したのが ユスティニアヌス1世(在位 482-565)であり、それは帝国を代表、象徴する、首都 コンスタンティノープル(現在の イスタンブル)のカテドラルであり、そこでは ラテン語ではなく、ギリシア語が主言語であったからであり、それゆえに 西洋建築史では、今でも古典ギリシア語の「ハギア・ソフィア」の名で呼ばれることが多いからである。
 ソフィアとは「知恵」、「叡智」という意味で、通常は 聖人に献じられるキリスト教聖堂が、ここでは 抽象的な「知恵」に献じられている。ビザンティン世界では、これは珍しくない。建築的に重要なものとしては、トルコのトラブゾン(トレビゾンド、 黒海に面した古都)や、ギリシアのテッサロニキ(サロニカ)にも聖ソフィア聖堂があるし(それぞれ、13世紀半ばと、8世紀末)、また東欧のブルガリア共和国の首都は ソフィア(14世紀に、市内に 聖ソフィア聖堂が建てられてからの呼称)である。ソフィアは大学名にも用いられ、日本語では上智大学という。ハギア・ソフィア(聖なる智)とは、イエス・キリストを指してもいるのである。

   
聖ソフィア大聖堂の外観

 360年に献堂された「第一聖堂」は、当時一般的なバシリカ式の聖堂で、屋根は木造であったと考えられる。木造のゆえに 404年に火災にあい、第一聖堂は崩壊した。これをテオドシウス帝が再建して 415年に献堂式をあげたので、これを「第二聖堂」と呼ぶ。しかし、これも屋根が木造であったがゆえに(建物において、屋根の占める比重は非常に大きい。根本的に言えば、建物とは、空間に屋根を架けるための構造物 なのである)532年にユスティニアヌス帝に対して市民が起こした反乱(ニカの乱と呼ばれる)時に、コンスタンティノープルは炎に包まれ、聖ソフィアをはじめとする 多くの聖堂が消失した。
 反乱を鎮圧すると、ユスティニアヌス帝は 帝国の威信を取り戻すために、ただちに大聖堂の再建にとりかかった。それは、もう火災にあうことのないよう、不燃化した、石造、あるいはレンガ造でなければならず、また第一、第二聖堂を はるかにしのぐ 大規模で壮麗なものでなければ ならなかった。

聖ソフィア大聖堂         
イスタンブルの 聖ソフィア大聖堂 460年 外観と、平面図と、19世紀の内観図
(Plan from the "Hagia Sophia" by Rowland J. Mainstone, 1988)


聖ソフィア大聖堂の再建

 そもそも 現在の規模の、主身廊のスパンが 33mもあるような巨大聖堂となると、木造の梁では不可能で(そんなに大きな部材は得られない)、組積造のアーチやヴォールト、ドームの技術を用いる他はない。そこで、この設計者として任命されたのは、建築家ではなく、技術家(エンジニア)と記録されている、トラレス出身の アンテミオスと、ミレトス出身の イシドロスであった。このことは、近代建築の発展に エンジニアが大きな役割を果たしたことと似ていて 興味深い(例えば、水晶宮を設計した ジョセフ・パクストンや、エッフェル塔を設計した ギュスターヴ・エッフェルなど)。それまで見たこともないような 大胆な構造物を実現させるには、建築家よりも技術家のほうが ふさわしいのかもしれない。しかしまた そのことが、聖ソフィアを、美的には今ひとつ物足りなくさせる原因となったであろう。

 ギリシア文明を受け継いだローマ帝国は、ギリシア神殿の美学を継承しながら、西アジアまで領土を拡大して、ペルシアやメソポタミアの建築文化からも 大いに学び、ギリシアにはなかった アーチやドームの技術を身につけていった(それをヘレニズム文明という)。それが、水道橋のような大土木工事や、ローマのパンテオンのようなドーム建築を発展させることとなった(パンテオンについては、こちら を参照)。聖ソフィアを設計するにあたって アンテミオスとイシドロスは、このパンテオンを 大いに参考にしたにちがいない。しかし その模倣ではなく、バシリカ式の三身廊のプランでありながら、巨大な主身廊を、中央ドームとその前後の半ドームで覆うという、実に独創的な形式を編み出した。これは先例がなく、また後継建物もないという、建築史上 まれにみるユニークな傑作を ものしたのである。

