エジプトの建築
(イスラーム期)
今から20年前の 2000年に、東京と横浜で「世界四大文明展」という大規模な展覧会が いくつかの会場で分散して開かれ、大いに人気を集めた。それはメソポタミア、エジプト、インド、中国の古代文明を扱っていたが、「エジプト文明展」は東京国立博物館で行われ、カイロ博物館から多くの所蔵品が招来されて、40万人も集客した。その展示内容に見られたように、日本で「エジプト文明」といえば、ピラミッドに代表される古代のファラオの文明を思い浮かべる人が多い。私が 1986年に初めてエジプトに旅行した時も、ひたすら古代エジプト文明の遺跡ばかりを見てまわったものである(まだイスラーム文化に目を開かれていなかった)。 ところで 古代エジプトの建築は、エジプトの大砂漠を南北に貫くナイル川の流域全般に点在しているのに対して、イスラーム建築は そのほとんど全てが 首都カイロに集中している。日本の 東京一極集中の比ではない。ファーティマ朝も、アイユーブ朝も、マムルーク朝も、カイロ以外に 大都市を建設しようとはしなかった。唯一の例外は、地中海に面した 古代からのアレクサンドリアで、ここに わずかながらイスラーム建築作品が残る。というわけで、このサイトで紹介するエジプトのイスラーム建築は、ほとんど全部が カイロに所在するので、タイトルを『カイロのイスラーム建築』としても良いくらいなのであるが、なぜ それほどの「カイロ一極集中」になったのかは、私にも不明である。
![]()
石造建築を最も早く発展させたのはエジプト文明であり、次いでペルシア文明であったと言うことができる。ペルシア(イラン)では よい石材が得られなかったので、もっぱらレンガで建造し、その表面を彩釉タイルで覆った。それに対してエジプトでは、ペルシアと同じように国土の大半が砂漠であるにもかかわらず、古代からモニュメンタルな建物やピラミッドには遠隔の石切り場からナイル川で運んできた砂岩や花崗岩を用いた。そこで開花した石造技術は連綿とイスラーム時代まで受け継がれた。もちろん 一般の建物は 焼成レンガ、庶民の建物は日干し煉瓦で建てられたのは ペルシアと同じであるが、エジプトでは タイルは発達せず、装飾もまた 石彫によってなされた。
![]() 古代戦士のレリーフ彫刻
イスラームが成立した7世紀の頃のエジプトは、ビザンツ帝国とペルシア帝国による奪取合戦がされていて、エジプトの自立性はなかった。宗教的には ファラオの宗教が衰えて、コプトのキリスト教が主流となっていた。そこへ アラビアからイスラーム軍が進撃し、正統ハリーファ時代の 641年に エジプト全土を征服した。イスラームの司令官、アムル・ブン・アルアースは バビロン(現在のオールド・カイロ)に フスタートの町を開いて首都とし、そこに金曜モスクを建てた。これがエジプト(というより、アフリカ)最古のモスクである『アムルのモスク』である。
10世紀初めに 北アフリカで、ムハンマドの娘のファーティマを頂くシーア派の王朝であるファーティマ朝 (909-1171) が成立し、エジプトを手中にすると、カターイの北東3kmのあたりに 新首都 アル・カーヒラ(カイロ)を築いて、大々的な建設活動を始める。首都は城壁で囲われ、北と南に門が築かれ、市心には 『アズハルのモスク』が建設された。アル・カーヒラとは「勝利の都」を意味する。
![]()
