アルメニア北部の建築 |
ローリー県 LORI PROVINCE |
ホラケルト修道院(ヴァンク)** ホラケルト・ヴァンク(修道院)は その塔状部の独特な形態と構造で知られているが、ジョージアとの国境沿いのカフカス山脈の山奥にあり、標高 1,300メートルの密林に埋没している地なので、ここを訪ねるのは楽でない。アラヴェルディの町でジープをやとって 険しい山を登ること1時間半(今は よい道路ができているらしい)、ジリザの村落に着くと、ここに常駐している国境警備兵のチェックを受ける。ジリザから4kmの ホラケルト・ヴァンクと、さらに反対方向に7kmの フチャップ・ヴァンクをジープでまわり、またジリザに戻ってから アラヴェルディに帰るので、1日がかりのエクスカ−ションである。
ホラケルト修道院の遺跡は 1965年の地震で大きな被害を受けたので、現在に残るのは 1251年建立という聖母(アストヴァツァツィン)聖堂と、ガヴィットの周壁のみで、聖堂の内部は荒廃している。聖堂の南側に接して二つの大きな建物の基礎が残っているが、何の用途だったのかは解らない。
現存する遺構の中で 最も興味を引くのは、円錐屋根を戴いた 独創的な 中央ドームの塔状部である。十角形のドラムの上半分は壁であるが、それを下半分の 30本の柱列で支えているのである。それぞれの柱は 六角形の単岩柱で、柱相互の隙間が 通常のドラムにおける窓の役割をするので、内部は明るい。各柱の上下には 同形の柱頭と柱脚がついていて、その上部には大小の三つ葉飾りの彫刻が華やかにドラムを一周している。柱と壁の間には ホゾをかませているとしても ほとんど ピン柱であるから、こうした素朴な構造の塔状部が、800年近くも 地震や風圧に耐えて 崩壊せずに建っているのは 奇跡的である。
ドーム天井が また特異で、6本の交差するアーチが 鮮やかな六角形の星型パターンを作っている。コルドバのメスキータ(スペイン)におけるマクスーラのドーム天井の交差アーチ(10世紀)を思い起こさせる。もっとも コルドバでは8本のアーチであり、全てが金のモザイクで覆われた華やかなものなので、はるかに有名であるが。アルメニアでは、こうしたリブ付きドームは アルザカンの ネグチ修道院(13世紀)などの ガヴィットには見られるが、聖堂のドームに ほどこされたのは、このホラケルトの聖母聖堂のみである。これは 特異な 大 ロトンダであるとも言えよう。
1257年の建立とも伝えられるガヴィットのプランは 定形に近いが、正方形で9つのベイに分かれていながら、中央4本柱ではなく、壁についた8本のピラスターから 井桁状の交差アーチを大スパンで架け渡すという 珍しいものである。同タイプのガヴィットは 全部で4例が知られている。ただし このホラケルト同様、ウシの聖堂とノル・ヴァラガヴァン・ヴァンクでは、屋根もアーチも失われてしまった。筆者未見であるが、アラケロツの近くのデグジュヌイのガヴィットが唯一の残存実例であるらしい。ガヴィットではないが、ハガルツィン修道院 と ハグパト修道院の食堂 では、それぞれ2棟続きの各棟に この構造形式が 見事に残っている。ホラケルトのガヴィットでは、1965年の地震で崩壊するまで 雄大な交差アーチが残っていたので、少し古い本には そうした写真が掲載されている。( PC.153, AA.589, OK.293, MH.206 ) ジョージア国境近くのフチャップ修道院(ヴァンク)は、ジリザから7kmのジョージア教会の聖堂遺跡である。アルメニア教会とジョージア教会の間で所属論争がくりひろげられたが、2006年に決着がついた。ジョージア語ではフジャビ Khujabi 修道院と言い、アフケルピ Akhkerpi 村の近くになる。聖堂は、イヴィロン Iviron の聖母に献じられている。ジョージア聖堂とアルメニア聖堂はよく似ているが、高いドラムと きわめて縦長の窓、破風の大きな十字架などが ジョージア聖堂の特徴である。
この聖堂の外部は石で仕上げてあるが、建物はすべてレンガ造であり、三廊式の内部は レンガにプラスター塗りである。内部は荒廃しているが、かつてはフレスコ画で飾られていたことだろう。聖堂の前面に柱廊のポルティコがあり、多数のアーチが残っている。ドラムは 12角形で、失われた屋根が円錐形だったかどうかは明らかでない。高さは 18.6メートルという。周辺にはいくつかの建物跡がある。
