石窟寺院といえば、まずアジャンターやエローラーをはじめとするインドの石窟寺院群を思い浮かべるのが通例である。 中国の敦煌や雲岡などは インドから仏教とともにその技法が伝えられたもので、インドほどに建築的ではないが、より多くの壁画や天井画が描かれていることに特色がある。 パキスタンにはあまりないが、アフガニスタンにはバーミヤーンなど、ドームやラテルネンデッケによる 西方的な天井が彫られていることが興味深い。
インドの石窟寺院は 彫刻もさることながら、整然と並ぶ柱や梁など、高度に建築的な形式が整っていることで 世界に比類がない。 古代に主流であった木造建築は ほとんど失われてしまったにもかかわらず、彫刻された 堅固な岩山 という物質性のゆえに、今も デカン高原を中心として 約 1,200もの古代の石窟が現存している。 その内、約 75パーセントが仏教に属していて、当時平地に建っていた 木造の僧院や礼拝堂の写しとしての姿を 今に伝えているとされてきた。
ヒンドゥ教の寺院というのは基本的に神を祀る 「神殿」 であるが、仏教窟は出家僧たちの住む実用的な 「ヴィハーラ」 窟と、ストゥーパを祀る礼拝堂としての 「チャイティヤ」 窟との組み合わせからなる。 これは平地に建っていた木造やレンガ造の僧坊とチャイティヤ堂の形式をそのまま踏襲したものであるが、平地の木造寺院は発掘された土台から平面形はわかるものの、上部構造がどのようなものであったのかは明らかでない。 したがって石窟寺院に刻まれた姿から当時の木造建築を類推することになる。
実際、インドの石窟寺院はまったく木造の架構形式を忠実になぞっているように見えるので、パーシー・ブラウンを初めとする美術史家や建築史家たちも当時の木造寺院がそのとおりの形に建っていたであろうと思いこんでしまったのである。
左 : チャイティヤ窟のファサード、アジャンター 第 9窟 (インド)
右 : P・ブラウンによる、チャイティヤ窟の原型としての木造建築の想像復元図
私が 『インド建築案内』 と 『インドの建築』 を書いたときにもそうした定説を要約するほかなかったのだが、しかしヴィハーラ窟はともかく、チャイティヤ窟に関しては本当にそうなのだろうかという疑問が心の底におりのように残っていた。 というのも、平屋、陸屋根形式のヴィハーラ窟については、部材が太めであるということ以外は木造建築の模写と見て何の問題もないのであるが、尖頭アーチのチャイティヤ窓からなるファサードと、半円筒形をした天井の 垂木構造のような内部空間 をもつチャイティヤ窟は、木造建築としてはあまりに不自然だからである。
左:垂木構造のような内部空間の アジャンター第26窟内部 (インド)
右:木造家屋の詳細な壁画、アジャンター(インド)
アジャンター第 17窟の壁画などにも描かれているとおり、木造建築というのは 「三角切妻屋根」 の形に造られるのが最も自然であり、それは世界中のどこでも、雨の降る地域であれば同様である。 日本の神社も、ギリシアの神殿も、そのように建てられた。
一方、木造で半円筒形のようなヴォールト型の曲面屋根を造るというのは容易ではなく、石窟寺院に見られるような半円形の輪垂木(わだるき=湾曲した垂木)をいったいどのように造ったのだろうか。 現代の技術をもってすればともかく、古代の技術で太い木を曲げることなどできはしない。
バージャーやカールリーの初期チャイティヤ窟には、より本物らしく見せるためにチーク材の木製輪垂木がとりつけられているが、それらはいくつもの板を 「突きつけ」 で (金物も接着剤もなしに) つなぎ合わせてアーチ状の輪垂木としている。 もしもそんな垂木構造(たるきこうぞう)の建物をタイ・ロッド(つなぎ梁)もなしに建てたなら、地震やサイクロンでひとたまりもなく倒れてしまうことだろう。 事実、そのような木造建築はインドに存在しない。
また、美術史家の E・B・ハヴェルは、インドのアーチは竹によるアーチであると主張した。 しかしながら、竹もまた曲がりはしないのである。 竹というのはパイプ構造にフランジ(節)をつけた、きわめて強度の高い材料である。 工芸品に用いるような細い竹ならいざしらず、建物の構造に用いるような太い竹が曲がるわけもないし、たとえ細い竹であっても曲げたあとは開かないように引っ張り材で緊結しなければならない。 しかしチャイティヤ窟には引っ張り材の形跡が何もなく、ただ柱の上に伸びやかにアーチ状の輪垂木が立ち上がっているのである。