聖ソフィア大聖堂の 断面図
(From the "Constantinople" by Stephane Yerasimos, 2005)

 断面図を見ればわかるように、これは、文字通り「被膜的建築」である。大きな空間を「囲いとる」ということ。それを実現するのは、建築家であるよりは技術者(エンジニア)なのだった。したがって、この巨大な内部空間に入った時、その大胆な技術と 囲い込まれた空間の壮大さに感動するが、では その外観はというと、必ずしも「美」であるとは言えない。言ってみれば、それは内部の空間を囲み取った「結果」の形態に過ぎないのである。
 この「被膜的建築」の原理を、トルコのイスラーム建築は 受け継ぐことになる。それは イスラーム建築の理念に叶っていたからである。アラブ型のモスクも、ペルシア型のモスクも、形こそ違え、「被膜的建築」なのだった。
 聖ソフィア大聖堂が トルコのイスラーム建築に及ぼした影響は莫大であったが、しかし、ドームを主とするモスク建築は、コンスタンチノープル陥落以前から、アナトリアで、トラキアで、造られていた。アラブ型ともペルシア型ともインド型とも違う 大ドーム式のモスクをトルコが発展させた第1の条件は、「気候」であった。寒冷地のイスラームが要求したのは、「中庭型」ではない、内部空間としての「ホール型」モスクだったのである。
現代になっても、ここを訪れる観光客の誰もが、その「体育館のような」、巨大でいて、しかも 古典的な石造建築の内部空間に 驚愕せざるを得ない。

   
聖ソフィア大聖堂の内部と 天井

 しかしながら、この大胆きわまりない建築作品は、その大胆さのゆえに 設計に無理があったのと、おそらくは 皇帝によって竣工時期を急がされたであろうがゆえに、工期わずか5年 11か月という突貫工事となり、無理に無理を重ねた大聖堂は、奇跡的に現代まで生き延びては いるものの、苦難の歴史を歩んできたと言ってよい。
 中央ドームは 557年の地震によって崩落し、イシドロスの甥で 同名のイシドロスという建築家 (?) によって5年後に再建された。869年の地震では 西の横断アーチと半ドームに亀裂がはいり、補修したものの、989年の地震でドームの西側3分の1が崩落した。再建は アルメニアの建築家で、かつてのアルメニアの首都 アニの大聖堂を設計した トゥルダトに委嘱され、994年に竣工した。
 1347年にも 地震でドームの東側 3分の1が崩壊、アストラスとジョヴァンニ・ペラルタによって 1354年までに再建された。

E・アントニアデスによる、創建時の 中央ドームの復元断面図
(From the "Hagia Sophia" by Rowland J. Mainstone, 1988)

 この巨大なドームは 何度も崩壊したことがわかるが、E・アントニデスが資料に基づいて推定した、創建時の中央ドームの 復元断面図がある。実に扁平なドームである。33mもの直径をもつ大ドームが、これほどに浅いドームでは、崩壊するのも無理はない と思わせる(エンジニアが設計したというのに、これはどうしたことだろうか)。その後何度も再建されて、現在のような、半円に近いドームとなって(頂部の高さが 約6m高くなった ことになる)、現在は安定しているが、しかし油断はならない。

 聖ソフィア大聖堂が 満身創痍となりながらも 現代まで保存されたことは、大いに喜ばしいことである。危機は 構造的なことばかりではなかった筈だ。建築史の上では、政権や宗教の交代によって 破壊されたモニュメントの例は、枚挙にいとまがないが、この聖堂は コンスタンティノープルが オスマン・トルコ軍によって陥落し、ビザンティン帝国が滅亡した時、オスマン朝のスルタン・メフメト1世は 寛容にも この異教の聖堂を破壊せず、モスクに転換して、アヤ・ソフィア・ジャーミイ の名で保存することとした。
 ずっと後、そのオスマン帝国が滅びて 新生トルコ共和国が成立すると、初代大統領 ケマル・アタチュルク(1881-1938)は 政教分離政策によって、これを宗教から解放し、博物館として保存して、世界中の人々に開放したのだった。その後は文化財として、また観光資源として、修復、保存活動が続けられている。

