VICTORIAN GOTHIC & ART DECO in BOMBAY
ボンベイ(ムンバイ)
クトリアンゴチアールデコ
神谷武夫
ムンバイ
ムンバイ、中インド、マハーラーシュトラ州
2018年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録
”The Victorian and Art Deco Ensemble of Mumbai, UNESCO”

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ボンベイ(ムンバイ)の歴史

 インド最大の都市ムンバイ(市域人口は 2011年の国勢調査で 1,248万)は マハーラーシュトラ州の州都である。マラーティ語を母語とする人々をマラータといい、「マラータの国」という意味のマハーラーシュトラが ここの州名となった。州都ムンバイは 16世紀半ばまでは、中部インドの大西洋に面する 小島の小村にすぎなかったが、ボンベイと呼ばれていた英領時代に大発展し、経済、文化、娯楽の上でインドを代表する大都市となった。私なども長くボンベイの名に親しんできたので、近年の復古主義によって 1995年に再び ムンバイという古名が正式のものとなったが、今でもムンバイよりはボンベイという名の方が先に口をついて出る。今回 ユネスコ世界遺産に登録されたのは ボンベイ時代の遺産なので、この章では 主にボンベイの名を用いることになる。

1800年頃のボンベイ島(版画)

 そもそもは 16世紀、1534年に グジャラート・スルタン朝のスルタン・バハードゥル・シャーから ポルトガルの王 ホアス3世に割譲されたのが始まりである。ポルトガル人は これをボンベイ(良港の意)と呼んだが、あくまでもポルトガル領ゴアの、小さな補助港にすぎなかった。それから100年以上経った1661年に、ポルトガルの王女カタリーナが英国王チャールズ2世に嫁ぐことになり、この閑静な島々をダウリー(持参金)としてイギリスに譲渡したので、17世紀半ば以降は 英国領となった。それを わずかな金額で賃借したイギリスの東インド会社が ここをひとつの貿易拠点にすべく、少しずつ開発していったのである。

 当初、この小さな島々は 北からパレル島、マヒーム島、ウォルリ島、マザガオン島、ボンベイ島、小コラバ島、コラバ島という7つの島から成っていた。町ができるにつれ、埋め立てによって 北側5つの小島がつながって、大きな「ボンベイ島」になった。南端の大小のコラバ島とは橋で結んだ。ボンベイ島の南端部に 東インド会社のフォート(城砦)がつくられ、城壁で囲まれたボンベイ市となる。次第に大都会に成長していくボンベイは、海に面して良港をもつ商業都市で かつ 建物が密集する島や半島から成るという点で、アメリカのニューヨークに似ている。ニューヨークのマンハッタン島に相当するのが ボンベイ島であった。

 ボンベイ・フォートは、かつての植民都市が いずれもそうであったように、東インド会社が 大砲を備えた櫓の立ち並ぶ塁壁で囲んだ 城郭(キャッスル)を ボンベイ島の南端部に築造し、そのまわりに城塞都市(シタデル)を整備していった。1769年にはシタデルの西側を 頑丈な城壁で囲んで守りを固め、城壁の北端に もう一つの城郭を 1862年に建造した。南アジアで植民地争奪の覇権争いをしていたフランス軍の攻撃への備えである。この砦は 当時の英国王ジョージ3世に因んでフォート・ジョージと名付けられた。現在はセント・ジョージ病院が建っていて、その周囲に19世紀の城壁の一部も残っている。

 英領インドの首都であったカルカッタ(現 コルカタ)や 南のマドラス(現 チェンナイ)と同じように、植民都市の標準的な計画として、片側を戦時の守りと海運のために海に面させ、内陸側を堅固な城壁で囲む。城塞周辺はエスプラナード(遊歩道、緑地帯)として 見通しのきくオープン・スペースとし、その向こう側を「ネイティヴ・タウン」つまりインド人の居住地区とする(アフリカの場合にはブラック・タウンと呼ばれる)。このボンベイ・フォートは、今でもボンベイ市の中心の「フォート地区」と呼ばれるエリアで、ロンドンの「シティ地区」に相当する。広さで言えば、ロンドンのシティ地区よりは小さく、東京の皇居地区よりは大きい。今ではボンベイ諸島すべてが埋め立てによって本土と繋がり、その外側の はるかに広いエリアが ボンベイ都市圏となっているが、旅行者が訪れるのは、このフォート地区のみである。

