UNESCO WORLD HERITAGE
ARCHITECTURAL WORK of LE CORBUSIER in
CHANDIGARH
TAKEO KAMIYA
Chandigarh
The capital of Punjab and Haryana
Inscribed on the UNESCO World Heritage List in 2016
as the "Architectural Work of Le Corbusier,
an Outstanding Contribution to the Modern Movement"

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REGISTRATION to the UNESCO WORLD HERITAGE LIST

There occured a novel case in the UNESCO's World Heritage Site that a plural works of a single architect was registerd together as one case. Its title is "The Architectural Work of Le Corbusier, an Outstanding Contribution to the Modern Movemen". It includes 17 sites through 7 countries as mentioned below:

France 1. Maison La Roche-Janneret
   " 2. Cité Frugès, Pessac
   " 3. Villa Savoye, Poissy, Paris
   " 4. Immeuble à la porte Molitor
   " 5. Unité d'Habitation, Marseille
   " 6. Usine Claude et Duval, Saint-Dié
   " 7. Notre Dame du Haut Chapel, Ronchamp
   " 8. Cabanon de Le Corbusier, Cap-Martin
   " 9. Couvent Sainte-Marie de la Tourette
   " 10. Maison de la Culture, Firminy
Swiss 11. Petite maison au bord du lac Léman
   " 12. Immeuble Clarté, Geneva
Germany 13. Weissenhof-Siedlung Estate
Belgium 14. Maison Guiette, Antwerp
Argentine 15. Maison Curutchet, La Plata
India 16. Capitol Complex, Chandigarh
Japan 17. National Museum of Western Art, Tokyo

  
Villa Savoye and the Chapel at Ronchamp

 これらの作品名称を見て、ただちにそれら全部をイメージできるという人はめったにいないだろうが、こういう登録のしかたがあり得るとなると、「ライトの建築作品」とか「ロダンの彫刻作品」あるいは「広重の浮世絵作品」というような一括登録申請も出てくるかもしれない。
 そもそもは フランスが、Le Corbusieer (1887-1965) の作品をUNESCO 世界遺産に登録申請する際に(2004年に、 Le Corbusier 財団を中心とする委員会が作られた)、フランス国内にある Le Corbusier の代表作だけでなく、彼の作品の多様性あるいは発展を示すために数をふやし、さらに彼の作品がある他の国々にも共同申請を呼びかけたことが、このように多数の国にまたがることになった端緒である。日本はそれに応じて、2007年に国立西洋美術館をもって参加した。India には Chandigarh と Ahmadabad に Le Corbusier の作品群があるが、詳しいことは不明であるが Chandigarh のみを彼の「公共建築」として参加することにしたものの、何度目かの変更申請時に参加国から降りてしまった。近代都市の保存の体制ができていなかったからではないかとも言われている。しかしその後 紆余曲折があって、インドは 2014年に再び Chandigarh で参加することとなり、最終的に7か国の、上記17の構成資産として、2016年に登録された。

 本サイトは「インドのユネスコ世界遺産」なので Chandigarh のみを扱うのであるが、登録名は「 Le Corbusier の都市設計と建築」ではなく「 Le Corbusier の建築作品、近代建築運動への顕著な貢献」ということなので、あくまでも建築作品に焦点を当てる。しかし、Chandigarh にある建物のどこまでが範囲なのか(Captol Complex のみなのか、市内の建物まで含めるのか、小品は除外するのか)あいまいである。このページでは市内の作品はもちろん、 Le Corbusier 以外の建築家の作品まで含めて、Chandigarh の都市と建築についての概要を紹介したいと思う。

  
Books on Chandigarh


"LE CORBUSIER" as the pseudonym

  Le Corbusier という名前は あまねく知られていて、建築以外の一般の人でも「近代建築の巨匠」の一人として、つとにその名前を耳にしているだろうし、近くの図書館に行けば、彼自身の著作や 彼について書かれた本を何冊も目にするだろう。彼に関する本は、日本だけでも膨大な数が出版されているのである。 Le Corbusier については 実にたやすく知ることができるので、ここでは伝記的なことは省略して、私の撮影してきた Chandigarh の写真を主として、彼の年代順作品集からの図面を借用しながら Chandigarhをヴィジュアルに紹介するのであるが、ひとつ気になっていたことを書いておく。

