TRAVEL TO PAKISTAN, 2001 & 2010
パキスタン建築紀行
神谷武夫
パキスタン建築紀行
HOME

スワート渓谷へ

 急に思いたって、パキスタンの建築を見に飛び立ちました。最近、パキスタンは短期間の滞在ならビザが不要となったので、手間も費用も軽減されました。しかし、PIA(パキスタン航空)の機内サービスはまだ改善の余地があり、イスラマーバード空港の整備も遅れているようです。空港の銀行で両替をすると、20年前には1ルピーが 25円ぐらいだったものが、今ではわずか2円になっていました。
 物価はたいへん安いので旅行しやすく、ペシャーワルから4日間やとったタクシーの料金が、約1万円ですみました。インドと同じように、運転手は夜は自分の車の中で寝るので、宿泊料金を払う必要がありません。そのかわり昼食は私のおごりなので、彼はいつも 私の好きなティッカ・カバーブの食べられる のどかなレストランをさがして、腹いっぱい食べました。

 スワート渓谷への旅の起点はペシャーワルです。ここの のんびりしたグリーンズ・ホテルで、日本の若いガンダーラ考古学者、藤原達也さんと 泊まり合わせました。ペシャーワルの北のチトラル周辺に住むカラーシュ族(カーフィル族)の調査に来ているということで、そこではアーリヤ人がインド系とペルシア系に分かれる直前の文化を伝えているという、興味深い話を聞かせてもらいました。

民家
マルガザールのホテル

 ペシャーワル周辺と下スワート渓谷のガンダーラ遺跡については出版物がたくさんあるので、ここでは省略しますが、ホテルについてだけ記しておきます。ブトカラの遺跡やスワート博物館のあるサイドシャリフには スワート・セレーナ・ホテルという ハイ・クラスのホテルがありますが、私は ペシャーワルからタクシーで来ていたので ここには泊まらず、12km離れた マルガザールのホワイト・パレス・ホテルまで足を伸ばしました。これはかつての王(ワリー)の夏の離宮だったところで、少々寒かったものの、実にきれいな渓谷の宿泊地でした。料金は スワート・セレーナよりも はるかに安く、本館のレストランで中華料理を食べ、庭園に面した広い部屋で気持ちよく寝られました。ここは まさに イスラム文化の求めた「楽園」の小規模版です。

上スワート木造建築


 北インドのヒマーチャル・プラデシュ州における 木造建築の魅力にとりつかれてから、これが カシュミール地方を挟んで、パキスタン北部と連続しているのかどうかを知りたい と思っていました。今回は ギルギットやスカルドゥへ行く余裕がなかったので、ガンダーラ遺跡の下スワート渓谷を さらに北にさかのぼって、上スワート地方の木造建築を調べることにしました。事前に資料はほとんどなく、カミール・ハーン・ムムタズの『パキスタン建築史』あたりを頼りに出かけましたが、旅の途中では何冊かパキスタンの木造建築の本を手にいれることができ、木造遺産の内容と現状とが わかってきました。

民家
上スワ-ト地方の典型的な民家

 インドのヒマーチャル地方の建築では、壁面が 石と木を交互に積み重ねた 組積造 であることに特徴があります。こうした構造が 隣のカシュミール地方にはあまり見られないのに、遠く離れた アフガニスタンのヌリスターン地方の民家がそうであることが 本から確かめられていました。では、その間のパキスタンはどうなのだろうか、というのが興味の中心です。
 結果は、スワート渓谷でも かつてはその方法が主流であったとわかりました。古いモスクも民家も、水平材としての木の枠組みを積み重ね、その間に石を詰めて壁とするので、バルコニー以外には木の柱というものがありません。 不思議なのは、屋根がフラット・ルーフであることです。背景の森林からわかるように、雨量が多いのに なぜ勾配屋根にしなかったのでしょうか。斜面地の村では、屋根面が 上の家のテラスになっていることが、一つの理由かもしれません。

マディヤーン  マディヤーン
旧と新のジュマ-ト(金曜モスク) マディヤ-ン

 さて、スワート・コヒスターンとも呼ばれる 上スワート地方の最初の町は マディヤーンです。ここには木造の列柱ホールが中庭を囲む ジュマート(金曜モスク)があるはずです。街道から古い町の地区へまわりこみ、子供たちに案内されて着いてみるとビックリ、それは コンクリートの上に彩色がほどこされた 真新しいモスクです。なんと、4年前に木造からコンクリート造へと 建て替えられてしまったのです。
 かろうじて 10数本の木の柱だけが保存されて、道路側のファサードと 中庭まわりに取付られていますが、建物全体は 無残としか言いようのない姿をしています。

 それでも、このモスクがあるあたりの オールド・クォーターには 古い木造の町並みが残っています。最も立派な民家は スベダール邸といって、100年前に建てられた家だそうで、内外の柱や入口まわりには 実に繊細な彫刻がほどこされています。注目されるのは柱頭の腕木で、左右に2つないし3つの円形の渦が彫刻されています。ドア自体にも両腕を広げたような、こうした柱型が 装飾として彫刻されていますが、これが上スワートの建築造形の ライト・モチーフだということが 次第にわかっていきます。