その後、私の達した結論は、チャイティヤ堂における半円筒形のヴォールト天井をした内部空間というのは、建物全体の主要構造とは関係のないインテリア・デザインに過ぎなかったであろう、ということである。 陸屋根か合掌屋根を戴いた大きな箱型の建物の内部に、突きつけでつないだ輪垂木による天井を吊って、半球状のストゥーパと形態的に合致する内部空間を、インテリア・デザインとして造形したのである。 それは、カールリーのチャイティヤ窟に見られるように、おおらかな曲線のストゥーパと調和した、実に見事な内部空間を創造した。
チャイティヤ窟の内部空間、カールリー(インド)
けれど、そうした木造によるアーチ状の輪垂木を連続させてヴォールト天井をつくるというような離れ業を、いったいどのように思いついたのであろうか。 何らかの手本なしにこのような形態を構想したとは考えにくい。 そして、それ以上に奇妙なのが、ファサードのチャイティヤ窓のデザインである。 これは大きな チャイティヤ・アーチ で構成されているが、これもまた木造風に 「母屋(もや)」が輪垂木の上に載ってアーチ状の屋根を支えているかのように彫刻されている。 しかも、全体が尖頭(せんとう)アーチ形をしていて、頂部には角 (つの) が立ち上がっているのである。
尖頭アーチというのは 8世紀から 9世紀にかけてイスラム建築が発明したものであって、それ以前のアーチはすべて半円形であった。 では、なぜインドの古代のアーチが尖頭形をしているのだろうか。 しかもそれが組積造の 「真のアーチ」 ではなく、木造アーチとして彫刻されているのはなぜなのだろうか。 こうした解けない謎のような問題にずっと頭を悩ましていた挙句に、やっとたどりついたのがアナトリア地方(トルコ)におけるリュキアの石窟墓と石棺であった。
リュキアの石窟や石棺には尖頭アーチ形のものがあり、しかもそれが木造であるかのように彫刻されている。 そして、インドの最初の石窟は紀元前 3世紀なかばに、アショーカ王がアージーヴィカ教徒のために造営したバラーバル丘とナーガールジュニー丘の石窟群であるが、一方、リュキアで石窟墓や石棺が多くつくられたのはその 1世紀前、紀元前 4世紀のことである。
この遠く離れた二つの地に何のつながりもなければ、それは偶然の一致ということになる。 しかし、紀元前 4世紀の後半にはマケドニアのアレクサンドロス大王 (在位:前336〜前323) の東征があった。
アナトリア地方の地図
フラウィオス・アッリアノスの 『アレクサンドロス東征記』 によれば、リュキアは戦わずして降伏したために、アレクサンドロス軍の支配を受け入れる代わり、何の破壊もされなかったばかりか、リュキア人の通訳・指揮官がインドのガンダーラ (現在のパキスタン) までアレクサンドロスの伴をし、采配をふるったという。 この時か、あるいは以後のセレウコス朝やバクトリア王国が、ギリシア文化とともにリュキア建築をインドに伝えたであろうことは想像にかたくない。
ギリシア彫刻がインド彫刻と融合してガンダーラの仏像を生んだように、リュキア建築がインド建築と融合して仏教チャイティヤ窟を生んだと考えることには十分な根拠がある。
こうした仮説を、リュキア考古学の本を調べながら組み立て、昨年の夏に 「インド考古研究会」 のサマー・セミナーで発表をした。 秋には 「世界考古学発掘アカデミー」 の講義でも語ったのだが、なにぶんにも写真資料が少なく、チャールズ・フェローズやジョルジュ・ペローなどの古い本のエッチング図版をもとにしていたので細部に疑問もあり、ともかくリュキアに行かねばと考えていた。 そうしてこの 3月にやっと現地を訪ねて、フリュギアやカリアを含め、リュキア各地の遺跡の撮影をしてくることができたのである。
リュディアのアルテミス神殿、サルディス
20年ぶりのトルコはどこもかもすっかり整備されて、交通も食事も宿泊も安くておいしくて便利になり、またトルコ人は親切な人が多いので楽しい旅ができた。 インドも経済開放以来しだいに近代化してきているので、このトルコのように旅がしやすくなるのもそう遠いことではないかもしれない。 今回はなつかしいイスタンプールやエディルネをはじめとして、イスラム建築やビザンチン建築も各地に再訪したが、ともかく最初に主目的のリュキアに向けて、まずはイスタンブールから夜行バスでサリフリへと出発した。 サリフリの近くに古代リュディア王国の首都、サルディスの遺跡があると知ったからである。
リュディアは前 8世紀から前 6世紀にかけてアナトリア南西部を支配し、中央部のフリュギアと勢力を争ったが、前 546年にペルシアに敗れて首都サルディスは奪われ、後にはローマ領となった。
現在ではサルトと呼ばれる地に遺跡があるが、それは主としてローマ時代のものであり、浴場・ギムナジウムとシナゴーグ、そして 1キロメートルばかり離れて大規模なアルテミス神殿の遺跡を見ることができる。 しかし今回、ローマ時代の遺跡は私の興味の対象でない。