インドのイスラーム建築がムガル朝の建築で代表されるように、エジプトのイスラーム建築はマムルーク朝の建築で代表される。マムルークというのは 白人奴隷のことで、イスラーム勢力が中央アジアを征服した8世紀から、被征服民のトルコ人(当時は 今のアナトリア地方ではなく 中央アジアに住んでいた)やモンゴル人、そして中東のギリシア人やクルド人などの 白人が奴隷とされた。奴隷といっても 通俗のイメージとはちがって、才能や能力さえあれば、官僚や軍人となって 出世することもできた。その高位の奴隷軍団が クーデターを起こして政権を取ったのが マムルーク朝、すなわち「奴隷王朝」である。 マムルーク朝は前後2期に分けられ、前者をバフリー・マムルーク朝 (1250-1382)、後者をブルジー・マムルーク朝 (1382-1517) という。バフル(海)とはナイル川を指し、ナイル川の川中島、ローダ島に兵舎があったことから、そこのマムルークはバフリーヤと呼ばれた。後者は、チェルケス(サーカシア)人(北西コーカサスのチェルケス語族を母語とする民族)を主体とするブルジー軍団のマムルークが政権奪取した王朝なので、「チェルケス期 マムルーク朝」とも言われる。ブルジーとは塔状の櫓で囲まれた城塞の謂いらしい。 その主要な建築作品というのは、バフリー・マムルーク朝の第5代スルタン、バイバルスのモスクに始まり、代々のスルタンが 国家予算で モスクやマドラサ(学院)、ハーンカー(修道所)そして自身の廟などの大規模な複合体を建設し、時には病院なども併設した。トルコの「キュリエ」にあたる 公共施設複合体である。エジプトのイスラーム建築と言えば、まずこれらが思い浮かべられるのが通例であるが、そのすべてがカイロにある。その中でも見事な作品群が、アル・カーヒラの旧市街だけでなく、カイロ東方のムカッタムの丘のふもとの、いわゆる「死者の町」(巨大な墓園)にも多く建てられたのが 独特である。 16世紀始めにマムルーク朝の勢力は衰え、トルコのオスマン朝に敗れて その支配を受けるようになる。シタデルにはオスマン様式の大モスク、ムハンマド・アリーのモスクが建てられた。しかしエジプト建築全体がトルコ化したわけではなく、この時代の伝統的なエジプト建築としてのモスクやサビール・クッターブ(下階が給水所で上階が寺子屋)、住宅や宮殿が多数残っている。ムハンマド・アリー朝 (1805-1953) の時代も 同様である。 (2020/ 12 /01)
![]() なお ヨルダンの章と同じように、スコットランドの画家、デイヴィド・ロバーツ (1796-1864) のリトグラフ画集『聖地』("The Holy Land") の絵をいくつか転載させてもらった。124枚の石版画の内 26枚が カイロのイスラーム建築を描いている。今回の縮小復刻版は "EGYPT, Yesterday and Today" by David Roberts, 1996, Stewart, Tabori & Chang, New York, 36cm-270pp。大型複製画の "The Cairo Portfolio"(50cm×35cm、10枚セット)も カイロの国立博物館 売店で入手した。 |
イスラーム軍がエジプトを征服したのは 640年で、将軍(後のエジプト総督)アムル・ブン・アルアースは、その統治のために フスタートという軍営都市を建設した。その翌年 フスタートに創建されたモスクが、彼の名をとったアムルのモスクで、 エジプト最古のモスクである。しかし 29m x 17m という 当初の小規模な建物が現存しているわけではない。後のモスクの特徴である ミナレットも ミフラーブも 中庭もなかった。それは イスラームの開祖 ムハンマドが初めて神の声を聞いた 610年頃から、わずか 30年しか経っていない時であり、まだモスクの建築形式というのは 確立されていなかったのである。現存のモスクは、創建から 186年後の 827年である。このあとも 何度も拡大や改築をされてきたので、現存の 120m x 110m の大モスクの姿は、長い歴史的変遷の結果である。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの ナイル河の水位を測るカイロのナイロメーターは、きわめて建築的につくられている。ナイル河は毎年増水期に氾濫し、その程度によって農地の収穫量が決まる。この水位を測るために、アッバース朝のハリーファ・ムタワッキルの命で川中島のローダ島につくられたのは正方形プランの竪穴で、ナイル河とは地下トンネルで結ばれ、この底まで螺旋状の階段が降りている。中央にはイオニア式の柱頭を戴く石柱が立っていて、これに刻まれた目盛りを読むことによって、ナイルの水位の数値が毎日報告された。四方の壁面にはアーチ開口のニッチも設けられ、全体として完全な石造の地下建築となっていて、インドの階段井戸にも似た魅力がある。20世紀に円錐状の屋根(天井)が架けられた。