アフターラ修道院(ヴァンク)**
ジョージアの首都 トビリシへ行く道路の、ハグパト修道院への分岐点から 14km北上した半島状の台地にある アフターラ修道院(ヴァンク)は、三方が シャムルグ Shamlugh 川の峡谷に囲まれた 要塞修道院である。主聖堂である 聖母(アストヴァツァツィン)Holy Cirgin 聖堂は 塔状部が失われて、一時は 丸いドーム屋根が冠せられていたが、今は仮設の木造屋根が架けられている。ドームは 完成されなかったのかもしれない。
1015年に バグラト朝が滅びた後、アルメニアは ビザンツ帝国や 1071年(マンジケルトの戦い)以後は セルジューク朝に支配された。しかし 11世紀にジョージアに逃れたザカリア家(王朝)は 次第に勢力を拡大して、12世紀に ジョージアのバグラト朝の臣下として繁栄した。1201年から1360年まで北アルメニアを支配して 半独立の公国とし(ザカリア朝アルメニア)、アニを首都とした(モンゴルに占領される1237年まで)。特に ザカレー公とイヴァネー公の 兄弟の活躍は めざましく、ハリチャ・ヴァンクのカトリケー、ハガルツィン・ヴァンクの聖母聖堂、ゲガルダ・ヴァンクのカトリケーなどを建立した。後にイヴァネーは分れて、ドゥヴィンを含む 東アルメニアを統治することになる。
アフターラの修道院(ヴァンク)が設立されたのは 13世紀の初めで、ジョージアのタマラ王妃 (1184-1213) に仕える ザカリア家のイヴァネー公 (?-1227) が采配を振り、聖アストヴァツァツィン聖堂の内部をジョージア風の壁画で埋め尽くしたという。
聖堂の内部は すみずみまで壁画が描かれている。ザカレー公はアルメニア正教を堅持したが、壁画の指揮をしたイヴァネー公はギリシア正教に転じたらしく、壁画のインスクリプション(描かれている人物の説明など)はギリシア語で書かれている。画風もビザンティン・ジョージア様式である。(もっともアルメニア人はあまり壁画を描かなかったので、アルメニア様式の壁画というのは無いが。)アフターラの壁画群が描かれたのは、1205年から 1216年と言われているが、 13世紀以前だという説もある。( PC.150, MG.270, 275, AG.196. Book )
ハグパト修道院(ヴァンク)***
アルメニア建築が発展したのは、まず 5〜7世紀の古典期で、そのことは第1章の「バガルシャパト」の回に書いた。今回は、その次にアルメニア建築が発展した 10世紀から 13世紀(ほぼ ヨーロッパのロマネスクの時代に当たる)の代表作「ハグパト修道院」についてである。その時代のアルメニア建築はヨーロッパのロマネスク様式と 実によく似ている、ということは 何度も書いた。それは 都市文化が発展する前の 修道院文化の時代であり、この時代の修道院は ヨーロッパでも アルメニアでも 文化センターの役割を果たした。
● 詳しくは、「世界建築ギャラリー」のサイトの
タマラの橋 *
アラヴェルディはデベド渓谷の中心になる町で、ハグパト、サナヒン、オズーン、アフターラ、ジリザ、その他のヴァンクを訪れるための基地である。ジョージアのアラヴェルディと混同せぬよう。標高1,000メートルの冷涼な町で、ジョージアのタマラ王妃が架けた12世紀の石造アーチ橋が 町の中央にある。山の上のサナヒン修道院のあたりが新しく発展して、新(南)アラヴェルディを形成している。
聖ヌシャン聖堂 *
アラヴェルディから悪路 30分、さらに歩 10分。カチャチュクト村 Kachachkut (Kajajkut) の南3kmの セドヴィ渓谷 Sedvi canyon に聖ヌシャン Surp Nshan 聖堂がある。小チャペル、鐘楼、付属建物、周壁の断片がある。( PC.143 )
サナヒン修道院(ヴァンク)***
サナヒン修道院(ヴァンク)、ハグパトとともに、アショット3世の王妃であるホスロヴァヌーシュ Khosrovanush によって、その息子 スンバト Smbat(2世)とグルゲン Gurgen のために建てられたという。長じてスンバトと別れたグルゲンはローリー地方で別王朝を建て、両修道院を拡充して、種々の施設を加えた。
