前回は ファーガスンの『世界建築史』を紹介しましたが、「世界建築史」の分野で ファーガスンの対抗馬となったのが、やはりイギリスの建築史家、バニスター・フレッチャーによる「世界建築史」です。ファーガスンの本は、彼の死後に一度だけ改訂版が出版されましたが、フレッチャーの方は、十数回にわたって改定増補され続けましたので、広く世界に知られ、大学における建築史教育に用いられ、学生たちも買いましたので、ファーガスンの本を はるかにしのぐ知名度の高さを獲得しました。 驚くべきことには、日本では ファーガスンの本が何一つ翻訳されなかったのに対して、フレッチャーの建築史は、極めて大部の書であるにも関わらず、2回も邦訳・出版されましたので、日本においても、フレッチャーの建築史を手に取ったことのある人は多数にのぼります。そこで、この「古書の愉しみ」シリーズにおいても、珍しく 邦訳本(これも古書ですが)と共に紹介します。
まず、原書の題名ですが、1896年に初版が出版されたときから、題名の主部は “ A History of Architecture on the Comparative Method (比較の手法による建築史)ということで、「世界」という語は入っていません。しかし、当初は西洋建築のみを扱っていたものの、何度も改訂増補されるうちに世界全体を視野に入れ、特に第 19版の邦訳版では、題名が「世界建築の歴史」とされました。1919年の邦訳版では、他の「世界建築史」と区別するためでしょうか、タイトルに著者名を添えて、『フレッチャア建築史』と 題されました。 これが訳者の希望であったのか、あるいは 出版社(岩波書店)の意図であったのかは わかりません。「古書の愉しみ」シリーズでも、他の「世界建築史」を採りあげることも あろうかと思いますので、この本の日本語での呼び名は、『フレッチャー建築史』を 踏襲することにしました。
次に、著者のフレッチャーですが、これは一人ではありません。フレッチャー「親子」です。 しかも、ファミリー・ネイムだけでなく、ファースト・ネイムも 同一のバニスターです。そのために、今回取り上げる第5版では、はなはだ わかりにくいですが、バニスター・フレッチャー教授と、バニスター・F・フレッチャーの共著 となっています)。
父フレッチャー(1833-99)は、あまり詳しいことはわかりませんが、大学で教える建築家であり、次第に建築史にのめりこんだようです。二人の息子がともに建築家になり、父の事務所に参加したことから、事務所名を「バニスター・フレッチャー・アンド・サンズ」とした、建築家一家でした。
長男(1866−1953)は、バニスター・フライト・フレッチャー卿と言って、ロンドンのキングズ・カレッジの教授や王立英国建築家協会の会長も勤め(1929-31)、爵位(1919)も得ています。一方では、法廷弁護士であり、有能なビジネスマンでもあった といいます。父に従って建築史を研究するようになり、本の初版から手伝っていたようです。 (初版時には まだ 30歳ですから、補助的な役割だったでしょう。)
初版が出た1896年は、ファーガスンの『世界建築史』の出版の約 30年後ですから、大きな影響を受けており、そもそも、それ以前のファーガスンの活動に刺激されて、建築史研究に入っていったようにも思えます。
『フレッチャー建築史』版元装幀の第5版
初版は 313ページに図版が 115ページ、18cm×12cmの小型本でした。ハンディな小型本であったことが 逆に受けたのかもしれません、ほとんど増刷のようなかたちで 第2版、第3版を出し、1901年の第4版になって 変化が現れました。ページ数が 531ページになって 図版も 256ページに増加し、ファーガスンの本に近い 22cmの大きさになりました。しかも、この第 4版において、初めて西洋以外の建築が加えられました。
これが 父フレッチャーが世を去った2年後の 1901年ですから、「世界」建築史に発展させようとしたのは、息子フレッチャーであったと思われます。そして、彼がこれを全面的に書き改めて 1905年に出版したのが、今回とりあげる第5版です。ページ数は 738ページに増補され、挿図も 700図増加して、2000に達しました。
