天文観測所(ジヤンタル・マンタル) |
神谷武夫
サワイ・ジャイ・シング2世がアンベールの藩王の地位についたのは、わずか13歳のときだった。20歳の時に第6代ムガル皇帝のアウラングゼーブが逝去し、その息子たちが王位継承戦争をするが、ジャイ・シングは負け組についたためにムガル朝との関係が悪化した。しかし次々と皇帝が変わり、第12代ムハンマド・シャー(位1719−48)とは友好を結び、33歳でアーグラの太守、35歳でマールワーの太守に任じられた。41歳の時の1727年にはジャイプルに新都市を造ってアンベールから移り、ジャイプル藩王国の王となる。 一方 天文学に打ち込んでいたジャイ・シングは、ムガル皇帝のムハンマド・シャーから 正確な天文表と暦の作成を依頼され、まず デリーに 天文観測所(ジャンタル・マンタル)を造営した。次いで ウジャインとマトゥラー、バナーラス(ヴァーラーナシー)に同様なものを建設し、それらの集大成として、自国のジャイプルに最大規模の造営をした。(マトゥラーのものは全く残っていないが。)観測儀は、日時計、照準儀、星座儀、子午線儀、天体経緯儀などからなるが、その造形には伝統的な形態を用いず、また一切の装飾をせず、純粋な幾何学と曲線だけで構成した。住居や寺院とは全く異なった機能に基づいているので、それらは建物として見ると 我々の意表をつく不思議な造形であり、20世紀の表現派の建築、あるいはロシア構成派の造形を思わせる。さらにはまた、フランス大革命時代の「幻視の建築家」ブレや ルドゥの 空想上の作品を連想させもしよう。
![]() 「ジャンタル・マンタル」というのは、サンスクリット語のヤントラ(Yantra, 器具、器械)とマントラ(Mantra、言葉、呪文)の なまったもので、初め デリーの天文観測所がそう呼ばれ、後にジャイ・シングの他の天文観測所も そう呼ばれるようになった。 暦を制定するというのは、為政者の重要な仕事である。行政のためばかりでなく、宗教的祭儀のためにも、税金の計算・徴収のためにも、国中で通用する暦がなければならない。暦を制定するためには太陽や月の運行、正確な時間の測定、その基準となる地点の設定、などが必要である。もっとも、古代・中世の天文学は 占星術と不可分の関係にあり、多分に宗教的偏見に満ちていて、科学としての天文学はガリレオやケプラー以降の西欧近代の発展を待たねばならなかった。 それでも 古代から 占星術に傾倒する君主は 各地にいて、中には それを建築的スケールで作ろうとした。古代エジプト文明にもあったろうが、今回のインドとは結びつかないものの、古代マヤ文明が天文学を発達させていたことは よく知られ、チチェン・イッツァ(メキシコ)には 天文台と見なされるシンボリックな建物が残っている。
![]() メキシコ、チチェン・イッツァの天文台 10世紀
イスラーム圏では、古くから巨大な観測儀が建設されたらしい。バグダードやイスファハーン、イスタンブルにも建てられたが、特に名高いのは13世紀のマラガ(イラン)の天文台と、15世紀のサマルカンド(ウズベキスタン)の天文台である。当時のイスラーム天文学は ヨーロッパよりもずっと進んでいた。イル・ハーン朝の初代君主 フラグ・ハーンの命で天文学者 ナシール・アッディーン (1201-74) が建設した マラガ天文台には 今では何も残っていないが、ウルグ・ベクのサマルカンド天文台は 地下部分が発掘されて保存され、建物の上部構造も 図面上で推定復原されている。
![]() ![]() サマルカンドのウルグ・ベク天文台 1420
その後まもなく ヨーロッパは ルネサンスをむかえ、天文学は急速に進歩した。イスラーム天文学の伝統に加え、ヨーロッパの資料なども集めて、総合的な天文観測所をインド各地に シリーズのように建設したのが、18世紀のジャイプルの藩王、ジャイ・シング2世である。