  
Picasso, Le Corbusier, Nehru

  Le Corbusier というのはペン・ネームであって、本名は Charles Edouard Jeanneret だということは学生時代から知っていたが、なぜ Le Corbusier などという名前をペン・ネームにしたのか、不思議に思っていた。というのは、"Le" というのは定冠詞であって、英語の "The" に相当する。英語で、人名に The がつくということは まずない。フランス語でもそうである。昔 フランス語を教えていた日本人で、建築のことはよく知らなかった教授が、Le Corbusier という名前を本で見て建築家だとは思わず、建設会社の名前だろうと思ったという。
 個人名にしばしば冠詞をつけるのはアラビア語で、例えば Ayyubid dynasty の創始者で、十字軍を敗退させたことでヨーロッパ人にも Saladin の名で知られる Al-Malik al-Nasir Salah al-Din には、"Al" という定冠詞が3つも付いている。特に歴史的に有名な人物には定冠詞がつくことが多いようで、一般名詞に定冠詞がついて固有名詞になると象徴的になるから らしい。   Le Corbusier 財団の委員長だった Jean Jenger によれば、 Le Corbusier の母方の祖先に、Belgium 地方に住んでいた Le Corbezier という人がいたので、そこから Le Corbusier というペンネームを作ったという。先祖は多かったろうから、その中から 冠詞のついたル・コルベジエを選んだのは、やはり象徴的効果を狙ったのだろうか。調べてみると、昔 フランスの Brittany 地方には、姓に定冠詞のつく人が多かったらしく、現在 定冠詞のつく姓のほとんどは 先祖が Brittany 出身なのだという。今回のユネスコ世界遺産の構成遺産の最初に名のある「ラ・ロッシュ邸」のオーナーで、 Le Corbusier のパトロンでもあった La Roche 氏も、先祖はブルターニュ人だったのかもしれない Roche(Rock)は女性名詞なので、定冠詞も女性形の "La" である)。ベルギーも Brittany から遠からずと言えるから、関係がありそうである。( Corbusier は語尾が e ではないので男性名詞とみなされて、定冠詞も男性形の "Le" となる)。
 思うに、Charles Edouard Jeanneretが 33歳の頃に 定冠詞のついたペン・ネームをまとったのは、岡倉覚三がその雅号に「天心」という、いかにも偉そうな名(漱石や鴎外よりも はるかに)を選んだのと 同類ではあるまいか。 Le Corbusier というのは、単にペン・ネームの一つというよりは、まさに「雅号」である。今では どちらも、平凡な本名で呼ばれることがない。

PLANNIN of the NEW CITY, CHANDIGARH

  
Master plan by Albert Mayer & an early plan by Le Corbusier

 インドがイギリスから独立したのは、今からちょうど 70年前の 1947年である。その際 パキスタンと分離独立したために、北方のパンジャーブ地方はインド側のパンジャーブ州と パキスタン側のパンジャーブ州に二分されてしまった。かつてのムガル朝の首都でもあった中心都市の Lahole は パキスタン側に編入されてしまい、インド側に残された主要都市は Amritsar、Jullundar、Lidhiana、Ambala の四つであった。しかし いずれも州都にするには、パキスタン国境に近すぎる その他の欠点があったので、新しい土地に新しい都市を造る案が浮上した。インド共和国 初代の首相 Jawaharlal Nehruは 新しい州都を建設することに決定し、翌年 委員会の調査に基づいて、入手可能な土地を選定した。そこにはいくつかの村があり、ヒンドゥ教のチャンディー寺院があったことから、新しい都市は Chandigarh と名づけられた。

 Nehruは「この都市を、過去の手枷足枷をはらいのけて自由になったインドを象徴するような、新しい都市にしようではないか」と人々に呼びかけた。ケンブリッジ大学に留学した Nehru には、Ebenezer Howardの田園都市構想が心にあったようだが、英領時代のインドには イギリス人によるコロニアル建築が建てられてきたせいか(その代表は Edwin Lutyens のニューデリーだった)、過去を清算すべき新州都の都市計画は、アメリカの建築家で都市計画家の Albert Mayer (1897-1981) に委ねた。そして植民地時代のインドには建築学校がなく、インド人の建築家は あまりいなかったから、主要な施設のデザインは、Mayer の友人のClarence Steinの推薦で Matthew Nowicki (1910-50) が担当して、Mayerと協働することになる。

 Albert Mayer はコロンビア大学と MIT で学び、Lewis Mumford やHenry Wrightと共に20世紀初めのアメリカの住宅計画に力を尽くし、イスラエルで都市計画のコンサルタントもした。 Nowicki は Poland の建築家で、第2次大戦後、首都ワルシャワの復興計画に参画した。将来を嘱望された建築家で、アメリカの North Carolina州立大学でも教えていて、30代の終わりで Chandigarh のチーフ・アーキテクトに抜擢されたのだった。
 Nehru首相の知己を得ていた Mayer は、1949年末にパンジャーブ州政府からチャンディーガルの都市計画の依頼を正式に受けた。彼は当時 50代初めで、一つの新都市を計画できる またとないチャンスに意欲的に取りくみ、5ヵ月後にはマスタープランを提出した。ところが Nowicki が その夏にインドからアメリカに帰る途次、飛行機の事故によって わずか 40歳の若さで突然世を去ってしまう。信頼する有能なパートナーを失ったメイヤーは意気阻喪してしまい、その計画を続けられずに 中断してしまったのである。( 後に Mayer はNehruの依頼で、首都デリーの都市整備計画に協力している。)