全面的に彼の単著とするのは 次の第6版からで、この第5版は まだ親子の共著となっていますが、ここにおいて この本の叙述方法と体裁が確立しましたので、この本の出版史のなかでは、最も重要視される版です。
この版では 全体を2部に分け、第1部(全体の 88%)を「歴史的様式(Historical Styles)」、第2部(残りの 12%)を「非歴史的様式(Non Historical Styles)」としています。「歴史的様式」というのが西洋建築であり、「非歴史的様式」というのが東洋建築だというのは 驚くばかりですが、この書は あくまでも「西洋中心の世界建築史」であったと言うべきです。
ファーガスンにおいては、彼の建築哲学が 序論において詳細に展開されていますので、建築史記述の根拠は きわめて明解であり、またインドをはじめとする 東洋建築を西洋建築と対等に扱おうとしていたのに対して、これは ずいぶんと粗雑な「世界建築史」であったと思われます。
東洋建築が「非歴史的」であるという根拠は何ら示されず、単に 東洋への無知と蔑視の結果であることは 明白です。
第5版の本文と図版のページ
次に図版ですが、フレッチャー建築史を有名にした重要な要素は「比較の手法による」多数の図版でした。これらは大きな掛図となって、日本でも 東大をはじめとする 多くの学校で用いられたようです。しかし、その図版に対してはまた 拒否感を示す学者や建築家も多くいました。ワトキンは『建築史学の興隆』(2000、桐敷真次郎訳、中央公論美術出版)の中に、こう書いています。
「これらの図版は 1901年の第4版に 初めて現れた・・・・・。その特色ある絵画の図版は、すべての建物を 大なり小なり 似たようなものにしてしまう、気が滅入るような印象を もたらした・・・・・。
ブルース・オールソップが言ったように「彼の本は、建築に関する歴史的思考の衰退を反映している。風土的、地理的、人種的、歴史的要因が タブロイド新聞のような 要約された形式で列挙されている。精神に対する挑戦、証拠物件の比較考量が まったくない。」
私にも そんな印象があり、ファーガスンに比べて あまりフレッチャーが好きになれない原因のひとつです。しかし この本の装幀は、金の箔押しによる意匠が なかなか魅力です。やや装飾過多ではありますが、当時のアール・デコ様式が反映したデザインは秀逸なので、この布装の版元装幀を 革装に仕立て直す人は少なかったようです(古書市場にも ほとんど出てきません)。
不思議なのは、邦訳版が この意匠をまったく捨ててしまって、別の装幀を していることです。表紙の金色箔押し部分は「建築の樹」をベースにしているようですが、『○氏建築史』という題字の ○が何という漢字なのか、フレッチャーの頭文字なのでしょうが、本の中にも書いてないので わかりません。
邦訳版『フレッチャア建築史』
翻訳は 古宇田實(こうだ みのる 1879-1965)と 齋藤茂三郎(さいとう しげさぶろう)による共訳でした。 その分野の専門家と 語学の専門家が共訳をするというのは、誤訳を防ぐ上で、たいへん よいことです。古宇田は 東京帝国大学出身の建築家で、当時 東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授を務めていました。
邦訳版が 原書と大きく変えた もう一つの点は、全編に挿入されている図版を、いかなる意図のもとか、全部ひとまとめにして 巻頭に納めてしまったことです。これによって、本文と図版との照合が 面倒になったと思います。当時 帝大教授であった伊東忠太が この本に序文を寄せていますので、ここに再録しておきます。
伊東忠太の序文
凡そ建築は 社会と極めて親密なる関係を有するものである。例之ば 今日 住宅問題が世界到る処に 政策上からも学術上からも 研究されて居るが如きは その一端を語るものである。世の文明の民と称せらるる程のものは 是非共 建築に関する一通りの知識を備えて居らねばならぬことは 今更 蝶々を要しないことであるが、我国に於いては 残念ながら国民一般に 建築に関する知識が皆無と言ふてもよい位である。今日 朝に興り夕に成る 無数の建築を見ながら、国民は 第一その建築が 如何なる様式に属するか、それは如何にして発達したるものであるか、全く知る處がない。奈何ぞ その建築の善悪を論じ、美醜を評するを得べき。斯の如くにして 奈何ぞ建築の進歩発達を期すべきや。