ボンベイ諸島とボンベイ・フォートの地図

 ボンベイが繁栄するのは 19世紀になってからで、インドの拡大した英国領土を カルカッタ管区、マドラス管区と3分割する ボンベイ管区の中枢都市となった。さらに スエズ運河が開通して(1869)英本国との航路の距離が短縮されると、インド亜大陸の東側の カルカッタ、マドラスよりもイギリスに近くて便利であったから、名実ともにヨーロッパからの 「インドの門」となったのである。
 ボンベイが近代都市として大発展する きっかけを作ったのは、1862年から 5年間 ボンベイ管区の知事を務めた ヘンリー・バートル・フレア(Henry Bartle Frere, 1815-84)で、彼は就任した年に、フォートを囲んでいた堅固な塁壁を すべて取り除き、道路を拡幅するとともに できた空地に一連の公共施設を建設することを計画した。そして、首都のカルカッタのコロニアル建築は ギリシア・ローマに範を取る「新古典様式」であったが、フレアは 当時英国で勢いを増していた ゴチック・リバイバルを輸入して、ボンベイの建築様式を 最新のネオ・ゴチックで統一しようと計ったのだった。現代のパリの都市景観を造ったのが セーヌ県知事のオースマンだとすれば、ボンベイの都市景観を造ったのはフレアだと言える。そのために ボンベイは「フレア・タウン」と呼ばれることもあった。

ゴチックリヴァイバル の導入

 英国国教会にゴチック様式を復興させるべく、ロンドンに「英国教会建築協会」が設立されたのは1848年だった。建築家 オーガスタス・ウェルビー・ピュージンらによって定められたゴチック・リバイバルの原則を インドで最初に適用したのが、アフガン戦争の戦没者を慰霊して ボンベイの南端(コラバ島)に建てられた「アフガン記念聖堂」と通称される 聖ジョン聖堂 (Afgan Memorial Church of St John the Baptist) である。建築家で技師でもあったヘンリー・コニベア (Henry Conybeare, 1823-84) はインドで最初のネオ・ゴチックの聖堂を ローコストで、着工から11年かかって1858年に竣工させた。1850年から54年にコニベアがイギリスに帰国していた時には、ジョン・オーガスタス・フラーが工事の監理をし、コニベアの帰国後も続けた。内外ともインド産の石の肌で厳密に造られ、ステンドグラスから祭壇に至るまで 完全なゴチック様式に仕上げられている。58mの高さの鐘楼は 1865年の増築である。

インドにおける最初のゴチック・リバイバル作品、アフガン記念聖堂
19世紀の写真(from "Splendours of the Raj" by Philip Davies, 1985)

  
アフガン記念聖堂 1847-58

 しかし宗教建築はともかく、 この後 新しい公共建築群をネオ・ゴチック様式で建てるという フレアの夢の実現には、はるかに莫大な資金が要る。それを どうするか。折しも アメリカに南北戦争(1861-65)が起り、港は閉鎖され、アメリカの綿花がイギリスに輸出されなくなった。産業革命をしたイギリスは その中心的産業の綿織物のための綿を インドに求めた。インドの玄関口たるボンベイ港と、その後背の 綿花生産企業群は 1960年代の好景気に沸いた。成金たちはボンベイ諸島周辺の埋め立てに投機し、高額納税し、フレアの思い通りのボンベイ市の建設に献金して貢献した。これによってゴチック・リバイバルのフレア・タウンは 実現していったのである。
 その時代のイギリスは 半世紀以上にわたる 長期のヴィクトリア女王の在位期 (1837-1901) で、世界各地の植民地から 富を収奪したイギリスの黄金時代だったので、この建築様式は「ヴィクトリアン・ゴチック」と呼ばれるようになった。ヴィクトリア女王の在世中の 1858年に 東インド会社が終息して、インドは英国政府の直轄植民地となり、英女王が インドの王を兼ねるようになったのである。