  
Early Plan by Le Corbusier & later Map

  急転直下、パンジャーブ州政府のチャンディーガル委員会はその年の11月に、新しい建築家さがしにヨーロッパに旅立った。そうやって選ばれたのが、当時のモダニズムの旗手、数々の都市計画案を提案していた(しかし一つも実現しなかった)フランスの Le Corbusier である。候補だった Auguste Perret は Le Havre 市の再建(2005年にユネスコ世界遺産に登録)のためにフランスを離れられず、French Minister of Resconstruction and Urbanization の Claudius Petitクロディウス・プチが Le Corbusier を推薦したという(最初に Le Corbusier の名をサジェストしたのは Maxwell Fry 夫妻であった)。
 しかし Le Corbusier はすでに 63歳、給料の安さもあって インド政府が求めた3年間のインド駐在には応じず、そのために3人の協働者が選ばれた。1人は Le Corbusier の従弟の Pierre Jeanneret (1896-1967) 、あとの2人は知人の英国人建築家夫妻 Edwin Maxwell Fry (1899-1987) と Jane Beverly Drew (1911-1996) である。

 Pierre Jeanneret はスイス人で、同じくスイス生まれの(後にフランスに帰化した) Le Corbusier が生地 La Chaux-de-Fondsの美術学校を出たように、Genevaの美術学校を卒業して建築家になった。従兄の Le Corbusier より9歳年下だが、かつて 17年間 設計のパートナーを務めてパリで共同事務所を運営したので、 Le Corbusier の年代順作品集全8巻のうち、第4巻の途中までは2人の連名の作品集 になっている。前述のように Le Corbusierの本名は Charles Edouard Jeanneretといって、Pierre と同じ姓である。Charles Edouard が Le Corbusier というペン・ネームを用いたのは、Pierre との同姓による混同を避ける意味もあったかもしれない。
  Maxwell Fry は、Pierre Jeanneret よりさらに3歳若く、イギリスの近代建築運動を担った一人なので、CIAM (International Congress of Modern Architecture) (近代建築国際会議)を通じて Le Corbusier と親交があった。彼もまた建築、都市計画、絵画、詩と、多彩な活動をし、妻の Drew と共にアフリカにおける都市計画もしていた。

ARCHITECTURAL FACILITIES in CHANDIGARH

  Le Corbusier は Mayer の原案を受け継ぎながら種々修正して、自身の都市計画思想を盛り込んだ。往々にして、 Le Corbusier がまったく独自の都市設計をしたと思われがちだが、実際は(時間的制約もあったろうが)都市構成の骨子はほとんどMayer のプランを受け継いでいる。都市を格子状の街区(セクター)群に分け、 緑地帯(グリーンベルト)で貫くという構成もそうだし、商業、工業、行政の各センターの位置もメイヤー案そのままである。一番大きな変更は都市の行政、立法、司法をになう Capitol Complex を 都市の頂部の位置で、都市の顔となるように よりモニュメンタルにしたことだろう。この年、 Le Corbusier は人体寸法に基づく建築的数値体系について書いた『モデュロール』を出版しているから、都市をも人体のように見たのかもしれない。後に Jane Drew はこの都市を人体になぞらえ、 Capitol Complex を「頭」、シティ・センターを「心臓」、工業センターを「腕」、大学地区を「脳」などと呼んだ。

 都市のブロック群は北東端の Capitol Complex の置かれたところを第1セクターとして、ここから南西に向かって順に番号がつけられた。この第1セクターの南東側には、チャンディーガル計画に最初から関わっていたパンジャーブ州のチーフ・エンジニア、P.L. Varmaの尽力によって、北東の山から流れ落ちる Sukhna River をせき止めることによって、 Sukhna Lake という 大きな人造湖がつくられた。これが都市の大きな 潤いになっている。

Chandigarh   
Capitol Complex and its plan

  Le Corbusier の意欲は、市街の計画よりもむしろ、モニュメンタルな Capitol Complex の建物群を設計することにあったようだ。Matthew Nowicki は多少のアイデア・スケッチを残しているが、設計するまでには至らなかったので、 Le Corbusier は自由に設計できた。州政府が初めから予定していた建物は 政庁舎、議会棟、高等裁判所の3点だった。彼はそれらの設計をするとともに、州知事公邸やその庭園、さらに「オープン・ハンド(開いた手)」などの小モニュメント群も提案し設計した。それらの多くは実現していない。
 その中で 州知事の庭園というのは何だろうと思う人が多いだろう。これは Capitol Complex の配置図に描き込まれているだけで、具体的なスケッチは 何も残されていない。これは Edwin Lutyens が ニューデリー計画において、the Viceroy's House (now Rashtrapati Bhvan)、Versailles 宮殿より大きい)の背後に、the governer-general of India (Viceroy)のための広大なムガル庭園を設計したことに倣ったのであろう。そこには 市民は たまにしか入場できないが、なかなかの出来の 近代的なムガル庭園(四分庭園)になっている。これに対抗しようとしたように見える Le Corbusier の庭園デザインが もしも実現していたら、彼の作品群の中でも珍しいジャンルの、興味深いものであったろう。もっとも その面積が ニューデリーのムガル庭園の2倍近くもあるから、州知事のためにしては あまりにスケール・アウトであって、パンジャーブ州政府が これを無視したのも無理はないが。