ジャイ・シングは 小規模な試作品を閲覧に供したのかもしれないが、ムガル皇帝 ムハンマド・シャーから、デリーに大規模な天文台を作って 天体観測をし、 正確な天文表と暦を作成することを依頼された 。工事は 1719年に始められて 1724年に完成したという。彼はここでの観測値をもとに、『ウルグ・ベクの天体表』を改良して、ジャガンナートと共同で『ムハンマド・シャーの天文表 (Zij Muhammad Shahi) 』を作成して 皇帝に献じた。
![]() 携帯用 アストロラーベ ジャンタル・マンタルで最も重要なのは アストロラーベと呼ばれる 携帯用の器具で、天体観測、経緯度や時間の計算、星座表など、多用途に用いられた。オリジンは古代ギリシアで、9世紀頃に中東で実用化したという。ジャイプルには多数残っていて、ジャイプルの天文観測所内には 鉄製と真鍮製の2基の大型のものが吊られている (Yantra Raj)。実際の主目的は 占星術用だったろう。
建築的な天文観測所で 最も目立つのは、巨大な サムラート・ヤントラである。どこの観測所でも一番大きく 高く、直角三角形をしていて、最大のジャイプルのものは 頂部の高さが 27.5メートルにもなる。その斜辺には階段が設けられていて、それを上ると境内と諸ヤントラ(観測儀)が一望のもとに見渡せる。
![]() ![]()
ジャイプルの天文観測所の、大 サムラート・ヤントラ(赤道儀)平面図
最初に実現したジャンタル・マンタル、デリーの天文観測所は ムガル皇帝のムハンマド・シャーからの依頼だったが、土地は サワイ・ジャイ・シングの所有地だったという。彼がアーグラの太守に任命された 1719年から、1724年にかけて建設された というのが定説だが、多少の不確実性も残る。どのジャンタル・マンタルも、正確な建設年を知るのは困難である。
![]() ![]()
デリーの天文観測所の配置図と、公園として整備された現状
![]() ![]() 大サムラート・ヤントラと、ジャイ・プラカーシュ・ヤントラ ![]() ![]() ジャイ・プラカーシュ・ヤントラと、ラーム・ヤントラ ![]()
ガンジス河に沿うダシャーシュワメード・ガート(階段岸)のすぐ北にマーン・マンディル・ガートがあり、この上にガンジス河を見晴るかす 17世紀初めのマーン・マンディル宮殿がある。これはジャイプル藩王国の離宮で、サワイ・ジャイ・シングの5代前の祖先、ラージャ・マーン・シングによって建てられた。ジャイ・シングはこの屋上に天文観測所を設立したのである。それだけ規模が小さいが、太陽の水平光がさまたげられることなく 受けられたからだという。 ![]()
バナーラスの天文観測所、配置図
![]()
バナーラスの天文観測所、全景図(A・キャンベルによる版画 1773)
![]() ![]() バナーラスの天文観測所(ジャンタル・マンタル)
ウジャインは古代から「インドのグリニッチ」であり、ヒンドゥの天文学者(占星術者)たちは ここに 基準子午線が通ると見なした。3世紀頃の『スーリヤ・シッダーンタ』や、ヴァラーハミヒラによる6世紀の『パンチャ・シッダーンティカー』に、そうした記述がある。ジャイ・シングは そうした伝統的重要性から この町にジャンタル・マンタルを建設したのだと思われるが、その時期は不明で、ジャイ・シングが 1721年にムガル朝のムハンマド・シャー帝からマールワーの太守に任命されて以後ではあろうという。1915年に G・R・ケイが調査した時には観測儀の工事の粗雑さから ひどく荒廃していたようだが、その後 考古局によって丹念に修復・保存された。
![]()
ウジャインの天文観測所、配置図
ジャイ・シング2世は、やはりマーン・シングが16世紀末に建設してあった、マトゥラーのカンス・キラー城塞 Kans Qila Fort の頂部に、5つ目のジャンタル・マンタルを建設した。しかしインド大反乱の少し前に城砦が売却され、建設材料として使うべく ジャンタル・マンタルはすべてが破壊されて、今では跡形もない。イエズス会の宣教師 ティーフェンタラーが書き残したところでは、それはジャイプルのミニチュア版だが、平地のジャイプルと違って山上なので、日出、日没時の水平線上の星々を観測することができたという。