マディヤーン  マディヤーン
スベダ-ル邸の玄関と ドアの木彫、マディヤ-ン


消えゆく木造建築


 マディヤーンの次は バーレーンの町で、ここにも木造モスクがあるはずでした。 ところが、これもまた取り壊されて コンクリートのモスクに建て替えられてしまい、しかも木造の柱や壁面パネルは すべて売り払われてしまったというのです。いったいパキスタンの政府考古局は 何をしているのでしょうか。こうした貴重な文化遺産が失われていくのを 手をこまねいて見ているだけなのでしょうか。
 このスワート渓谷の町々は、かつては すべて木造の家々がつらなって、背後の緑豊かな自然と 調和した景観をつくっていたはずですが、今では 次々とコンクリートの家に建て替えられて、雑然とした町並みに変貌しつつあります。バーレーンの町にも オールド・クォーターはありましたが、こうした変化が進行していけば、あと 20年くらいで スワートの伝統的な木造建築は すべて消滅してしまうのではないか という気さえします。

 スワート川をさらにさかのぼって ピシュマールに着いて、やっと木造モスクにお目にかかれました。ここにはまるで鳥小屋のような、1本柱の奇妙なミナレットが立っていますが、螺旋階段のついた木造のミナレットは、もうパキスタンには一つも残っていないということです。

ピシュマール  ピシュマール
ピシュマ-ルのモスクの外観と礼拝室内部

 このモスクは 外壁が石と木を交互に積んだ構造をしていますが、東側の外壁の外と 礼拝室の内部に、太さが1メートルほどもある 巨大な木造の柱が立っています。しかも3つの渦が連続する腕木を両側に広げて 巨大な梁を支えている姿は、圧倒的な存在感があります。こうした柱頭のデザインは 実に変化に富んだバラエティが パキスタン北部に分布していて、それらをたどると、どうやら枝を広げた樹木の形を模しているようです。
 しかしこの造形の先祖は、ギリシアからガンダーラに伝えられた イオニア式の柱頭にあるのでしょう。それが仏教時代に カシュミールからラダックへと伝えられ(アルチ・ゴンパの 三層堂 など)、ヒンドゥ教の時代に ヒマーチャル地方に伝えられたものでした(ジャガツクの サンドヤー・ガーヤトリー寺院 など)。ただしインドでは、これほど力強く雄大な木造の柱頭を 見たことがありません

(追記) 9月に インドのヒマーチャル・プラデシュ州を旅してきましたが、タボのゴンパ(チベット仏教の僧院)で 意外なものを見ました。タボというのは 州の東北部、海抜 4,551メートルの クンズム峠を越えたスピティ地方で、中国との国境近くまで行ったところにある 古いゴンパです。訳経僧の リンチェンサンポ(958〜1055)が 10世紀に創建したと伝えられ、西チベットで きわめて重要なゴンパです。
 ここには 6つの堂が建ち並び、いずれも内部は壁画と彫刻で覆われていて、ラダックのアルチ・ゴンパと並ぶ 中世チベット仏教美術の宝庫です。外壁はいずれも土壁ですが、内部は木造で、柱が立ち並んでいます。柱の多くは後世に取り替えられたものですが、キルカン(曼荼羅堂)には2本の円柱が立ち、その柱頭は オリジナルか、それに近い 古いものです。
 驚いたのは その柱頭のデザインが、スケールは小さいものの、上記の柱頭とまったく同じであることで、左右の腕木に3つの渦が彫刻されています。イオニア様式に起源をもつ この柱頭デザインは、ガンダーラから変形しながら西チベットのタボまで伝えられ、それがずっと後の、パキスタンの イスラム教のモスクへと伝えられたようです。タボのゴンパは 昨年から A.S.I.(インド政府考古局)の管理下にはいり、内部はすべて撮影禁止となってしまい、この柱頭の写真が撮れなかったのは、まことに残念なことでした。 (2001/10/21)

カラーム  カラーム
カラ-ムのジュマ-ト(金曜モスク)

 スワート渓谷の一番奥が 標高 2,070メートルの カラームの町ですが、ここには まったく失望してしまいました。涼しい高原の避暑地として 新しいホテルはたくさん並んでいますが、ここには オールド・クォーターさえなくなってしまい、かつての独立王国の面影は まったくありません。
 そして最も有名なジュマート(金曜モスク)、これもまた改変を受けていました。かつて平屋だったものに2階が増築され、バルコニーがめぐらされて トタンの方形屋根がかかり、木造のミナレットは失われてしまいました。それでも 1階部分が保存されていたのは幸いです。両腕を広げた大柱が外にも内にも林立していて、入口まわりには 繊細な木彫がほどこされています。

カラーム
金曜モスクの木彫、カラ-ム

 ところで ピシュマールもそうでしたが、ここのモスクは 内部が壁で大きく二分されて2室となっていることに驚きます。そしてどちらの部屋にも メッカの方向にミフラーブがあって、一体 どちらが主たる礼拝室なのか 混乱してしまうのですが、実は一方が夏のモスクで、他方が冬のモスクなのです。 夏のモスクには通常、中庭があって外気に通じているのに対し、冬のモスクは閉じられていて、大きなストーブで暖房しているのです。イスラム世界広しといえども、他の地域では見ることのできない、寒冷地の ダブル・モスクなのでした。


ムルターンイスラーム建築


 今回の旅のもう一つの目玉は、ムルターン地方に残る 初期のイスラム建築です。インドのデリーに 最初のイスラム政権が誕生したのは 13世紀初頭ですが、パキスタンには8世紀から イスラム勢力が順次侵入していました。それが建築的に パキスタン独自のものとして花開くのは 14世紀ですから、インドでは「デリーのスルタン朝」の中の トゥグルク朝の時代です。
 その中心となる都、ムルターンに ラホールから飛行機で飛んで、のどかな新市街の シンドバッド・ホテルに宿をとりました。ホテルの近くには伝統を生かした 優れた現代建築がいくつも建っていて 好感がもてます。古建築は市の郊外にもありますが、多くが建ち並ぶのは 旧市街の中心の丘の上、カーシム・バーグと呼ばれる、かつての城塞地区です。ここに旧市街を見下ろして建つ シャー・ルクニ・アーラーム廟が、ムルターン様式の代表作です。

