MAHA VIHARA ( Buddhist University) at NALANDA
ナーランダー
古代大僧院 (仏教大学)

神谷武夫

ナーランダー
東インド、ビハール州、パトナの南東 95km
2016年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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ナーランダーの大僧院(マハーヴィハーラ)

 ビハール州は 仏教とジャイナ教の発祥の地である。釈迦の没後、仏教のサンガ(僧団)は支配層と結び付いて大きく発展し、インド各地に寺院や僧院を建設した。インド西端のガンダーラ地方(現・パキスタン)と 東端のビハール、ベンガル地方(現・西ベンガル州とバングラデシュ)には特に多く、なかでも古代マガダ国の首都・王舎城(ラージャグリハ、現・ラージギル)から15kmのナーランダーには、一大仏教センターがつくられた。5つの大きな寺院(大ストゥーパ)と10の僧院が整然と並び、僧院には インドばかりか 諸外国からも留学僧が訪れて、古代の「仏教大学」を形成したのである。
 三蔵法師のモデルとなった中国僧・玄奘 (Hiuen Tsang or Xuan Zang 602-664) も 危険を冒してインドに渡り、 ナーランダ-に5年間滞在して、戒賢(シーラバドラ)などに師事しながら 勉学にはげみ、経典を集めた。それらサンスクリット語の経典 657部を はるばる長安に持ち帰って、以後は もっぱら中国語への翻訳に努めた。そのかたわら 彼が帰国後に 唐の太宗皇帝の命令で著した旅行記『大唐西域記』によれば、ナーランダーの「仏教大学」には 数千人の学問僧が学んでいたというから(約40年後に留学した義浄によれば 3,000人)、現在の小規模大学に 匹敵する。(東京芸術大学の 現在の学生数は 約 2,000人という)

 
寺院-3(大ストゥーパ )と 小ストゥーパ群

 大僧院(マハー・ヴィハーラ)の建設時期は5~7世紀と考えられ、インド考古学の父・アレクサンダー・カニンガム (1814-93) は 種々の文書をもとに、425年と 625年の間であろうと推測している。大僧院は5、6世紀にグプタ朝の庇護のもとに 大いに栄えた。タクシラやヴィクラマシーラと並ぶ、インドの大乗仏教の 重要な仏教センターであり、後にはヴァルダナ朝のハルシャ王(位606-647)の庇護も受け、次第に衰退しながらも 12世紀まで存続した。9~12世紀のパーラ朝下では タントリズム期の大乗仏教の中心地として生き延びたが、1197年に デリーのハルジー朝の ムハンマド・ブン・バフティアル・ハルジーの軍によって、アンティチャックのヴィクラマシーラ大僧院とともに破壊された。

アンティチャックの大僧院

 パハールプルもそうだが、ナーランダーは中心となるグランド・ストゥーパが半壊したために ボードガヤーのようなくっきりとした雄姿を残さず、僧室群も瓦礫の山のような遺跡となってしまったので、考古学的価値はあれども 観光的魅力に乏しく、せっかくの仏跡巡りの旅行者も 文献上では有名なナーランダーを訪れずに 通り過ぎてしまうことが多いようである。
 もっとも ブッダの時代には、ナーランダーには まだ僧院はなかったので、ブッダがラージギルへの途次、あるいは帰途に ナーランダーに寄った時も、マンゴーの森に一泊して 僧や在家信者たちにダルマ(法)を説いた と『大般涅槃経』(だいはつ ねはんきょう)にあるから、後のナーランダーの大僧院自体が直接ブッダと関連しているわけでもないので、いわゆる「四大仏跡」や「八大仏跡」には含まれていない。旅行団を組む観光業者は ナーランダーを省略してしまうか、ラージギルで時間が十分にとれる時に 立ち寄る程度にしているらしいから、ナーランダーの遺跡をじっくり見てきた人は 少ないようである(今回 ユネスコ世界遺産に登録されたので、事情は違ってくるかもしれないが)。
 ブッダが涅槃に入る前、ラージギルへの途次、最後にナーランダーで 説教した時には、次のように 人々を諭したという(「自灯明・法灯明の教え」)。