   
聖ソフィア大聖堂の 内部各部

 さて、この聖堂の構造、特にドーム建築というものについて 詳しく書こうと思っていたのだが、写真を整理、スキャンしながら想を練っているうちに、奇妙なことに気付いたので、予定を変更して、主にそちらのほうを、以下に書いておくことにした。したがって、聖堂細部やモザイクについては、本文がないことをご了解いただきたい。


モスクの キブラ(マッカの方向)

 聖ソフィア大聖堂を訪れた人は 誰でも覚えていることだろうが、一番奥のアプス(キリスト教聖堂の祭壇が置かれる、半円形の至聖所)に、モスクに転用されてから設置された イスラーム教の豪華な ミフラーブがあり、その向きが、キリスト教聖堂としての中心軸と、わずかにずれている。なるほど、これが教会堂とモスクの違いかと、誰もが思ったことだろう。
 まず、ミフラーブとは何か、ということを 拙著『イスラーム建築』(マフィアの圧力によって、どこの出版社も出版拒否をしているのであるが)から引用しておこう。(第 2章「イスラームの礼拝空間」の中の「モスクの構成要素」から)

聖ソフィア大聖堂の アプスに設置されたミフラーブ

● キブラ壁とミフラーブ
 世界中のすべてのムスリムは マッカ(メッカ)のカアバ神殿に向かって礼拝をする。前述したように、この礼拝方向のことを キブラといい、モスクの一番奥のマッカに面する壁を キブラ壁という。したがって モスクの中では、人びとはマッカに向かって というよりは、キブラ壁に向かって 拝礼をすることになる。で、他人の頭越しにでなく、一人でも多くのムスリムが 直接この壁に面することができるように、キブラ壁は できるだけ長く用意される。礼拝室が 奥行きよりも幅広となることの多い、ひとつの理由である。

 モスク建設にあたっては このキブラを正確に定めることが 第一に必要なので、そのことのためにも 天文学や測地学が大いに発展した。しかし、すべてのモスクが 厳密にマッカの方角に向いているかというと、実際には ある程度の幅がある。筆者が不思議に思ったのは 中央アジアのブハラの町で、ここから マッカの方角は南西になるはずなのに、ほとんどのモスクやマドラサが西に向いているのである。ヒヴァの町では 正しくマッカの方向に向いているから、測量技術が未発達だったわけではない。どうやら 地形に合わせた道路のパターンに従わせた結果らしい。カイロの場合には 道路パターンに逆らっても、強引に キブラを守ろうとしていたのと 大きな違いである。

 このキブラ壁がマッカに面していることを示すために、壁の中央部には 必ず壁龕(くぼみ)が設けられ、これを ミフラーブとよぶ。これは マッカの方向を指示するためのサインであって、ミフラーブを備えなければキブラ壁とはいえない。通常は 半円形のプランをしているが、ディヤルバクル のように 多角形をしていることもある。スペインから北アフリカにかけては 八角形の独立した部屋のようになっている こともあるので、キリスト教の内陣のような 至聖所と勘ちがいされやすい。しかし、これは あくまでも「方向指示器」にすぎないのであって、祭壇のたぐいが置かれることは 決してないし、特別な人やイマームのための場所であるわけでもない。筆者のような異教徒が ここに立っても 咎められることはない。 (中略)

 ミフラーブという語の起源は 明らかでないが、ウマイヤ朝の ハリーファ・ワリード1世が 706年に預言者のモスクを改築したときに設けたのが 始まりらしいから、ムハンマドは ミフラーブを知らなかったことになる。通常は一つのモスクに一つのミフラーブがあるのだが、大きなモスクでは 中央に 主ミフラーブ、左右の離れた所に 副ミフラーブを設けることもある。とくにインドでは、キブラ壁の1スパンごとに小ミフラーブを備えて にぎやかである。どこもかも彫刻的にしなければ気のすまない インド人気質のあらわれと言える。