![]() ![]()
9世紀に バグダードのアッバース朝から派遣されて エジプトを統治した総督(アミール)アフマド・ブン・トゥールーンはイブン・トゥールーン朝を開き、初代スルタン (868-884)になった。彼 は トルコ系の軍人で、868年にアッバース朝から独立して トゥールーン朝を興した。彼はバグダードに貢納せずに豊かになった国庫で、フスタートと 後のカーヒラのちょうど中間地に、新しい首都 カターイを建設し、そこに彼の名を冠した イブン・トゥールーン・モスクを創建した。876年から 79年のことで、エジプトに現存する 最古のモスクである。この町は 今ではカイロの市街地に呑み込まれているので、カターイ時代の遺構はこのモスクだけとなり、初期イスラームの 大モスクのあり方を伝えるものとして貴重である。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの
アズハルのモスク Al Azhar Mosque, 970-2
ファーティマ朝によって アル・カーヒラ(カイロ)の 最初の金曜モスクとして建てられたのが、アズハル・モスクである(アズハルとは「壮麗」の意)。シーア派のモスクだったので、アイユーブ朝時代には没落し、マムルーク朝時代に復活してスンナ派の牙城となった。初めは 約90メートル角の整形の敷地に中庭型の列柱ホール・モスクとして建てられたが、18世紀にオスマン朝のアブド・アッラフマーン・カトフダーによって礼拝室が拡大され、古ミフラーブの奥に新ミフラーブが作られた。列柱のアーケードは、イブン・トゥールーン・モスクと同じようにキブラ壁に平行なので、ダマスクスのウマイヤ・モスクに倣ったと言える。
![]() The American University in Cairo Press, 2005) ![]() ![]() ファーティマ朝の第6代カリフ、ハーキム (996-1021) は冷酷な専制君主として知られるが、父 アル・アジーズ (Al Azîz) が 990年に着工したモスクを 1012/3年に竣工させた(未完成だったとも言われる)。アル・カーヒラの市街の北端、フトゥーフ門とナスル門に挟まれるようにして建つ、中庭タイプの「アラブ型」列柱ホール・モスクである。125メートル角の大規模なもので、全体としてイブン・トゥールーン・モスクを受けついでいるが、 こちらの中庭には泉亭がない。モスクは荒廃していたが、20世紀の終わりに 内外ともすっかり修復されて、見違えるようにきれいになった。
![]() ![]() 前面道路側の両端に特異なミナレットが立っているのが目を引く。2段の大きな基壇に載っているように見えるが、実は細長いミナレットの周囲に 独立した壁を立てて囲んでいるのである。これほど重厚にして壮大なミナレットは他に無い。
![]() 城壁都市アル・カーヒラは堅固な市壁で囲まれ、北に2門、東に1門、南に1門、西に2門があった。その内、北のフトゥーフ門とナスル門、南のズワイラ門が現存している。これらは セルジューク朝に追われて離散してきた アルメニア人の建築家や工匠の仕事だと言われる。円筒状のフトゥーフ門も、角筒型のナスル門も、正確な切り石と組積法で 完璧に作られた。こうした城門のオリジンは ローマ・ビザンティン建築に求められるが、アルメニア人やシリア人によってもたらされた石造建築の技術は、以後のカイロの建築の質を決定づけることになる。