図書館は1063年(OK)アーチが対角方向であるのが異例。それを受けるピラスターのデザインは凝りに凝っていて、1本ずつ異なっている。
カトリケー(カテドラル)**
オズーンのカトリケー(カテドラル)、6世紀に創建され、8世紀に修復されたという。ECでは、Khachgunt Cathedral。背後は深いデベド峡谷の断崖。
北側に 6世紀の石碑のモニュメントがある。 ( EC.169dr, 384-7 )
オズーンの近くのホロマイルにある、断崖の小聖堂(聖ヌシャン聖堂)(PC.134 ) 最近上部が再建されたらしい。
コバイル修道院(ヴァンク)** サナヒンからトゥマニアンへの街道から鉄道を越えて、わかりにくい急斜面の山道を 子供の案内で 15分ばかり登って行くと、半ば廃墟となったヴァンクが現れる。バグラト朝の傍系であるキュリク家 Kyurikid family の娘のマリアム Mariam によって1171年に設立された、コバイル修道院である。13世紀にザカリア家の所有となり、カルケドン派(神人両性説)の修道院となったので、ある時期 ジョージア教会の支配下におかれ、その間に修道院は拡大され、大々的に壁画が描かれた(特に大アプスに)。非カルケドン派のアルメニア使徒教会に戻ったのは 17世紀という。
12世紀末に建設された主聖堂(カトリケー)は 単廊式としては大きいもので、3本の横断アーチで四分され、大きな半円形のアプスを備える。聖堂の南半分と屋根が完全に失われたために、ビザンチン・ジョージア風の壁画で満ちた大アプスが 外部に露出している。風雨にさらされた壁画群が これだけ鮮明に残ったのは 奇跡的であり、アルメニア聖堂における壁画としては、アフターラの修道院に次ぐものと言える。二つのV字形のニッチが 外壁ではなく、アプスの内壁に設けられているのも 異例であり、さらにアプスの窓が二段にわたって5つも設けられているのも異例である。これらを 私が撮影できたのは 2004年の秋のみで、3年後に訪れたときには 大々的に足場が組まれ 修復活動が行われていて、撮影できなかった。 コバイルの修道院の平面図 カトリケーの北側のガヴィットは1276年の建立で、聖堂に比して ずいぶん小型だからだろうか、二方がオープンで、外側に独立柱が建つという 珍しい形式である。しかし カトリケーの壁側の大アーチのみを残して、屋根と柱が失われてしまった(アニのティグラン・ホネンツの 聖グリゴール聖堂における オープン・ガヴィットと同様である)。 アーチの両側上部が スキンチになっているのは、六角形のクロイスター・ヴォールト天井だったのだろうか? 扉口の右の壁面には、ジョージア語の碑文がある。
カトリケーの北側に接しては、ガヴィットと同じ幅の ザカリア家のチャペルがあり、特異な装飾の入口ポータルを備えている。カトリケーに食いこんだような切妻屋根で覆われていて、大聖堂と共有しているガヴィットにも、この屋根が連続して架かっていたのかもしれない。
広い境内は壘壁で囲まれていたが、今は一部を残すのみである。かつては種々の施設があり、中央には 下階がザカリア家の廟で、上階が鐘楼だった建物が ある。長いこと上階が失われていたが、最近 上階のロトンダが再建されたという。
食堂も おそらく13世紀の建立だが、基礎部分しか残っていない。3連のヴォールト屋根の大きなもので、集会室を兼ねていたのだろう。北端の門の近くには、1223年に建立の単室型 葬祭チャペルがあった。これもまた二方にオープンな 小ガヴィットを伴っていた。
( PC.141, AA.547, MH.208, ZD.222 )
バルツラカシュの 聖堂址 *
バルツラカシュの 聖堂址。トゥマニアンという村の名は、19世紀のアルメニアの国民詩人、ホヴハネス・トゥマニアン Hovhannes Tumanian の名からとられている。トゥマニアンの村から山道を分け入って 20分下ると、森の中に、世にも美しい廃墟がある。バルツラカシュ聖堂址とも バルジュラカシ聖堂址ともいう。
( PC.136 )
聖グリゴール聖堂 * クルタン村の古聖堂、聖グリゴール聖堂。( PC.129, EC.105dr, 218-9 )
フネ修道院(ヴァンク)、クルタン村の近くの山中。 修復工事がほぼ終わった。 ( PC.130, EC.266-7 )