 旧市壁を取り壊して公共建物群を計画するにあたって、まず中心に大きなマイダーン(公園広場)をつくった。ペルシアでサファヴィー朝のシャー・アッバース1世が新イスファハーンを造るにあたり、中心にマイダーネ・シャー(王の広場)を造ったのに似ている。ボンベイのは楕円形(というよりは長円形に近い)をしていたので、オーヴァル・マイダーン(楕円広場)と呼ばれた。このマイダーンに面して東側(フォート地区側)に続々とヴィクトリアン・ゴチックの公共建物が建設されていった。北から高等法院、ボンベイ大学図書館とラジャバイ・タワー、講堂、旧市庁舎(セクレタリアート)と建ち並んで壮大な眺めを造った。その後ろ側には 広いエスプラナード大通りに面して エルフィンストン・カレッジをはじめとする ヴィクトリアン・ゴチックの建物が並び、「南国のロンドン」を形成したのである。

現代のムンバイ中心部地図

 オーヴァル・マイダーン(楕円広場)の南には クーパリッジ・マイダーン、北側には クロス・マイダーンと アーザード・マイダーンが造られて連続し、南北2キロにわたる一大グリーンベルトを形成した。ニューヨークのセントラル・パークにあたる。このグリーンベルトがボンベイを東西に二分し、東側のフォート地区は19世紀のヴィクトリアン・ゴチックの旧市街、西側はマリン・ドライブに面する20世紀のモダーンな新市街になる。今回のユネスコ世界遺産リストへの登録は、この両者を合わせてムンバイの近現代都市遺産として評価、保存しようとするものであった。

 インドにおいて ヴィクトリアン・ゴチックの立役者となったのが、英国におけるゴチック・リバイバルの代表的建築家である ジョージ・ギルバート・スコット (George Gilbert Scott, 1811-78)だった。彼はインドには来住しなかったが、オーヴァル・マイダーンに面してボンベイ大学の評議員会館(講堂 Univercity Convocation Hall)と 大学図書館、時計塔(University Library and Rajabai Clocktower)を、完璧なゴチック様式で設計し、以後のボンベイにおけるヴィクトリアン・ゴチックの手本となった。

ムンバイ  
ラジャバイ・タワー 1869-78

  ムンバイ
ムンバイ大学図書館内部と 講堂

ボンベイ大学(現・ムンバイ大学)は1857年に設立され、その10年後に評議員会館(講堂)と大学図書館が着工され、前者は1874年に、後者は1878年に竣工した。13世紀フランス・ゴチック風の前者とヴェネツィア・ゴチック風の後者のアンサンブルは、スコットの傑作に数えられている。図書館にはラジャバイ・タワーと呼ばれる 高さが 85mの時計塔が付属し、19世紀のボンベイの町のシンボルとなった。その下部が図書館への入口になっている。白大理石によるトレーサリーや小塔の装飾は密度高く、大学にとって 最も格調の高いランドマークである。図書館の内部は2階に 高い天井の閲覧室が広がり、ステンドグラスの窓が並ぶ室内デザインも 秀逸である。

ヴィクトリアンゴチックの フォート地区

 楕円広場に面する公共建築で 最も早く建てられたのは 大規模な旧庁舎(セクレタリアート)で、H・B・フレアが計画し、ヘンリー・セント・クレア・ウィルキンス (Henry St Clair Wilkins, 1828-96) が設計した。ボンベイのモニュメントとなるような規模とデザインを と注文されて、ウィルキンスは ヴェネチア・ゴチック様式の 全長 143m、中央塔の高さ 50mの堂々たる建物で それに応え、1867年に着工して 78年に完成した。

  
旧セクレタリアート 1867-74 と、ボンベイ高等法院 1871-78

 高等法院(ハイコート)も 楕円広場に面するヴィクトリアン・ゴチックの作品で、設計は、上述のアフガン記念聖堂の工事監理をした建築家の ジェイムズ・オーガスタス・フラー (John Augustus Fuller, 1845-1920) であった。フラーは やはり20歳でインドに渡り、自身の設計をするばかりでなく、大学図書館をはじめとして多くの建物の工事監理をした。ハイ・コートは、陸軍大佐でもあったフラーの 50歳のときの作品で、スコットやスティーヴンスに比べると 古拙で重々しい印象がある。これは セクレタリアートよりもさらに大きく、全長が 170mもある。

