ENGLISH EDITION
「インド建築案内」 の英語版

神谷武夫


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出版のいきさつ

 『インド建築案内』は筆者の 20年にわたるインド建築調査・撮影旅行と、インド建築関係の世界中の書籍の収集をもとにして作った本です。 およそ建築の研究というのは、どこに、どのような建物があり、それらはどの時代に どのような宗教や権力のもとに建てられたのか、という基礎的な資料の整備から始まります。それなくしては建築の比較研究ということができず、ある地域の建築の特性を知ることもできません。そして建築が造形芸術の一分野であるからには、正確な写真資料というものが何よりも必要とされます。

 インドの建築は 19世紀の英人建築史家 ジェイムズ・ファーガソンや 植民地政府の ASI(考古調査局)以来連綿と続けられ、膨大な出版がなされてきました。ところが、それらは時代や宗教、地理、建築種別などの限定つきのものがほとんどで、インド建築をトータルに一覧できる基礎資料集成といった本が 意外にも出版されていなかったのです。

 そこで私は、たった一人の仕事としての限界を感じながらも、できるかぎりインド建築の全体を 資料集としてまとめたいと考えました。本来は A4版 全3巻ぐらいで出版したかったのですが、バブルのはじけた日本ではそれは無理な話となりました。そんな時 TOTO出版が ガイドブックの体裁でなら出版できますよと、声をかけてくれました。
 TOTO出版は大企業 TOTO(東陶機器)のメセナ的活動をする一小部門であって、独立採算ではないので、普通の商業出版社よりは はるかに恵まれた環境で、手のかかる本を安い定価で出版できます。こうして、カラー写真が 1,800枚もはいり、570ページもある『インド建築案内』が、わずか 2,800円という定価で実現しました。そして内容は、ガイドブックを超えた インド建築資料集成となったのです。


アショカ・ホテルの前に立てられたプレス・リリースの大看板

 インドのゴアで活動をする中堅建築家、ジェラード・ダ・クンナ氏は その独自の作風で世に知られていますが、3年前(2000年)に日本に招かれて建築の会議に出席した折に、写真家の淺川敏さんから『インド建築案内』をプレゼントされました。重たい荷物が増えてしまって少々厄介な気もしながら、帰りの飛行機の中でこの本をパラパラと見始めて、驚愕したといいます。これこそ、いまだインド人の誰もがなし得ず、しかしインドの建築家と建築学生、そして一般の建築愛好者が最も必要としている本だ、と直感しました。インドに帰国後、つてを求めて本の一部を英訳してもらったところ、その記述の正確さから、ますますその確信を深め、その翌年来日した時に筆者の事務所を訪ねて来られ、是非この本の英語版をインドで出版したいと申し出られたのです。

 正直のところ私は、この本の英語版はたとえばイギリスのテムズ・アンド・ハドソン社とか、アメリカのエイブラムズ社のような出版社から出したいと考えていましたから、インドで これだけの高度な印刷と製本の本は むずかしいのではないかと危惧しました。しかしクンナ氏の情熱はたいへんに強く、それから2年間というもの、幾多の困難にもめげずに インドで英語版を出版することに邁進しました。その間 紆余曲折をへたものの、最終的に TOTO出版と大日本印刷の協力もあり、日本語版に劣らない印刷レベルで(インドでは稀有なことです)、ついに出版にこぎつけました。

 いよいよこの夏に発行ということになった時、クンナ氏はインド政府の文化・観光省(ASI などもここに属している)を訪れ、大臣に日本語版を見せながら 英語版の出版の話をしました。大臣はたいへん感銘を受け、この出版はインドの文化と観光に寄与するところきわめて大であるとして、そのプレス・リリースを文化・観光省の手で行うことを決定しました。


ラーシュトラパティ・バワン

 首都デリーにおけるプレス・リリースは 2003年9月3日に アショカ・ホテルのバンケット・ルームで行うことになり、私は文化・観光省から招待される形で8月 31日から9月 13日までインドに滞在しました。 その内、最初の4泊がアショカ・ホテルで、往復の旅費と滞在費はすべて文化・観光省もちです。9月1日には、かつて銀座のインド政府観光局長をされていたラージクマール氏が、デリーで私の訪ねたいところ(今回はもっぱらコロニアル建築でしたが)を案内してくれました。