![]() ![]()
ズワイラ門はアル・カーヒラの南門だったが、市域の南への拡大につれて、次第に市の中央に位置するようになってしまった。ムイッズ・リー・ディン・アッラーフ通りとヒッヤミッヤ通りの接点にある。4世紀後の1420年に、イブン・トゥールーン・モスクの流れを汲む中庭式アラブ型のスルタン・ムアイヤド・シャイフ・モスクが、ズワイラ門と ほとんど一体化されるように すぐ隣に建設され、その2本のマムルーク様式のミナレットが、ズワイラ門の上に建てられた。今ではこのミナレット・門が、イスラーム地区のシンボルのようになっている。 ![]() サーリフ・タラーイはカリフ・ムイッズの宰相(ワジール)で、そのモスクは ズワイラ門のすぐ東南にあり、店舗階の上に建てられている。これも小型ながらイブン・トゥールーン・モスクの流れを汲む、シンプルなアラブ型 列柱ホール式のモスクである。中庭を囲む きれいな整形平面をしている。オスマン朝時代のミナレットが 1930年代に取り壊されて以来、ミナレットは無い。
スルタン・ナジム・アッディーン学院と廟
アイユーブ朝の第7代スルタン、マリク・アッサーリフ・ナジム・アッディーン (1240-49) の廟と学院は、アル・ガマリヤ地区の、スルタン・カラーウーン学院と廟の向かいにある(下の イスラーム地区中心部の地図 参照)。エジプトで 四法学派をそろえた 最初のマドラサである。建物の奥行きは深いが、マドラサの大半は失われ、東西のイーワーンと、スルタンの廟とその周辺のみが残る。本来は同規模のマドラサが、ミナレットを挟んで南側にもあった。廟は6年後の 1249年に ナジム・アッディーンの妻によって増築されたものである。
エジプト史上最大の女傑、シャジャル・アッドゥールというのは「真珠の樹」という意味で、シャガラト・アッドゥールともいう。出自はトルコともアルメニアともいう。アイユーブ朝の最後のスルタン、サーリフ・ナジム・アッディーン・アイユーブ (As-Salih Ayyub) の妻で、夫の死後 スルターナ(女性スルタン)となり、マムルークたちを指揮して第7回十字軍 (1248-54) に勝利し、撃退した。美しく、敬虔、聡明で、アイユーブ朝を終了させ、マムルーク朝の初代君主となった。イブン・トゥールーン・モスクの南にある彼女の廟は アルカイックな小型のものであるが、壁面の装飾が アイユーブ朝美術の典型をなしている。かつてはマドラサやハンマームと複合体をなしていた。
イスラーム地区の北、フトゥーフ門から 700mぐらいの所に、マムルーク朝の最初の金曜モスク、スルタン・ザーヒル・バイバルスのモスクが、半壊状態で残っている。80メートル角と規模は大きいものの、ハーキム・モスクの6割ぐらいである。プランも ある程度似ているが、こちらにはミナレットがなく、その代わりにミフラーブ前にドーム空間があった。キブラ壁の前は貴顕のためのマクスーラになっていた。内部の柱はローマ建築からの転用で、コリント様式の柱頭をもっている。バイバルス1世(位1260-77)はマムルーク朝の第5代スルタンで、同王朝の体制の確立者として知られる。もとはアイユーブ朝のスルタン、サーリフ・ナジム・アッディーンの奴隷軍人で、十字軍やモンゴル軍と勇敢に戦った。
![]() スルタン・バイバルスのモスク 平面図 (From a Website)
トルコと並んで マムルーク朝のエジプトにおいても、ワクフによる公共施設の複合体が数多く建てられた。マムルーク朝の第8代スルタン、カラーウーン (位 1279-90) の複合体はとくに有名で、自身の廟と学院に大規模な病院(ビーマーリスターン)が併設された。イスラーム地区のムイッズ通りに面する、最大の複合施設である。今は病院部分が失われているが、数百人の医師や従業員がここで働き、19世紀まで カイロの医療センターの役割を果たしたという。道路に面するファサードは廟と学院の一部だけで、病院はまったく外観というものがなく、カイロ建築の常のように中庭から採光・通風をとった。進入路は廟とマドラサにはさまれた所にあり、この通路の奥で3つの施設に分岐した。ワクフの根本は宗教的慈善であるので、学院と廟をマッカの方向に向けるために、進入路から180度の方向転換をしている。
