CAVE TEMPLES AT AJANTA
アジャンターの石窟寺院群
中インド、マハーラーシュトラ州、 ムンバイ (ボンベイ) の北東約 360km
1983
年、ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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1819年にイギリスの一士官が虎狩りの最中に岩の寺院群と出会う。 それは深いジャングルの奥に完全に隠されていて、8世紀以来廃墟となっていた。 30を数える仏教の石窟寺院は、古代インドの最良の壁画のみごとな姿を壁や天井に今も残している。 細部にいたるまで緻密で高い芸術性をそなえた壁画は盛期グプタ朝における宮廷生活を余すところなく伝えている。 けれども壁面を這う湿気や来訪者の増大が原因となって、最近ではこの貴重な文化遺産に憂うべき劣化が進みつつある。



石窟寺院群の発見

 1819年、巨大な虎に襲われて窮地に陥った士官ジョン・スミスは、さらに深く山奥のジャングルへと逃げ込んだ。 このイギリス駐留軍の指揮官は、ハイダラーバード藩王国のニザーム (藩王) に招かれて、その狩猟に参加したのだった。 当時アジャンターは、この藩王国の領内だったのである。逃げ疲れてワゴーラ渓谷に踏みとどまった彼は、ライフルを構えて撃つ準備をし、あたりに目をやった。 そのとき彼の視線は枝の茂みが覆っている岩壁をとらえ、その奇妙な形に興味をそそられた。近くへ行ってみると、それはなんと岩を彫って細かな装飾をほどこした馬蹄形の窓であった。

   
   第 26窟前後の遠望      第 26窟内部

 その日、スミスは 1頭の虎も仕留めることはできなかったが、その代わりにアジャンターにある 30もの仏教の石窟寺院を発見したのである。 そこはワゴーラ川の流れに沿って長さ 550メートルの半円を描く、高さ 76メートルの長大な断崖であった。 数層にわたりながら並ぶ石窟寺院の列は、すでに長いあいだ人が住んだ気配はなく、列柱の上に円筒形の天井をもった内部空間も、密集するコウモリのすみかと化していた。 この軍人がこのときコウモリを追い払って中に入り、自分の名前を柱に書き残したのが現在の第 10窟に当るのである。

チャイティヤ窟とヴィハーラ窟

 古代の石窟寺院が最も多くつくられたのは、現在の中部インドのマハーラーシュトラ州である。 アジャンターの石窟寺院は、マハーラーシュトラ州に残る 45ヵ所の石窟のなかでも最も名高い仏教窟である。 この地域に仏教が栄えたのはおもにグプタ朝時代で、これはアジャンターの後期にあたる。 しかし前期の石窟寺院はすでに前 2世紀のサータヴァーハナ朝の時代に存在していた。

   
前期のヴィハーラ窟 (第 12窟) と、後期のヴィハーラ窟 (第 1窟)

 仏教の石窟には 2種類あり、これをヴィハーラ窟とチャイティヤ窟という。 ヴィハーラというのは僧院のことで、平地に木造あるいはレンガ造で建てられていたものを、石窟に置き換えたものである。 平地では中庭の 4面を僧室が囲むが、石窟では採光の関係上、1面を外部に開いてベランダとする。中庭も空に開かれているわけではないので、集会ホール的な性格となり、大きなヴィハーラ窟ではこれを列柱で取り巻き、僧室とのあいだに回廊をつくる。

      
石窟寺院群の配置図地図と、チャイティヤ窟の第 26窟平面図
( from "The Cave Temples of India" by James Fergusson )

 チャイティヤというのは 「聖なるもの」 を表し、紀元前のヒーナヤーナ (小乗) 仏教の時代には仏像がつくられなかったので、その代わりにブッダを象徴するものが礼拝された。 これをチャイティヤという。おもなものは法輪や菩提樹 (ぼだいじゅ)、仏足石などであったが、なかでも仏舎利を祀ったストゥーパが礼拝されることが多く、これがチャイティヤの代名詞にまでなった。 寺院にもストゥーパを本尊とするものが多く、これをチャイティヤ堂とよぶ。 アジャンターでは前期に 2院、後期に 3院の、合わせて 5院のみがチャイティヤ窟で、あとはすべてヴィハーラ窟である。


