アルメニア西部の建築 |
シーラーク県 SHIRAK PROVINCE |
マルマシェン修道院(ヴァンク)*** マルマシェン修道院(ヴァンク)、町から離れた 緑化地と荒蕪地の境に孤立して建っていて、アプローチ道路から見下ろす姿が きわめて印象的である。カトリケー(カテドラル)の前面のガヴィットおよび、さらに前面にあった円形聖堂は 失われてしまった。
カトリケーは、アニのカテドラルも設計した アルメニア最大の建築家、トルダトの設計と伝えられる。( PC.120, AA.553 )
円形聖堂は四アプス型を矩形でなく円形の外郭で囲うという珍しいプランで、ガルニの聖シオン聖堂の小型版と言えるが、いずれも上部構造は現存しない。
マイシアンの ツィラナヴォル(聖母聖堂)、初期の単純な十字架平面の小聖堂で、完全に修復されている。( PC.121 )
ヨート・ヴェルク聖堂(聖母聖堂)*
ギュムリ(レニナカン)のヨート・ヴェルク聖堂(聖母聖堂)、シーラーク県の県都 ギュムリは、19世紀のロシアの支配時代にはアレクサンドロポル Alexandropol と呼ばれたが、ソ連時代にはレーニンの名をとって レニナカンと呼ばれた。 1988年に スピタク地震で大被害をこうむった。
聖アメナプルキチュ聖堂は広場の南側にあり、スピタク地震で大きな被害を受けた。なお修復工事中で、内部は足場のために撮影できなかった。アメナプルキチュとは救世主 (Our Saviour) のこと。( PC.118 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂
アルティックの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、アルティックは人口2万ほどの町で、ローズ色の石灰石の産地として知られている。その石灰石で建てられた聖母(アストヴァツァツィン)聖堂はカムサラカン (Kamsarakan) 家による5世紀の建設と推定され、きわめて古いが、大半は破壊されている。ごく小さいながらも 三廊式の、中央ドーム型聖堂だったらしい。 これは 聖サルキス聖堂とも 聖ゲウォルグ・カテドラルともいわれる大規模な四アプス式聖堂の遺跡で、7世紀後半の建立と推定されている(聖ゲウォルグとは 聖ゲオルギウスのこと)。奥行きが 25メートルにも及ぶ大聖堂で、ドームの直径は 約13メートルもあったが、崩壊してしまった。アルメニアで最大のドームとドラム(胴部)であった。西面と南面のアプスは、外は5角形だが内部は半円形をしていて、入口に用いられた。内部には使徒やキリストの壁画の跡が残る。長く修復工事が続いているが、全部を再建するわけではないだろう。( PC.109, AA.494, EC.137-8dr, 294-7 )
ルンバタ・ヴァンク (聖ステパノス聖堂)、アルティックの北西の丘上の小聖堂。市内からも眺められ、丘上からの眺めも良い。( PC.113, MH.58, EC.132dr, 270-2 )
ハリチャ修道院(ヴァンク)*** ハリチャ修道院は アルティックから4kmのハリチ村にある 生きた修道院で、広い敷地に19世紀後半の建造になる僧室や 学校や 写本室その他の施設、そして菜園まであるので、単に古い聖堂だけでなく、ヴァンクというものの全体を理解させてくれる、得難い実例である。1850年以後に エチミアジンのカトリコス(総主教)の夏の居所として用いられていたという。かつては敷地の西側には川が流れていたので、サグモサ・ヴァンクやホヴハナ・ヴァンクと同じように、峡谷に面する修道院だった。今は川が干上がってしまい、土砂で埋まり、あまり峡谷のイメージではなくなった。