The Mughal Garden by Lutyens, New Delhi
  (From "Imperial Delhi", by Andreas Volwahsen, 2002)

 3人の協働者(Jeanneret 、Fry、Drew)は 1951年から現場に事務所を構え、工事の監理をするとともに、Fryは 54年まで、ドルーは 56年まで、そして Jeanneret は 病気療養のために帰国する65年まで(14年間も!)Chandigarhに住んで、他の施設の設計・監理を行った(ジャンヌレが帰国の2年後に没すると、彼の遺灰はチャンディーガルに運ばれ、インドの習慣に倣って スクナ湖に散布された)。
 現地ではインドの若い建築家たちを集めてChandigarh設計チームをつくり、詳細設計や監理をすることによって、インドの建築家の教育の役割も果たした。もちろん Le Corbusier は毎年チャンディーガルに行って1ヵ月あまり滞在し、デザインや工事のチェックをし、設計チームの相談に乗った。これと、 Le Corbusier の弟子である Balkrishna Doshi (1927- ) の Ahmadabad での教育と仕事によって、インドの近現代建築は 日本と並んで、 Le Corbusier ・スタイルが主流となったのである。

 Pierre Jeanneret と Maxwell Fry, Beverly Drew の3人が設計した 90あまりの建物群は、チャンディーガル建築学校 助教授(当時)の Kiran Joshi 女史によって大きな本にまとめられた。 Le Corbusier の作品だけでなく、Chandigarhの都市設計と近代建築を深く知ろうとする人には 必須の本である。

"Documenting Chandigarh" vol.1

  Le Corbusier の Chandigarh計画については、彼の年代順作品集の第5巻から第8巻までに詳しく掲載されていて、その発展のあとを たどることができる。さらに、この新都市の計画と展開の歴史については、"CHANDIGARH, The Making of an Indian City" Ravi Kalia, 1987 に、実に詳しく書かれている。

EVALUATION of its CITY PLANNING

 都市の人口は当初 15万人、最終的に 50万人という想定で計画されたが、後に南西側に拡張されて セクターが更に2列ふやされ、現在は 75万人ほどが住んでいる。これらの住区計画と 共同住宅や学校、その他の日常用途の施設設計が、現地に駐在した3人の建築家の 最も重要な課題だった。 Le Corbusier は 1965年に没し、他の3人もすでに世を去り、建設以来 50年を経過した新都市は、今や 20世紀の代表的な都市設計として、歴史的な保存の対象となりつつある。

ここで『インド建築案内』(1996、TOTO出版)から、Chandigarh の都市についての記述を再録しておこう。

 都市全体は碁盤目状に47の「セクター」に分け、その頭ともいうべき部分に「キャピタル・コンプレクス」として中央官衙街を置く。ここから緑地公園が南へ延びて都市を貫き、中ほどの第17セクターが商業地区となる。その整然とした全体計画は、広い道路、ゆったりした施設配置とあいまって、〈ガーデン・シティ〉の理念に貫かれた理想都市と考えられ、この町は世界の近代建築家のバイブルと見なされたのだった。

 事実 Chandigarh は新生インドの若々しい力の象徴となり、世界の最先端を行くこの町を、人々は誇りにした。この町は観光名所となり、州庁舎のエレベータ前には、屋上庭園に行く人が長蛇の列をなした。ところがその後、パンジャーブ州をめぐる政治情勢が厳しくなり、建物への出入りは自由でなくなった。そればかりではない。ガイドブックには、この町が「モダニズムの都市計画の失敗作」とさえ書かれるようになったのである。小さなスケールでさまざまな要素が渾然とした インドの伝統的な都市とは あまりに異質であり、また現状の社会レベルとも乖離が大きく、町は閑散として生気に乏しい。その一方、町の南側には大きなスラムが、密度高く、自然発生的な成長をしてきたのである。インドの階層性の現実を、この町ほどによく示す所はないだろう。

 Chandigarh の都市計画には批判があるが、Le Corbusier の建築はインドの感覚とうまく合っていたと思われる。大きな庇、 Brise-soleils (日除け)、立体的な造形、これらはインド建築の伝統と矛盾しないし、Capitol Complex の各建物は、内部空間とあわせて十分に魅力的である。後に建てられた美術館は、アフマダーバードの美術館と東京の国立西洋美術館のプランと形式を踏襲した〈成長する美術館〉である。大学や商業地区の建物は、Pierre Jeanneret が設計した。

 これを書いたのは 今から 20年以上前のことで、失敗作と書いた「ガイドブック」というのはロンリー・プラネットのことである。「現状の社会レベルとも乖離が大きい」というのは、例えば車を主とする交通・道路計画がなされているのに、実際は 車など ほとんど走っていず、誰もが自転車に乗っていたし、それさえない人は 炎天下の広く長い道路を延々と歩かねばならなかった、というようなことを指している。言ってみれば、成熟したヨーロッパではなく「遅れたロシアで 最初に社会主義革命が起きたゆえに 失敗に帰した」の同類である。もちろん その後の 20数年でインドは大きく変ったので、今ではそれほどの乖離はないのだが、そうした評価が定着しているために、今回のユネスコ世界遺産の候補となった時も、 Le Corbusier の「都市計画」としては評価されず、「建築作品」として登録されたのである。

