聖エチミアジンと 諸聖堂 |
神谷武夫
キリスト教は 中東のシリア・パレスチナで誕生し、急速に周囲に広まっていったが、当時 ヨーロッパから中東地域を支配していたローマ帝国からは 激しく弾圧された。庶民のあいだに定着していったキリスト教を ローマ帝国が公認するのは 313年のミラノ勅令によってであり、それを国教にするのは テオドシウス帝の 350年のことである。しかし、それより半世紀も早く、301年に世界で最初にキリスト教を国教にしたのは 中東の北部にあるアルメニア王国であった。
アルメニア教会を確立したのは(アルメニアの)聖グレゴリウスであったから、アルメニア正教は 東方キリスト教の中の グレゴリウス派と呼ばれることもある。伝説が伝えるところでは、カッパドキアで修行したあと アルメニアに戻って布教していたグレゴリウスは、トリダテス3世王によって地下牢に幽閉されてしまった。 グレゴリウスは 教会の長(カトリコス、総主教)となり、神のお告げによって、その指し示す場所に聖堂を建てた。これが ヴァガルシャパトの中心となる聖堂で、後に何度も再建され、カトリコスの居所としての 聖エチミアジン大聖堂となった。また、フリプシメとガヤネーが殺害された場所には 殉教記念堂が建てられていたが、7世紀には 彼女らを祀る石造の聖堂が それぞれの場所に建設された。首都ヴァガルシャパトは、パルティアの王子であったヴァガルシュ1世 (117-140) が アルメニアの王位に就いてから、120〜140 年頃に創設した都市なので、そう名付けられていた。
ヴァガルシャパト の地図(Google Maps 利用)
ザカフカス(英語では外コーカサス)の小国アルメニアは、内陸国という地理的位置のために 絶えず外部から侵略され、国を滅ぼされ、異教徒の支配を受け、民族虐殺の苦難に会い、離散(ディアスポラ)の民ともなった。ソ連の崩壊によって やっと独立を獲得したが、かつてはその 10倍くらいの国土をもっていたこともある(大アルメニア)。
その大聖堂にエチミアジン(神の独り子の降誕地の意)の名がかぶせられたのは 10世紀のことらしいが、ソ連時代の 1945年からは、これがヴァガルシャパトに代わって 都市の名前ともなった。独立後の 1995年には再び ヴァガルシャパトの名に戻されたのだが、人々は今でもこの町を エチミアジンと呼ぶことが多い。 現在は人口6万人ほどの都市で、聖エチミアジン大聖堂を中心とする宗教都市であるが、巡礼者は大聖堂とともに 聖フリプシメ聖堂と 聖ガヤネー聖堂にも お参りをする。 聖エチミアジン大聖堂の立面図
建築的には、大聖堂が何度も再建、改修されて、現在の姿はほとんど 17世紀のものとなっているのに対し、ふたつの聖堂は より忠実に 7世紀の初期アルメニア建築の姿を保っている。
中東における最初期の聖堂建築は、古代ローマ建築の集会施設に範をとったバシリカ式で、3廊式の長方形プランの建物の一番奥に 半円形のアプス(後陣)がついたものだった。
聖ガヤネー聖堂の平面図と断面図 その単純さにもかかわらず 外観が立体的な姿をしているのは、長方形の外郭の中に 十字架プランを浮き上がらせて、十字架のそれぞれの腕の部分に 切妻屋根を架け、交差部には高いドーム天井を載せ、その塔状部の外観を八角形のドラム(胴部)と八角錐の屋根で構成しているからである。
聖ガヤネー聖堂、ヴァガルシャパト こうした幾何学的な方法は、角錐(あるいは円錐)屋根を除けば、ヨーロッパのロマネスク建築(11、12世紀)と きわめてよく似ている。 ロマネスク建築の源流のひとつが アルメニアにあるとされるのは、このせいである。そして、壁から屋根の頂部に至るまで すべて現地の赤みを帯びた凝灰岩で作られたその姿は、簡素でいながら表情豊かであり、「建築の原型」ともいうべき 清々しい印象を与える。( PC.2, OK.110, MH.48, EC.157dr, 351-3 )