(私が死んだあとは)「自分自身を灯りとし、自分自身を頼りにし、他者に依存せずに生きよ。 また 真理を灯りとし、真理を頼りにし、他に依存せずに生きよ」



 
ナーランダー、南の僧院群と、寺院3の壁面彫刻

 ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラは ブッダと同時代の人であり、同じビハール地方で活動したので、ナーランダーにも3回逗留している。一度は まだ覚者となる前、乾季の遊行期であり、あとの二度は大悟した後という。最初の滞在時に、後にアージーヴィカ教の開祖となるマッカリ・ゴーサーラを ここで苦行の弟子にしたと伝えられている。

   さて、中国僧の 法顕 (Fa-Hien 337-442) は『法顕伝(仏国記)』(長沢和俊訳、1971、平凡社・東洋文庫)において、この地を 次のように、ブッダの高弟である舎利弗(しゃりほつ、シャーリプトラ)の出生地と呼んでいるが、それは誤りであった。

 「ここ(帝釈窟山)から西南に1由延行くと、那羅(ナラ)という集落に到る。ここは舎利弗の本生の村である。舎利弗はこの村に還り、この村内で入滅した。そこで ここに塔を立てた。それは今もなお存在している。」

 『ターラナータ仏教史』(1608) によれば、前3世紀にアショーカ王が 舎利弗の入滅の地(ナーランダー)の塔に捧げものをし、小寺院を建てたという。
 スーザン・ハンティントンは この塔を ナーランダーの初期のストゥーパに同定し、法顕がこれらを特に大きなものとか重要なものと書いていないことから、ナーランダーの僧院が大きく発展したのは 法顕の時代(5世紀前半)より後のこと、つまりグプタ朝の後期以後であろうと推定している。


ナーランダーの学問寺の建立

 ナーランダー(那爛陀)という地名の起源については いろいろな説があるが、玄奘の『大唐西域記』は 次のような説話を伝えている。(水谷真成訳、1984、平凡社、vol.1、以下同じ)

 「古老の話によれば、《この伽藍の南の アームラ林中に池がある。そこに住む竜の名をナーランダと言った。その傍らに伽藍を建てたので、竜の名を取り 寺号とした。》」

 
ナーランダーの大僧院、寺院-12

 パーリ語の仏典では この地を「ナラ」、「ナーラカ」、「ナーラカグラーマ」、「ナーランダ」、あるいは「ナーランダー」と 多様に記しているが、本稿では 最も一般的であり、考古局の報告書にも倣って「ナーランダー」と呼ぶことにする。玄奘は同書で さらに、この大僧院の建設過程を 次のように伝えている。

 「仏の涅槃の後、まだ余り時がたたないころに、この国の先王のシャクラーディティヤは一乗(成仏する唯一の教え、仏教)を篤く信じ三宝を尊重し、りっぱな土地を選んで この伽藍を建てた。最初、工事を始めるや 竜の身に傷をつけてしまった。折しも 占いをよくする ニルグランタ外道(ジャイナ教徒)がおり、この出来事を占って予言し、《ここは勝れた土地である。伽藍を建立すれば 必ずや盛大になり、五印度の模範として千載を超えても いよいよ栄えよう。後進の学者たちは ここにつけば 学業の成就に便を得よう。しかし血を吐くものが多かろうが、それは 竜を傷つけたためである。》と言った。」

 シャクラーディティヤとは クマーラグプタ王 (Kumaragupta 在位 c.415-455) のことで、グプタ朝の第4代の王、漢訳名は 帝日王。次節のブッダグプタは 覚護王、タターガタグプタ王は 如来護王、バーラーディティヤは 幼日王、ヴァジラは 金剛王である。グプタ朝の代々の君主がナーランダーに僧院を増築していって 大僧院(マハーヴィハーラ)にしていった過程が よく解る。