カラーム大統領への英語版の贈呈

 翌2日にはクンナ氏や出版の援助者ジンダル夫妻などと共に、ニューデリーの中枢地、ラーシュトラパティ・バワン(大統領官邸)でインド共和国 大統領に謁見し、英語版の贈呈をしました。インドでは政治の実権は首相がもっていますので、大統領は国の象徴のような存在ですが、やはり選挙で選ばれます。現在のアブドゥル・カラーム大統領はイスラム教徒なので、インドの宗教的和合の象徴ともなっています。

 この大統領官邸がニューデリーの中枢地、ライシナの丘に 行政庁舎を従えて聳えたっているのは、ニューデリーが英領時代の産物であるからです。 当時はロンドンに住む英国王がインド皇帝を兼ねていて、インド総督がインドにおけるその代理人(副王)であったので、その官邸、つまり「王宮」がインド独立後に大統領官邸となったからです(首相官邸がどこにあるのか、私はいまだに知りません)。その大統領官邸 およびニューデリーの都市設計をしたのが イギリスの建築家、エドウィン・ラチェンズです(フランク・ロイド・ライトと同年齢で、伊東忠太よりは2歳下になります)。

 この官邸は普段、遠く離れた塀の外からしか見ることができないので、内部に足を踏み入れたのは初めてのことでした。そこでカラーム大統領と歓談していた時に、この建物の撮影許可をお願いしたところ、快く OKの返事をいただきました。そこで9月4日の午前に再びラーシュトラパティ・バワンに行き、厳重な警戒のもとで、内部の主要な広間と、背後のムガル庭園(やはりラチェンズの設計)とを撮影してくることができました。邸内の中庭にはラチェンズの胸像が立っていたのが 印象的でした。


ラチェンズの胸像のかたわらで


プレス・リリース

   9月3日の夕方から アショカ・ホテルのバンケット・ホールで、招待客と報道陣を迎えて プレス・リリースが行われました。式はジャグモハン文化・観光大臣が 本をオープンして、日本の林大使に贈るという形をとりました。大臣がこの英語版の出版の意義についてスピーチをされたあと、インド建築家協会々長の建築家、バルヴィール・ヴェルマー氏より私に 表彰状と楯が贈られました。表彰状には、「インド3千年にわたる建築の発展を 精彩に記録した著書『インド建築案内』を通して成し遂げた、建築のプロフェッションへの誠実な献身と 多大な貢献を称えて、これを顕彰する」とあります。


インド建築家協会より授与された表彰楯

 このあと、私は「インド建築の特質」と題する スライド・レクチュアをしました。これは世界の建築を 彫刻的建築、皮膜的建築、骨組的建築 という 3つのカテゴリーに分類し、その共存と葛藤の変遷を歴史的にたどることによってインド建築の特質を述べ、それらすべてが一つに統合されたラーナクプルのジャイナ寺院を、インド建築の最も優れた作品であるとする 持論を展開したものです。このレクチュアはその後各地で行いましたが、初めて耳にするインド建築論として、インドの建築家たちに新鮮な印象を与えたらしく、いつも賛辞とともに握手を求められました。

 こうして、単なる1冊の本の出版という枠を超えて、建築を通じた 日本とインドとの大きな文化交流となり、よくぞこういう本を作ってくれたと、インドの人々から感謝の声を多くいただきました。インドの新聞や雑誌、放送はいずれも熱心に報道してくれ、毎日のようにインタビューを受けました。 手元にあるのはその一部ですが、ここにはインドの代表的な新聞 ”THE HINDU” ともう一誌の記事だけ掲げておきます。インタビューではしばしば、このプロジェクトの資金はどこから受けたのかと尋ねられ、どこからも受けず すべて自費でと答えると、誰もが驚きました。