世の建築の発生発達を研究し、各種の様式及其相互の関係を論ずるものは 建築史である。即ち 建築史は建築研究の第一歩にして 兼ねて又 其終局の奥義である。苟しくも世の文明の国民は 必然建築の智識を要するならば、彼等は亦必然 建築史の一斑を知らねばならぬ。但 世界建築史には 色々な種類がある。或は年代記的に編術したもの、或は様式の説明を主とするもの、或は材料構造の方面より観察したもの、或は様式手法の発達を叙せるもの等がある。別に 政治経済の方面より観察したもの、又は一般社会を背景としたものもあるが、これは未だ大成したものとは言へぬ。然して茲に特筆すべきは 即ちフレッチャア氏の所謂比較建築史で、これは 古今東西の建築様式を配列して、その異同を批判し、其相互の関係を説明したもので、慥かに 建築史に於ける一異彩である。
余の親友古宇田工学士及斉藤文学士は 夙に我が国民の建築に関する知識の欠如たるものあるを遺憾とせられ、彼等の為に 適当なる建築史を提供せんことを企図せられしが、今回茲に フレッチャア氏の建築史を選みて、之を翻訳し、之を公刊さるることになったのは 誠に空谷に跫音を聞くの思がある。フレッチャア氏の著作は元来 学生の参考用として編術されたもので、簡なれども要を得、浅けれども博く、初学者及一般の人士に 建築に関する一般的知識を與ふることの多大なる点に於て、極めて便利なる良書と認められて居る。両学士が数年に亘る努力を以て、周到なる注意と厳密なる推敲との下に 終によく此事業を完成せられたるは、実に これ渾然として近頃稀に見るべき良書の出現である。
併しながら我国には 従前とても世界建築史の編著は 絶無ではなかった。但 夫等は有体に言えば、学術的基礎の上に立ったものでなく、一貫せる主義も統一もないものであったので、素より この翻訳と比すべきものではない。余輩は この書を得て、始めて我国に 真の世界建築史を得たのであると言ふのである。世輩はこの書を以て 建築家の参考書とするよりは、寧ろ我が国民一般の建築的知識普及の目的に適うものとして 歓迎し度いのである。この意味に於いて余輩は 両学士の社会に貢献せらるる所の極めて多大なることを感謝するのである。書成るに莅み、一言所感を述べて 序に代るのである。
大正八年八月 伊東忠太
ファーガスンが日本建築に冷淡であったと腹を立てて ファーガスンの悪口を言い続けた忠太は、フレッチャーが 日本を含む東洋建築を「非歴史的様式」などと定義したことに 腹を立てなかったのでしょうか。
この本の編集は、フレッチャーの死後も フレッチャー信託財団に引き継がれ、多くの学者を呼び入れて、改訂版を出し続けました。ファーガスンの『世界建築史』は バージェスによる改訂版が上下2巻本となりましたが、フレッチャーの本の特色は、どんなに改訂増補されようとも、1巻本に収めるということでした。最も大部の書となった第 19版は 邦訳もされ、百科辞典なみのヴォリュームとなりました。1996年には第 20版が出ています。
第19版の邦訳『フレッチャー世界建築の歴史』
( 2011 /04/ 24 )
< 本の仕様 >
"A History of Architecture on the Comparative Method" 第5版 ロンドンの
B. T. バッツフォード社 & ニューヨークのチャールズ・スクリブナーズ・サン社
バニスター・フレッチャー教授 (父) と、バニスター・F・フレッチャー (子) 共著
1865年、22.3cmH x 14.5cmW x 5.0cmD、1.4kg、li + 738ページ
木口木版の図版 535点、版元装幀による布装、金文字と図案箔押し、深緑色、天金
『フレッチャア建築史』 古宇田實・齋藤茂三郎共訳、1919(大正8年)
、岩波書店
第 5版の邦訳、22.7cmH x 15.5cmW x 5.5cmD、1.9kg
前 58 + 本文 720 + 索引 62ページ、図版 300ページ (その内、写真 132ページ)
表紙はキャンバス装 生地、箱入り、金文字と図案箔押し、天金。
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