神殿の遺跡の管理人にリュディア時代のネクロポリス (墓所) のある山を教えてもらい、少々歩き回ったのだが、残念ながらはっきりそれとわかるものは見だせなかった。 それほど熱心でもなかったのは、ギムナジウムの管理所で入手したサルディスの発掘調査記録を見る限り、形として見るに足るほどのものは残っていないとわかったからでもある。
それらは前 6世紀以降のものというから、フリュギアよりも新しいことになり、後のペルシアやローマ時代まで用いられたというのはフリュギアやリュキアと同じである。 形式としては小規模な石窟あり、切石積みありで、遺体を横たえるベンチが造られているか、石棺を置く部屋になっているかであるのも同様であるが、しかしファサードの彫刻が残っているものはないようである。
サルトをあとにして有名なローマ時代の遺跡、エフェソスを訪れ、そこからいよいよリュキアへと向かったのであるが、ここでは歴史的順序を尊重して、後で訪ねたフリュギア地方について先に述べることにする。
古代フリュギア王国の首都はアンカラの西方 100km ばかりのゴルディオンであるが、これは何度も破壊されて、現在はほとんど見るものがない。
建築的にフリュギアの遺跡を知るには、エスキシェヒールとアフヨンの間に広がる丘陵地に散在する村や山をたずねまわらなければならない。 そこには前 8世紀後半から前 7世紀前半にかけての石窟や岩壁彫刻がある。 ということは、インドに最初の石窟寺院がつくられるよりも 500年も前のことであり、それらが前 4世紀のリュキアの石窟につながっていくのである。
フリュギアのミダス王の墓、ミダス・シェフリ
最初に訪ねたのはミダス・シェフリである。 シェフリというのはシェヒール (都市)であり、かつてここの丘の上に大きな町があったので、英語ではミダス・タウンと呼んでいる。 今では玉座と墓、そして貯水槽を残すのみであるが、丘のふもとに巨大な石彫墓がある。 これが名高いミダス王の墓である。 ( 「王様の耳はロバの耳」 のミダスという名はポピュラーであったらしく、ゴルディオンにもミダス王の墓とされる古墳がある。)
ミダス・シェフリの墓は岩に彫刻した切妻屋根の形の神殿ファサードで、その高さは 17m もある。 下方にはキュベレ女神が祀られたであろうニッチがあるが、その上の壁は全面的に幾何学的なパターンのレリーフ彫刻がほどこされていて、まるで後世のイスラム建築か モダン・デザインを見るような思いがする。 古代彫刻といえば普通は動物や植物をモチーフとするものだが、このミダス・シェフリ周辺の石彫には抽象的なパターンが多いのは大きな驚きだ。 ギリシア美術の最古の様式とされる 「幾何学様式」 と関係があるのかもしれない。
ミダスから南へ下ってバクシーシュやヤプルダクなど、多くのフリュギア遺跡を訪ねてまわったが、これらは まったく観光化されていないので、見出すのは容易でない。 たよりは今から 100年以上前に出版された、ジョルジュ・ペローとシャルル・シピエの共著による近東美術シリーズの英訳版で、その中の "History of Art in Phrygia, Lydia, Caria and Lycia" がこの地域をカバーしている。 この本を持参していなければ、フリュギア遺跡を詳しく見てまわることはできなかったことだろう。
というのも、それらの遺跡はごく小さいものがほとんどで、また今から 2,800年も前のものであるから傷みや風化もはげしく、まったく目立たないからである。 おまけに小さな村や丘の上、人里はなれたところなどにあるので、場所を問うこともできないことが多い。
フリュギアの石窟墓、バクシーシュ(左) と ヤプルダク(右)
それらを見てわかったことは、ミダス王の墓と同じく、基本的に三角切妻屋根の住居および、その発展形としての神殿型をしていることである。 紀元前 8世紀というのは、ギリシアでもまだ神殿は木造であった時代で、おそらくフリュギアでもこれらの石窟墓と同じような木造神殿が建てられていたことだろう。
バクシーシュの石窟墓は最も単純で、ミダス王の墓と同じく幾何学パターンのレリーフ彫刻で装飾されている。 ギリシア神殿の影響を受けたと思われる時代のものはヤプルダクの小石窟である。 ここでは高い切妻の上に棟飾りが立ち、勾配屋根に沿って木造の母屋を模した小口が並べられている。 円柱の柱頭はイオニア様式に似ているから、時代も下るかもしれない。
この近くのアスランタシュにはミュケナイの 「獅子門」 にも似た、向かい合う二頭の大きなライオンが岩に彫刻されていて、文明の連鎖を見せてくれる。 フリュギアではこの後、切妻の破風部分などに、ライオンをモチーフにしたレリーフ彫刻がたえず出てくることになる。