THE CAPITOL COMPLEX

  
Capitol complex

 都市の一番北の第1セクターには ” Capitol Complex ” がある。「北」と書いたが、チャンディーガルの碁盤目状の道路パターンは南北軸から約45度ふれているから(当然、ほとんどの建物も そうなる)、第1セクターは都市の北東である。これは Albert Mayer がここの地形を考察して、都市軸を「南ー北」ではなく、ほぼ「北東―南西」に設定したのを、 Le Corbusier が受けついだためである。しかし本に載せる場合には、通常の地図のように「上を北」にすると うまくページに納まらないので、 Le Corbusier の年代順作品集を始めとして、すべての本が道路パターンを本のページと平行にレイアウトするので、読者は無意識に「上が北」と思いこんでしまうのである。
 キャピトルとは何かというと、古代のローマの都が七つの丘に囲まれていて、一番高いカピトリーノ(カンピドリオ)の丘に重要な神殿群が建っていたことと、ルネサンス時代には そこにミケランジェロが 有名なカンピドリオ広場を設計し、この正面のセナトリオ宮殿が 現在の市庁舎で、ここがローマの中心となっている。そこから英語や仏語では国や州の政治の中心地や議事堂をカピトールやキャピトルと呼ぶようになった。最も名高いのはワシントンD.C.の米国国会議事堂で、その一帯がキャピトル・ヒルである。
  Le Corbusier はChandigarh計画において、都市の頭部の「中央官衙街」をカピトールと呼んだが、彼の前にAlbert Mayer と Matthew Nowicki が Capitol Complex と呼んでいたのを踏襲したらしい( Edwin Lutyens はニューデリーの中央官衙街(インド総督官邸を含む)のある ライシナの丘を、そうは呼ばなかった)。もっとも、これらの建物群を我々は 便宜上 "Capitol Complex" と呼んでいるが、Le Corbusier 自身はこの地区を単に Capitol あるいは "Le Parc du Capitol" と呼んでいた。

 この第1セクターには住区はないので、これらの建物は平原のような広大なエリアにポツン、ポツンと 遠く離れて建っている。こうした「中央官衙街」というのは、ブラジリアと Chandigarh のような近代の計画都市だけであろう。ただ、それらの建物を彫刻作品と見立てた野外建築博物館と思えば、 Le Corbusier の建物はいずれも彫刻的で立体感に富み、諸所に配した水面とともに、魅力的な公園である。
 とはいえ、私が初めて訪れた 今から 40年前は 世界各地の紛争が一段落し、テロ事件もあまりない、つかの間の平和な時期だったので、この中央官衙街も牧歌的で、のんびりと歩き回ることができたが、その後インドではアムリトサルやカシュミールの紛争などが起き、主要3施設の構内は それぞれフェンスで囲われ、立ち入り禁止や撮影禁止の場所が多くなった。そして樹木も成長したので、かつてのように建物群を見渡せる度合いも小さくなった。中心となるのは “Secretariat Building ”(行政庁舎)、“Parliament Building ”(議会棟)、“ High Court ”(高等裁判所)の3つで、それ に小さな “日陰の塔” や “開いた手のモニュメント” などがある。マスター・プランのところに書いたように、州知事公邸は基礎工事だけで中断してしまったので、見ることができない。

SECRETARIAT BUILDING

  
The Secretariat Building and its roof garden

 現地に行かずに Le Corbusier の本の写真だけ見ていると、高等裁判所や議会棟の大胆な彫刻的造形に比べて、政庁舎は板状のオフィスビルなので、あまり重要ではないと思われやすい。ところが現地に行くと、その存在感に圧倒されて、むしろ他の2者よりも偉大に見えてくる。なにしろ高さ 35メートルの建物の全長が 250メートルもあり、しかもファサード全体を均一のパターンにしてしまう 世の中一般のオフィスビルとくらべて、はるかに立体感と陰影に富んだ、ダイナミックで彫刻的なコンクリートによる造形をしている。そのことは Unité d'Habitation にも言えるだろう。彼は根本的に造形美術家であった。
 もちろん、ファサードの大部分は Brise-soleils (日除け)であって、Chandigarh の暑熱の気候をコントロールするという機能をもっているわけだが、工業化された国からの旅行者が見れば、このコンクリートのファサードは あまりにも重たすぎると感じられることだろう。これに比べると、この 20年前にAntonin Raymond が南インドのポンディシェリーに設計した Shri Aurobindo Ashram Dormitory では、はるかに軽々と、アスベスト(今では使えないが)による可動の Brise-soleils が実現していた。

