CLASSIFICATION of ISLAMIC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー13

水利施設(カナート、ノリア、サビール)

神谷武夫

水利施設
カイラワーンの 貯水槽(チュニジア)

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水利施設ー1 (カナート、ナイロメーター、タンク、ポル)

 イスラーム圏は 降雨量の少ない亜熱帯地方に広まったので、生命の源としての水の確保は 為政者に課せられた最重要の課題であった。住民や戦士への飲料水の供給がなければ 都市も聖戦も成立しないし、農業用水が確保されなければ 作物は生育せず、国家の税収入が得られない。したがって 都市も農村も 完全な砂漠では成り立たず、河川や 地下水のあるオアシスに発展した。それでも夏の乾燥期には 水が不足するので、さまざまな水利施設が工夫された。古代ローマから受け継いだ水道橋は 貴重な上水道であったから、海に面したイスタンブルの都でさえ、378年にヴァレンス帝によって建設されたと伝えられる水道橋が、何度も補修されながら 近世まで使われ続けた。

 ローマの水道橋が 水を上空で運ぶ装置だったのに対して、地下の水路を開発したのは ペルシア人である。カナート あるいは カレーズと呼ばれるもので、山のふもとの地下水を、数十メートルから百メートル以上の深さの地下トンネルによって、数 kmから数10 km離れた都市まで、わずかの勾配で 運ぶのである。都市の近くで 地表に出てくるが、その間、約50mおきに 竪坑を掘り、カナート掘り職人が降りる とともに、土砂を地表まで運び出すのに用いた。直射日光を受けない 地下を流れることによって、流水は 蒸発をまぬがれる。この穴が 点々と連なる道筋は、イランや中央アジアの砂漠の 独特な景観である。

カレーズ
カレーズ(カナート)の竪穴群、トルファン(中国)

 村や町まで運ばれた水は 農地の灌漑用水として、水路によって分配される。都市の地下にも 水路がつくられ、道路の傍らや モスクの中庭の地下に、しばしば 水汲み場が設けられた。ここに降りていく階段は 石で堅固につくられ、水汲み場の周囲に ベンチなどが設けられると、後述のインドの 階段井戸に似てくるが、しかし ここにトップライトは無い。

ヤズド
モスクの 地下取水口への階段(イラン)

雨水の利用も 重要であったから、都市には 雨季の雨を貯めておく 貯水槽が設けられた。北アフリカ統治のための ウマイヤ朝の軍営都市 カイラワーンには、第10代 ハリーファ・ヒシャームが 15の貯水槽をつくるよう 命じたという。現在のカイラワーンに残る水槽は、9世紀に アグラブ朝によって建設された。直径 131mと 37mの 大小2つの連接した貯水槽は 深さが5mあり、周壁にリズミカルに並ぶ 丸いバットレスによって 印象深い眺めをつくっている。

 もっと大規模なのは 貯水池で、インドのスルタン・マフムード・ベガラは、グジャラート地方の サルケジに5ヘクタールもの広さの 矩形の貯水池(タンク)をつくり、周囲に離宮やモスク、廟などを配した。貯水池は 沐浴場や洗濯場ともなり、廟に参詣する人たちの ピクニックの場ともなった。

サルケジ
アフマダーバード郊外、サルケジのタンク、15〜16世紀(インド)

 以上見てきた水利施設は、建築というよりは 土木事業であるが、ナイル河の水位を測る カイロのナイロメーターは、きわめて建築的につくられている。ナイル河は 毎年増水期に氾濫し、その程度によって 農地の収穫量が決まる。この水位を測るために、アッバース朝の ハリーファ・ムタワッキルの命で川中島のローダ島につくられたのは正方形プランの竪穴で、ナイル河とは地下トンネルで結ばれ、この底まで 螺旋状の階段が降りている。中央には イオニア式の柱頭を戴く石柱が立っていて、これに刻まれた目盛りを読むことによって、ナイルの水位の数値が 毎日報告された。四方の壁面には アーチ開口のニッチも設けられ、全体として 完全な石造の地下建築となっていて、インドの階段井戸にも似た魅力がある。

カイロ
カイロのナイロメーター、1560年(エジプト)

 川の水を灌漑に用いるには 水路に汲みあげる必要があり、それには 揚水用の水車(ナーウーラ)が用いられた。特にシリアの ハマーの町では、市内を流れるオロンテス川に 木製の水車(ノリア)が多数設置されていて、その姿と水音は この町の風物詩となっている。大きなものは 直径 27mにもおよぶが、水車の先端につけられた 羽根板に乗る水の大半は 川に落ちてしまう。自然の流水だけをエネルギーに使っているので、その効率の悪さは 何ら問題にならないようである。

水車
ハマーのオロンテス川に架かる 水車群(シリア)