チャイティヤ窟の第 9窟のファサード


石窟寺院の木造的性格

 石窟寺院の起源は自然の洞窟にあったろう。苦行者や出家僧が住みつくことによって、僧院や礼拝堂となっていく。 しだいに人工的に開窟されるようになると、そのときモデルにしたのは、平地の木造寺院や僧院であった。 したがってチャイティヤ窟もヴィハーラ窟も木造建築を模して柱や梁が彫り出され、軸組み構造のように彫刻されている。チャイティヤ窟の内部は 2層分の高さがあり円筒形の天井をしているが、そこにも木造のように垂木 (たるき) や母屋 (もや) が彫刻されている。 こうしたものは、洞窟である石窟寺院には構造的に不要であったが、建物らしく飾るための美的な方法だったのである。 このように、石窟を木造のように細工することは、ポーチから仏殿にいたるまで、貫徹されていた。
 2世紀に前期の開窟は終了するが、およそ 300年を経た 5世紀に再開し、アジャンターの石窟寺院はグプタ朝の支配下で絶頂期を迎える。 仏教もマハーヤーナ (大乗) 期を迎えていて、窟院の内外とも仏像で飾られ、内部には古い窟院にまで壁画が描かれた。 本尊であるブッダの彫刻はヴィハーラ窟にまで置かれたので、僧院はしだいに仏堂のような観を呈した。 こうした偶像崇拝的な性格が強まるにつれて、ヒンドゥ教的な要素も混入するようになる。 そして仏教の衰退とともに、アジャンターの石窟群は 8世紀には放棄され、忘れ去られてしまったのである。


第 19窟の外部に彫刻されたブッダ像

 アジャンターがもつひときわ優れた文化遺産である壁画は、その高い質と量でインド亜大陸の他のいかなる壁画の追随をも許さない。 初期の作品は完全な形では残っておらず、大部分は 6世紀から 7世紀にかけてのものであるが、これらの壁画こそグプタ朝とその後継者の治世における、古代インドの絵画芸術の絶頂期を示している。 しかも遠く離れたインドネシアのジャワ島の美術にさえも明らかな影響をおよぼした。 厳しい暑熱や風雨、さらにインドがたどった政治的動乱からも守られたこれらの芸術作品は、アジャンターの文化遺産の中核をなしているのである。

壁画が物語る説話

 アジャンターの壁画が大量に残されているのは、第 1、第 2、第 16、第 17窟の、すべてヴィハーラ窟である。 後者の 2院にはヴァーカータカ朝 ( 275頃〜550頃 ) の碑文が残されているが、美術的にはグプタ様式とみることができる。 各壁画間には仕切りがなく連続しているが、説話を描いているものが多い。 ブッダ (覚者) が送った模範的な生涯を表す比喩として、「ジャータカ (本生譚、ほんしょうたん)」 は文盲の民衆を教育するための絵解きであった。
 とりわけ親しまれたのは第 17窟の 「シンハラ物語」 であろう。 裕福な商人の息子であるシンハラは父親をあざけり、その忠告に耳を貸さなかったのだが、船が遭難した後でスリランカの浜辺に辿り着き、そこで鬼女たちに襲われてしまう。 天翔 (あまがけ) る白馬に助けられて難を逃れたシンハラは、国へ戻ると改悛し、悪魔たちをことごとく退治するのであった。 この第 17窟にはまた、6世紀の作とされる、慈悲あふれるブッダ像も描かれていることで知られている。

   
ヴィハーラ窟の第 1窟における壁画、6世紀

 第 1窟では、回廊左手に 「マハージャナカ本生」 が描かれ、ブッダの前世の姿であるマハージャナカ王子 (菩薩) の別離の場面が印象的に表現されている。 そこでは妃シヴァリーが王子に出家を思いとどまらせようとするのだが、すでに世俗の快楽を捨て去る決意をした王子に対してそれは無益である。 王子のしぐさや表情は明らかに解脱 (げだつ) したことを示している。踊り子の一群もまた王子を引き止めることができず、妃は深い絶望を表しながらも、奴隷たちに囲まれて快楽に身を委ねる。王子は象の背に乗って王宮に背を向け、永遠の別れを告げるのである。
 第 1窟はまた、想像上の動物や人間の姿を描いた天井画で飾られている。猿の悪ふざけに辟易とした水牛が相手の猿を殺そうとするが、贈り物を差し出す人間に説得される図などもある。
 アジャンターの壁画は 「まるで本当に過去に舞い戻ったかのような夢の世界へ誘う」 と、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは言ったが、古代インドの夢は今日何にもまして保護を必要としている。 これらの壁画は急速な勢いで劣化しているからである。


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