ムルターン  デリー
シャ-・ルクニ・ア-ラ-ム廟と ギヤ-ス・アッディ-ン廟

 塀で囲まれた広い境内に 小モスクを従えてすっくと建つ姿は、全体から細部に至るまで 豊かな造形を見せています。これを建設したのは デリーのトゥグルク朝のスルタン、ギヤース・アッディーンと 言い伝えられていますが、彼はほとんど同時期に 自身の廟をデリーの南郊、トゥグラカーバードに建てています。たしかに、内転びで開口部の少ない マッシブな壁と白い大きなドーム屋根は、南アジアにおける初期のイスラム建築として よく似ていると言えます。
 しかし ムルターンとデリーでは 建設材料が異なります。インダス河流域のパキスタンは よい石材に乏しく、インダス文明の昔から レンガで建ててきました。それを荘厳するために ペルシア風の彩釉タイル装飾をほどこすので、カラフルな外観となっていますが、白いドームは塗装です。一方デリーでは 豪華に白大理石と赤砂岩を組み合わせて、後のムガル朝建築の基礎をつくりました。
 形態的には デリーのシンプルでキュービックな造形に対し、ムルターンでは 8角形プランを2層に重ね、各コーナーに小塔を立て、頂部にドーム屋根を載せるという 見事なスタイルを打ち立てました。全体としてはムルターンに勝負あり、というところでしょうか。

ムルターン  ムルターン
シャ-・ルクニ・ア-ラ-ム廟の内部と 天井、ムルタ-ン

 さて中に入ると、スーフィー聖者、ルクニ・アーラームの大きな墓とその他の小さな墓が 所狭しと並べられています。外からは2階建てに見えましたが、実は内部は大きな一体の空間で、その上に 高くドーム天井がかかり、トップサイド・ライトから 光が落ちます。8角形プランの 厚い壁体の上に尖頭アーチを並べて 16角形をつくり、さらにその上を 33角形として、半球ドームへの みごとな移行部を形成しています。

ムルターン
シャ-・ルクニ・ア-ラ-ム廟の ド-ム移行部詳細

 よく見ると、8角形の各コーナーには木造の梁がかかり、それを直角方向の 持ち出しの木造梁が支えています。それは上部の 16角形のコーナー部も 似た構成をとり、さらに上部の 33角形と円の切り替え部には木製の繊細な 歯型装飾が回っています。こうして、全体としてはレンガ造の建物ですが、細部には構造的に、また意匠的に、木を用いていることが わかります。壁面の補強にも木を水平にいれてあるのが 写真から見てとれるでしょう。つまり ムルターンの建築は、レンガと木とタイルを巧みに組み合わせて 魅力的な造形をしているのです。


ウッチュ廟建築


 ムルターンの南 140kmの ウッチュは、名高い 聖者廟(ダールガー)のある 聖なる町なので、ウッチュ・シャリフとも呼ばれます。 中心となるのは スフラワルディー派の聖人、ジャラールッディーン・スルフ・ブハーリーの 廟とモスクの複合体です。いずれも 外壁はレンガ造ですが、中に入ると実は木造建築であって、林立する柱が 彫刻的な腕木の上に梁と根太を支えていて、それらが繊細に彩色されている姿に 息を呑みます。

ウッチュ
ウッチュのジャラ-ルッディ-ン廟、内部

 不思議なのは、居並ぶ墓の中で 屋根つきの主たる墓が 入口からの中心軸上になく、ずっと西寄りに置かれていることです。そのために 写真でも見られるように、入口から主たる墓までの通路が 曲線を描いています。わざと軸線をはずす 日本の美学に近いものを感じますが、この理由は不明です。
 この廟の木造部分は 近世以降に何度も手をいれられたでしょうが、全体の構成は 13〜14世紀のフラットルーフの木造建築を よく伝えています。

 この近くにはドーム屋根型の廟建築が3棟建っています。15世紀の ビービー・ジャウンディ廟はムルターン様式の踏襲で、8角形プランの各コーナー部に小塔を立て、頂部にドーム屋根を架けています。ムルターンのものよりも ずんぐりしたプロポーションですが、青を主とする彩釉タイルの色は たいへん鮮やかで、ドームにも白い釉薬レンガを用いているので、紺碧の空をバックにした姿は 実に強烈な輝きを放っています。
 ところが、この写真で見る華やかな姿の裏半分は まったく残っていません。1817年に サトレジ川が氾濫して大洪水を起こした時に 破壊されてしまい、小塔群の上部も失われてしまったのです。しかしそのおかげで、外からは2階建てに見えながら内部は一つの大空間であるという構造の断面が明瞭に見てとれます。

ウッチュ  ウッチュ
ビ-ビ-・ジャウンディ廟の表と裏、ウッチュ

 放射状にレンガや石を積んだ ドーム屋根というのは、開いて崩壊してしまおうとする力が 宿命的に働いていて、これを「推力」(すいりょく)と呼びます。この推力に いかに対抗するかが ドーム建築の技術なのですが、ムルターン様式では 壁の厚みを下にいくほど厚くすることによって 推力に対抗させ、それを階段状の外観表現にしているわけです。各コーナー部の小塔もまた、そうした バットレスの役割を担っています。このように、建築の造形というのは 常に構造的合理性の追及と一体となって展開されるのです。