カリアの神殿型の摩崖墓群、カウノス
イスラムの二大祭の 「イード」 をトルコ語では 「バイラム」 という。 断食月 (ラマダーン) 明けの砂糖祭がシェケル・バイラム、巡礼月に行われる犠牲祭がクルバン・バイラムと呼ばれ、今年は後者が 3月 15日から 18日なのでちょうど私の旅程とぶつかってしまった。 この間は役所も会社も休みとなり、日本のお盆のように都会の人々は前日の 14日からこぞって故郷に帰る。 そのためにトルコの交通機関の根幹をなす長距離バスが満杯となり、ホテルは混み合い、16日には遺跡まで閉ざされてしまうという不運に見舞われてしまった。
おかげでボドルムの十字軍の城は中に入れず、ハリカルナッソスのマウソレイオンは頼み込んでやっと境内に入れてもらった。 しかしカリアの太守、マウソロスの名高い廟は今ではわずかな瓦礫の山でしかなく、往時の威容はしのぶべくもない。
カリア王国はリュキアの西隣りにあってリュキアと覇を競ったが、文化的にはリュキアの方が上だったので、ネクロポリス (墓所) にはリュキア的な摩崖墓を造った。 それがまとまって見られるのがダルヤンの町の対岸にあるカウノスの遺跡である。
これらの墓群は断崖絶壁に彫刻されていて、人が入っていくことを前提にしていないので、石窟というよりは摩崖墓と呼ぶのがふさわしい。 おそらく彫刻するにも崖の上からロープでぶら下がって作業をしたのだろう。
初めてリュキア地方を訪れる身には、カウノスの摩崖墓がギリシア神殿のような姿をしていることが驚きであり、それらがアジャンターの石窟寺院群のように並びあっていることにも目を奪われる。 最も大きな摩崖墓は未完成で、4本の円柱の上のほうしか刻まれていない。 これを見ると、リュキアでもインドの石窟と同じように 上部から下部へと彫刻されていったことがわかる。
三角切妻を支える円柱の柱頭はイオニア様式をしているが、カリアの隣が かつてエフェソスの町をつくったイオニア王国であったのだから 不思議ではない。
リュキアのアミンタスの石窟墓、フェティエ
こうした神殿型の石窟墓はリュキア各地にあるが、最良のものはフェティエにある。 古代にテルメッソスと呼ばれた町は地震で壊滅し、現在は新しい港町フェティエとなっているが、その背景をなす岩山には摩崖墓群が残っている。 多くは家型の石窟墓であるが、大きな神殿型のものも散在していて、最上部にある石窟はヘルマピアスの息子のアミンタスの墓であることが記されている
イオニア式の円柱が 2本並ぶポーチの奥には扉口が刻まれ、その奥に遺体を置くベンチを周囲に設けた墓室が彫られている。 ファサードの梁の上には、家型墓では丸太が並べられたように彫刻されているが、神殿型では四角い小梁が並べられている。 それが屋根の斜めの垂木に沿ってではなく、水平の梁の上であることがギリシア神殿と共通であって、尖頭アーチ型の石窟や石棺の場合と異なっているのはなぜなのかを知りたいところだ。
フェティエでは雷雨にあってしまい往生したが、翌朝は快晴。 車をやとって、いよいよ本格的にリュキアの遺跡を訪ねてまわった。 朝日に輝くトロスの遺跡は城址、石窟墓、石棺、ローマ時代の劇場や浴場と、多彩な造形を見せてくれる。 その他、広大な地域に広がるプナラの遺跡、リュキアの首都であったクサントス、海に沈んだケコワの都市址、かつてのアンティフェロスの町で、今もにぎわう港町カシュ、等々、前 4世紀からのリュキアの諸都市が美しい海岸線の地中海に沿って連なっている。
チャールズ・フェローズ
( from Enid Slatter "Xanthus, Travels of Discovery in Turkey" )
こうした古代リュキアの文化史跡をはじめて総合的に探査したのがイギリスの考古学者、チャールズ・フェローズ (1799 -1860) であった。 彼が最初のリュキア旅行をしたのは 1838年で、それは "A JOURNAL WRITTEN DURING AN EXCURSION IN ASIA MINOR (小アジア紀行)" という本にまとめられ、1840年の第 2回調査旅行は "AN ACCOUNT OF DISCOVERIES IN LYCIA (リュキアにおける発見の報告)" という本に書かれて、イギリスの美術界や考古学者の注目を集めた。
彼はインド建築史をはじめて体系化した建築史家、ジェイムズ・ファーガソンよりも 9年、インド考古学の父であるアレクサンダー・カニンガムよりは 15年早く生まれたにすぎないから、ほとんど同世代の人である。