 「その子供であるブッダグプタ王が王統を承け即位し 先帝の崇仏を継続して、この寺の南に並んで また伽藍を建てた。タターガタグプタ王は 代々の偉業たる仏教事業を手篤く行い、この東に並んで また伽藍を建てた。バーラーディティヤ王が位を嗣ぐと、この東北に並んで また伽藍を建てた。事業が竣工すると 祝賀会を催し 祝い、人の有名・無名を分かたず みなに真心を表わし、凡夫と聖者を区別せずに 会に招待した。」

 「この王の子のヴァジラは即位の後、信心は正しく固く、またこの西に伽藍を建てた。その後、中印度王は この北に またもや大きな伽藍を建てた。そこで周囲に垣を高くめぐらし、全伽藍を同一の門から出入りするようにした。歴代の君王が代々建設を盛んに行ったので、その諸種の彫刻の精巧なることは 実に壮観である。ことに帝日王の大伽藍は 今も仏像を安置し、衆僧中より 日々40人の僧を選び、この場所で食事を接待して 施王(帝日王)の恩徳に報じているのである。」

 名前を書かずに 中印度王としてあるのが、7世紀の名高い ハルシャ・ヴァルダナ王 (Harsha Vardhana, 590-647)で、漢訳は 戒日王。グプタ朝の滅亡後、古代北インドの最後の統一王朝である ヴァルダナ朝を建てた。玄奘がナーランダーに留学したのは 彼の治世だった。当時の「仏教大学」の様子については、玄奘は次のように語っている。

 「僧徒は数千人おり、みな才能高く学殖ある人々である。徳は当代に重んぜられ、名声を外国にまで馳せている人は 数百人以上もいる。戒行も清潔に守則作法も純粋である。僧には厳しい規則があり、人々はみな固く守っているので、印度の諸国は模範として仰いでいる。教義を研究するに 日を尽くしてもなお足りず、朝に夕に お互いに いましめ合い、若い者も年長者も 互いに助け合っている。」

  
ナーランダーの大僧院、僧院-8

 広大な「大学キャンパス」というべきエリアの建物は、ほとんどがレンガ造で、表面はプラスターで仕上げられていた。多数の建物群の これほど整然とした配置は、古代インドでは珍しい。オクスフォード大学や ケンブリッジ大学の全寮制カレッジに相当する僧院(ヴィハーラ)は、それぞれが 50~60m角の大規模なもので、中庭を僧室が囲む定型のものだが、その壁厚からみて、どれも2~3階建てであったと考えらる。

ヴィハーラ(僧院)と チャイティヤ堂

 出家僧が集まって修行するところはサンスクリット語で「サンガーラーマ」と呼ばれ、中国では「僧伽藍摩」(そうがらんま)と音訳された。略して「伽藍」(がらん)という。法隆寺や東大寺のような大伽藍には諸堂が立ち並ぶが、普通の伽藍は 本堂と庫裏とから成る。本堂にはチャイティヤを祀るので チャイティヤ堂であり、庫裏は修行僧たちの住まいである。

 仏教はジャイナ教などと共に、ヒンドゥ教の前身であるバラモン教を否定して生まれた自由宗教であった。バラモン教にはカースト制度があり、バラモン階級に生まれた者だけが、神に近づくことのできる僧侶であった。そのカースト制度やバラモンの神々を否定した仏教では「生まれ」からではなく、物心ついたあとで ブッダの教えに目覚めた者を、人々を導く僧侶に育てる必要があった。そこで彼らを出家させて(ホームレスにして)一か所に集めて定住させ、学問をさせるとともに 心の修行もさせた。そうした場所と建物を「ヴィハーラ」と呼んだのである。サンスクリット語のヴィハーラの原義は「時を過ごす場所」あるいは「慰安の場所」であったが、次第に僧侶の住まい、また学問の場としても用いられるようになった。英語ではこれをモナストリーと訳し、日本語では精舎、僧院、あるいは英語のモナストリーに倣って 修道院と訳すこともある。東インドのこの地方には 仏教やジャイナ教のヴィハーラが数多く建てられていたことから、近世になってこの地をビハール地方と呼ぶようになり、独立後のビハール州となったのである。