カトリケーと聖グリゴール聖堂の軸線は 20度くらい開いている。 聖堂は複雑な佇まいをしているが、もともと7世紀に建てられた聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂の東に、ずっと大きく新しい 聖母(アストヴァツァツィン)聖堂が 13世紀初めの1201年に建てられたのである。その10年か20年後に(1224年以前)ガヴィットが増築されたが、ふたつの聖堂の中心軸が並行でなく、20度くらいの角度が開いていたので、聖母聖堂の前面のガヴィットは 聖グリゴール聖堂と奇妙な接続をすることとなった。しかし聖グリゴール聖堂は このガヴィットから入るのではなく、もともとの入口の前面に、鐘楼を戴くポルティコが 13世紀に建てられ、ここから入る。これらと、ガヴィットの上のイェルディクの屋根と その上のロトンダ型の屋根とあわせ、前面広場のような中庭からの眺めは、だいぶ賑やかなものとなった。 聖グリゴール・ルサヴォリッチ(啓蒙者)聖堂は四アプス式で、規模は小さいが、マスターラの聖ホヴハネス聖堂や、ハリチのすぐ近くのアルティックの聖サルキス聖堂に近いプランである。各アプスは内部は半円形で、外部は5辺形をしている。小聖堂にしてはずいぶん大きなドーム屋根の塔が立ち上がり、隣の13世紀の聖堂の塔状部にも見劣りしない。ドーム上の屋根は、19世紀の境内拡張期に、なぜか (イスラーム建築の影響か?)アルメニアには珍しい半球ドームにされたので、多くの本の写真ではドーム屋根のままであるが、20世紀末の修復で円錐屋根に戻された。ドラムは 仕切りのない 12辺形で、ほとんど装飾がない。10世紀には東南側に平屋のチャペルが、13世紀には西南側に2層のチャペルが増築された。私が訪れたときには内部は荒れていたが、今はきれいに修復されていることだろう。( PC.112, EC.139dr, 298-9 )
聖アストヴァツァツィン(聖母)聖堂は、カトリケー(カテドラル)でもある。ザカリアン家のザカレー公とその弟のイヴァネー公が 1,201年に建立したと、碑文に記されている。12, 13世紀のアルメニア聖堂の典型的な形式で、ゲガルドのカトリケーなどと ほとんど同型である。完全な矩形の外壁の中に十字形プランを嵌め込み(いわゆる「区切られた十字形」プラン)、中央部にドーム天井を架け、四隅に2層の小祭室 あるいは聖具室を設けるという構成である。特異なのは、入口側の両脇の小室の2階が2本の独立柱と2本のピラスターのあいだにアーチをかけた アーケードのギャラリーになっていることで、非常に珍しい空間構成を見せている。そこに上る階段は 石造キャンティレバーである。
この聖堂の屋根も、本来は唐傘型だったのが 19世紀に円錐型にされてしまい、多くの本には そのままの写真が掲げられているが、20世紀末の修復で 元の唐傘型に戻された。しかも その下のドラムともども 20角形という 珍しい、稠密な形態をしている。ドラムの外部は きわめて装飾的で、3本の小円柱の束ね柱で区切られた20角形の各辺に、メダリオンのレリーフが彫刻されている。こうした装飾方法は、13世紀のガンザサールの聖堂 (1216-38) および ホヴハナ・ヴァンク (1216-21) の聖堂に受け継がれている。 ガヴィットは、家令のヴァフアラム・アネツィ公によって建立された。典型的な4本柱の正方形プランで、アーチ列によって9つのベイに分割されている。各ベイの天井は異なった意匠のパターン彫刻がなされているが、特に中央のベイはイェルディク形式で、全面的にムカルナスで覆われ、頂部にはスカイライトがある。ペルシアにおけるような張りぼてのムカルナスではなく、石造の持ち出し構造のドームに、これほど完璧なムカルナス(スタラクタイト)彫刻がなされているのは 驚異的である。
カトリケーの各ファサードも 入念な意匠と細工のレリーフ彫刻で満ちている。東側の切妻下のパネルのレリーフは、寄進者である ザカレーとイヴァネーのザカリアン兄弟による献堂を描いている。これと類似のレリーフ彫刻パネルが掲げられている聖堂を一覧できるよう 下に紹介しておくが、ハリチャでは 二人が捧げ持つ聖堂の模型が 19世紀に聖母子像のパネルに変えられてしまった。