ウッチュ
ウッチュに並ぶ 3つの廟

 この ビービー・ジャウンディ廟のそばには、やはり半壊した廟が2棟建っていますが、その一つの廟に祀られているのは、他の2つの廟を設計した ヌリーアという名の建築家だということでした。

(2001 /07/ 10)



TOP



インダス文明遺跡


 上記の旅から9年ぶりに、パキスタンに行ってきました。計画当初は、フンザやバルチスタンの東北山岳部に行って、前回のスワート地方と、インドのヒマーチャル地方との中間部の木造建築を 調べてこようと思ったのですが、この地方は飛行機の便(イスラマーバードから ギルギットと スカルドゥへの2便のみ)が 変わりやすい気候のために たいへん欠航が多く、スケジュールが立てにくいこと、そして陸路は 長時間の山道を行くので疲労困憊になるということで、今回は山岳部はやめて 平地部のみ ということにしました。したがって今回も短期間、再訪の地が多いので、あまり刺激はなく、のんびりした旅となりました。

 パキスタンが競争相手とするインドは、この 20年間に大きく経済発展をし、中国と並ぶ大国となりつつありますが、パキスタンは大きく遅れをとり、ほとんど沈滞しているような印象を受けました。隣国アフガニスタンの動乱の影響をもろに受け、過激派勢力の侵入、テロ事件の頻発、アメリカに協力する政府の 対テロ戦争と政情不安、それに追い討ちをかけるように洪水などの自然災害に見舞われ、社会整備はあまり進んでいません。停電もよく起こり、観光客は激減、そして、大気汚染。旅の間、乾季なので毎日快晴だというのに、9年前のような紺碧の空は一度も見ることなく、常に靄が かかっているような感じです。おそらく、国土全体がスモッグに覆われているのではないかと思えました。

モヘンジョダーロ  モヘンジョダーロ
モヘンジョダーロの遺跡、朝と昼と、かつての修復作業風景

 イスラームではありませんが、インダス文明の遺跡を代表するモヘンジョダーロ(現地の発音は モエンジョダーロ)とハラッパーの遺跡の現状報告をしておきます。モヘンジョダーロは 33年ぶりの訪問で、前と同じく 現地で一泊しました。今はPTDCモテルができている、はずでしたが、外国人観光客がまったく来なくなってしまったので、閉鎖されていました。警察で外国人登録をした時に 記名簿を見たら、私は9日ぶりの外国人です。
 パキスタン人も、午後に一グループがきただけで、あとは 遺跡は数人の見張り人がいるだけで、森閑としています。現在の観光客は、年間で 500人から 1000人と言われています。遺跡の入場料と博物館の入館料が ほとんどないのですから、これでは修復費用も出ません。

 空港から 1km、遺跡の入口手前に博物館、レスト・ハウス(ダク・バンガロー)、考古調査局の施設などがあります。33年前に泊まった、このレスト・ハウスに再び泊ることになりました (私は、何ヶ月ぶりかの宿泊客です)。宿泊室も、食事も、人々の様子も、博物館の展示も、遺跡も、すべて 33年間の時が止まっていたかのようです。もしかすると 人々の生活は、博物館のピロティの壁面に描かれている インダス文明の時代と、あまり変わっていないのではないか、とさえ感じられます。
 これらの建物群は コルビュジエ風です。フランスの建築家、ミシェル・エコシャールの設計で 1960年代半ばに できた頃は、パキスタンを代表する近代建築でしたが、半世紀経った今では ずいぶんと古びて 傷んでいます。

モヘンジョダーロ
モヘンジョ・ダーロ博物館

紀元前 2500年頃の遺跡自体も、かつては発掘工事と修復工事が盛んに行われていましたが、今世紀にはいってからは 発掘も修復も まったく行われていず、モヘンジョダーロの全容解明は 永久になされないのではないかと思いました。塩害による侵食が、今は深部で進行中で、遺跡全体が 危機的な状況にあります。

 見張り人(職員)の一人を ガイド兼荷物持ちにして じっくりと歩き、33年ぶりに写真を撮りなおしていくと、ここには インダス文明が滅びたあと、仏教時代になって城塞部に ストゥーパが建設されたので、その半壊したストゥーパが 写真にシンボリックな効果を与えていることに、改めて気づきます。実際には これがインダス文明の遺跡の一部を破壊したものであるのに、もし これがなかったら、公式のモヘンジョダーロの写真も ずっと魅力のないものになってしまったろうと思うと、皮肉なものです。

ハラッパー  ハラッパー
ハラッパーの遺跡、穀物倉地区とモスクの遺構

 一方、ハラッパーのインダス文明遺跡は まだ訪ねたことがなく、一度は詳しく見て 撮影しておかねばならないと、長年思っていましたので、今回 やっと行くことにしました。なかなか行かなかった理由は、最初に発見されたインダス文明の大規模遺跡であるにもかかわらず、そうと認められる前の 英領時代に、ここのレンガが 鉄道敷設のための舗装材料として大量に持ち去られてしまい、徹底的に破壊されてしまったことと、交通、宿泊とも不便であったからです(モヘンジョダーロには航空便がありますが、こちらには ありません)。
 結局、ここか 近くの町であるサーヒワールに泊るのは やめにして、ラホールで一日タクシーをやとって 朝出発し、昼に3時間ばかり 遺跡と博物館を見て、夕方 ムルターンの町に着く、という旅程を選びました。今は ラホールとムルターンは立派なハイウェイが結んでいて、ノンストップなら5時間で行けます。

 ハラッパーは 全体を見通せるような場所があるわけではなく、小規模な発掘地が点在しているだけなので、これぞといった写真を撮ることは できません。各地区の発掘成果も あまり豊かでなく、くっきりとした都市像が結びにくい状態です。城塞部の北の F地区は 穀物倉群と推測されていて、幾何学的に整然と建物基礎が並んでいるのが印象的でした。

