パリの ノトル・ダーム大聖堂 |
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今年(2019年)の4月15日に パリの ノトル・ダーム大聖堂で火事がおこり、屋根が炎に包まれ、中央の尖塔が崩れ去る映像に、世界中が驚愕しました。ノトル・ダーム Notre Dame というのは 英語では Our Lady で、文字通りには「我らの女性」の意で、キリスト教徒にとっては「聖母マリア」を意味します。したがって聖母マリアに献じられたノトル・ダーム聖堂というのは 世界中にたくさんあり、フランスの大規模 カテドラル(大聖堂、司教座聖堂)だけでも、パリのほかに シャルトル、ラン、アミアン、ランスとあり、フランスの ゴチック7大カテドラルの内5つを占めます(他は ボーベーの サン・ピエール大聖堂と、ブールジュの サン・テチエンヌ大聖堂)。 建築的に一番評価が高いのはシャルトルの ノトル・ダーム大聖堂でしょうが、首都 パリのノトル・ダーム大聖堂は 最も有名で、最も多くの人に見られ、親しまれてきたので、単に「ノトル・ダーム」と言えば パリのノトル・ダーム大聖堂を指すようになりました。
フランス人は そんなふうに 意識していないでしょうが、その感覚は 体に深く刻み込まれているのだと思います。それが 炎に包まれたのですから、彼らのショックは 日本人が考える以上のものです。ゴチック様式というのは フランス、それも パリを含む イル・ド・フランス地方が生んだもので、初期ゴチックを代表する ノトル・ダーム大聖堂は、フランス人にとっての 故郷のようなものです。日本で言えば、法隆寺といったところかもしれませんが、それが首都の ど真ん中にあるのですから、いっそう 人々とのつながりが 大きいわけです。 ![]() ![]() パリのノトル・ダーム大聖堂(全部 1974年撮影) 日本では「ノートル・ダム」と言っていますが、「我らの」という意味の 所有形容詞はノトル Notre であって、ノートル Nôtre と言うと、「我らのもの」という 所有代名詞になってしまいます。女性、婦人は Dame で、時により ダムとも ダームとも発音されますが、ノトルが付く時には ノトル・ダームと発音することが多いような気がしますので、本稿では「ノトル・ダーム」と表記します。 さて、ノトル・ダーム大聖堂は 石造なのに、なぜ火事になったのかというと、聖堂本体は石造であっても、屋根が木造であるからです。キリスト教聖堂が ヨーロッパで建てられ始めた7世紀から 10世紀、初期キリスト教聖堂というのは、エジプトの砂漠では 土で造られたでしょうが、ヨーロッパにおけるものは 木造が基本でした。それらが 今 残っていないのは、後に石造で建て直されたのも さることながら、多くは 火事で焼失してしまったのです。建物全部を木で造るのは あまりに燃えやすいので、次第に 外壁と、身廊と側廊を隔てるアーケードを 石造にし、その上に 木造の屋根を架けるようになります。なぜ 木造屋根にしたかといえば、木材が豊富にありさえすれば、石で アーチや ヴォールト、ドームを作るよりも ずっと容易(たやす)く、費用も少なくて済んだからです。
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主要都市の大きな聖堂も この方式でしたが、この場合 火事で屋根が焼け落ちると、壁とアーケードを 互いに支え合うものが 無くなってしまうので、建物全体が 崩壊してしまいます。そこで ロマネスクの時代(11〜12世紀)に、建物を不燃化すること、つまり天井(屋根)を石造にする(ドームや ヴォールトにする)ことが探究され、次第に 聖堂を石造に 改築、再建していきました。カトリックの総本山たる ローマのサン・ピエトロ大聖堂も、ロマネスク時代の旧聖堂は、屋根は木造でした。
初期の石造屋根は、半円筒形(トンネル型)ヴォールトが多かったようです。ヴォールトというのは、フランス後の ヴート voûte を英語化したもので、石を積んだ 曲面天井のことです。かつては「穹窿」(きゅうりゅう)などと訳されましたが、むずかしい字で 解りにくい言葉なので、使われなくなり、今では 英語の ヴォールトと言うのが一般的です。そのフランス語の 動詞形は ヴテ voûter で、石造で屋根を造ることを 意味します。半円筒形のトンネル・ヴォールトが その典型ですが、半球形のドーム dôme も ヴォールトの一種で、かつては「円蓋」(えんがい)などと訳されました。
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こうして聖堂は 石の構造体で囲まれて、完全な不燃化が行われました(断面図の緑色の部分)。しかし 石造の交差ヴォールト天井を、そのまま屋根にするわけには いきません。雨の多いヨーロッパでは 防水の問題があり、雨をできるだけ早く外に流すためには、日本と同じく 勾配屋根を架けるのが 効率的です。そこで 連続交差ヴォールトの天井の上に、切妻型の 木造屋根を架けたのです(赤い部分)。非常に高い位置にあるので、普通は 出火しないし、仮に 燃えても、聖堂本体は 石でくるまれているので、一応「耐火建築」であるわけです。 ![]() 屋根は 下の平面図に示されるように、丈の高い主身廊とトランセプト(袖廊)が 交差して十字架状をなし(縦軸が横軸よりも長い ラテン十字)、ここに メインの 高い位置の屋根が架かり、側廊には 低い位置に、屋根が架かっています。 今回の パリのノトル・ダーム大聖堂は たまたま 部分的な修復工事中で、中央尖塔の周囲に 足場がかけられていて、ここからの失火で 火事になったようです。