19世紀にここを居所とした エチミアジンのカトリコス(総主教)は 境内を拡張し、カトリコスの事務所、修道士の宿舎、食堂、厨房、パン焼き所、学校、宿泊所、家畜小屋などを 周囲に建設した。しかしこれだけ広い修道院なのに、墓地がないのは珍しい。ガヴィットのイェルディクの上には、かつては単に横棒を渡して鐘を吊っていたが、後にロトンダの鐘楼が建てられた。
聖ゲヴォルグ聖堂
聖ゲヴォルグとは守護聖人のゲオルギウス、竜を退治するゲオルギー、英語ではジョージ、仏語ではジョルジュ ( PC.105, AA.565, EC.128dr, 258-9 ) 5世紀の北バシリカ。 ( EC.201 ) 6世紀の南バシリカ。 (EC.190)
聖ステパノス聖堂
レルナケルトの中心部に建つ 聖ステパノス聖堂は、アルメニアの最古の聖堂のひとつで、最も単純な単廊式聖堂である。4世紀に建立され、荒廃していたのが、近年修復され、切妻屋根が復原された。(PC.108, EC.90 dr,180-1 )
レルナケルトの北 1.5キロほど、ペムザシェンとの間の丘の上に、半壊した 11世紀のマカラ・ヴァンクがある ( PC.106 ) 。
ホゲ修道院(ヴァンク)*
サルナグビュル村には新聖堂と岩窟チャペル(スルプ・グリゴール)、聖堂廃墟などがある のどかな村。ホゲ・ヴァンクは村の北西2キロぐらいのところで、ピクニックの場所にもなっている。( PC.99 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 サラカプの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂は 四アプス式聖堂であるが、中央ホールが卵形に近い八角形をしていて、各対角上には先の鋭角な翼が突き出るという、他に例を見ないプランをしている。しかも内部は木造である。( PC.101, EC.328 )
聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂 ハイカゾール村の近くの聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂は 矩形のプランの単廊式ドーム・ホール型聖堂で、入口は西側ではなく 南側にのみある。10世紀。中央のドーム部分とアプスおよび前室とは2本の横断アーチで仕切られている。主に赤茶色の石で建てられていることから、カルミール・ヴァンク(Karmir Vank 赤の修道院)とも呼ばれた。現在はトルコとの国境上に位置しているので、兵士が警備していて、そばに行くことは許されない。碑文によれば、修道士建築家のサメハン Samehan によって 980-985年に建立されたという。碑文に建築家 (Varpet) という言葉が現れたのは、これが最初である。( PC.104, MH.110 )
イェレルーク・バシリカ(聖カラペト聖堂)** トルコとの国境をなすアフリアン川の近くのアニペンザ村に残る、5世紀の イェレルーク・バシリカの遺跡である。アニの遺跡からは わずか5kmに位置する。聖カラペトに献じられたと伝えられる。聖カラペトとは、洗礼者ヨハネのことで、かつては廟や4本の記念柱、人工池との複合体であったらしい。最初の、アプスが突き出た三廊式のバシリカとしては、ドゥヴィンのカテドラルをずっと小規模に倣ったのかもしれない。同時代のアシュタラクのバシリカ聖堂が同タイプであり、少し遅れたイェグヴァルドのバシリカはよく似たプランをしているが 上部構造は残っていない。5世紀から6世紀にかけて 周囲に順次増築されて、他に類例のない形式の立派な聖堂になった。しかし今では屋根が失われ、増築部も半壊している。
黄色い部分が最初のバシリカで、順次 周囲に増築された。 バシリカ全体は階段6段分上がった基壇の上に建ち、全長が約 36mであるから かなり大きく、アニのカテドラルとほぼ同規模になる。西側に3連アーチの正面ファサードがあり、南北の側面には4スパンの柱廊があった。柱廊の東奥は丈の高いアプス状になっていて、南柱廊には聖堂への2つの装飾的な入口がある。建物の4つのコーナーにはそれぞれマッシヴな壁で囲われた小部屋があり、主身廊にはT字形の柱が3本ずつ2列立っていた。屋根は 木造だったと考えられている。一番の見ものは、3つの入口まわりの建築的構成および装飾であろう。