ヨーロッパ人の考古学者や建築史家がアジアに乗り出していった 19世紀、先行する探検家や旅行家による情報に触発されて、フェローズはアナトリアの文化を探求する旅に出発し、知られざるリュキアの遺跡群を発見した。 とりわけ、かつての首都である クサントスの遺跡 の調査に力を注いだので、彼の報告をもとに、大英博物館は海軍の助けを借りながら彼の助言を受け、最も重要な 「ネレイデス・モニュメント」 や 「パーヤヴァ石棺」 をはじめとする数々の遺物をロンドンに運んでしまったのである。
今から 150年ほど前の 1848年には大英博物館に 「リュキア展示室」 がつくられて、その展示品が大評判となったものだが、20世紀にはいると次第にリュキアもフェローズの名前も忘れ去られ、展示品は分散してしまった。 その後、リュキア考古学は大きな発展をみていない。
リュキアの遺跡は数多いので、その紀行をすべて書いているわけにはいかないので、ここにはあくまでもインドの石窟との関わりを興味の中心にすえて、種類別にリュキアの主な建築遺跡を見ていくことにしよう。
左 : ミュラのネクロポリス (フェローズの原画によるリトグラフ)
右 : ネクロポリスの摩崖墓群、ミュラ
リュキアは英語ではリシア Lycia、トルコ語ではリキア Likia と言うが、美術史ではギリシア語読みのリュキアと表記するのが慣例なので、ここでもそれに従う。 したがってミラではなく ミュラ、リミラではなく リミュラ、フリギアやフリジアではなく フリュギアと表記する。
リュキア王国とはいうものの、前 4世紀頃には古代ギリシアのような都市国家の連合体であったらしく、それを 「リュキア同盟」 と呼んでいる。 プリニウスによれば当時 36の都市が加盟していたといわれ、最大の都市がクサントスであった。 リュキア人は独立心が強く、アナトリアではローマ帝国に組み込まれた最後の地方である。 今はどの都市にも民家や宮殿は残っていないので、見ることのできるのはアクロポリスの上の城址、ローマ時代の野外劇場、ビザンチン時代の聖堂跡などであるが、リュキアの建築を最もよく伝えるのは山の斜面に設けられたネクロポリス (死者の都、墓所) である。
墓は石窟墓と石棺の 2種類に大別される。 さらに石窟墓は形態上 3種に分けられ、第 1 はすでに見た神殿型で、もっともモニュメンタルであるものの、これはリュキアに独特というわけではない。 石窟ではないが、イオニアやギリシアに木造や石造で建てられていた三角切妻屋根の神殿と同類型であった。
第 2 は家型墓であり、第 3 は後で述べる尖頭アーチ型の石窟墓である。 家型墓はどの町のネクロポリスにも見られるもので、近づきがたい高所の摩崖墓もあれば、地面に近い石窟もある。最も多く密集していて幻想的な光景を現出しているのがミュラである。
ミュラの遺跡は、サンタ・クロース伝説のもととなった聖ニコラウスのビザンチン聖堂が残るデムレの町から 2km のところにあり、ローマ劇場の裏山に数十の摩崖墓が積み重なるように彫刻されていて迫力がある。 これらは当時の木造住宅の姿を模していて、柱と梁が相欠 (あいが) きで噛み合わせられたような姿に彫刻されている。
屋根はフラット・ルーフで、梁の上に細い丸太を並べ、その上に土を盛って踏み固めた形をしている。 こうした民家は今もリュキア地方に見ることができる。 ただ、モニュメンタルな墓になるほど土台と梁の端部が反り返って、一本の木では作りにくいような装飾的な形をしているが、実際にそのように木造でつくられていたのかどうかは怪しい。
家型の石窟墓の原型住居を木造で再現した家、リミュラ
興味深いのは、こうした家型石窟墓の原型となったであろう木造住宅を、そっくりそのまま忠実に復元した家がリミュラに建てられていることで、この家には人が住んでいる。 例の反り返った土台と梁は木を継いでつくっているので、少々苦しい。 それらは石窟の場合にだけ誇張されて彫刻されたのかもしれない。
外壁は石積みとされているが、板張りやレンガ積みの場合もあったろう。 いずれにせよ、日本のように真壁構造で、柱や梁をあらわしにしていたと考えられる。
いちばん奇妙なのは、多くの石窟墓に見られる、1階の壁の中間部の桁(けた)である。 その上に小梁の小口が並んでいるが、こんなところに小梁が通るわけがないので、復元住居ではまったく飾りとして扱われている。
フェローズの原画による 「彩色墓」 のリトグラフと、その現状、ミュラ
ミュラの裏山にはみごとなレリーフ彫刻の多く残る家型墓があり、160年前にチャールズ・フェローズが訪ねた時にはまだ鮮やかな彩色が部分的に残っていたので、彼はこれを 「彩色墓」 と呼んだ。 このファサードの中央柱は下部が欠けてしまったが、木造の柱・梁の軸組み構成をはっきりと見せている。 柱と梁を面ゾロにしないで噛み合わせている所など、木造のリアルな表現といえる。