 ところで、モヘンジョ・ダーロに 後の仏教時代のストゥーパがあったのに対して、ハラッパーでは イスラーム支配時代のモスクが AB地区にあります。モヘンジョダーロのストゥーパのように 目立つところにあるわけではなく、また一部しか残っていないので、遺跡の写真を撮るための シンボリックな存在となるわけではありませんが。モスクは ムガル朝以前の 16世紀のもので、ある聖人(バーバー・ヌール・シャー・ワリー?)を記念した、イードガー(イードの祭礼に 都市民が集合して礼拝する 野天のモスク)として建てられたようです。5つのミフラーブを備えたキブラ壁と 全体を囲む塀が、遺跡の古代レンガの転用で造られたのでした。キブラ壁の両端上部には、ミナレットが立っていたのかもしれません。
 ハラッパーの遺跡は、ラホールやムルターンから日帰りができるので、モヘンジョダーロよりは 人が訪れるようですが、ここでも やはり、発掘作業も修復作業も中断したままです。


ムガル朝の都、ラホール


 パキスタンで イスラーム建築の遺産が一番多いのは、ムガル朝の都であったラホールです。第3代皇帝アクバルが、アーグラからファテプル・シークリーへ、そしてラホールへと首都を移し、そのつど 街づくりをし、城塞を建設しました。首都が アーグラやデリーに戻されたあとも、インド西部の要衝として、歴代の皇帝が 多くの建設活動を行いました。
 そのラホールを じっくり見て回るのも 33年ぶりです。かつては のんびりしていた都市も、パンジャーブ州の州都であり、カラチに次ぐパキスタン第2の都市として繁華をきわめ 喧騒の都市となっています。しかも 地下鉄はもちろん 市街電車もないので、すべての交通はバスと自動車とオート・リキシャ ということになり、その排気ガス および工業団地からの排気が ひどい大気汚染を引き起こしています。マスクをすることを怠った私は、すっかり喉を いためてしまいました。
 ここには 古代の遺跡はありませんが、中世のイスラーム建築から シク教時代をへて、英領時代のコロニアル建築まで さまざまな建築遺産があります。 今回は イスラームの主要なものを 順に見ていくことにしましょう。


ラホール城

 都市の北部が ムガル時代に発展した旧市街で、その最北部を占めるのが ラホール城です。アーグラ城やデリー城と並ぶ ムガル朝の広大な城郭で、本来は 堅固な城壁と濠に囲まれていたのですが、大半の城壁は壊され、濠は埋め立てられてしまいました。構内には 数々の庭園と宮殿が立ち並んでいます。これは第4代皇帝 ジャハーンギールが 1622-27年にかけて宮廷を置いたこと、そして 建築皇帝であるシャー・ジャハーンが アーグラやデリーでなしたように 白大理石の宮殿やモスクを建てたことが要因となっています。どの庭園もみな「四分庭園」(チャールバーグ)の原理を基本とする幾何学庭園です。

ラホール城   

ラホール城  ラホール城
ラホール城内の公謁殿、ジャハーンギールの庭院、軒先彫刻

 最も大きな庭園は 当然、公謁殿(ディーワーニ・アーム)が面する四分庭園で、ここには市民が自由に立ち入れました。ここで王室からの布告がなされ、使節や廷臣との謁見がなされ、また裁判が行われたのです。シャー・ジャハーンが建てた公謁殿は 40本の柱が立ち並ぶので、イランの イスファハーンにおける宮殿と同じく「四十柱殿」(チェヘル・ソトゥーン)とも呼ばれました。尖頭アーチが連続する リズミカルな内部空間は、群集のスケールにあった 開放的で雄大な空間です。

 このうしろにあるのが、ジャハーンギールの庭院(クワドラングル)で、池を中心にした 変形四分庭園と ジャハーンギールの寝殿(フワーブガー)が 回廊状の諸室に囲まれています。その回廊を見ていくと、軒を支える腕木に 種々の動物が彫刻されています。宗教建築には 偶像としての生きものの形を絶対に描きませんが、宮殿建築では それは許されました。アーグラ城のジャハーンギール殿においても、同様の形象彫刻が見られます。

ラホール城
ラホール城のタイル・モザイク画

 それと同じく、ラホール城の西側外郭壁には タイル・モザイクによる カラフルな絵が多く描かれていて、そこには 幾何学紋や植物紋ばかりでなく、象や兵士など、生きものの姿も 諸所に描かれています。私室で見る 写本の細密画や壁画とちがって、こうしたパブリックな場所における形象絵画は 大変に珍しいものです。イスラーム以前のインド文化の伝統が 忍び入ったものと言えるでしょう。

 ジャハーンギールの庭院よりも小規模の シャー・ジャハーンの庭院には、正方形の四分庭園を前にして、アーグラ城の寝殿(ハース・マハル)とよく似た 内閲殿(ディーワーニ・ハース)が 白大理石で建てられています。違いは、柱がスレンダーなことと、屋根上に チャトリがないこと、また左右に バンガルダール屋根の付属屋を従えていないことでしょうか。寝殿の床の中央には、みごとな白大理石の水盤が作られています。 スペインのアルバンブラ宮殿と同じように、宮殿の冷房装置として噴水が吹き上げ、この水が 前面の四分庭園へと流れ行くのです。