 
ナーランダーの大僧院 寺院-13 と、寺院-12 の柱

 一方、僧たちが礼拝する対象はブッダであったが、古代にはイスラーム教と同じく、ブッダの像を絵や彫刻に表わすのは 偶像崇拝として否定されたので、何らかブッダに関するものをシンボルとして表現するようになった。それは ブッダがその下で悟りを開いた 「菩提樹」であり、ブッダの足跡(「仏足石」)であり、ブッダが説教をした「基壇」であり、その説教を 車をまわすことになぞらえた「車輪」であり、さらには ブッダの舎利(遺骨)を埋葬して土で覆った塚を模した 「土饅頭」(ストゥーパ)などであり、信者は ブッダの代りに これらを礼拝した。それを一括して「チャイティヤ」(神聖なもの)と呼んだので、それらを祀る建物が チャイティヤ堂である。
 「聖なるもの」を表わすチャイティヤは、紀元前のヒーナヤーナ(小乗)仏教の時代には 仏像の代わりに ブッダを象徴する種々のチャイティヤが礼拝された。なかでも 仏舎利を納めたストゥーパが 他のチャイティヤを凌ぐようになり、これがチャイティヤの代名詞にまでなる。寺院にも ストゥーパを本尊として祀るものが多くなり、チャイティヤ堂は ストゥーパを祀るのが標準となった。

タクシラの ジャウリアン僧院 平面図
僧院地域と ストゥーパ地域を離して 並立させるのが 一般的だった。
V はヴィハーラ、C はチャイティヤ(ストゥーパ)
(From "A Guide to Taxila" by John Marshall, 4th ed. 1960)

 もともと ストゥーパとは半球形の塚(土饅頭)であり、その最も大きく保存のよいのが サーンチーのストゥーパ群 である。ストゥーパはジャイナ教でもアージーヴィカ教でも礼拝されたが、仏教では アショーカ王がブッダの遺骨を細分して諸国に埋葬し、その上にストゥーパを築いたと言われる。この「ストゥーパ」を漢訳したのが「卒塔婆(そとば)」である。これが「 塔婆」と略され、さらには 単に「塔」と略されるようになった。一方、その構造もインドからチベット、中国、日本へと伝わるうちに、インドの土造から中国のレンガ(磚 せん)造、さらには日本の木造へと変化した。それに伴って形態の上でも 半球形から 五重塔のような 多層の建物へと変遷したのである。言葉の意味自体が、「ストゥーパ」の土饅頭から「塔」の高層建物へと、まったく異なってしまい、英語の「タワー」の訳語が「塔」になってしまった。もともとの ずんぐりしたストゥーパに、タワーの意はまったく無い。

 石窟寺院の時代には、ヴィハーラ(僧院)とチャイティヤ堂に相当するヴィハーラ窟とチャイティヤ窟を設けるようになり、アジャンターでは前期に2院、後期に3院の、合わせて5院が ストゥーパを祀るチャイティヤ窟で、あとはすべて僧の住まいとしてのヴィハーラ窟として彫られた。大乗仏教時代になると次第に仏教がヒンドゥ教と習合して偶像崇拝が盛んとなり、ストゥーパの前面に仏像が彫刻されるようにもなる。
 下図のように 初期のベドサーではどちらも前方後円形をしているが、これは過渡期もので、次第にヴィハーラ窟は地上の僧院のように正方形となり、中庭に相当する部分を回廊で囲むようになる。アジャンターのヴィハーラ窟 は ほとんどが そうである。

ベドサーの石窟寺院 チャイティヤ窟とヴィハーラ窟の平面図
(From "The Cave Temples of India" by J. Fergusson & J. Burgess, 1880)

 ナーランダーの寺院-3 は 高さ31mにおよぶ大ストゥーパと、そのまわりの小祠堂や奉献ストゥーパ群からなる。発掘によって、この寺院は2回ないし3回増広されたことがわかった。他の寺院は 仏像などのチャイティヤ(礼拝対象)を祀る小室を中央に設けていたことが 発掘平面図からわかるが、それらの上部構造は失われてしまったので、形や高さは不明である。それらは 玄奘が書いているような、ボードガヤーの大菩提寺 と似た 高塔だったろうか?