![]() ![]()
ブルジー・マムルーク朝の初代スルタン、ナーシル・ムハンマド(位 1293-1341) は カラーウーンの息子で、短命だったスルタン・キトブガー (Kitbugha 位 1294-96)が カラーウーン廟の隣の敷地に着手した施設を受け継ぎ、自身の廟と学院の複合体としたが、モスクは含んでいない(ナーシルのモスクは、後の1335年に シタデル内に建てることになる)。これはカイロにおける最初の十字形プランのマドラサである。何故十字形かというと、スンナ派の「四法学派」を中庭の四方のイーワーンに割り当てるためである。ムイッズ通りに面した入口はゴチック様式の扉口で、サン・ジャン・ダークルの十字軍のカテドラルを解体して移設したものである。ムスリムの「再利用の精神」を象徴している。しかし入口上のミナレットのほかに、マドラサ本体は 中庭に面する東イーワーンしか残っていない。
スルタン、ナーシル・ムハンマドによって建てられたビシュターク宮殿は、マムルーク朝時代の数少ない現存宮殿のひとつである。宮殿といっても あまり豪華な建物ではないので、ムイッズ通りに面するファサードは一般の建物と あまりかわらず、1階には店舗が はいっている。2階にはカーア(広間)があり、また 中庭と小モスクを内包している。本来はファーティマ朝の東宮殿の一部だった。
![]() ![]() ![]() イスラーム地区の南部、シタデルのアザブ門に向かい合って、巨大なスルタン・ハサン・モスクとリファーイー・モスクが 並び建っている。後者は19世紀の新しいモスクであるが、14世紀に創建された「スルタン・ハサン学院モスク+廟 の複合体」は、カイロで最も名高いモスクのひとつである。アル・カーヒラ中心部のムイッズ・リッディーン・アッラーフ通りに面した諸スルタンの廟とモスクやマドラサ複合体が、いずれも狭く不整形の敷地に押し込められた感があるのに対し、これは周囲が広いオープンな道路と広場に囲まれているので 各面のファサードが完全に見られる、カイロに珍しいモスクである。入口のファサードは、丈の高い半ドームとムカルナス装飾を頂部に戴くモニュメンタルなもので、高さが 38メートルにも達する。
![]() 平面図 (From Henri Stierlin "Architecture de l'Islam” 1999) これは最も完成度の高い十字形プランをしたモスクで、中庭の四方のイーワーンに スンナ派の四大法学派(ハナフィー学派、マーリク学派、シャーフィイー学派、ハンバル学派)を割り当て、その隣にそれぞれのマドラサがある。中庭には回廊がない代わりに、造形力豊かな泉亭がシンボリックに建っている。奥行きの深い南イーワーンが モスクの主礼拝室で、そのキブラ壁とミフラーブは、金や大理石やスタッコを用いて、エジプトで最も豪華に装飾されている。この礼拝室の背後にある廟のドーム天井は 華やかなムカルナスのペンデンティヴで支えられているが、スルタン・ハサンが殺害された時 その遺体が隠されたので、後にアミールの墓が設置されるまでの1世紀以上の間、この廟は空(から)だったという。
![]() ![]()