ラホール城
ラホール城内の 大理石の泉

 白大理石の好きなシャー・ジャハーン帝は、宮廷礼拝堂として、小規模な 真珠モスク(モティ・マスジド)を建てました。同名のモスクは デリー城内、アーグラ城内にもあるので、混同しないように。ただしアーグラ城内では、同様の小規模な宮廷礼拝堂は ナギーナ・モスクであり、真珠モスクという名のモスクは 高台にある大規模なモスクで、城外の大モスクが建てられるまでは、アーグラの金曜モスクでした。
 ラホールの真珠モスクは 少々わかりにくい場所にあり、正面から入るではなく、少し離れた側面の小階段から、そっと入る感じです。これが、女官たちのための宮廷モスクたる所以かもしれません。 規模はデリーの真珠モスクもアーグラのナギーナ・モスクも3スパンなのに対して5スパンと、やや大きめですが、中庭の奥行きが小さいので、写真を撮りにくいモスクです。造形的にもやや おとなしいと言えるでしょう。

ラホール城  ラホール城
ラホール城内の 真珠モスク、ナウラカー殿

 城塞の西端は シャー・ブルジと呼ばれる地区で、四分庭園に面して 鏡の宮殿(シーシュ・マハル)が建っていますが、むしろ 側面のナウラカー殿が目立ちます。これは不思議な建物で、バンガルダール屋根の軒が大きく曲線を描いているのに 曲面屋根はなく、内側に フラット・ルーフが架かっています。中庭中央には円形の池があり(今は水がありませんが)四方の水路から水が流れ込む四分庭園です。
 水面の中央に座所を設け、そこにブリッジで渡るというのが、ムガル朝の最も好んだ 「水の庭園」 です。ファテプル・シークリー、シュリーナガルとラホールのシャーラマール庭園、ヒラン・ミナール、など、そうした実例は多く見られるでしょう。


バードシャーヒモスク

 ラホール城の西側に ハズーリ・バーグ(庭園)を介在して隣接するのが ラホール最大のモスク、バードシャーヒ・モスクです。160m×160mという広大なもので、中庭まで信者が埋め尽くせば 10万人が同時に礼拝できるという、インド亜大陸最大のモスクです。第6代皇帝アウラングゼーブが寄進しました。
 ムガル朝の創始者バーブルは、それまでのデリー・スルタン朝の王がスルタンを名乗っていたのに対し、バードシャーと名乗りました。後継者もこれにならったので、ムガル朝は帝国、王は皇帝と訳します。ジャハーンギールは、寄進した金曜モスクを バードシャーのモスクと名づけたのです。
  デリー、アーグラ、ファテプル・シークリーと並ぶムガル朝の四大モスクのひとつで、掉尾を飾るだけに最も規模が大きく、また よく保存されています。

ラホール  ラホール
ラホールのバードシャーヒ・モスク

 33年前には礼拝室の後方左のミナレットに上りましたが、今回は念願の 北東隅のミナレット(高さ 50m)に上る許可をとって、最良のアングルで撮影することができました。ここから見下ろすと、ヴェネツィアのサン・マルコ広場における サン・マルコ大聖堂を思い出させます。つまり、この あまりにも広い中庭は 中庭というよりは広場のようであり、礼拝室は 広場に建つ独立したモニュメンタルな建物と見えるのです。3連ドームのシンボリックな形態 と合わせ、これが「インド型」モスクの最終到達地点だと言えるでしょう。
 この白大理石の壮麗なドーム屋根は、タージ・マハル廟と同じく、機能的にはまったく意味のない、外観を偉大に見せるための 飾りであるに過ぎません。 実際のドーム天井は、外殻ドームの付け根の高さに 架かっているのです。「インドの石」に書いたように、白大理石のドーム屋根というのは インド(パキスタンも含めて)にしか存在しませんが、二重殻ドームの虚勢を尽くした「彫刻的建築」というのもまた、インド文明独自のものと言えるでしょう。


シャーダラ

 ラホール城から さらに北に3km、ラヴィ川を越えた郊外のシャーダラ(村)にムガル朝の廟建築群があります。大皇帝(グレイト・ムガル)の廟は、第2代フマユーンの廟がデリーに、第3代アクバルの廟が アーグラ近郊のシカンドラに、第5代シャージャハーンの墓は アーグラのタージ・マハル廟に妻と共同で、第6代アウラングゼーブの簡素な墓は 南インドのクルダバードにあり、そして ここラホールにあるのが 第4代ジャハーンギールの廟です。ジャハーンギールはラホールの都を愛し、またこの地で没したからです。
 シャーダラ・コンプレクスと呼ばれるエリアには 四分庭園(チャールバーグ)が3つ並び、エントランス庭園である 長方形のアクバリー・サライの東側が 大規模な正方形のジャハーンギール廟で、西側の小規模な正方形庭園が 家臣のアーサーフ・ハーン廟です。

 ジャハーンギールの墓園は、もともとは ヌール・ジャハーンが造営した、ディルクシャー・バーグと呼ばれる 慰楽の庭園で、約 460m角の広大な四分庭園です(最大の、シカンドラのアクバル廟の四分庭園が 約 480m角でした)。巨大な四分庭園の中央に配されていることは他の皇帝の廟と同様ですが、廟にドーム屋根がないのが、欠如感を与えます。本来 廟には不必要なミナレットは4本も立てているのですから、廟自体は未完成だったのかもしれません(ミナレットの高さは約 30m)。

シャーダラ  シャーダラ
シャーダラのジャハーンギール廟

 建物はジャハーンギールの息子である シャー・ジャハーン帝の命で建設されましたが、廟のデザインは 后妃のヌール・ジャハーンによるもので、 このすぐ前にアーグラに建造した、彼女の父の イティマード・アッダウラ廟をモデルにしたといいます。
 中央墓室にある空墓(セノターフ)は、他に例を見ないモニュメンタルな基台(カタファルク)に載っている。これは見事な工芸品で、シクラメンとチューリップの花を描いた 色石の象嵌細工(ピエトラ・ドゥラ)は繊細です。