 ここの屋上は、 Le Corbusier の「近代建築の5原則」の中の第2番「屋上庭園」の、細長くはあるが、Unité d'Habitation におけるのと並ぶ実現である。「屋上庭園」というより「空中庭園」と呼んだほうがよいかもしれない。前述のように 40年前の つかの間の平和な時代には、インド人観光客が列をなして政庁舎のエレベータに乗り込み、展望台の役割をはたす この屋上庭園で感嘆の声をあげていたものだが、建物への入場が制限されるようになってからは、かつてのにぎわいが嘘のように ひっそりとしている。しかしここに登ると、キャピトル・コンプレックスの構成がすべて見渡せる。

PARLIAMENT BUILDING

 私の学生時代には Chandigarh はフランス語読みのシャンディガールと呼ばれ、近代建築のバイブルのように言われたものだった。それまでの様式主義の建築と 美観主義の都市計画に対して CIAM(近代建築国際会議)が主張した、国際様式の建築と 機能主義の都市計画の理論と方法は ヨーロッパには実践の場がなく、新都市として大規模に実現したのは インドの Chandigarh とブラジルの新首都ブラジリアのみであった。したがって当時の建築家たちがそこに見たのは、様式主義との「闘い」を勝ち抜いた モダニズムの都市と建築の建設現場なのであって、インドの風土や建築伝統との関わり方の当否 ということではなかったのである。いわば、ここは モダニズムの「勝利の都」なのであった。

 さて 政庁舎の東にあるのが議会棟である。これも 100メートル角の大規模な建物である。その外観上一番の特徴をなすのは、高等裁判所側に 建物本体とは独立した巨大なコンクリートの、庇のような傘のような、一種の日除け、雨よけ用の構造物である。年代順作品集第6巻を見ると、計画初期にはずっと薄くて柱の数も少なかったのが、高等裁判所やロンシャンの聖堂の設計と工事が進むうちに次第にエスカレートして、巨大な独立屋根になっていったらしい。この時期、 Le Corbusier は 何よりもモニュメンタルな彫刻のような建築作品をつくることに全力をあげていた。この「まくれ上がったコンクリートの庇」は、日本の建築家たちにも影響を与えた。前川国男の、初めは控えめな京都会館のものから、東京文化会館の非常に大きなものへと発展していく。

  
The Parliament Building and its interior

 しかし本来、屋根の庇というのは 雨を早く遠くへ追いやるのが目的なのであって、「まくれ上がった」形では 逆に雨を呼び込んでしまうし、コンクリートの表面は大いに汚れる。近代建築家が標榜した機能主義と芸術表現とは、しばしば矛盾し始めたのである。

 もう一つの特徴は、列柱式の大ホールの中に、円形プランで双曲放物面(ハイパボリック・パラボロイド)の壁をもった議場を嵌め込み、上半分を屋根の上に突出させ、その最上部を斜めに切断して採光面としたことだった。マシュー・ Nowicki のドーム型の議場よりは ずっと進んでいたと言える。これは所員だった(作曲家で数学者でもあった)ヤニス・クセナキスの貢献であったかもしれない。このコンクリートのシェル構造は 壁厚が 平均わずか 15cmであり、非常にローコストであると、年代順作品集で自賛している。

  
The Great Portal and one of its painted panels

内部は、議会の会期中でなければ 内部を案内してもらって、幻想的な大ロビーや、双曲放物面の独特な形態の議場を見ることができるが、内部は撮影禁止である。

SMALL MONUMENTS

  Le Corbusier は議会棟の東に、細長い一種の公園を構想した。その一番山側に州知事公邸が建つはずだった。一番市街側には幾何学的な丘があり、両者の中間に「日陰の塔」と「殉教者のモニュメント」が、彼の没後につくられた。これら全体の計画意図は、なかなか理解しがたい。
 「日陰の塔」は 北面がオープンで、他の3面がブリーズ・ソレイユで囲まれている、半戸外のジャングル・ジムのようなコンクリートの建物、というか工作物である。広大な「カピトール公園」のなかで、歩行者に日陰を提供する休息所と思われるが、その外形は あまり魅力的ではない。

  
The Tower of Shadow and Martyrs' Memorial

 "Martyrs' Memorial" というのは、広場から斜路が、直角の螺旋状に、何もない 小さなサンクン・ガーデンに降りていくだけで、モニュメントという感じは薄い。正方形のサンクン・ガーデンの中央に、彫刻でもほしいところである。"Martyrs" というのが 誰のことなのかも不明で、私などは、かつてパンジャーブ地方の独立運動をして、アムリトサルの黄金寺院でインド政府(インディラ・ガンジー首相)の軍と銃撃戦をして死んだ人たちを想いうかべてしまうが、そんな人たちの慰霊碑が州政府のカピトール公園に作られるはずもなかろう。
 ただ Le Corbusier は ラ・ロッシュ邸以来、よほど斜路(ランプ)が好きだった。彼の多くの建物(特にインド)に斜路があり、空間的にも造形的にも重要な役割を果たしている。