西側正面の左右にマッシヴな箱を置き、それをアーチのポルティコで結んでファサードを作るというのは、カルブ・ロゼ聖堂やルエイハの聖堂などと似て シリア的である。正面入口の半円アーチはやや馬蹄形をしていて、直径が内径で約2mと大きく、側面入口の半円アーチは約1.5mで、その上に三角切妻の破風を設けているのが珍しく、イェレヴァンの近くに残るアヴァンのカトリケーのポルティコを思い起させる。( PC.100, AA.522, MH.38, DOC.9, EC.111-3dr, 232-8 )
INDEX
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アラガツォトゥン県 ARAGATSOTN PROVINCE |
四アプス式聖堂 * ザリンジャの四アプスの集中式聖堂。アプスの北側に聖具室がある。( PC.98 )
聖ホヴハネス聖堂 **
マスターラの聖ホヴハネス聖堂、トルコのオスマン朝のモスクのような、ドーム型聖堂。オスマン建築よりもずっと早いとは不思議。モスクの女子席ような、木造の中二階もある。
聖サルキス聖堂 *
シェニックの聖サルキス聖堂は、マスターラの東3km、かつてのシェニック村は消滅し、湖の近くの平原にポツンと残っている。何かの資料に、ドゥプレ・ヴァンクとあったが、聖母聖堂 Surp Astvatsatsin (Holy Mother of God) とも言われる。単室、長方形の聖堂で、20世紀初めに修復されたが アプス前のドーム屋根は 再建されなかった。荒廃した内部に 後世のものか、木造のフレームがある。遠くに もう一つの聖堂、5世紀の聖アメナプルキチュ Surp Amenaprkich が見える。( PC.95, EC.185 )
聖ゲヴォルグ聖堂 *
海抜 2,100m のガルナホヴィット村に残る、7世紀の初期アルメニア聖堂。聖ゲヴォルグとは 聖ゲオルギウス(竜を退治するゲオルギー、英語ではジョージ)のことである。外観や装飾は 近く(8km南西)のマスターラの聖堂に似ているところが多いが、プランはマスターラののような大ドーム式ではなく、バガルシャパトの聖フリプシメ聖堂と非常によく似た 四アプス式である。屋根を除けば、全体によく保存された聖堂である。
西と南の入口にはポータルがつき、アーチの上に切妻の屋根をかけている。その両側の 三角形、というより 台形断面 の切り込み(ニッチ)の奥に それぞれペア柱があるのは、その上に彫像を置いていたのだろう。他に例を見ない作例である。八角形のドラムには 窓が全部で12もある。1997年に屋根の修復がなされて 完全形となった。( PC.97, AA.527, MH.74, EC.142dr, 310-5 )
カトリケー(カテドラル)**
タリンのカトリケー(カテドラル)は、ホール型聖堂で、入口側と 塔の円錐屋根は失われたまま。中央ドーム下の左右のアプスは、どのように用いたのだろうか。( PC.92, AA.580, MH.50、EC.160-1dr, 357ー61,379 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、ECではSURP ASTVATSATSIN-KAMSARAKANNERI 小聖堂。MHではカトリケー。
( PC.92, MH.62, EC.129dr, 264-5,378 )
城塞跡と 墓地聖堂 *
タリンから南へ6キロほど下ったところにあるダシタデム村には、10世紀に創建され、近世まで使われた城塞の遺跡がある。19世紀の円形の櫓が立ち並び、地下にも空間がある。近くに墓地があり、7世紀の3アプス式の小聖堂、聖クリスタポリ(聖クリストファー)が すっかり復原されて建っている。( EC.129dr, 261 )