   
聖ソフィア大聖堂の 壁面装飾と柱頭


聖ソフィア大聖堂のアプスの方向

 さて、聖ソフィア大聖堂のアプスでは、モスクに転用してからも、そこにキブラ壁を造ることはせず、単にミフラーブと その周囲のみを 装飾的に作ったパネルを設置しているに過ぎないが、背後の教会堂としての中軸上にある 青いステンドグラス窓との角度の差は、ひと目でわかる。聖堂は エルサレムの方向に向けて建てられ、マッカの方向との ずれの角度は6度であるとか、5度であるとか、インターネットの いくつかのサイトに書いてあるが、おそらく旅行ガイドに そう説明されたのであろう。学問的な記録はないかと探したが、とうとう見つからなかった。しかし、イスタンブルから マッカの方向(キブラ)が何度になるかというのは、今では インターネットで 簡単に調べられる。


ISLAMIC FINDER

 ISLAMIC FINDER という、世界各地からのキブラを 正確に示すサイトによれば、イスタンブルからは、真北から時計まわりに 151.601738 度だという(以下、151.6度で計算することにしよう)。ということは、真南からは 東側に 28.4度ということだ。
 中東の地図の上で、イスタンブルとマッカを結んで 定規で線を引くと、確かにその角度であることがわかる(イスタンブルからは 南南東)。エルサレムとも結んで線を引くと、キブラ方向とのずれは 3度か 4度くらいであるように見えるが、地球の球面を平面の地図に落としているのだから 誤差があるはずで、実際には 5度か 6度であるのかもしれない。
 すると 辻褄があっているように見えるが、では、元々の聖ソフィア大聖堂の正確な向きは何度なのかと調べると、フリーリーと チャクマクによる ”BYZANTINE MONUMENTS OF ISTANBUL" という本に、実測平面図の掲載とともに、聖ソフィア大聖堂の軸線の角度が、真東から南へ 33.4度 だと書かれている(イスタンブルからは 東南東)。どの建築史の本を見ても、それくらいの方位記号のはいった配置図が載せられているから、確かなのだと思う。
 ところが 驚くなかれ、地図の上でイスタンブルからその方向に線を引くと、エルサレムに行くどころか、何と、ほぼ バグダードの方向に行くのである。

 キリスト教の聖堂は 東 に向けて配置する というのが常識で、どんな本にも そう書いてある。しかし、その理由は何なのか ということを 以前 調べた時に、どんな本にも それを見いだすことができなかった。東が 夜明けの方向だからとか、東方三賢王のやって来た方向であるとか、西ヨーロッパから見て エルサレムが東のほうだから、といった説明は、どれも大した根拠にならない。キリスト教の聖堂建築が まず発展したのは、中東であるからだ。日本にキリスト聖堂を建てる時に、東(アメリカの方向)に向けることに、意味があるだろうか?

      
聖ソフィア大聖堂の モザイク装飾

 イスラームの場合は きわめて明快で、世界の どこにあろうと、すべてのモスクは 必ず アラビアのマッカ(メッカ)に向けて配置するのである。同様にして、キリスト教の聖堂が 必ず聖地エルサレムに向けて配置されるのであれば、実に理解しやすいが、そうした聖堂は稀であろう。事実、聖ソフィアは、エルサレムに向いてはいなかった。むしろ、後のアッバース朝イスラーム帝国の首都、バグダードに向いていたのである。
 キリスト教では、一応は 聖堂の向きを 東 としては いるものの、実際の敷地の地形に適合させて 向きを変えることは、何ら違反にならなかったから、ヨーロッパの古都の都市図を見れば、多くの聖堂が あちらこちらを向いて建てられているのが普通である。たまたま バグダードの方向に向いた聖堂があったとしても、何ら不思議ではない。問題は、バグダードの方に向いた聖ソフィア大聖堂の中軸線と ほんの数度だけ ずれた方向に向けて、モスクとしてのミフラーブが アプスに置かれている、という事実である。
 先述のように、イスタンブルからマッカの方向(キブラ) は 真南から東へ 28.4度であり、聖ソフィアの中軸線は 真東から南へ 33.4度であるのだから、イスタンブルからのマッカの方向と 聖ソフィアの軸線の方向との差は、90度−28.4度−33.4度= 28.2度ということになる。わずか 4度とか 6度といった 小さいものではない。 