 この東方には、 Le Corbusier ・ファンにお馴染みの Open Hand がある。年代順作品集を見ると、彼は初めから「開いた手」をChandigarhのシンボルにしようとしていたらしく、多くのスケッチを残している。しかしオープン・ハンドの意味について、彼は明確には語っていない。ただ ある時パリで 自然に心に浮かんできて、長いことそのイメージを培養しつつ、いくつもの絵や彫刻にしてきたという。Chandigarhには その最大のものが、 Le Corbusier の没後20年に インドの建築家の発案で、世界から寄付を募って 1986年に建設された。
 私が奇妙に思っているのは、日本で出版されたほとんどの本が この「ラ・マン・ウヴェルト(La Main Ouverte)」を「開かれた手」と訳していることである。 Le Corbusier が想い描いたのは、他人によって開かれた手ではなく、何かをつかんだり、意思表示したり、握手したり、行動を起こしたりしたりするために、自分で「開いた手」のはずだ。私はいつも「開いた手」と訳している。

 さて、『インド建築案内』(1996、TOTO出版)の英語版が 2003年にインドで出版された時、そのプレス・リリースに招かれて インド各地で講演会をした。特に Chandigarh・パンジャーブ支部では歓迎されて、表彰状や 、Chandigarh 支部のシンボルともなっている「開いた手」を縮小した楯、それにパンジャープ州政府が かつて出版した Le Corbusier の本 を贈られた。

         
The "Open Hand" Monument and a commendation plaque


HIGH COURT

  Capitol Complex の最後に控えるのが高等裁判所であるが、実際にはこれが一番早く設計され 建設されて、1956年に完成した。造形的には、Chandigarh の中で Le Corbusier が最も気にいっていたらしい建物である。ロンシャンの聖堂をも思わせるのは、同じ時期の設計であって、アフリカの自由な形のモスクにインスピレーションをえた聖堂の彫刻的表現が、両者の設計過程で相乗作用をおこしたのではなかろうか。
 最も目立つのは、暑熱の気候に対処するための大屋根(傘)をかけたことである。こうすれば室内への太陽熱の侵入をくい止めるというわけだが、はたしてどれだけ費用対効果があったのかは定かでない。

 初期のスタディでは 屋根の連続アーチと関連づけて、前面のファサードにも小アーチを並べていたが、最終的には他の建物と同じようにブリーズ・ソレイユとした。前面の池に姿を映しているところは、まるで古典建築を見ているようである。何よりも、端部を一直線とした「浮き屋根」が、深い陰影を作って、大きな造形的効果を生んでいる。私には タージ・マハル廟の二重殻ドームが 思い出されてならないが、 こうした「彫刻的建築」が、インドの建築伝統(特にヒンドゥ建築)に連続しているとは言えよう。

Evening sight of the High Court

 政庁舎と同じように このファサードも、単にブリーズ・ソレイユを全面にっわたって均一に並べるのでなく、非対称に区切って、その間に3本の独立柱を立てているのが効いている。その背後にはオープンな「斜路室」があり、変化にとんだ半外部空間を見せている。斜路を上り下りするにつれてこの半外部のロビー空間を 中空から体験し、遠く議会棟や政庁舎まで眺められる。

  Capitol Complex の建物はいずれも、基本的に内外とも打ち放しコンクリート(ベトン・ブリュット)の建物である。法廷においては、音の反響が大きすぎて裁判進行の妨げになる。そこで Le Corbusier は各法廷用にタペストリーを制作して壁にかけ、吸音性を高めた。すべて Le Corbusier の原画によって、1955年から56年にかけてカシュミールの工房で織られた。その総量は 650平方メートルに及ぶ。ただ それらの絵に、議会棟の大扉ほどの密度と迫力がないのは、エナメル焼き付けと織物との違いによる、制作上の制約からくるのかもしれない。もっとも 法廷には、あまり華々しいタペストリーは目ざわりかもしれない。議会棟のロビーにも多くのタベストリーが吊られている。

  
Rear side of the High Court and its Lobby

 この大規模なビルには 大法廷(といっても12m×15m程度)が1室と、小法廷が8室あるに過ぎない。後にこの東側に法廷群のビルが建てられて連結した。 Le Corbusier の原案に基づいているらしいが、全く異質のデザインに見える。

ROCK GRADEN and LAKE CLUB

 上述のように、コンクリートのまくれ上がった庇や アーチ列の上の屋根のように 多少の曲線はあるものの、基本的には 全ての建物が直角による幾何学でできていて、それは Chandigarh の都市計画と同様である。そうした幾何学的環境に耐えきれない人たちもいる。それを代表するように、 Le Corbusier の機能的で幾何学的な都市へのカウンター・バランスとして1976年に登場したのが、自由奔放な彫刻庭園の『ロック・ガーデン』である。
 作者のネック・チャンド(1924-2015)は本業の彫刻家ではなく、市の道路視察官であったが、都市の廃材を集めては順次 彫刻を進めていったという点で、フランスの郵便配達夫シュヴァルの『理想宮殿』や、アメリカの『サムの塔』と似ているが、それらよりはるかに広いエリアを開拓した。これらの彫刻は、もともとの起伏に富んだ岩質の地形を損なうことなく、穴を彫ったり基壇を作ったりして建築的な操作を積み重ね、驚きに満ちたシークエンスを演出している。