 また川に架けられた橋(ポル)が しばしば灌漑用のダムとしても用いられたことは、イスファハーンのハージュ橋の項に書いた。ジャウンプルのアクバリ橋は ダムにはなっていないが、橋の上の両側に チャトリの列があり、それらは 店舗として用いられた。中世において 橋は交通の用途以上のものであり、都市の景観要素としても 重要な役割を果たしていたのである。

橋
ジャウンプルの アクバリ橋、1568年 (インド)


水利施設ー2 (サビール・クッターブ、チェシュメ、バーオリ)

 暑熱の地域では 食物が腐敗しやすい。腐敗した肉を食することによって 命を落としたり、疫病が発生したりすることのないよう、『クルアーン』は たえず注意を促している。アッラーフの名をとなえて屠殺した動物の肉しか食べてはならない という決まりは、腐敗した死肉を 決して食べないように、神の名を出して 定めた条項である。豚に対する禁忌も、もともとは 牛肉や羊肉とちがって 十分に火を通していない豚肉には 寄生虫や細菌汚染の危険があること、野生の豚(イノシシ)は 汚泥や糞尿の中にも入るので 体が汚染されやすかったことによるだろう。

 イスラームの衛生思想は 水による体の洗浄を促し、「信ずる人々よ、おまえたちが 礼拝に立つときには、顔を洗い、肘まで手を洗い、頭を拭い、くるぶしのところまで足を洗え。おまえたちが 身の穢れの状態にあるならば、とくに身を浄めよ」と『クルアーン』の5章6節で述べている。「中庭と泉水」の項に記したように、モスクの中庭には 洗浄のための泉が設けられ、敬虔なムスリムは 日に5回 モスクにおいて、あるいは家庭において 体を浄めなければならない。現在のような、各家庭への上水道の設備は無かったから、都市内には 給水所(サビール)が必須となる。ワクフによって設けられたサビールに、市民は飲料水や生活用水を 汲みに来る。モロッコのサビールは、壁面が タイル・モザイクで美しく飾られるのを常とする。
 今は水道の蛇口に置き換えられているが、かつては 高架水槽からの重力による泉であって、壁から流れ出た水が下部の水槽にあふれると、そこは 動物の水飲み場であった。

フェス
フェスのヌッジャリーン広場の 泉(モロッコ)

 給水所の設置が 最も盛んだったのは 過密都市カイロで、町のいたる所に 華やかに飾られた石造のサビールが建てられ、19世紀には 約 300を数えたという。特徴的なのは、初等教育の寺子屋(クッターブ)と組み合わされることで、下階に給水所、上階に寺子屋をおさめた 「サビール・クッターブ」は、一目でそれとわかる 建築類型をつくりあげた。その下階の大きな開口部には 木製またはブロンズ製の格子が嵌められていて、その格子窓から 水が供給された。
 トルコでは チェシュメと呼ばれ、多くは 地下の給水パイプで送水されたが、カイロでは 水運搬人(サカ)が 人力で運んだ。しかし大きなサビールでは その地下に深い貯水槽を備え、スルタン・カーイトバーイが15世紀に寄進したサビール・クッターブでは 螺旋階段によって降りていける。毎年ナイルの増水期に、皮袋にいれた水をラクダに積んで この水槽に運びいれたという。

噴泉   カイロ

(左)カーイトバーイの サビール・クッターブ, カイロ (エジプト)
(右)アリー・アーガーの サビール・クッターブ, カイロ (エジプト)

 ここから汲み上げられた水は サビールの広間で壁から出ると、その下の 洗濯板にも似た大理石の板(サル・サビール)を流れ落ちて 泡のパターンをつくる(水を曝気して 浄化させるのが目的だが、美的効果も生むので、インドのムガル庭園では チャーダルという滝の板となった)。この水を給水夫が 格子窓から無料で人びとに与えた。広間は2層分の天井高をもち、天井には 彩色がほどこされていることが多い。

 サル・サビールと並んで、本来は実用的、衛生的設備であった噴水もまた 審美的目的に用いられるようになる。モスクの中庭に噴泉は少ないが、マドラサや住宅の中庭では 中央に噴水を設置することが好まれた。見た目の涼やかさ とともに、水音が環境音楽的な効果を生み、楽園をめざした宮殿や庭園には 不可欠の要素となった。タイルで装飾されたモロッコの噴泉や、白大理石に繊細な彫刻がほどこされた インドの噴泉は、常に人びとに愛でられた。

噴泉  噴泉
(左)ムーライ・イスマーイール廟の噴泉(モロッコ)
(右)ラホール城内の 白大理石の噴泉 (パキスタン)

 また、インドに特有の水利施設は、ヒンドゥから受け継いだ階段井戸(バーオリ)である。市民や農民の利用のために掘られた井戸の底まで 石造の階段を降ろしたもので、ひんやりした下層階は、文字どおり 井戸端会議の休憩場所となった。王侯、とくに王妃によって寄進された階段井戸には、林立する柱と梁に 緻密な彫刻がほどこされ、宮殿とみまごうばかりである。

階段井戸
アダーラジの階段井戸、1502年 (インド)

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)


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