聖エチミアジン大聖堂の平面図 聖エチミアジン大聖堂のほうは、当初の建物は同じように バシリカ式であったと考えられるが、ペルシアによって破壊されたあと5世紀の再建で現在のようなプランになり、後のアルメニアの聖堂建築の原点となった。それは正方形プランに十字形が重ねあわされ、中央の交差部に八角錐の屋根をいただく ドーム天井を架するとともに、十字形の四方にアプスを配して、単なるギリシア十字とは異なった 「四アプス形式」 にしたことである。実際には東側のアプスにのみ祭壇が置かれ、西側のアプスは入り口になっているのだが、この集中式の四アプス形式が アルメニアに独特な聖堂建築を発展させることになる。
聖エチミアジン大聖堂、ヴァガルシャパト ただ大聖堂は その規模の大きさにもかかわらず、内部空間がそれほど偉大に感じられないのは、正方形プランを9等分する位置に4本の剛柱を立てたせいであろう。これらの太い柱が 内部の視覚的広がりを遮ってしまうからである。( PC.1, OK.100, MH.34, EC.117-8dr, 242-5 )
聖フリプシメ聖堂の平面図と断面図 一方、618年に建立された聖フリプシメ聖堂は、内部の柱をなくして、大きなドーム天井をいただく 四アプス・プランの聖堂建築となった(ジョージアのムツヘタにあるジュヴァリ聖堂と ほとんど同じプランであるが、輪郭を完全に矩形にしているところがアルメニア的である)。外観上は 16角形のドラム(胴部)が短く、角錐屋根の勾配もゆるいので、全体として、やや ずんぐりした印象を与えるが、内部空間の一体感は 大聖堂よりも ずっと優れている。
聖フリプシメ聖堂、ヴァガルシャパト
プランは一見 複雑に見えるものの、実は これも シンプルな長方形の外郭をしていて、4つのアプスの脇の外部に それぞれ深い切り込み(ニッチ)を設けて 外観を彫塑的にした 最初の作例なのである。
聖グリゴール大聖堂の平面図 さらに あくことなく建築的探求を続けたアルメニア人は、ヨーロッパには まったく見られない 独創的な聖堂形式を編み出した。643年から 652年にかけて カトリコス・ネルセス3世が、ヴァガルシャパトから5kmの地の ズヴァルトノッツに、壮大にして大胆な構想の カテドラルを建立したのである。それは 4アプスのプランを完全な四弁形となし、その周囲に周歩廊をまわして 全体を円形プランとした。4アプスの隅部に4本の大柱と円柱を立て、そこに大アーチを架け渡し、その上に三層吹き抜けの高いドーム天井を架けるというもので、外壁には多数の窓をうがって、光に満ちた内部空間とした。
聖グリゴール大聖堂の遺跡と復原模型 まことに残念なことには、アルメニアが日本と同じような地震国であったために、10世紀の大地震によって この意欲的な大聖堂は崩壊してしまい、廃墟となってしまった。ヨーロッパのゴチック建築とはちがった、半円アーチに基づく垂直性の強いこの特異な大聖堂は、イェレヴァンの国立博物館にある高さ3メートル近くの大復原模型によって その概要を知ることができるが、この壮大な内部空間を ぜひとも実際に体験してみたかったものである。これが現存していれば、世界有数の偉大な聖堂建築として 称えられ続けてきたことであろう。( PC.6, OK.111, AA.594, MH.80, EC.150-2dr, 338-45, 396-7 )
このように アルメニアが中東にありながら、ビザンチン様式に組み込まれず、独自の建築スタイルを発展させえたのは、コンスタンチノープルの支配に屈せず、独立した教会を維持し続けたせいだったかもしれない。
(「中外日報」2005年1月3日号)
● ズヴァルトノッツを含むヴァガルシャパトの聖堂群は、
● ヴァガルシャパトの町の位置と、市内の他の聖堂については、
● 第1次大戦中に オスマントルコによって、アルメニア人が |