CLASSIFICATION of ISLAMIC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー15

宮廷地区 (カスル、カーフ、サライ)

神谷武夫

アーグラ
アーグラ城のハース・マハル 1637年(インド)

BACK     NEXT


イスラームの宮廷地区

 宮殿というのが 各地の王侯貴族の住居であるのに対して、宮廷というのは 首都における君主の生活と政務の場であり、それをとりまく廷臣や君主の妻妾、それらに仕える人びとの集団をいう。イスラームの宮廷が発展し 組織を整えたのは、アッバース朝の時代である。宗教と政治と軍事のすべての権力を併せもった ハリーファ(カリフ)の宮廷には、それぞれの機能に応じた さまざまの施設が必要とされた。
 外国の使節の謁見から公衆の裁判まで執り行う外政の場には 公謁殿(ディーワーニ・アーム)や各種の役所が、内政の場には 高官や官吏と接見する内謁殿(ディーワーニ・ハース)から 政務室、文書館、近衛兵の宿舎までが、そして後宮(ハレム)には 王母と王妃、それに側室たちの生活の場、それを支える宦官や女官たちの寝所があった。さらに全体のサーヴィス部門として 厩舎や厨房、警護所などがあり、それらすべての建物の 機能的な配置と造営には一種の都市計画が必要となる。

城塞  カスバ
トプカプ・サライの第2庭院、司法の塔(トルコ)
同、謁見の間のテラスから対面を見る

配置図
トプカプ・サライの配置図(トルコ)
広大な第1庭院から表敬門を入ると、第2、第3、第4庭院が 奥へと連なる。

 そうした宮廷地区の計画を、現存する建物群によって 最もよく示しているのが、オスマン朝のトプカプ・サライと、アーグラをはじめとする ムガル朝の諸宮廷地区である。中でもトプカプ宮には、政治にも多大の影響力をおよぼしたハーレムの諸施設が 完全に残されていて、スルタンの居所から女官たちの浴室や病院にいたるまでが明らかになっている。
 ところが、宮殿の項にも書いたように、このハーレムにもトプカプ宮全体にも、施設配置の基準になるような 軸線というものがまったく無い。あたかも すべての建物は そのつど、空いている土地に、必要に応じて建て増されていった結果である、とでもいうように。スルタンは、モスクやキュリエの造営にはシナンのような宮廷建築家を起用したのに、宮廷の建築には彼らの才能を欲しなかったのだろうか。

 この章で見てきた建築種別は、どれも幾何学に基づいて 整然とした平面計画が立てられ、立体的にも 幾何学的な反復形として建てられていたのに比べて、これは期待はずれの感を否めない。それが宮廷地区計画の常道なのかと思わせるが、しかしアッバース朝時代に造営された宮廷地区の発掘プランを見ると、そうではなかったことがわかる。
 たとえばバグダードから遷都された 砂漠の新都市、サーマッラーの都における バルクワーラー宮殿は、今は すべてが大地に還ってしまっているが、全体が半円形の櫓を並べた塁壁で 矩形に囲われていた。門を入ると 中央の軸線上に 四分庭園(チャハルバーグ)が 次々と継起し、その奥に宮殿群が 小中庭を囲みつつ 整然と並んで、完全に幾何学的なシンメトリーのプランとなっている(唯一、軸線からはずれているのは、マッカに向けられたモスクである)。

配置図

バルクワーラーの宮殿の平面図 サーマッラー(イラク)850〜60年
(『イスラムの建築文化』1987、原書房 より

 前述のように、建築装飾に幾何学紋が発展したのも アッバース朝の時代であった。当時の都市計画には、カルドとデクマヌスの大通りが直交するローマの駐屯都市(カステルム)からの影響も 残っていたのだろうが、純粋幾何学に近いプランニングや造形というのは、基本的に砂漠的風土の産物なのではなかろうか。エジプトのミラミッドと同様、周囲に頼りとすべき自然が何もない砂漠地域において、大規模な施設を実現するには幾何学と軸線に基づいて計画するほか なかったのだろう。

アズム  アズム
アズム宮殿(ダマスクス)1749年
メインの中庭に面する柱廊テラス、ダマスクス(シリア)

 ずっと後に近世の宮廷を発展させたトルコやインドは 砂漠地帯ではなく、むしろ十分な降雨量のある、変化に富んだ自然の土地である。個々の建物や庭園は イスラームの刻印を押すべく幾何学でつくったとしても、都市計画や住区計画、そして宮殿配置は、むしろ日本のそれにも似て、小規模な施設の分散配置を選ぶことのほうが多かった。
 この章の建築種別で 軸線的でないのは住宅である。宮廷地区は 国家権力の表現としてのモニュメンタルなものであるよりも、住み心地のよい住居の延長として構想されたのであって、ヴェルサイユ宮殿やシェーンブルン離宮のような 巨大な建物は忌避されたのである。

城塞  城塞
メディナ・アサアラ(マディーナ・アッサフラー)の宮廷都市
10世紀、コルドバの近く(スペイン)

 何度も遷都した インドのムガル朝の場合には、デリーやラホールでは 軸線が明確であるが、アーグラやファテプル・シークリーでは かなり崩してある。これは、前2者がペルシア回帰をめざしたシャー・ジャハーン帝による造営であり、後2者はインドの伝統との融和を図ったアクバル帝によるものであったから かもしれない。いずれにせよ、インドでも 巨大な宮殿建築の形態は とらなかった。

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)



アーグラの宮廷地区(インド)については、
「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの「 アーグラ城(赤い城)」を参照。

デリーの宮廷地区(インド)については、
「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの「 デリー城(レッド・フォート)」を参照。

ファテプル・シークリーの宮廷地区(インド)については、
「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの「 ファテプル・シークリー 」を参照。



BACK      NEXT

© TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp