TRAVEL TO HIMACHAL PRADESH 5
リッバのゴンパとチトクルの村
神谷武夫

リッバのゴンパの北面ファサード

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リッバ村のゴンパ (僧院)

 タボを出発してスピティ渓谷を下ると、ナショナル・ハイウェイは中国国境まで 5kmくらいに近づいて、いよいよキンノール県へと入る。 かつての中印紛争の余波で、今もサムドからジャンギまでは通行許可証が必要である。 カザの町の役所では一人旅の許可証もたやすく取れるので都合がよいが、その手続きに少々時間をとられるのがもったいない。


サムドから ジャンギまでの通行許可証 (インナーライン・パーミット)

 こうして入域したキンノール地方は仏教とヒンドゥ教との混交地域で、建築的にも二つのスタイルが混交している。 時には一つの境内にヒンドゥ寺院と仏教のゴンパとが共存していたりもする。
 多くの寺院やゴンパ (僧院) の中で、とりわけ興味深いのはリッバのゴンパであった。 これはまだ政府考古局も調査をしていず、O・C・ハンダによる詳しい報告もない所だが、一昨年の秋にこの地方を長期間旅してまわった高木辛哉さんが見つけて知らせてくれたのである。


リッバ村のゴンパ外観

 これは仏教のゴンパではあるが、前回見たような日乾しレンガによるチベット式の陸屋根の建物ではない。 層塔型のヒンドゥ寺院のような円錐形の屋根を、しかも二つ戴いた純木造の建物である。
 片方の、前面のドゥカン (勤行堂) の部分は後の増築であって、奥の正方形の小堂が本来の寺院である。そして意外なことには、その各壁面 がカシュミールにおける中世の石造ヒンドゥ寺院を髣髴とさせるのである。

 シュリーナガル郊外のパンドレータンの寺院 (10世紀) やその他のヒンドゥ寺院に見られるような、二段重ねの切妻屋根のファサードを各面に作っていて、しかもここではそれが木造であり、その周囲にアルチ・ゴンパにおけるようなギリシア風の溝彫りをほどこした円柱による周廊 (繞道) をまわしているのである。
 柱頭における 「壷葉飾り」 を初めとして、各部はたんねんに彫刻されていて、ガンダーラを源流とするカシュミール建築とヒマーチャル土着の民俗彫刻とが融合している姿が見られる。


パンドレータンの石造ヒンドゥ寺院、10世紀 (カシュミール)
(From H.I.S. "Himalayan Architecture" by Ronald M.Bernier, 1997)

 このリッバのゴンパもまたリンチェン・サンポの創建と伝えられるが、それが正しければ創建は 11世紀ということになる。 しかしこれはアルチやタボなどのチベット式とはずいぶんと異なった、カシュミール建築の影響を色濃く残している。
 当時のカシュミールでは木造の寺院建築が主流であったが、それらは全く残っていず、その形を受け継いだ石造のヒンドゥ寺院のみが少数現存している。 パンドレータンのような形の寺院の木造版や、その周囲に周廊をめぐらした木造寺院は、仏教とヒンドゥ教とを問わず、百を超える数で建てられていたことだろう。

   
マルクラ・デヴィー寺院の外観と内部の木彫、ウダイプル

 そうしたカシュミール建築の影響はヒマーチャル地方にも もたらされたはずで、北部ラホール地方のウダイプルに建っているヒンドゥ教のマルクラ・デヴィー寺院における木彫と、ここリッバの仏教ゴンパが、その片鱗を伝えているのである。
 リッバのゴンパの本来の屋根は現在のような円錐形ではなく、カシュミール式の二段重ねの方形屋根で、周廊に置かれているアーマラカ状の頂華がその頂部を飾っていたのであろう。 そしておそらくはウダイプルの寺院もまた、当初はカシュミール式の方形屋根を木造で作っていたものと思われる。
 リッバのゴンパは、考古局によって正確に調査・修復されれば、ヒマーチャル建築史を解明する上で重要な遺構となることだろう。