八アプス式聖堂 * イリンド村に残る半壊の聖堂は、ゾラヴァンのゾーラヴァル聖堂と似た 八アプスの集中式聖堂で、ゾラヴァンと同じく7世紀の建立である。 各アプスは半円形をしているが、西側だけ矩形で エントランスとなっているので、七アプス式聖堂とも言える。半円形のアプス間は、壁厚を薄くするために 外側では浅いニッチのようになるが、そこに いっぱいにアーチをかけているのと、東の主アプスの両側には四角い小祭具室があるので、外観は八アプスのようには見えない。全長は 17メートルくらいあるので、小さくはない。中央部は高いドーム天井なので、外部では塔状に立ち上がり、八角形のドラムの上に、失われた屋根は円錐形だったろう。筆者が訪れたときには再建工事中だったが、2011年に 屋根まで完全に復元されたらしい。 ( PC.89, AA.539, EC.148dr, 332-3 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 *
バイシズの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、イリンドの南 数キロのバイシズ村にある聖母聖堂。矩形の外壁の中に十字形プランを嵌め込んだ「区切られた十字形」のプランで、中央部にドーム天井を架け、半円形アプスの両脇に2層の小祭室を設けている。四方の壁面全体に、細いペア柱とブラインド・アーチのレリーフ装飾が連続している。屋根と塔状部が失われていたが、近年すっかり再建された。( PC.86 )
聖グリゴール・カトリケー(カテドラル)**
アルッチはアゼリー語でタリッシュと言い、今もそう呼ぶ人が少なくない。アラガツ山の西側の あまり地味のよくない土地で、緑も少ないが、5世紀から7世紀のアラブ時代には アルメニア知事のグリゴール・マミコニアンの居所であった。ここに残る7世紀半ばの 聖グリゴール・カトリケー(カテドラル)の名前は、アルメニア使徒教会の創設者の聖グレゴリーと、建設した君主の両方に由来するのだろう。 聖堂の南側には カテドラルと同時期の 661-685年に、マミコミアンとその妻のヘギネーによって建造されたという 宮殿址がある。基礎部分のほかは、20世紀半ばに行われた発掘での出土品しか残らないが。
アルッチの聖グリゴール・カトリケー(カテドラル)は アルメニアの単廊式聖堂の中では最大規模で、長さが約 28mある(三廊式のアニのカテドラルは 34mもあるが)。イェレヴァンの近くのプトグニのカトリケー (プトガ・ヴァンク、6世紀) とよく似たプランをしていて、規模も同じくらいである。どちらも塔状部は失われたままだが、プトグニの聖堂の半壊状態に比して アルッチの聖堂は 搭状部以外は良く保存され、修復されて、実に堂々たるたたずまいをしている。装飾は少なめであるが、その禁欲的な態度と全体のプロポーションの良い立体造形が素晴らしく、なかなか魅力に富んだ建築作品である。
(From "The Armenians" Adriano Alpago Novello, 1986, Rizzoli)
中央ドームは直径が 10mもある大きなもので、ドラムと共に崩壊してしまったが、周囲が完全に修復されているので、これをトップライトとする巨大でバランスのよい内部空間は、十分に味わうことができる。ドームを支える壁付きの剛柱はバットレスの役割もしていて、それが 聖堂全体の崩壊を防いだのだろう。入口側の、装飾がなく 窓だけで構成された壁面は、フォントネーのシトー会修道院を思わせる。西側の正面入口のほかに、南北の壁面の中央にも入口が設けられ、どれもポーチがついていた。
カテドラルの近く、イェレヴァンとギュムリを結ぶ街道沿いにある、半壊の、小規模なキャラヴァンサライ。タブリーズとカルスを結ぶ中世の道路に面していた。南北軸の三廊式の建物で、全体に両流れの大屋根が架かっていた。建設年代は不明で、13世紀から19世紀の間であろうという 大雑把なことしか言えない。