 アーサーフ・ハーンは ヌール・ジャハーンの兄、ということは ジャハーンギール帝の義兄にあたり、パンジャーブ地方の太守でした。パンジャーブ地方の首都がラホールなので、彼の墓はジャハーンギール廟のすぐ隣に設けられました。ジャハーンギール廟の ちょうど4分の1の大きさの四分庭園の中央に建っていますが、壁面のペルシア風の彩釉タイルの仕上げは ほとんど失われてしまいました。ドームは 白大理石の仕上げだったようです。ドームの形が特異な球根形をしているのは、後世の改変とも言われています。

シャーダラ  シャーダラ
シャーダラのアーサーフ・ハーン廟とヌール・ジャハーン廟

 シャーダル・コンプレクスから少し離れた(現在の鉄道線路を越えた)ところに、ジャハーンギールの后妃であったヌール・ジャハーンの廟があります。ヌール・ジャハーンは、アクバル帝に仕えたペルシア人宰相 ギヤース・ベーグ(イティマード・アッダウラ)の娘で、アクバルの息子の 第4代皇帝ジャハーンギールと結婚して后妃となりました。彼女の姪で アーサーフ・ハ−ンの娘が、第5代皇帝シャー・ジャハーンの妻となる ムムターズ・マハルです。ジャハーンギールが病に倒れた 1622年から死に至る5年間は彼女が国政を取り仕切って権勢をふるったといい、この廟も彼女自身が存命中に計画しました。

 夫の廟に倣ってドーム屋根を架けず、さらにミナレットも建てずに簡素なものとしました。といっても平面規模はかなり大きく 約 38m角もあり、后妃の廟としては アーグラのタージ・マハル廟と アウランガーバードの ビービー・カ・マクバラー(アウラングゼーブ帝の后妃の廟)に次ぐ 立派なものでしょう。もともとは 大規模な四分庭園だったのが、イギリスが鉄道を通して、庭園を破壊してしまいました。放置された廟からは 仕上げの石材も奪われ、後に 現在の赤砂岩の仕上げとなりました。 少々モダーンなパターンです。


ワジールハーンモスクと ハンマーム

 ラホール市内に戻ると、旧市街で最も重要な ワジール・ハーン・モスクがあります。ワジール・ハーンの称号をもつ シャイフ・イルムッディーン・アンサリが建立したので、そう呼ばれます。これはバードシャーヒ・モスクと違ってペルシア型のモスクで、約 40m× 50mの中庭を かっちりと建物が囲み、四方にイーワーンを立ち上げています。中庭の幅いっぱいの礼拝室は 3連ドームではなく5連のドーム屋根です。ずいぶんと浅いドームであるにもかかわらず 二重殻ドームとしているのは不思議です。何の効果を狙ったのでしょうか。
 このモスクの特色は、むしろ表面の彩釉タイルをはじめとする カラフルな装飾にあると言えます。今は 色が古色を帯びているので、内外とも 実に渋い美しさに満ちています。タイル・モザイクの図柄と色使いは ペルシアとも違い、インドには あまりないので、ラホール独自のスタイルだと言えます。

ラホール  ラホール

ラホール  ラホール  ラホール
ワジール・ハーン・モスクと ハンマーム

 モスクの全体を撮るために、ここでも 北東隅のミナレットに上って撮影することができました。写真の右側に見える道路が カシュミール・バーザールで、ここを 250mばかり歩いてデリー門まで行くと、ラホール最大のハンマーム(公衆浴場)、ワジール・ハーン・ハンマームが保存されて残っています。


シャーラマール庭園

 市の東北部にある大庭園が、建築皇帝 シャージャハーンが巨額の費用を投じて造営した、名高い シャーラマール庭園です(インドの カシュミール最大の庭園と同名で、シャーリマール庭園とも言います)。この大庭園の根本理念は、『クルアーン』に描かれる、敬虔な信者に約束された天上の楽園を 地上に建設することでした。事業は ラヴィ川から運河で水を引くことから始まりましたが、敷地内の工事は 1641年の6月から1年5ヵ月で完成したといわれ、ムガル庭園の傑作とみなされています。平面図に見られるように、ふたつの大規模四分庭園を並べて、その中間に大貯水槽を配して 変化に富んだ三段構成の 露段状庭園にしたものです。全体の規模は 300メートル × 690メートルに及びます。

シャーラマール

シャーラマール庭園の平面図 1642年
2つの広大な四分庭園の中間に大貯水槽を配し、三段構成の
露段式庭園としている。水は右側から低地側の左へと水路を流れ、
水路の交わる各所に水槽を設ける。

 四分庭園は ペルシア語ではチャハール・バーグと呼ばれ、インド、パキスタンのウルドゥ語では チャールバーグと呼ばれます。基本的には 矩形の庭園が水路や園路で田の字型に四等分された庭園形式をいいます。シャーラマールのように大規模になると、園地の灌漑のために もっと細かく水路を通す必要ができ、四分された各庭園を さらに4分割して四分庭園とし、それをまた さらに細かく繰り返します。理論上は 無限に細かく4分割できるわけで、一つの四分庭園は 無数の四分庭園の集合で できることになります。
 どこまでも正方形の田の字の繰り返しでは単調に過ぎると、よその文明の人は考えがちですが、イスラーム世界では逆に、フォーマルな庭園をつくる以上、四分庭園にしなければ安定しない と感じるようです。