広場と 墓地と 聖堂 スピタクは、独立前の 1988年に大地震に見舞われて壊滅し、住民の1/3が命を失った。スピタク大地震と呼ばれる。 災禍はヴァナゾールにまで及び、死者は 約2万5千人という。スピタクの町の中心広場に 震災モニュメントが作られた。建築家 Vardan Harutyunyan のデザインという。大きく拡大した墓地には多くの墓碑やハチュカルが立てられ、仮設的な墓地聖堂が建てられた。
聖ゲヴォルグ聖堂
グルサルには かつてアゼリー人が住んでいたが、ナゴルノ・カラバフ戦争で去ってアルメニア人の町となり、アルジャホヴィットと改称された。ホヴィットというのは谷間の意である。聖ゲヴォルグ聖堂は アルメニアの典型的な初期聖堂で、スピタク地震で大きな被害を受けたが、完全に修復された。ほとんど再建に近い。聖ゲヴォルグとは聖ゲオルギウス、竜を退治するゲオルギー、英語では セント・ジョージ、仏語では サン・ジョルジュと言う。( PC.115 )
ガラ・キリセと、ロシア正教会 ソ連時代の名はキロヴァカン。1993年に近くの川の名をとってヴァナゾールになった。1988年のスピタク地震で被害。ガラ・キリセと、ロシア正教会がある。
INDEX
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タヴシュ県 TAVUSH PROVINCE |
ムシカ修道院(ヴァンク)* ムシカ修道院(ヴァンク)、ノイェンヴェリアンから約 5km の森の中にある中規模の ムシカ・ヴァンク。6世紀の Tvaraekhitsi バシリカ 。( PC.156 )
ガヴィットは正方形ではなく奥行きの長い長方形のプランで、四本柱ではなく入口側に2本の柱を立てて全体に交差アーチをかける構造方法で、これはハグパト・ヴァンクとガンザサール・ヴァンクのみで行われた方法であり、ムシカ・ヴァンクが3例目にあたる(ゲタシェンでは交差アーチではあるものの、独立柱ではなく、西側壁のピラスターで受けている)。
聖サルキス聖堂 *
聖サルキス聖堂、ノイェンヴェリアンから 6km の山奥にある 古い聖堂。わざわざ行くほどのことはないが、軒石のレリーフ彫刻が興味深かった。( PC.154 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 *
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、ヴォスケパル(オスケパル)の丘陵地に孤立して建つ、7世紀の古聖堂。すっかり修復された。
( PC.155, MH.66, EC.136dr, 292-3 )
アラケロツ修道院(ヴァンク)**
ゲタシェンのアラケロツ修道院(ヴァンク)、アラケロツとは「使徒」の意 (Monastery of the Apostles)。13世紀。
ガヴィットはほぼ正方形プランに交差アーチをかけて、天井を9ベイに分割している。入口は西側ではなく南側にもうけられている。中央ベイはスカイライトのあるイェルディクで、石造 ラテルネンデッケ天井になっている。木造の「ハザラシェン Hazarashen」天井を石造に置き代えた構造であるが、このシステムが、 多くのアルメニア建築研究者が主張した、アルメニアの石造ドームの起源であるとは 考えられない。持ち出し構造 (Corbeling) が 真のドームを生んだりしないことは、インド建築の歴史を見れば よくわかる。( PC.166 )
キランツ修道院(ヴァンク)* キランツ修道院(ヴァンク)、ヴォスケパル山脈の奥地の キランツ・ヴァンク 。レンガ造の聖堂は荒廃している。( PC.165 )
マカラ修道院(ヴァンク)*** 有名な マカラヴァンク(修道院)は 県都イジェヴァンから車で行くことになるが、至近の村は東3kmのアチャジュール (Achajur) である。ここを通過するにしても この村の名が表に出ることはなく、修道院は 深い森の中に孤立して建っている。かつては、
マカラ修道院(ヴァンク)、彫刻家が腕をふるった修道院で、ガヴィット内部の柱にも。
マカラ修道院の平面図 、主聖堂は1205年、その前面ポルティコは13世紀