聖ステファノス聖堂 * コシュの聖ステファノス聖堂、17世紀に改築(?)。崖地のヴァンク。わずかに壁画が残る。町には聖ゲオルク聖堂が残る。(PC.67, EC.134dr, 284-7)
城址と カトリケー(カテドラル)**
ビュラカンの町から北西7kmほどのアンベルドは海抜 2,300mの高地で、小河川ではあるが アンベルド川とアルカシェン川の合流点で、壮絶な眺めの大峡谷が展開する。その山上に 10世紀の城郭の遺跡と、完全に修復された11世紀の聖堂が、無人の断崖絶壁の上に 超現実的に姿を現わす。
城郭の周囲には町があり 司教区をなして、カトリケー(カテドラル)が建てられたのだろう。カテドラルは、北のタンパンの裏の内部の碑文が、パフラヴィ朝のヴァフラム王 (r. 967-1045) による1026年の建立と伝える。十字形プランのドーム型聖堂で、入口はの西側ではなく、側面の南側にある。正確な切り石できっちりと作られ、戦災に遭ったわけではないので、保存は良い。1970年から76年の修復によって、荒廃していた石造の唐傘屋根に至るまで 完全に復原された。( PC.69, AA.479, DOC.5 )
テゲール修道院(ヴァンク)*** テゲール修道院(ヴァンク)、石が かなり黒っぽいので、見栄えで損をしている。( PC.58, AA.585, MH.172 )
アルシャク朝の廟
アラガツ山の南の麓、テゲールから少し山を下ったアルツ(旧 ゾラップ)村に、アルシャク朝の王族の地下墳墓がある。かつてはこの上に廟があったと考えられるが、地下墓室だけが残った。単室ではあるが、奥がアプス状になっていて、両側面の壁には大きなアーチ型のニッチがあり、初期アルメニアのレリーフ彫刻がほどこされた 石のパネルが嵌められている。発掘されたのは1970年代なので、トラマニヤンは この地下墳墓を知らなかったことになる。
聖ヨブハネス聖堂 *
ビュラカンはアシュタラクの北西 12kmほどのところにある町で、10世紀初めの単廊式の聖ヨブハネス聖堂が残る。総主教、ドラシャナケルト のヨブハネスによる建立という。何度も改変されたのか、外壁面は数層に前後していて、それぞれに装飾法が異なっている。後陣まわりの外壁上部には古式のブラインド・アーケードがあり、10世紀よりも もっと古いもののように見える。馬蹄形アーチを戴く入口が中央にあり、アプス方向に対して平入りとなっている。何となく不思議な佇まいの聖堂である。聖ヨブハネスとは 聖ヨハネのこと。( AA.503, MH.84 )
ビュラカンの東、町の外にアルタワジクと呼ばれる7世紀の小聖堂がある。入口の前堂のみが残るので小聖堂に見えるが、かつては後ろに礼拝室本体があったが、1840年の洪水で破壊された。正面ファサードの上部、屋根の上に13世紀の鐘楼がシンボリックに聳えていたのだが、近年の地震で 崩壊してしまって、今は無い。聖堂の背後に小川があり、その対岸に大きなハチュカル堂が 珍しい形で建っていて、聖堂と相呼応している。どちらも赤茶色の石で建てられている。( AA.503, EC.283 )
ツィラナヴォル (聖母聖堂) * パルピ(パルビ)のツィラナヴォル (聖母聖堂)、ECでは PARBI 7世紀と10世紀に改造、ツィラナヴォルはアンズ色のこと。 (PC.76, EC.97dr, 202-3 )
パルピのタルクマンチャク ( PC.77, EC.124dr, 252-3 ) パルピの 聖グリゴール聖堂と 聖ゲヴォルク聖堂 ( PC.78, EC.124dr, 252-3 )
カサグ・バシリカ(聖十字架聖堂)*
イェレエヴァンの北 50kmの町アパラン近郊の、近くを流れるカサグ川から名前をとったカサグ・バシリカは、聖十字架(スルプ・ハチュ)聖堂ともいう。4世紀末の創建と推定され(アルメニアがキリスト教を国教としてから1世紀も経っていない)、アルメニア最古のバシリカ式聖堂のひとつである。三廊式聖堂の横断アーチも アーケードのアーチも 馬蹄形をしている。アプスは5世紀後半の増築と考えられ、内部は馬蹄形プランであるが、外部では5辺形をしている。長いことヴォールト天井と屋根が失われて 内部が風雨にさらされていたこともあり、柱群の石の風化が甚だしい。近年 屋根が復原されて、すっかり農家の納屋風の外観になった。