こうした家型墓は、インドの仏教石窟では僧の住んだヴィハーラ窟に相当する。 ヴィハーラ窟のファサードはリュキアとちがって石造風のプロポーションをしているが、内部の天井を見上げると柱と柱を結んで太い大梁が架かり、大梁と大梁の間に小梁群が架かり、さらにその上に細い根太が並ぶという、フラット・ルーフの木造建築の完全な模写となっているところが、リュキアと同じ原理を示している。
しかし、ここに影響関係があったというわけではない。 陸屋根の木造建築というのは世界中どこでもそのように建てられるものであって、異なるのは細部の納まりであるにすぎない。 ペルシアの摩崖墓も、基本的には同じ構造をしている。 けれども木造の納まりの細部を忠実に表現しようとした点において、リュキアの家型墓にまさる石窟はない。
左 : ライオンの頭部が彫刻された石棺、スラ
右 : 装飾的なリュキア式石棺、イスタンブール考古博物館
死者を葬るための棺には木製もあれば石製もあり、木棺を収めるべき石棺もある。 かってローマ帝国が支配した地域ではどこでも 家の形をした石棺 が用いられ、貴人の石棺の場合にはそのメモリアルとなるべき華々しい浮き彫り彫刻がほどこされた。
それらは古代ギリシアやアナトリアの石棺を受け継いだものであり、基本的には遺体を横たえる箱の部分とその上に載せる蓋の部分の二つの石から成る。 蓋部分は建物の屋根の形を模すことが多く、通常それは浅い三角切妻屋根となるが、時には石棺全体がミニチュア神殿のような姿となる。
ところがリュキアだけは他の地方と異なった形の石棺を発展させた。 簡素なものから豪華に彫刻されたものまで、リュキア中に今でも数百の石棺が残されているが、それらはいずれも浅い三角切妻ではなく、蓋の部分が高く立ち上がって尖頭アーチ形をしているのである。
シメーナやキアーネ、アポロニアなどでは山の上や中腹に単純形の愛らしい石棺が数多く点在し、海岸のテイムッサではそうした石棺が列をなしている。 尖頭アーチ形をした曲面屋根の家型石棺が思い思いの方向に並ぶ姿は、おとぎの国に迷い込んだような不思議な感覚をもたらしてくれる。
シメーナの丘上の石棺群
石棺の屋根には両方の妻側に各ひとつ、側面に各ふたつの合計 6つの四角い突起をもっていて、上級の石棺ではこれらにライオンの頭部の彫刻がほどこされる。 それが常にライオンであるのは、フリュギアからの伝統なのだろう。 デムレの近くのスラの草原に残る石棺はその例だが、ここでは下の箱部分は無装飾である。
最も装飾的な石棺 は、イオニア式の有名な 「アレクサンドロスの石棺」 とともにレバノンのシドンで発見されたもので、現在はイスタンブルのトプカプ宮殿の境内の考古博物館に展示されている。 ここでは妻部分に有翼天使やケンタウロス、側面にライオン頭部と騎馬戦士たちが彫刻されて見事であるが、頂部にはパルメットが鬼瓦のように立ち上がっている。
スラの石棺 では頂部に棟木(むなぎ)が伸びていて、これがリュキアの石棺の基本形である。 そして切妻部分をよく見ると、ライオンの頭部を囲むように縦線と横線が刻まれているのがわかる。 実はこれが束柱(つかばしら)と梁を示す線であり、屋根の曲線に沿って輪垂木 (わだるき) が刻まれているのも見える。 つまりリュキアの石棺というのは石窟墓と同じように、木造建築であるかのように彫刻されるのである。
リュキア式石棺の上部、カシュ、前 4世紀
カシュの町の中に残る石棺は、これをさらによく示している。 石棺は高い基壇の上に乗って道路の真ん中に聳え立ち、基壇にはリュキア文字の碑文が刻まれている。 石棺の柱の上には桁と梁が架かり、梁の上には束柱が立ち、それらを結ぶ小梁があり、輪垂木に沿って母屋の端部が刻まれ、頂部には棟飾りが立ち上がる。 ライオンの頭部は別として、これこそがインドの仏教チャイティヤ窟の原理、「木造でつくられたかのごとき石彫の尖頭アーチ型ファサード」 なのである。
こうした木造的な細部を刻んだ尖頭アーチ型の石棺はプナラやクサントスにあるが、その最良のものが 「パーヤヴァ石棺」 で、すでに記したように、これは 19世紀にロンドンの大英博物館に運ばれてしまって、現地では見ることができない。
通常の石棺は三角切妻であるのに、なぜリュキアだけがこうした尖頭アーチ型の石棺をつくったのであろうか。 それを正確に言い当てるのはむずかしいが、しかし形態の変化をたどることはできる。
ミュラの摩崖墓群 をもう一度見ると、ここには陸屋根の家型墓ばかりでなく、家型の上に三角切妻屋根が立ち上がっている石窟も多い。 しかもその三角形は神殿型よりはもっと高さが高く、しかも斜辺が 「起(むく ) り」 をもっていることがわかる。 つまり、リュキアの尖頭アーチというのは、石やレンガを積んだ 「真のアーチ」 からきているのではなく、木造の三角切妻屋根が次第に高くなり、斜辺がふくらみのついた曲線となることによって得られた形なのである。