背後の小聖堂は 1198年の建立で、聖母聖堂 Holy Mother of God 、八角形の3アプス式プランだが、ドラムは円形で円錐屋根。主教ヨハネスが両親と兄弟の廟として建てたという。対角方向の四面にニッチがあり、扇形のスキンチを戴いている。全体的に豊かに装飾されている。裏の円形聖堂(聖アストヴァツァツィン)は1198年。( PC.162, AA.552, MH.158, DOC.22, ZOD.305 )
スルヴェグ修道院(ヴァンク)*
スルヴェグ修道院(ヴァンク)、キランツに似た、レンガ造のヴァンク。アイゲホヴィット村 village of Aygehovit の南の山を分け入ったところにある。( PC.164 )
ノル・ヴァラガ修道院(ヴァンク)** ノル・ヴァラガ修道院(ヴァンク)、ヴァラガヴァンの町の南 約 3km の山上にある ノル・ヴァラガ・ヴァンク(新ヴァラガ修道院)。( PC.160, MH.170 )
チャフムラディ修道院(ヴァンク)* ツァグカヴァンのチャフムラディ修道院(ヴァンク)、ヴァラガヴァンから、タヴシュ県の最東端に残る ホラナシャトのヴァンクへ行く予定だったが、サハク・シャカリヤン師が、あの辺は 今はアゼルヴィジャンとの国境紛争で危険なので行っては いけないと言うので、運転手がどうしても行こうとせず、やむなく近場のツァグカヴァンのチャフムラディ修道院の遺跡を訪ねた。( PC.159 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 *
四アプス式平面の4つの円形アプスが 外形に表れた、この愛すべき小聖堂は 通称 モロゾロ聖堂と呼ばれるが、聖母(アストヴァツァツィン)に献じられた聖堂である。イジェヴァンの東北 14kmの ルサホヴィット村(古名はツルヴィズ村)の近くにあったモロゾロ(モルジョリ)修道院(ヴァンク)の主聖堂である。創建は非常に古く、5世紀か6世紀と見なされている。あまり例のない、三つ葉のクローバーのような 古式のプランである。
Murad Hasratian, 2000, Moscow)
ハガルツィン修道院(ヴァンク)*** ハガルツィン修道院(ヴァンク)は、リゾート都市ディリジャンの北 10kmぐらいの 緑の山中にある建築アンサンブルで、ハガルツィンとは「鷲の戯れ」の意。ヴァンクの創設年代は不明だが、一番古い聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂 Surp Grigor Lusavorich (Illuminator) は11世紀であろうと推測されている。小規模で 古いだけに、八角形のドラムは全く飾り気がない。前面のガヴィットは、古いものが ザカリアン家の兄弟 イヴァネー公とザカレ公の命で 1213年に再建された。聖堂とは不釣り合いに 大きなガヴィットとなった。
聖グリゴールの北隣にあるのは、1194年に建てられ、「カトリケーのチャペル」と呼ばれる単室のミニ聖堂である。切妻屋根の最もシンプルな堂であるが、司教の専用礼拝堂だったのだろうか。ハガルツィンは モンゴルの侵攻 (1220-1222) で被害を被ったが、その後まもなく 建設活動が再開され、これらの背後に 小聖堂が建てられた。小さいながらもドームを戴き 半円アプスを持つ十字形ホール式の聖ステパノス聖堂で、1244年の建立である。 1281年に ハガルツィンで一番大きな、聖母(アストヴァツァツィン)聖堂が、ザカリアン家のザカレー公とその弟のイヴァネ―公によって建てられた。東ファサードには二人のレリーフ彫刻がある。基本的には聖ステパノス聖堂とほとんど同じプランであるが、ずっと大きく、豊かに装飾されている。前面にガヴィットが建設されたが ほとんど失われてしまった。基礎だけが残っていたが、2011年以降の修復工事にあわせて、かなり再建されているようである。
聖アストヴァツァツィン聖堂の南入口の脇に、大きなハチュカルが据えられている。聖堂の背後は墓地であり、ガヴィットの南側には 12世紀のバグラト朝の廟があったらしいが、ほとんど残っていない。ガヴィットの西側の、境界壁だけ残る建物は 13世紀のパン焼き場だったという。( PC.168, AA.533, OK.349, DOC.13, MH.154 )