(From "Early Christian Architecture of Armenia" Murad Hasratian, 2000)
聖ヴァルダン廟と 小聖堂 *
アパラン湖のほとりのゾヴニに残る5世紀の聖ヴァルダン廟と小聖堂の遺跡。
(PC.53, AA.594, EC.92dr,376-7 )
ゾヴニの聖ポゴス・ペトロス聖堂*、6世紀のプトグニのカトリケーや7世紀のアルッチの聖グリゴール・カトリケーや、デドゥマシェンの聖タデヴォス・アラキャル聖堂と近似したプランの「ドーム・ホール型」聖堂で、6世紀の聖ポゴス・ペトロス聖堂。聖ポゴス・ペトロスは、聖パウロと聖ペテロ。(PC.53, AA.593, DOC.16 p.49, EC.162dr, 362 )
殉教者の 墓塔 *
アプスのある殉教者の廟をマトゥール (Matur) という。これはどの本にも資料がないので 新しい建物であろうが、2007年に ゾヴニからアストヴァツェンカルに向かう途中で偶然に見つけた 。あまり大きくもないこの建物に心を惹かれたのは、その屋根造形ゆえである。正方形の四辺に切妻を立ち上げ、屋根の頂点から各切妻の頂点に斜めの棟を作り、これらと切妻の斜辺で囲まれた菱形四つで屋根を形成する。単純でありながらダイナミックな屋根造形となり、動きが生じる。こうした原理の屋根として私が思い浮かべられるのは、ラーナクプルのアーディナート寺院など、インドの サンバラナー屋根 だけである。インドの場合には細かい彫刻で満ちているのでわかりにくいが、それを最もシンプルな原理で表現したのが、この墓塔である。
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 *
アストヴァツェンカルの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、2008年に訪れたときには、大々的な修復・再建工事を行っていた。( PC.96, EC.192-3 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 *
アルタシャヴァンの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂、ECでは、7世紀の聖アメナプルキチュ Amenaprkich 聖堂。(EC.277)
サグモサ修道院(ヴァンク)*** 13世紀のサグモサ修道院。きわめて保存が良い。図書館を併設しているが、聖堂のように見える。背後は カサグ Kasagh 川の深い峡谷。( PC.81, AA.567, OK.381, MH.190, DOC.15 )
聖サルキス聖堂 * ウシ村から山を登る。帰路を失う。(PC.80 )
ホヴハナ修道院(ヴァンク)***
聖ヨヴハネス聖堂とガヴィット。唐傘屋根とドラムの装飾は、ハリチャ・ヴァンクとガンザサール・ヴァンクのそれと似ている。 ハリチャは20角形。
ムグニ修道院(ヴァンク)** 17世紀のムグニ修道院。( PC.68, AA.558, OK.461 )
バシリカ聖堂 *
アシュタラクは イェレヴァンの北西 13km、カサグ川の渓谷にある、人口2万足らずの小都市で、海抜約1,100mの温暖な気候の地である。小さな町であるにもかかわらず、歴史は古く、アルメニアで最も古い集落のひとつであったらしい。古聖堂も多く残っていて、城址や古アーチ橋もある。 ごく小さな6世紀あるいは7世紀の単室型の十字形聖堂。三姉妹の二番目の娘の着物の色から カルムラヴォル(赤)聖堂とも呼ばれる。赤いドーム屋根からの命名だとも言う。瓦屋根は新しく見えるが、オリジナルである。3聖堂の内では最も保存が良く、初期中世のアルメニアの十字形プランの小聖堂の典型と見なされる。周囲が墓地であることから、墓地聖堂だったのかもしれない。内部は、アプスのみが半円形プランに半ドームを戴き、他の3本の腕は矩形プランに半円筒形ヴォールト天井である。ドラムは八角形で、ドームはスキンチで支えられている。(AA.497, PC.74, MH.60, EC.133dr, 278-9 )