  
エルフィンストン・カレッジ 1890

 フォート地区にはヴィクトリアン・ゴチックの建物が多く残っていて、2階建てのバスも走っているので、まさに「南国のロンドン」、それも 19世紀のロンドンである。これほどに多く残っているのは、ひとつには 独立後のインドが 経済的に長く停滞したからで、経済発展をした日本では 19世紀の「様式建築」は ほとんどが取り壊され、建て直されてしまった。
 エルフィンストン・カレッジは、ボンベイ知事の マウントスチュアート・エルフィンストン (Mountstuart Elphinstone) の尽力で 1856年に設立された高等教育機関で、ムンバイ大学で 最も古い建物の一つである。当初は市役所に間借りしていたが、資金を集めて ジエイムズ・トラブショウ (James Trubshaw) の設計によって 1888年にボンベイ・ゴチックの建物を建てた。尖頭アーチよりは半円形アーチが多用されているので、ロマネスク様式からゴチックへの 移行期のスタイルと言える。

  
チャトラパティ・シヴァージー駅舎 1878-87 と 行政庁舎 1893

 インドに最初の鉄道を開通させた「大インド半島鉄道会社」の本部オフィスを ボンベイ終着駅と複合させた大規模ビルが ヴィクトリア・ターミナス(現・チャトラパティ・シヴァージー)駅舎である。一見すると、これは駅舎というよりは カテドラルのような外観をしているが、これこそ ヘンリー・バートル・フレアが抱いた建築的理想であり、それを設計したのが 建築家の フレデリック・ウィリアム・スティーヴンス(Frederic William Stevens, 1848-1900)であった。
 19歳で インド省・建設局(PWD)の試験に合格して インドに渡ったスティーヴンスは ボンベイに定着し、数々の重要な施設を設計することになるので、建築家としての彼の名は ボンベイと切っても切れないものとなる。 VT駅舎は それまでのインドのコロニアル建築で 最大規模で、1870年に着工して 1887年に竣工した。VT駅舎ビルの威容は絶賛を浴び、一躍 スティーヴンスの名を コロニアル・インドを代表する建築家として高からしめた。

 スティーヴンスは また VT駅の真向かいに ボンベイ市の行政庁舎を設計した。この行政庁舎によって、ヴィクトリアン・ゴチックのボンベイの町が完成したとも言えるが、しかし 彼も時代の趨勢には逆らえず、ゴチック様式で生涯を貫くことはできなかった。行政庁舎には 中央塔をはじめとして、いくつもの球根形のドーム屋根を載せて、インド・サラセン様式との折衷を図ったのである。
 ボンベイにおけるゴチック・リバイバルは、1900年のフレデリック・W・スティーヴンスの死と、翌年のヴィクトリア女王の死とともに 終焉を迎えるのである。

オリエンタル・ビル

 英領時代に発展した4大都市(マドラス、カルカッタ、ボンベイ、ニューデリー)の主要な建物は、ほとんどが英人建築家によって設計された コロニアル建築である。それらは西洋による インドの支配と搾取の象徴であったから、インド民衆にとって「負の遺産」と見なされる面もあったが、しかし独立から半世紀以上をへて、今や それらは歴史的遺産として保存の対象となっている。



● フレデリック・W・スティーヴンス と ヴィクトリア・ターミナス駅舎(VT駅舎)については、重複する部分もあるが、次節の「チャトラパティ・シヴァージー駅舎」の章で詳述している。



● ところで、私が「ゴシック」と書かずに「ゴチック」と書くことを不思議に思っている人もいるかもしれない。そのわけを、かつて『古書の愉しみ』の第16回「英国建築様式を判別する試み 」のところで書いたので、それを再録しておく。

 私がいつも「ゴシック建築」と書かずに「ゴチック建築」と書くことに 違和感をお持ちの方も いることと思いますので、ここで説明しておきます。ゴチック建築は、12世紀の終わりに フランスの、パリを中心とする「イル・ド・フランス地方」に生まれました。パリの北の町、今ではパリ郊外となっている「サン・ドニの修道院聖堂」の改築において始まったものです。
 この様式が 13世紀に 北フランスからフランス全域に広まり、さらには ヨーロッパ全体に伝播してゆきました。つまり、「ゴチック様式」というのは フランス起源であり、フランスで発展したものです。これをフランス語では GOTHIQUE と綴り、これが英語に入って GOTHIC となりました。
 フランス語の THI は TI と同じで、「チ」と発音します。英語では奇妙な発音をしますが、これを日本語では さらに奇妙に「シ」と表記し、そう発音するようになりました。 多少なりとも フランス語をかじった者にとって、GOTHIQUE(ゴチック) を「ゴシック」などと 言ったり書いたりする気には、とても なれないのです。