境内の東端にある 食堂兼 集会室は、建築家ミナス (Minas) によって 1248年に建てられた。きわめて珍しい形式の建物である。ほぼ正方形の堂をふたつ連結したような構成で、連結部は壁ではなく2本の独立柱である。それぞれの内部には柱を立てず、この独立柱と壁付き柱から二組の交差アーチを井桁状に架け渡している。それぞれの中央のベイには ムカルナスで飾られたスカイライト開口がある。ハグパト・ヴァンクの食堂と、プランも構造も空間も 非常によく似ている。ほとんど同じ時期に 同じ建築家 ミナスによって建てられたらしい。
これだけ多数の建物がアンサンブルを作っていて、丘上のアプローチ道路からの眺めは悪くないが、いつものように「全体計画」というものがなく、順次 建てやすいところに建て増していったという風なので、中央の通路を歩いていても、自然発生的な街並みのような印象を まぬがれない。
ゴシャ修道院(ヴァンク)***
ゴシャ・ヴァンク(修道院)は ゴシュ村(古名はノル・ゲティック)の北外れの山地にある。古くからあったゲティックの修道院が 1188年の地震で壊滅したが、名高い『アルメニア法』を編纂した12世紀の思想家であり、科学者であり、僧でもあったムヒタル・ゴシュ (1130-1210) の尽力によって、少し離れた地に、1191年から1196年にかけて再建された。地名はノル(ニュー)ゲティックとされた。修道院には学院 (Academy) と写本室もあり、学院からは『アルメニア史』を書いた13世紀の キラコス・ガンザケツィなどが出た。ムヒタル・ゴシュの死後に、修道院は彼の名をとって ゴシャ・ヴァンク、村はゴシュと名付けられた。
境内を囲う周壁はなく開放的であるが、諸堂は分散配置ではなく、丘の上に集合体(アンサンブル)として 密接に立ち並んでいる。メインの聖堂は聖母(アストヴァツァツィン)聖堂で、ハチェーン王家の援助のもと、建築家 ムヒタル・ヒョウスン によって1191年に建設が始められ、1196年に献堂された。長方形の外形の中に十字形の礼拝室を埋め込み、ドーム天井を架けるという 標準的なプランである。4本の壁付半円柱の上にドームを戴く。アプスの両側に小さな2層の祭具室がある。13世紀末に修復されたという。 聖母聖堂の南側に 13世紀の聖グリゴール聖堂が独立して建っている。 1208-37年に建てられた。聖母聖堂と ほとんど同じプランだが、やや小さく、姉妹聖堂のよう。
聖母聖堂の前面には大きなガヴィットが1197-1203年に建てられた。聖堂への入口の両脇に2層のごく小さな室があるのは珍しく、2階の室への階段がつけられている。神学生のための学習室だったのではないかという。4本柱で支えられた八角錐状の天井は、中央にトップライトの開口がある。 ガヴィットの南側に接するように建つ 小さめの聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂は、大きい聖グリゴール聖堂に続いて、1237-1241年に建てられた。ルサヴォリッチは英語ではイリューミネイター で、啓蒙者の意である。装飾豊かで、タンパンとその周囲の入口まわりが特に密度高く彫刻された、珠玉の聖堂である。堂の前面に 彫刻家 ポゴスによる1291年の繊細な「針細工のハチュカル」がある。
2階建てのマテナダラン(図書室と写字室)と鐘楼は珍しい建築タイプで、聖母聖堂の北側に 1241年に建設された。正方形のプランで、2層の建物である。その2階の聖室とその上に建っていたロトンダの鐘楼は、建築家ザキオス Zakios とグリゴールによって1291年に建てられた。2階の入口は学校の屋上から、キャンティレヴァーの階段による。この建物のデザインはアマグ・ノラヴァンク (1339) とイェグヴァルド (1328) に影響を与えたようだ。図書室は1,600冊の本を所蔵していたが、1375年にモンゴル軍によって放火、焼却されさた。
その前面に13世紀の大きな建物があった。今は粗い石の厚い周壁だけが残る。学校だったとも、ハガルツィンのような食堂兼集会室だったともいう。屋根は木造だったと考えられる。
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