3つ目はツィラナヴォルのすぐ近くにある聖母聖堂で、スピタカヴォル(白)聖堂とも呼ばれる。上述の伝説の 末妹のための聖堂である。身投げのあと発見された時に、彼女は白い服を着ていたのだという。ツィラナヴォルやカルムラヴォルと同じように、初めは6世紀頃に建立されたようだが、13世紀に再建され、1679年の 地震で半壊した。全体は正方形プランをしていて、東にアプスがある。ドーム屋根だったのかもしれない。
聖マリアネは アシュタラクで一番大きな聖堂である。碑文によると、修道院の一部として 1281年に寄進された。他に宿泊所の建物もあったという。西側に伸びているのは、未完成の聖堂。ラテン十字のプランにしようとしたのだろうか。交差部の高塔の屋根は八角錐。長いドラムと鋭角の屋根が ジョージア風である。アルメニアで最もスレンダーな聖堂ではなかろうか。正面・南翼ファサードの2階の窓が中央にあるのに、1階の入り口が大きく西側に寄っているのは不可解。( AA.498, PC.75, doc.16 p.59 )
聖サルキス聖堂は、13世紀のスタイルで 1986年に再建された小聖堂。カサグ川の上の小高い所に建っているので、どこからもよく見えるし、ここからの眺めも良い。下のカサグ川には、裕福な商人 マフデシ・ホジャ・グリゴールによって 1664年に建設された3連アーチの古橋がある。( AA.498 )
聖マシュトツ聖堂 *
オシャカンの聖マシュトツ聖堂、メスロプ・マシュトツの墓(地下クリプト)442-3年。聖堂は1645年に再建されるが破壊。1875-9年に総主教エヴォルグ4世が再建。1884年に鐘楼が背後に増築された。(PC.62, MH.232, EC.375)
7世紀のマンカノツ、聖シオン聖堂 (PC.61, EC.123dr, 251 ) 西の川向うの四アプス式小聖堂。瓦屋根は近年のもの。 INDEX |
紀元66年から428年まで続いたのが、アルタシェス朝に次ぐ アルメニアの二番目の王朝、アルサケス朝 Arsacis(アルシャクニ朝)で、ヴァガルシュ王(在117-138)は新都市を建設し、その名をとってヴァガルシャパトと名付けた。後にカトリコス(総主教)の大聖堂、聖エチミアジンが建てられて、アルメニアの宗教中心となった。ソ連時代には都市の名もエチミアジンとされたが、ソ連が崩壊してアルメニアの独立後、1995年にヴァガルシャパトの名にもどされた。
ヴァガルシャパトの聖ショガカット聖堂は、聖フリプシメ聖堂の近くに アハマル・ショロテツィ (Aghamal Shorotetsi) 王が 17世紀に寄進した聖堂。そこは7世紀頃の殉教者廟跡であったらしい。柱のない単廊式の聖堂で、間口は狭いが、奥行きが2.5倍もある。中央に丈の高いドーム天井が架かり、12角形のドラムと角錐屋根を戴いている。一番奥のアプスの両脇には小さな祭具室があって、全体を 凹凸の無い矩形のプランに収めている。両脇を閉じたポーチの壁面の、繊細で手の込んだレリーフ彫刻パターンが一番の見ものである。ポーチ上の鐘楼は、インドのチャトリと同じく アルメニア聖堂のシンボルとなって、必ず建てられるようになった。( PC.4, OK.116 , 49-51 ) 聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 、1767年に建てられた最初の聖堂は木造だったという。17世紀に三廊式の地区聖堂として石造で改築された。ロココ調の祭壇を備えている。鐘楼は1982年に建てられた鐘楼は2階が大きなアーチ開口で、向こうの空が透けて見える。
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