シャーラマール  シャーラマール
シャーラマール庭園、以前と今

 この平地庭園は 墓園と違って、建物よりも水が主役です。水の流れと噴水が 庭園を生き生きとしたものにするので、土地に十分な勾配が必要です。シャーラマールでは 南北で6mの高低差があったので、三段の露段状庭園とし、単に水路に水を流すだけでなく、射水路(チャーダル)による水の落下パターンの造形も可能でした。400以上もある すべての噴水が水を噴き上げるのは実に壮観です。
 ところが、7、8月に豪雨があったにもかかわらず、その後の雨季の雨量が少なかったので、庭園の水路に水がなく、貯水槽の水位が低く、噴水もストップしたままなのは、淋しいかぎりでした。


ヒランミナール

 ヒラン・ミナールの史跡は ラホールの西 48kmの都市 シャイフプラの近くにあるので、厳密にはラホールではありませんが、ラホールから簡単に車で行ってくることができるので、ここにいれておきます。
 アクバル帝がムガル朝の首都を ラホールから再びアーグラに移したあと(1600年頃)、その息子で 後のジャハーンギール帝になる王子が、シャイフプラの近くの森の中に 狩猟のためのベースをつくりました。ここに、楽園としての 矩形の人造湖をつくり、雨水と雪解け水を集めました。中央の園亭へはアムリトサルの黄金寺院のように、橋を渡っていきます。その中軸上に、モスクがないのに ミナレットのみが建っているのは、これがウォッチング・タワーを兼ねていたのでしょう。 そこから、この地がヒラン・ミナール(鹿のミナレット)と呼ばれるようになりました。(ファテプル・シークリーにも、同名の 独立ミナレットがあります)

ヒラン・ミナール  ヒラン・ミナール
シャイフプラの ヒラン・ミナール、以前と今

 ほぼ正方形の人造湖の中央にダウラト・ハーナと呼ばれる園亭(パビリオン)を建て、そこにブリッジを渡しただけの、実に単純な構成ですが、その単純さがよい。これもまた「水の庭園」と言えましょう。パビリオンは八角形プランで、2階建ての上に小ドーム屋根を載せて、彫刻的な姿にしています。人造湖の大きさは 260m × 225m、パビリオンは一辺の長さが 7.8mです。ブリッジを架けたのはシャー・ジャハーンだと言いますから、ジャハーンギールは ボートで渡っていったのかもしれません。その方が よりロマンチックだったことでしょう。

ヒラン・ミナール
ヒラン・ミナールの空撮 (Google Maps より


南部、シンド地方


 英領時代のインド政府考古局による、1929年のシンド地方の調査報告書 "The Antiquities of Sind" に、ハイダラーバードと その周辺の 仏教およびイスラーム建築の遺構が多数載っているので、今回はじめて その地方を訪ね歩きました。 ところが、あるものは もう存在せず、あるものは建て直され、また多くは荒廃していて、魅力的なものは ほとんど ありませんでした。
 ヒマラヤからパキスタンを貫いて流れる インダス河というのは英語で、本来はシンドゥ河といいます。この下流域が、河の名に由来するシンド州で、太平洋に面したパキスタン最大の商業都市 カラチ(カラーチー)から モヘンジョダーロまで含みます。カラチの東方 175kmにあるのがハイダラーバードで、今ではハイウェイが2時間で結んでいます。 ルドフスキーの『建築家なしの建築』を読んだ方は、通風塔(バードギール)が無数に立ち並ぶ都市の姿に 息を呑んだことでしょうが、今では通風塔は ほとんど見られなくなりました。
 ハイダラーバード城は、わずかに 高い城壁が街並みの中に残るのみ、カローラ朝の ミアン・グラム・ナビ廟(1776年頃)と、タルプル朝の廟群(1784〜1843年)は いずれも近世のもので、ずいぶんと仕上げが剥げ落ち、ドーム屋根が黒ずんで、良好な状態とは言えません。

ハイダラーバード

カラチ  カラチ
ハイダラーバードとカラチ

 ハイダラーバードの北 56kmのハラの町には マフドゥーム・サヒーブ廟があり、郊外のフダバードには モスクと廟群、またハラへ行く途中の マティアリにも ハシーム・シャー廟 その他がありますが、いずれも同工異曲、荒廃していたり 再建されたりで、特に注目すべきものはありません。
 こうなった原因のひとつは、ここから東に タール砂漠を隔てたインドは、ジャイサルメルなど 石造建築の世界ですが、パキスタンでは良い石材が得られず、古代から レンガを建設材料としてきたので、プラスター仕上げは黒ずみやすく、タイル仕上げは剥落しやすく、どうしても見劣りしてしまうのです。

 カラチには 19世紀から 20世紀はじめの 英領時代のコロニアル建築が、インドのムンバイやチェンナイと同じように 多数残っていて、今も使われているので、よくメンテナンスされています。 それらは9年前に詳しく調べ歩いたので、今回は そのいくつかを のんびりと再訪しました。

 最後に、カラチ国際空港のトイレで見た 珍しい小便器をとりあげましょう。小便器の左右に物が置けるように カウンター式になっているのも珍しいですが、右側にシャワー水栓が付いているのが さらに珍しい。大便器のブースに 水栓とカップが置かれているのは、イスラーム圏やインド圏で普通のことですが(ウォッシュレットの元祖です)、小便器の脇に水栓がついているのは 初めて見ました。用を足したあと、このシャワー水栓で 性器を清めるのです。イスラームの清潔思想を 実によく示しています。

( 2010 /12/ 01 )

HOME

© TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ
kamiya@t.email.ne.jp