  
The Rock Garden and Lake Club

 第1セクターをさらに少し南東へ足をのばすと、人造湖のスクナ湖に面して Le Corbusier による小規模な Lake Club という名のヨット・クラブの建物がある。 Le Corbusier が亡くなるっ前年の1964年に建てられた。中庭を囲んでコンクリートのフレームが整然と立ち並び、自由な形のレストランがくみこまれている。今は増築されて、規模が大きくなった。

BUILDINGS in OTHER SECTERS

 市内では第 10セクターに文化施設群がある。ここには Le Corbusier による「美術学校」、「市立美術館」と「展示パビリオン」、そして シヴダット・シャルマによる「生活進化の博物館」 が道路に沿って一列に並んでいる。市立美術館は、アフマダーバードの「サンスカル・ケンドラ美術館」、東京の「国立西洋美術館」と三部作をなす「成長する美術館」のコンセプトで設計されていて、内部空間の雰囲気もよく似ている。

  
The Government Museum and Exhibition Pavilion

 Chandigarhは近代芸術の都市であるという考えから、フランスのエコール・デ・ボザールにならって、大学とは別個に 美術学校と建築学校が早くに建設された。両者は Le Corbusier によってほとんど同じデザインがなされているが、建築学校はここから離れてパンジャーブ大学のキャンパス内にある。

  
The College of Art and College of Architecture

 この文化ゾーンの はす向かいの Secter 17 が “シティ・センター” で、都心のマーケット(ショッピング・センター)が広がり、その南側が バス・ターミナルである。マーケットの建物は 全て 同じ打ち放しコンクリートの円柱とバルコニーが続いていて、いささか退屈である。ここにはもう少し華やかな建物が必要だったろう。

  
The Central State Library and Market area

 たとえば、南隣りの第 22セクターの中央部には、マックスウェル・フライが設計した映画館 「シネマ・キラン」があり、シンプルでありながら魅力的な近代建築として、地区のシンボルとなっている。


Cinema Kiran designed by Maxwell Fry

 都市の西端が パンジャーブ大学のキャンパスで、インドでは デリー大学などと並んで、レベルの高い大学になっている。建築学校は その第 12セクターにあり、第 14セクターにはピエール・ジャンヌレの 「ガンディー・バワン」(マハトマ・ガンディー記念館)や B・P・マトゥールの「学生会館」、そして第 11セクターのマックスウェル・フライによる 「カレッジ・フォー・メン」 その他多くのカレッジが建ち並んでいる。
 一番目を引くのは ガンディー・バワンで、規模は小さいものの、自由な造形が池に姿を映して 静謐なたたずまいを演出している。この隣りには大学美術館があり、その横が ピエール・ジャンヌレによる美術学部の建物である。

  
The Student Centre and Gandhi Bhawan of Panjab University

 Chandigarhの建設がほぼ完成した 1965年頃には、モダニズムに対する批判が 若い世代から起こりつつあり、その画一性や退屈さ、伝統との隔絶などが 批判の組上に乗せられた。そうした動きに「ポスト・モダニズム」という名が与えられるのは だいぶ先のことであるが、たしかにChandigarhは、かつてのポルトガルによる植民都市 ゴアと同様、伝統と切り離された 非インド的都市であると言えるだろう。しかしこの都市を計画した側も受容した側も「インド的な都市」の実現を求めたわけではないし、また日本ではインドの建築や都市の伝統への知識などなかったから、Chandigarhに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、 あくまでも「モダニズム」に対するそれなのであった。

SQUATTERS outside the PLANNED CITY

 最後に、インドの都市の現実を知るには、デリーからの幹線道路が 市内に入る手前の両側に広がる スクワッターにも目を向けて欲しい。これらは、計画都市内には住めない低所得層の人々が不法占拠して 廃材で建てた住居群である。リキシャ・ワラーも、家族とともに ここに住んでいることだろう。 市内の緑園都市にゆったりと配された住居群に住むのは、官僚や富裕層の市民である。 こうした住環境の激しいギャップは、単にChandigarhの行政の問題ではなく、インド全体が かかえる問題で、それが ここに最も鮮明な形で現れている。

  
Squatters spread in the suburbs of Chandigarh

 市内の住民は、世界の最先端を行く都市に住んでいるという、かつての自慢げな意識ほどではないにせよ、今でもこの町を誇りにしているが、市外のスクワッターに住む低所得の人たちは、それとは別の疎外感をもっていることだろう。ヨーロッパにおける都市計画の方法を そのままインドに適用した Le Corbusier が、"Architecture for the Poor" を標榜した エジプトの建築家、Hassan Fathy のような存在でなかったことだけは確かである。


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© Takeo Kamiya
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