                 イスタンブルからの方位

つまり、あのミフラーブは、絶対に マッカの方向を示しては いない のである。にもかかわらず、ここを訪れる人は それを見て、ああ、エルサレムの方向とマッカの方向は ずれているのだなと、それだけを納得して終わるのである。
 奇異の念に打たれて、イスタンブルの都市図を調べてみると、ほとんどのモスクが、聖ソフィアより わずかに南にずれた方向、つまり アプスに置かれたミフラーブの方向に向けて 配置されている。すると、イスタンブルの ほとんどのモスクが(ブルー・モスクも スレイマニエも)、本当のキブラ方向とは異なった方向に向けて 配置されていることになる。


オスマン建築のキブラ

 そこで、今回の旅行で見つけた豪華本、オスマン建築を集大成して、700ページ以上にわたってカラー写真と図面を添えた大型の本(重さが 4.2kgもある)、ドーアン・クバン(トルコの 最長老 建築史家)による “OTTOMAN ARCHITECTURE” を調べてみたら、何と、驚いたことに、250点以上も掲載された平面図に、一切 方位記号が 載っていないのである。
 そんな馬鹿な と思って、これも大部の、ギュルル・ネジポール(ハーバード大学教授で、『ムカルナス』の編集長)の “THE AGE OF SINAN” を見たら、驚くべし、このトルコ最大の建築家 シナンの作品の研究書でさえも、すべての図面に方位記号がない。
 さらに、あろうことか、オスマン建築史の古典的名著、ゴドフレイ・グッドウィン(1873-1933)の “A HISTORY OF OTTOMAN ARCHITECTURE” も 同様である。
 私は まったく知らなかったのだが、これは トルコの建築史家の間の 暗黙の行動規範になっているらしい。建築書であるなら、通常は平面図、とりわけ配置図には 方位を示すのが常識(必須)であるのに、トルコの建築史家だけは、それを意図的に、完全に避けているのである。

   この、あまりにも奇妙な習慣に 憶測をめぐらせるとすれば、コンスタンティノープルを陥落させるや、聖ソフィア大聖堂をモスクに転換すると宣言した スルタン・メフメト1世が、イスタンブルからのエルサレムとマッカの方向の わずかな ずれをのみ強調して、ほとんど同じ方向だから、聖堂を改築することなく、最小限の改装だけを施して、そのままモスクとして使用する、と決定したために、誰もスルタンに逆らうことはできず、(聖ソフィアはエルサレムの方向を向いているものとして)数度のずれを示すミフラーブを 聖堂のアプスに設置するだけで済ませた。以後、イスタンブルのモスクは この方向をキブラ方向として配置するのが 慣例になった。

 しかしトルコ共和国となって 近代化が進むにつれて、その作為は露わになったであろうが、といって 今更 すべてのモスクの方向を正して 改築するわけにもいかず、また それを暴くのは 国家の恥をさらすことになる、あるいは 国民を欺いて誤った方向に礼拝させてきたことになるとして、すべての建築史家が そのことを伏せ、といって 嘘をつくわけにもいかず、自著に一切の方位記号をいれず、実際の方位の問題に触れない、ということが 暗黙の行動律になってしまった のではなかろうか?

 こんな夢想でもしない限り、今回降って湧いた 私の疑問に答えるすべは ないように思われる。拙著『イスラーム建築』では(出版されないが)、すべての平面図を マッカ方向を上にして掲載したので、実際の方位は あまり気にしなかったのである。

 ただ、前述の本に小さめに掲載された聖ソフィアの実測平面図に示されている、ミフラーブ前の基壇の線をもとに 無理して測ってみると、聖ソフィアの中軸線との角度のずれは 意外と大きく、17度くらいである。もしそうだとすれば、アプスに置かれたミフラーブと実際のキブラとのずれは、約 11度ということになる。前述の、ウズベキスタンのブハラの町において ほとんどのモスクがキブラ方向(南西)から かなりずれた 西方に向いていることなどを勘案すれば、これは 許容範囲ということになるのかもしれない。オスマン朝の皇帝(スルタン)は ハリーファ(カリフ)を兼ねていたから、そう決定するのは 容易ではあったろう。 

( 2012/11/01 )


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