アールデコ(ボンベイデコ)の遺産

新インド保険会社ビル
ムンバイの新インド保険会社ビル

 インド独立直前の 1930年代に モダニズムの波がインドに到来し始め、ボンベイに「アール・デコ」のデザインが もたらされた。19世紀のヴィクトリアン・ゴチックに対するに、歴史上の様式に基づいた建築と打って変わった自由なデザインの商業建築が、新興インドの建築家によって建てられ、そこには新しい彫刻や装飾工芸が伴った。代表作として 新インド保険会社ビル (1937)と、 エロス映画館 (1938) がある。

 ムンバイのフォート地区には ゴチック・リヴァイバルの建物がつらなり、19世紀の旧市街を見せているのに対して、その西側の 楕円広場(オーヴァル・マイダーン)を含む南北に伸びるグリーン・ベルトの向こう側は、バック・ベイのマリン・ドライブまで 新市街地として開発されて、碁盤目状の整然とした市街が モダニズムの白い中層建物で埋められていった。その多くは 20世紀前半の建物群で、主にオフィス、アパート、ホテルの建物が、アール・デコの建築である。公共と商業ゾーンのフォート地区に対して、その後背地としての 住居ゾーンと言ってもよい。都市化が急速に進行するにつれて 急増する人口増加の吸収地でもあった。次第に高層建物も建設されるようになったが、今でも 大半は、老朽化してきた中層建物である。これらが面する長大な海岸線は きれいな曲線を描き、インドの他の地では見られない スピード感のある幾何学曲線の「マリーン・ドライブ」を形作っている。
 ここには アメリカのマイアミビーチ市に次いで アールデコの建物が多いと言われ、「ボンベイ・デコ」とも称されるが、マイアミビーチほどカラフルではなく、それほど「デコラチフ」でもないので、いわゆる「インターナショナル・スタイル」の近代建築と 見分けがつきにくい。

  
ムンバイのマリーン・ドライブと、スーナ・マハル

 そもそも アールデコ とは、フランス語の「アール・デコラチフ Art Decoratif」(装飾美術の意)の略であるが、1925年にパリで開かれた美術展、「現代の装飾・産業美術 国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Modernes) に基づいている。それは 1915年に開かれる予定だったものが 世界大戦によって延期され、10年後に実現した展覧会である。遅れた代わりに大規模なものになり、パリのグラン・パレをはじめとする いくつかの会場で半年間も開かれ、1,600万人もが訪れたという。展示はフランス人のものだけでなく 外国館も建てられた国際的なものであったが、何よりもその内容が 普通の美術展でなく、「装飾美術」に特化した展覧会であったことに特色がある。したがって建築的にはそれほど鮮明な傾向を示してはいない(若き ル・コルビュジエが「エスプリ・ヌヴォ館」を出品してはいたが)。しかし この展覧会の作品群と、それに追随する美術傾向が、のちに「アールデコ」と呼ばれるようになったのである。

 装飾美術や工芸美術においても、「アール・ヌヴォ以後」の新しい美術を目ざしていたにしても、出品者たちが 初めから 何らかの協定を結んでいたわけではないし、それぞれの作家には それぞれの個性があるのだから、なかなか全体像はつかみにくく、定義しにくい。見る人、論じる人によって「アールデコ」の内容は様々であった。大雑把に言えば、パリに発する両大戦間の 1920年代と30年代の欧米(を中心とする)新しい装飾美術の傾向、ということである。

  
ムンバイの新インド保険会社ビル

 世界で最も有名なアールデコ建築作品といえば、ウィリアム・ヴァン・アレン (William Van Alen, 1882-1954)という建築家が設計した ニューヨークの摩天楼、クライスラー・ビル (Chrysler Building, 1928-30) になるが、もっと小規模でも アールデコの建物が 世界で一番多く見られるのは、やはりアメリカの マイアミビーチであり、それらは ずいぶんとカラフルである。端正なデザインを求める建築家には、キッチュに見えるかもしれない。その末裔は「ポスト・モダン」を標榜したアメリカの建築家、マイケル・グレイブスの作品群であろう。