ローマス・リシ窟のファサード、バラーバル丘(インド)
リュキアには、ギリシア語とリュキア語とアラム語の 3ヶ国語で刻まれた石碑などがあり、碑文はおおむね解読されているから、歴史はほぼ明らかである。 それによれば、石窟墓や石棺はほとんどが前 4世紀に属している。 この造形と技術が前 4世紀後半のアレクサンドロス大王の東征以後インドに伝えられ、インドで最初につくられたバラーバル丘のローマス・リシ窟に影響したと考えられるのである。
ローマス・リシ窟には碑文が残されていないが、その平面形や内部空間の形態から、隣のスダーマ窟などとともに前 3世紀半ばにアショーカ王によって造営されたものと見なすことができる。 石窟という技法自体はリュキアの影響ではなく、ペルシアからもたらされたものであろう。
しかし、この窟にのみ彫刻されたファサードは、内部にまったく類似の彫刻要素がなく、むしろバージャー以後の石窟ファサードに直接つながる造形であることから、石窟本体よりも時代が下り、後のチャイティヤ窟ファサードの 「試作品」 であったと考えるのが妥当である。 おそらく前 2世紀頃の制作になるものであろう。
このファサードは当時の木造建築の忠実な写しであると言われてきたが、そんなことはまったくないどころか、木造建築としてはまことに不思議な形をしている。 構造的に不合理であることは先に述べたが、その根本に横たわっているのは、三角切妻であるのが自然な屋根を無理やり曲げて 「尖頭アーチ」 形にしていることである。 これでは雨を外に追いやるべき庇 (ひさし) が、逆に雨を建物側に呼び寄せることになってしまう。
ここには、建物の自然な形成に逆らってまでも 「尖頭アーチ」 という形のイメージを強引に実現しようという意図が見て取れる。 こうした、一般的でない木造的形態の起源を、さらに詳しくリュキアの石窟墓にさぐることにしよう。
尖頭アーチ形をした石窟墓、プナラ
インドの仏教 チャイティヤ窟のファサード では、アーチの外輪 (そとわ) はリュキアのように尖頭形をしていて角 (つの) を立ち上げているが、内輪 (うちわ) はバラーバルなどの少数を除けば半円形をしている。 半円形ということは石やレンガを積んだ 「真のアーチ」 を思わせる。 ところがアーチの内側には母屋が並び輪垂木があるという、まったく木造風の姿に彫刻されている。
これはおそらく、ペルシアから伝わった真のアーチの形だけをまねて木造でつくろうとした結果であろう。 アフガニスタンのグルダラの仏教ストゥーパでは 石造の真のアーチ が残っているから、アーチ構造が伝えられたことは確かであるが、しかし当時木造文化圏であったインドではアーチの技術を採り入れる必要はなく、単にその半円形の形だけを輸入したのである。
けれども実際にそんな木造建築はつくれるはずもない。 木材を半円アーチ状に曲げて構造材にすることなど、現代の集成材の技術でも使わないかぎり不可能だからである。 にもかかわらずチャイティヤ窟のファサードが木造風尖頭アーチ形につくられているのはなぜかと問うなら、それこそがリュキアの石棺や石窟の方法を採り入れたからだと言わざるをえない。
左 : 木造を模した尖頭アーチ形のファサード上部、プナラ
右 : チャイティヤ窟のファサード上部、バージャー (インド)
リュキアには尖頭アーチ形をした石窟墓が各地にあるが、そのモデルとなったであろう木造建築の構法を最もよく見せてくれるのは、プナラの山上にある石窟墓である。
下の柱部分は壊されてしまったが妻部分はよく保存されていて、大梁、束柱、小梁、輪垂木、母屋、屋根板の順序で構成された完全な木構造が石で表現されている。 そして 3本の束を小梁がつないでしっかりと屋根を支えているが、その小梁が左右の輪垂木を上下に二分しているのがわかる。
こうすれば輪垂木は全部で 4本の部材から成り、それぞれは かなり直線に近いから、木材を多少けずるだけで、これくらいの浅い曲線の輪垂木は簡単に得られるだろう。 リュキアの尖頭アーチ型の木構造というのは、何の疑問もない合理的な構法だったのである。
ところが、これがインドに伝えられるプロセスの中で、梁や束が失われ、外形をつくる輪垂木と母屋のみが強調されて、純然たる垂木構造のような姿にチャイティヤ窟が彫刻されることとなった。 最初期の バージャーのチャイティヤ窟 を見れば、梁や束のない半円アーチ状の垂木の不思議さがよくわかる。 逆にいえば、ストゥーパを祀る内部空間は、その半球状の形態にあわせて、梁や束の露出しない、前方後円形のヴォールト天井の空間 でなければならなかったのである。