ラージャスターン州の州都であるジャイプルは、18世紀の計画都市であった。アンベールの山城に拠っていた 名門ラージプートのマハーラージャ、サワイ・ジャイ・シング2世 (1686 -1743) は、1727年に アンベールの南 11kmの平地に新都市を築き、自身の名をとってジャイプルと名付けた。新都市は 古文献によるインドの伝統思想と、デリー城などに実現されていたイスラームの 四分庭園的な幾何学構成とを結合して、インド史上 最も注目される都市計画となった。町は約800m角の正方形を9区画並べて、中央部を宮廷地区とした。碁盤目状の道路網からなる整然とした都市は、200年後の近代都市計画を髣髴とさせよう。町を構成する多くの建物がピンク色に塗装されているので、ピンク・シティの異名をとり、現在は南側に新市街が発展し、州都としての活気を呈している。宮廷地区には 宮殿ばかりでなく、大規模な天文観測所(ジャンタル・マンタル)も造営された。
![]() ジャイプルのジャンタル・マンタルは G・R・ケイの本では 1734年頃の建設とされ、それが定説になっているが、G・ティロットソンなどは、都市の建設より約10年早い1718年に建て始めたという。(それだったら、敷地の形状は都市軸ではなく 南北軸になっていただろうから、都市の建設のすぐあとに ジャンタル・マンタルの建設が始まった、と考えるほうが 妥当である。)すべての施設(観測儀)は ジャイ・シング2世の設計になり、石造の観測儀が13基、金属製が3基あって、当初のまま残っている。また 彼が収集した書籍や文書は マハーラージャ・サワイ・マーン・シング2世博物館に保存されている。
ジャイ・シングはヨーロッパ人の批評的意見を聞き 情報も得たいと、ゴアのイエズス会士で天文学にも見識のあった ペドロ・ダ・シルヴァ・レイターオを招いた。ペドロは 1731年にジャイプルを訪れ、ジャンタル・マンタルに感嘆したのか、60年後に没するまで ここに住んだという。1740年にはその仲間も加わったというから、こうした君主のもとでは生活しやすかったのかもしれない。しかしニュートンやケプラー、ガリレオなどは カトリックにとって異端であったから、ジャイ・シングは西洋の先端の科学的天文学の知識は得られなかったことだろう。
![]() ![]() ![]() ジャイプルの天文観測所 全景 ![]()
大 サムラート・ヤントラの立面図 ![]() ![]() ナリ・ヴァラーヤ・ヤントラと、チャクラ・ヤントラ ![]() ![]() ウンナタンシャ・ヤントラと、ラーシ・ヴァラーヤ・ヤントラ ![]() ![]() ジャイ・プラカーシュ・ヤントラと、カパーラ
ジャイ・シングの天文観測所について詳しく知りたい人のために、
THE ASTRONOMICAL OBSERVATORIES OF JAI SINGH
A GUIDE TO THE OLD OBSERVATORIES at Delhi, Jaipur, Ujjain, Benares
COSMIC ARCHITECTURE IN INDIA by Andreas Volwahsen
ところで「ジャイプル」を「ジャイプール」と書いたり 発音したりする人が いますが、(ガイドブックまで)それは誤り。「PUR プル」というのは サンスクリット語からきてヒンディー語にもなっている言葉で、「町」「都市」の意味です。「ウダイプル」や「ジョードプル」「ラーナクプル」をはじめ、インドに「 ――プル」という名の都市が多いのは そのせいで、「プール」では別の意味になってしまいます。『インド建築案内』は、あれだけページ数の多い本なので 多少の間違いも あるでしょうが、基本的に すべての地名に、歴史をふまえた 現地発音に近い カタカナ表記がしてあるので、それに倣ってほしい。 (2018/06/01)
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp
|