チトクル村の穀物倉

 リッバを後にすると、ジープはレコンピオ周辺のカルパやコティの寺院を訪ねたあと、ナショナル・ハイウェイからそれてバスパー渓谷を遡って行った。 サングラーの村に泊ったついでに 3度目の カムル・フォート 訪問を果たすと、ジープはさらに南下してバスパー渓谷の終点、標高 3,450mのチトクル村に達した。


チトクル村の寺院搭

 ここは実に興味深い村である。 宗教的にはヒンドゥ圏で、村の中心には屋根板まで木で葺かれた角塔型の寺院搭がシンボリックに聳え、周囲に 3寺院が散在していた。 奥のナーガ寺院の境内には高さ 10mを超える大きな綿の木が茂り、地面に白い綿が散り敷いていたのが印象的である。
 しかし寺院よりも もっと私の興味を惹いたのは、純木造の小屋が至る所に建ち並んでいることであった。 住居や寺院搭は 石と木を交互に積み重ねた 「カトクニ」 の構造であるのに、その住居と同じ数ほどの三角切妻屋根の小屋は 石を用いない純木造であり、その用途は穀物倉なのであった。
 この 富士山頂に近い高度の村は 冬の間 雪で閉ざされるので、備蓄食料として米や麦を貯えておく必要があるわけだが、それを住居とは別の 独立した穀物倉として建てているのである。

   
チトクル村の標準的な穀物倉、外観と基部

 それだけならば とりわけ驚くほどのことではないが、私が眼を瞠 (みは)ったのは その木構造である。 三角切妻の小屋裏はオープンな干草置き場としているが、小屋本体は窓がなく、縦に並べた板で囲われている。 そして土台と軒桁との中間に もう 1本の桁 (けた) をまわしていて、土台も桁も コーナーは すべて相欠きで噛ませ、腕を長く突き出している。
  これこそ、不思議でならなかったリュキアの家型石窟墓の姿なのである。


宙に浮いているような リュキアの石窟墓のファサード (アンティフェロス 、トルコ)
(From "History of Art in Phrygia, Lydia, Caria, and Lycia" by G.Perrot and Ch.Chipiez, 1892)

 私は、古代インドの仏教石窟寺院におけるチャイティヤ窟の成立には、アナトリア地方 (現在のトルコ) の古代リュキア王国の石窟墓と石棺の方法が影響を及ぼしたにちがいない、という説を立てている のであるが、リュキアの石窟に常に彫刻されている中間桁というのが、本当に当時の木造建築の写しであるのかどうか わからなかった。 しかし、そうした構法は現実に、ここ チトクルに存在するのである。
 そしてまた、リュキアの石窟の土台が長く伸びて装飾的な形をしているのは、これが家型の石棺でもあったがためであって、ちょうど神輿 (みこし) のように 人々がこれを担いで墓地まで運んだことの表現である。 そうした当時の木造建築や木棺はすべて失われ、それらをモデルにして彫刻された紀元前 4世紀の石窟と石棺のみが多数残されているのである。

 チトクルの穀物倉は、あたかもそれを木造で再現したかのごとくに、噛み合わせられた土台が、布基礎に固定されるのではなく、まるで運搬途中とでもいうように、四隅の石の上に単に置かれている。
 リュキア建築がインドの石窟寺院の成立に関係があるのであれば、リュキアときわめて類似した木造建築がインドに存在することも不思議ではない。 しかし私は こうした木造建築を、チトクル以外では見たことがないのである。 時代と地理を遠くへだてたリュキアとチトクルに、果たして本当に影響関係があったのだろうか。

 大いなる疑問を積み残して、ジープはバスパー渓谷を戻り、ナショナル・ハイウェイの夜道を ラーンプルへと走り続けた。


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