 インド仏教の最後の開花期となる 東インドのパーラ朝のもとでは、パハールプルやヴィクラマシーラなどに大僧院(マハー・ヴィハーラ)を建て、ナーランダーのように学問の中心施設としたので、それらも「仏教大学」と呼ばれることがある。ソパハールプルの建築的構成は 下図のように 実にユニークで、僧室数が 177という巨大なヴィハーラの中央に これまた大きなチャイティヤ(大ストゥーパ)を建てて、寺院と僧院を一体化するものだった。

パハールプルのソーマプラ大僧院 平面図
大ストゥーパをヴィハーラが取り囲んで、巨大な一体型寺院とした。
(From "Discover the Monuments of Bangladesh" by N. Ahmed, 1984)

 一方 ナーランダーは、パハールプルと同じようにマハー・ヴィハーラ(大僧院)と呼ばれながら、建築的には まったく別の行き方をした。通常の、といっても大型の、数階建ての僧院(ヴィハーラ)を南北に一列に並べ、その西側に、十分な広場(大通り)の空きをとって、僧院列と向かい合わせるように、寺院(大ストゥーパ)を一列に並べたのである。アジャンターにおいて ビハーラ窟よりもチャイアティヤ窟のほうがずっと数が少ないように、ここでも 寺院(本堂)の数は 僧院よりも ずっと少ない。

ナーランダーの大僧院 発掘平面図

 この配列を見ていると、前回の「古書の愉しみ」で紹介した「国立国際会館設計競技」における 芦原義信の案を思い出させる。あの案は 大小の会議場の配列と その増築を 実に図式的に示しているが、ナーランダーは まさにそれである。この大僧院は一度に作られたのではなく、順次増築されていったものである。諸国から学生が集まるにつれて、「カレッジ」の数を増やしていかざるをえず、またそれに応じて「礼拝堂」の数も増やさねばならなかった。この芦原式のリニアなプランは、実際に有効だったと言わねばならない。もしも インド仏教が 12世紀にインドで滅びなければ、僧院の数は更に増加していったろうが、パハールプル方式と比べて、それに困ることはなかったのである。
 パハールプルの一発勝負の、全体の枠取りを先に決めてしまうプランは、前回の 国立国際会館コンペでいえば、日建設計(阪長金重)の応募案に相当するといえるだろう。


レンガ造の工法と、彫刻

 ナーランダーには石造建築はない。すべてが焼成レンガの組積造であるにもかかわらず、まだイスラーム建築の影響が及んでいなかったので、施設群にアーチは一切用いられていない。 その代わりに、この地方では古代ローマ建築にも似て、独自のコンクリートが開発されていた。 開口部の上はアーチではなく、コンクリートの「まぐさ (Lintel)」である。さらに、僧院の周壁では しばしばコンクリートの 小梁付きスラブを持ち出し、その先端にレンガを積んで 外壁を立てているのは 驚きだ。そのわずかな持ち出し構造には、どんな意味があったのだろうか。

 
ナーランダーの大僧院、僧院間の通路

 大ストゥーパは表面を飾っていたスタッコ(プラスター)が失われ、パハールプルのようなテラコッタ彫刻もないので、うず高く積まれたレンガの山という印象を与える。
 ただ一番東の寺院-2 の腰壁には石造彫刻がほどこされ、西の寺院-12 の基部にはレンガの彫刻が、そしてメインの寺院-3 の 、五堂形式をなす小祠堂には多くのスタッコ彫刻が残っていて、グプタ彫刻の粋を見せている。

 
出土彫刻と、寺院-2の基壇彫刻

 パーラ朝時代のナーランダー大僧院は、パハールプルのソーマプラ大僧院やアンティチャックのヴィクラマシーラ大僧院と同じように インド仏教の最終段階として タントリズム期を迎えたので、ヒンドゥ美術との混交が著しい。境内からは 多くのヒンドゥ教の神像が発掘されている。
インド政府考古局によるナーランダーの考古博物館には、彫刻をはじめとするナーランダーでの豊富な発掘物と、併せてラージギルでの発掘品を展示している(金曜日定休)。   

( 2018 /09/ 01 )


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