   
インドの代表的な新聞 "THE HINDU" と、チャンディーガルの新聞の記事

 翌日からはインド建築家協会の各支部の招待という形で、チャンディーガル、ジャイプル、アフマダーバード、チェンナイ(マドラス)、バンガロール、ゴアとまわって、各地の州知事や文化大臣、新聞社主などを招いて本のプレス・リリースを行い、私のスライド・レクチュアをするというのを繰り返しました。昼は各地の建築大学でのレクチュアなども頼まれましたが、持っていったスライドは一つのストーリーだけなので、毎日同じことをしゃべるのに少々飽きもしました。

 チャンディーガルは今もって、建築家にとっては ル・コルビュジエの都市なので、インド建築家協会の チャンディーガル・パンジャーブ支部から贈られた置物は コルの「開いた手のモニュメント」をあしらったものであり、長老建築家のシャルマ氏からは コルの「モデュロール」をプリントしたタイルをいただき、さらに新建築を案内してくれたプランナーのグプタさんからは コルの古い本 "Town-Planning of the Three Human Establishment" (1979, パンジャーブ州政府発行) という珍しい本をいただきました。

 最後はムンバイ(ボンベイ)ですが、これは英語版出版への最大の援助者である ジンダル・ファウンデーションの主催によって、タージ・マハル・ホテルの宴会場で盛大に行われました。インド建築家協会々長も再度出席してくれましたが、最大の賓客はインド建築界の大御所、バルクリシュナ・ドーシ氏です。彼は ル・コルビュジエの弟子で、インドに近代建築を根付かせた最大の功労者、日本でいえば 前川国男氏に相当しますが、前川さんよりはずっと若く、今もばりばりの現役です。実はアフマダーバードでは彼の家に招かれて 親しく話をしてあったので、この日のドーシ氏のスピーチは、形式的なものではなく、実に好意的で誠意あふれるものでした。


バルクリシュナ・ド-シ氏の自宅にて


本のできばえ

   その本自体はというと、大日本印刷の複版フィルムがそのまま使えたことと、決して日本語版に引けをとらない本を作ろうというクンナ氏の決意によって、印刷は十分に美しいものになりました。インドではきわめて珍しい薄い紙で、アート紙を使っているので、発色は英語版の方がよいかもしれません。表紙カバーのデザインも日本語版を尊重して作られていますが、背表紙のデザインが やや奇妙だったので、すぐに直すことになりました。

 一番の問題は、翻訳です。私はほんの数ページをファックスで送ってもらっていただけなので、全体を見たのはインドに行ってからでした。 そして読み始めると、誤訳やミスプリントが かなりの数に上ることがわかりました。 翻訳をしたのはギータ・パラメーシュワラムさんという才気煥発の女性で、日本に 10年間住んだことがあり、達者に日本語を話します。しかし建築を専門としているわけではないので、どうしても誤訳がでてきます。 それを専門的立場からチェックし、問いただし、時にはリライトする監修者が必要なわけですが、結局それが不在になっていました。そこで急遽、名のある建築史家をドーシ氏に紹介してもらい、すべての翻訳を再チェックして、修正してもらうことになりました。

 日本は明治以来、欧米の重要な書物をすべて日本語に翻訳するという、世界にもまれな翻訳文化を築いてきましたが、インドでは英語が なかば国語のようになっているので、翻訳文化が育っていません。翻訳というのは、単に文章を外国語に置き換えるだけでなく、その内容をすべてにわたってチェックし、訳文には推敲に推敲を重ねるものだということが 十分には理解されていないようです。まして日本語の本をインドで翻訳出版するというのは、まことに稀な事態であるわけです。

 そういうわけで、一応英語版が出版され、盛大にプレス・リリースもされましたが、本当の評価に耐える訂正版が出るのは、数ヶ月先ということになりました。しかし、クンナ氏は完璧なものを作りたいという情熱を持ちつづけていますので、必ずや立派な本ができるものと期待しています。

( 2003/ 09/ 20 )

インド建築家協会、チャンディーガル・パンジャーブ支部から贈られた置物
( ル・コルビュジエの「開いた手のモニュメント」をかたどっている )


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