 日本における唯一のアールデコ作品は「東京都庭園美術館」に保存されている 「朝香宮邸」で、1933年の竣工である。朝香宮はパリ留学中に 1925年の美術展を見てアールデコに惚れ込み、帰国後に その新しい傾向を徹底的に盛り込んだ自邸を、金に飽かせて建てた。
 朝香宮邸では、アールデコの 建築、インテリア、工芸が ひととおり見られる。しかし この 建物の外観が「アールデコ」だと言われても、あまりピンとこないだろう。モダニズム建築の「単なる白い箱」に見えてしまうかもしれない。しかし中に入ると、インテリアや建築装飾の工芸細部は、なるほど これがアールデコか と思わせるもので満ちている。フランスから直輸入した ルネ・ラリック(René Lalique)のガラス工芸などもあるし、インテリア・デザインは フランスの アンリ・ラパン(Henri Rapin)が行っている。

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東京都庭園美術館の、朝香宮邸(美術館のホームページより)

 一般的に アールデコの装飾は、少なくとも 古典古代(ギリシア、ローマ)に範を求めないこと、アール・ヌヴォの曲線や植物紋には頼らないこと、逆にジグザグ形と流線形、直線と平滑面と動き(スピード感)、工業生産品のイメージ、第三世界の造形物からの借用、等々が かなり共通に見られる。

 挿絵本の世界では、「古書の愉しみ」で何度か紹介した ジョルジュ・バルビエが アールデコを代表する挿絵画家で、彼の評伝のタイトルは、『ジョルジュ・バルビエ、アール・デコの誕生』(GEORGE BARBIER, The Birth of Art Deco, 2008, Marsilio)である。私が所蔵する彼の挿絵本『逃避行』の革製本の背表紙は、アールデコというよりも「アール・ヌヴォ」に近いようだ。

    
バルビエの『逃避行』の背表紙と、『二重の愛人』の挿絵

 ムンバイのフォート地区の建築では、ヴィクトリアン・ゴチックが 主に公共建築で行われたのに対して、アールデコは 商業建築で栄えた。特に、当時隆盛を迎えつつあった映画館は、現在もなお、いくつも残っている。それを代表するのは、エロス映画館である。

  
ムンバイのエロス映画館と、リバティ映画館

 このほかにも、リバティ映画館や リーガル映画館、ニュー・エンパイア映画館、メトロ映画館などがある。新しい娯楽の館としての映画館は、最新流行のアールデコ・デザインに うってつけの建物種別だったのだろう。それは 世界的傾向であった(アメリカ映画『マジェスティック』には よく表現されている)。

 一方、映画館ほど くっきりとした形にはならないが、白い、初期近代建築としてのアールデコのアパートやホテルが、マリーン・ドライブ海岸沿いに多く建てられた。もともとは バック・ウォーターであったが、埋め立てによる市域の拡大とともに きれいなカーブの海岸線を作って ボンベイの新しい顔となり、そこにアールデコの新しい建物が並んで、アメリカの「マイアミ・デコ」に次ぐ、多くの「ボンベイ・デコ」の街並みとなったのである。が、鮮明にアール・デコ様式を示すと思えるものは、あまり多くない。ボンベイのアール・デコは 急速に失われつつある という危機感から、ユネスコ世界遺産への登録申請が行われたのであろう。

 アールデコのインテリアとして、ムンバイでは適当なものが撮影できなかったので、参考として、ムンバイに遠からぬ ワンカーネルとモルヴィの新宮殿(20世紀)の例を掲げておこう。

(参考)ワンカーネルの宮殿別館

 最後に、ムンバイ郊外に 興味深い建物があるので 紹介しよう。「バーラティーヤ・ヴィディヤー・バワン」という、20世紀のヒンドゥ・リバイバル風の教育・文化施設だが 寺院ではない。ここには内外にアールデコの意匠がほどこされている。コロニアル建築ではなく、ヒンドゥ建築の近代化をはかった建物だが、ちょうどアール・デコの隆盛時に重なったので、ボンベイ・デコと ヒンドゥ寺院様式の結合という 珍しい建物になった。これを「デコ・サラセニック」と呼ぶ人もいるが、サラセニックではない。

バーラティーヤ・ヴィディヤー・バワン

( 2019 /09/ 01 )



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