スルタン・バルクーク学院+廟+修道場 複合体 バフリー・マムルーク朝を廃してブルジー・マムルーク朝の初代スルタンとなったザーヒル・バルクーク(位 1382-99)は チェルケス人で、彼の学院+廟+修道場の大規模な複合体は、市内のアル・ガマリヤ地区にある。建築家は、スルタンの娘と結婚した シハーブ・アッディーン・アフマド・イブン・トゥールーンと伝える。これも十字形プランのマドラサで、中庭の四方のイーワーンに スンナ派の四法学派を割り当てていて、中庭の中央には ドーム屋根の泉亭を設けている。スルタン・ハサン学院とよく似た構成であるが、廟は礼拝室の後ろではなく 横手に位置する。さらにその隣り、敷地の端部にミナレットが立つのは、もっぱら敷地の制約のせいである。ただし、バルクークの墓は ここではなく、次節の「死者の町」のファラジュ廟に並置されている。
![]() ![]()
廟のドームは もともと木造であったが 崩壊してしまい、19世紀末にレンガ造で作り直された。ミナレットは きわめて装飾的で、層ごとに異なった意匠を凝らしている。入口はミナレットと反対の端部にあり、通路は何度も曲って中庭に導く。床には色大理石の幾何学パターンがほどこされている。奥にはハーンカー(修道所)があって、教師や学生の個室が並んでいたが、今は崩れ、荒廃している。
ブルジー・マムルーク朝の第2代スルタン、ファラジュの廟 複合体。バルクーク学院+廟+修道場の大規模な複合体は、市内のアル・ガマリヤ地区にある(上掲)。こちらの「死者の町」にあるのは、その息子で 第2代スルタンとなった ファラジュ(位 1399-12)の廟である。ファラジュの正しい名前は、アンナーシル・ファラジュ・ブン・バルクーク (Al-Nasir Faraj ibn Barquq) という。イブン・バルクークというのは、「バルクークの息子」という意味である。しかしこの建設を命じたのはバルクークであり、二人の墓は左右のドームの墓室(クッバ)に並んでいるので、これは 「スルタン・バルクーク廟+修道場」として扱われてきた。拙訳書『イスラムの建築文化』でもそうだし、私家版『イスラーム建築』でも、HP上の「イスラーム建築の名作」でも そうである。市内のバルクーク複合体と混同せぬよう、今回から「ファラジュ廟」と書くことにしたが、「バルクーク廟」でも誤りではない。
● 詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの カイロ東方の「死者の町 (City of the Dead) 」(巨大墓地公園)には 整然と並ぶ墓碑の列と、墓を祀る家が列をなしている。本来は死者の町であるが、これらの家が不法占拠されて住まわれ、なかば「生者の町」になっている。 この巨大な墓園(カイロの北墓地)の中に、大規模なスルタンの廟・修道所複合体が諸所に聳えている。一番北に聳えるのが、スルタン・イーナール廟+モスク+修道場の複合体である。この「死者の町」のスルタン廟複合体を見てまわるには、最初に車でカーイトバーイ廟へ行き、そこから歩いてバルスバイ廟、ファラジュ廟、クルクマス廟、イーナール廟と見てまわり、またカーイトバーイ廟へと戻ってくるとよい。途中にいくつものクッバ(ドームの廟)がある。
![]() ![]()
スルタン・バルクークの奴隷軍人から出世した 第16代スルタン、アシュラフ・イーナールの廟+モスク+修道場の複合体は、15世紀半ばに「死者の町」の北端に建設された。道路側のモスクと廟の奥に、スーフィーのための規模の大きなハーンカー(修道所)があったが、大半が失われてしまった。モスクは 当時の通例として、マドラサを兼ねていた。
![]() ![]() ![]() 「死者の町」のもっと南方に、ブルジー・マムルーク朝のスルタン、アシュラフ・カーイトバーイ (位 1468-96) の廟とモスの複合体がある。カーイトバーイは 30年近くの長い治世でオスマン・トルコの侵入を退け、王朝の安定をもたらしただけでなく、カイロやシリアに モスクやマドラサ、ワカーラやサビール・クッターブなど多くの施設を造り、アレクサンドリアとロゼッタには要塞(シタデル)を築き、彼以前のモスクにも豪華なミフラーブやミンバルを寄進したことでも知られる。カイロの、この廟+モスク 複合体は、この種のものの中で最も芸術的完成度が高いと評価される。