石窟ではない、独立型の木造建物としては、そうした構造は無理なので、大きな四角い箱としてのチャイティヤ堂をつくり、その内部にストゥーパを祀る内部空間として、インテリア・デザインとしてのみ ヴォールト天井がつくられた、と考えるのが順当である。 アジャンター前期の第 9窟やアウランガーバード第 4窟、それにジュンナールその他の小チャイティヤ窟ではストゥーパを祀っているにもかかわらず、プランが前方後円形ではなく矩形をしていることもその例証である。
左 : アジャンター第 9窟 (矩形のチャイティヤ窟) 平面図
( from Fergusson "The Cave Temples of India" )
右 : ブータ・レーナ窟 (No.26) のファサード、ジュンナール (インド)
では、そうしたチャイティヤ堂の外形はどのようであったかといえば、ジュンナールのブータ・レーナ窟のファサードがそれをよく示している。 ファサードが木造であったにせよ石造であったにせよ、大柱と大梁による四角いフレームをつくり、そのポーチの奥壁にチャイティヤ窓があけられ、その内側にインテリアとしての木造の半円筒形の天井をいただく礼拝室をつくったのである。
アジャンターやカールリーのチャイティヤ窟でも、よく見れば いずれも、そうした大柱と大梁で囲まれた、四角い大きなフレームがファサードとして彫刻されていることがわかるだろう。
石窟というのは世界各地につくられた。 中東の古代の石窟はエジプトを初めとして、ほとんどが墓である。 カッパドキアなどのように聖堂 (礼拝堂) としてつくられるのはローマ帝国が東西に分裂したあと、5世紀以後のことであった。 一方、インドの石窟が墓ではなく、もっぱら僧院や礼拝堂としてつくられたのは、生物は死後に必ず生まれ変わるという 「輪廻 (りんね)」 の思想のために、墓をつくるという習慣がなかったためである。
ここにおいて一つの疑問が生まれる。 仏教のストゥーパというのは、ブッダの死後にその遺骨を分骨して埋葬し、その上に塚を築いたものであるから、それはブッダの墓であるともいえる。 そのストゥーパがチャイティヤ (礼拝対象、礼拝場所) の代表となったので、チャイティヤ窟といえばそれはストゥーパを祀る空間となった。 ということは、チャイティヤ窟というのは一種の石窟墓であった。 では、墓をつくる習慣のないインドで、なぜチャイティヤ窟という石窟墓があれほど多く、しかも立派につくられたのであろうか。
ストゥーパは必ずしも仏教だけで礼拝されたのではなく、ジャイナ教でも礼拝された (それがマハーヴィーラの墓であるという記録はないが)。 また、インドで最初につくられた石窟群はアージーヴィカ教徒のためにアショーカ王が寄進したものだが、その奥室は半球形をしていて、ストゥーパとの関係を予想させる。
もしかするとインドの石窟というのは、中東の石窟墓が伝えられたがために、墓としてのストゥーパと、それを祀るチャイティヤ窟とがつくられるようになったのかもしれない。 土葬をする中東とちがって、火葬を基本とするインドでは石棺というのは必要なかったから、ただブッダの舎利を内臓するストゥーパを祀る石窟墓だけが受けつがれ、それが礼拝堂としても用いられるようになったのかもしれない。
そう考えると、各室にふたつの石のベッドが造りつけられたインドのヴィハーラ窟の僧室が、遺体を置くための石のベンチが造りつけられたアナトリアの石窟墓の内部空間とよく似ていることも気になってくる。 しかし、このあたりは考えすぎのような気もするので、まだはっきりしたことは言えない。
墓であると礼拝堂であるとを問わず、世界各地の石窟の中で 尖頭アーチ形をしていて、しかも木造でつくられているかのように彫刻されている石窟というのは、リュキアとインドにしか存在しない。 インドのチャイティヤ窟というのは、リュキアの石窟墓や石棺の方法の影響のもとに、それを大規模に展開し、しかも半球形のストゥーパの形態にあわせて、あたかも垂木構造のように輪垂木を並べて、半円筒形の壮大な内部空間 を創造したものである。
リュキアでは合理的な木構造であったものが、インドでは実際の木造建築としては存在しえないような、幻想的な木造的石窟空間となった。 インド建築が 「知の芸術」 に対する 「情の芸術」 の極地であるというジェイムズ・ファーガソンの指摘は、古代の石窟寺院においても確かにそうであったと言えるだろう。
( 2000年 3月12日〜4月1日 リュキア調査行 )
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