作業用の薬品なども 置いてあったのかも しれません。早く消火されれば、石造の本体には あまり影響がなかったことでしょう。しかし 出火に気付くのが遅れたことと、非常に高い位置なので 消火水が届きにくいこともあり、屋根の 2/3と 中央尖塔が 焼け落ちました。石は燃えませんが、それだけの長時間 火と熱にさらされていれば、石の組織が劣化して割れやすくなります。祭壇前の天井が 一部崩れて 穴があいた ということです。建物全体が倒壊するほどのもの とは思えませんが、影響調査は必要でしょう。 中央の尖塔というのは、カテドラルに必須 というわけではありません。7大ゴチック・カテドラルの中では、パリとアミアンにだけあり、ランスでは小型のものが 屋根の最東端についていますが、他のカテドラルにはありません。シャルトルでは 鍾塔に尖塔屋根が架けられているので、中央には 造型的に必要ない わけです。パリは正面ファサードが ややずんぐりした印象なので、造形的に、背の高い塔を付加したくなったのでしょう。あとからの付加ということが 構造的な不安定を生んだようで、落雷によっても 幾たびも倒壊、炎上しています。危険なので 取り壊されていたのを、修復建築家の ヴィオレ・ル・デュクが 復旧設計をし 再建したのです。しかも 高さを かつてより 10メートルも高くして。
![]() ![]() 18世紀には、パリのノトル・ダーム大聖堂は 荒廃して、廃墟のようになっていた と言います。それを ゴチック・リバイバルの風潮や、ヴィクトル・ユゴーの 長編小説によるキャンペーンなどを背に、修復計画のコンペが行われたのは 1842~43年でした。ジャン・バチスト・ラシュスと ヴィオレ・ル・デュクの協働案が 最優秀と評価され、一等をとりました。修復工事は 1845年に始まり、20年近くかかって 1864年に終了しますが、途中 ラシュスが 1857年に世を去ったので、あとは ヴィオレ・ル・デュクが一人で 遂行しました。彼は パリのノトル・ダーム大聖堂が現存することの恩人だと言えますが、過度の修復デザインによって 非難もされています。特に 中央尖塔は 攻撃の 矢おもてに立たされたようで、今回の 火災による倒壊に対しても、ヴィオレ・ル・デュクの「作品」を惜しむ という声は、あまり高くは あがらないのではないか と思います。 フランスのマクロン大統領は ノトル・ダーム大聖堂を「再建」すると 言っているようですが、燃えたのは 屋根の 2/3と中央尖塔であって、聖堂本体は無事なのですから、「再建」ではなく、「修復」と言うのが適当です。中央尖塔については「復元」するにしても、どの段階に復原するのかは 難しいところです。ヴィオレ・ル・デュクのデザインにか、その前のものにか、「創建時」のものにか、その記録や図面はあるのか? いろいろ議論されることでしょう。
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こうした ヨーロッパのキリスト教聖堂に対して、イスラーム建築は どうだったのかを 見ておきましょう。まず、中東における 初期(古典期)のモスクというのは 「アラブ型」で、列柱ホールの上に 木造屋根が架けられていました。初期のキリスト教聖堂と 原理的には同じですが、ヨーロッパでは雨が降るので勾配屋根にしますが、中東では あまり雨が降らないので、木の梁を並べた上に 土を踏み固めた 陸屋根(フラット・ルーフ)です。木材に乏しい中東では 内装にも 石や土を用いたので、火事になる度合いも 少なかったと思われます。「焼成レンガ」が普及し、ドームの建設技術も進歩すると、列柱の上に ごく浅いドーム天井(屋根)を架けて連続させ、全体としてフラット・ルーフのような「アラブ型」モスクにして 不燃化を図りました。
![]() (From Ebba Koch "Mughal Architecture", 1991, Prestel) この石造ドームが 最も発展したのが トルコで、オスマン帝国のモスクは ほとんどすべてが、二重殻ではなく、壮大な一枚の石造ドームで覆われています。天井と屋根が一体化していて、鉛で覆って防水しているので、外観は黒っぽいですが、完全な耐火建築です。
![]() (From Henri Stierlin "Architecture de l'Islam", 1979, Fribourg) ヨーロッパでは、ドーム型の聖堂というのは、ルネサンス以前には ペリグのサン・フロン大聖堂や アングレームの サン・ピエール大聖堂(どちらもロマネスク)などに見られるだけで、ごく稀であり、ゴチックのカテドラルのほとんどは、石造の 連続交差ヴォールト天井の上に 木造の屋根を架けました。今にしてみれば、完璧な不燃化では なかった とも言えます。それは、木材が豊富だったので、銅版葺きの木造屋根に 愛着があったからでしょうか。 ![]() ( 2019 /04/ 18 )
この様式が 13世紀に 北フランスからフランス全体に広まり、さらには ヨーロッパ全体に伝播してゆきました。つまり、「ゴチック様式」というのは フランス起源であり、フランスで発展したものです。これをフランス語では GOTHIQUE と綴り、これが英語に入って GOTHIC となりました。 フランス語の THI は TI と同じで、「チ」と発音します。英語では奇妙な発音をしますが、これを日本語では さらに奇妙に「シ」と表記し、そう発音するようになりました。多少なりとも フランス語をかじった者にとって、GOTHIQUE(ゴチック) を「ゴシック」などと 言ったり書いたりする気には、とても なれないのです。
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