CLASSIFICATION of ISLAMC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー12

種々の施設(タキーエ、ハマーム)

神谷武夫

鳩の家
ガヴァルト村の 鳩の家群(イラン)

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イスラーム諸国の種々の施設

 イスラーム圏に建つ建物を すべてイスラーム建築と呼ぶなら、建築種別は なお多岐にわたる。ここでは、ややマイナーな 種々の施設を概観しておこう。
 修道場(ハーンカー)のことを トルコ語では テッケと呼ぶと書いたが、テッケあるいは、もとのアラビア語の タキーヤ(テキーエ)という呼称は、もっと幅広く用いられた。根本は スーフィーの修行所であっても、それぞれの教団(タリーカ)によって さまざまの機能が付加された。オスマン朝最大の君主 スレイマンは、父王が征服したダマスクスに シナンの設計で「スレイマンのテッケ」を建てさせた。これは 修道場としてよりも、マッカへの巡礼の出発地における 巡礼宿としての機能が主であった。中庭を囲む複合建築で、単室型のモスクには 王立の施設として2本のミナレットが添えられ、中庭の左右には 個室の列、宿泊室、それにモスクの対向面に 巡礼者のための食堂と厨房が設けられた。この隣には スレイマンの後を継いだ セリム2世の命で、同じく シナンの設計したマドラサが 数年後に建てられ、これらのアンサンブルは トルコ国外における シナンの傑作とみなされている。こうした巡礼宿としてのタキーヤも 各地に建てられた。

シナン
ダマスクスのテッケ、1560年(シリア)

 偶像を排することから、イスラームでは 劇場建築というものが発展しなかったが、シーア派では アーシュラーの祭に ハッサンとフセインの殉教劇を テキーエで演ずるので、これが一種の劇場だと言える。イランのザワレには こうしたテキーエが2つあり、固定の観客席こそ つくられていないが、大きな空間の中央に ステージがしつらえられ、四方からシーア派の信者が観劇する 劇場空間であった。トルコのような 巨大ドーム屋根ではないので、正方形プラン内部に4本の柱を立て、9つのドーム屋根を かけわたしている。

テキーエ
ザワレの大テキーエ、殉教劇の劇場(イラン)

 一方、トルコの旋舞教団である メヴレヴィー教団では、白い衣をまとったスーフィーたちが 輪舞をして忘我の境地となる。一種のバレーであって、これを演ずる「舞踊場」が 本拠地のコンヤ以外にも、テッケの付属劇場として各地に建てられた。カイロにあるものは 円形プランの木造建築で、2階席からも眺められるように なっている。しかし、この輪舞の目的は 人に見せることではなく、スーフィー自身が 旋舞によって神との合一体験をすること(サマーウ)にあったから、劇場というよりは 体操場に近いかもしれない。

テッケ
カイロのメヴレヴィー教団の テッケ、1810年(エジプト)

 造形的に興味深いのは、イランやエジプトの農村にある 鳩の家(ピジン・タワー)であろう。鳩をハマームということから、エジプトでは 鳩の家もハマームと呼ぶ。イランのものは2重の同心円の壁が立ち、屋上の小塔の多数の穴から 鳩が出入りする。目的は 鳩のフンを集めることで、内部に巣をつくった1万羽ぐらいの鳩のフンでいっぱいになると、これを壊して 畑の土壌の肥料とするのである。エジプトでは 鳩をも食用にするが、イランでは 食べない。塔の材料は日乾しレンガなので、そば近く寄れば 荒っぽい建物だが、遠目には実に印象深い 農村風景のアクセントである。イスファハーンの近くの ガヴァルト村に、鳩の家の並ぶ風景 は 幻想的でさえある。

鳩の家
鳩の家の立・断面スケッチ (イラン)
(From "Travel Guide to Esfahan" 2003, Rowzaneh Publication)

 同じく 日乾しレンガ造による集団倉庫が、北アフリカ各地の村にある。多くは ベルベル人の穀物とナツメヤシの実の 倉庫である。防御のために 外側を閉じて、中庭を囲んで並ぶ2層、3層の倉庫群は、キャラヴァンサライに似ている。実用本位の建物であるから、装飾は まったく無い。1軒ずつ アプローチするために外部階段が並んでいるのが不思議だが、石で補強した一種のコンクリートで キャンティレヴァーにしている。ときには、この部分に 木材も用いられた。

市場
ゴルファの 集団穀物倉庫(チュニジア)

 こうしたヴァナキュラーな建物に対して、高度な建築、しかも 信じがたいほどモダーンな形をしている施設群は、北インドの数ヵ所にある 天文観測所(ジャンタル・マンタル)である。これらは ムガル朝に臣従したジャイプルの藩王 ジャイ・シングが天文学者でもあったので、当時の最新の天文観測器を 建築的に拡大して建設したものである。その原型は サマルカンドにつくられた、やはり科学者であったティムール朝のスルタン、ウルグ・ベクによる15世紀の天文台であった。日時計、星座儀、子午線儀、天体経緯儀などの観測儀は、ひたすら機能を果たすためにつくられ、伝統的な形態を ほとんど援用していない。そのことが かえって表現派的な造形を生んだのである。

デリー
デリーの天文観測所、1724年(インド)

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)




● インドの天文観測所については、「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの
ジャイプルの ジャンタル・マンタル 」を参照。


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