![]() マドラサを兼ねたモスクも、そのドーム屋根も、ミナレットも、サビール・クッターブも、入口の丈の高いポータルも、規模は さして大きくはないが、組積造の技術も装飾の精巧さも、すべて完璧な高みに達している。モスクの中央ホール(カーア)の天井見上げは、実に魅力的である。墓室にはマムルーク工芸の粋をこらした木製のクルシー(クルアーンの書見台)がある。
![]() ![]() ![]() 給水所(サビール)の設置が最も盛んだったのは 過密都市カイロで、町のいたる所に 華やかに飾られた石造のサビールが建てられ、19世紀には 約300を数えたという。特徴的なのは、初等教育の寺子屋(クッターブ)と組み合わされることで、下階に給水所、上階に寺子屋をおさめた「サビール・クッターブ」は、一目で それとわかる建築類型をつくりあげた。その下階の大きな開口部には 木製またはブロンズ製の格子が嵌められていて、その格子窓から水が供給された。上階の寺子屋は 天井が高く、バルコニーをもつ。モスクやマドラサ、あるいは貴顕の廟に付随することが多いが、単独で建つこともあり、その最初にして最大のものが これである。スルタン・カーイトバーイが スルタン・ハサン・モスクの南に寄進したもので、内部の給水設備や 地下の深い貯水槽まで よく保存されていて、螺旋階段で降りていける。優秀な生徒は クッターブで初等教育を受けたあと、高等教育機関であるマドラサ(学院)に進学する。
![]() ![]() ![]() エジプト第2の都 アレクサンドリアには、スルタン・カーイトバーイが地中海岸のファロス灯台のあとに建設した 小型のシタデル(城塞)が残る。オスマン朝のトルコ海軍の攻撃に備えたもので、旧灯台の石材を用いたという。城壁に囲まれた広い敷地に、3層の城郭が建っている。かつては城郭の上にミナレットが立っていた。城壁は厚さ2メートルで、高さが8メートルある。二重の城壁の、内側の城壁に沿って かつては兵士の部屋が並ぶ兵舎があったが、今は無い。城郭の内部は裸の石材の状態で修復されているので、シトー会の修道院のような佇まいをしていたが、現在は海洋博物館として公開されている。1階には小モスクがあり、その床は 色石のモザイクで飾られている。
![]() ![]()
カーニバーイ廟とモスク複合体
カーニバーイ・カラは、最初はスルタン・カーイトバーイの奴隷軍人で、何人かのスルタンの手をへてアミール(指揮官)まで上り詰めた。その廟とモスク複合体は、道路を隔てた向かい側に巨大なリファーイー・モスクが建ったためにごく小さく見えるが、廟+モスク複合体としては、まだ敷地条件が厳しくなかった 16世紀初めなので、実にきれいな形をしている。敷地が急斜面だったので、床レベルは変化に富み、アプローチには斜面と階段が組みあわされている。中央にミナレットが聳え、その右のメインの入口の奥がモスク、右端のドームが廟、左端にはサビール・クッターブがある。双子ミナレットは、アズハル・モスクのものと並ぶ珍しいもの。内部には 司書のいる図書館があったという。 これは スルタン・カーイト・バイの息子で 第26代スルタンになった カンスーフ・アルグーリー (位 1501-16 、アルガウリーとも) の廟+モスクの複合体であるが、きわめて珍しい構成をしている。繁華なバーザールの道路を隔てて、スルタン・グーリー廟と グーリー・モスクが向かい合っていて、その屋根から屋根へと、木造の梁を架け渡して スークの道路に屋根を架け、類例のない都市空間を作ったのである。オスマン朝支配の時代にか、あるいはもっと早くからかもしれない。 現代日本における 商店街の「アーケード」の 先駆と言えようか。
![]() スルタン・グーリー廟は石造の大ドームが失われて、木造の平屋根が架けられている。メインの廟にあまり見るべき所がないが、中庭と小モスクが気持がよく、また敷地の角にはサビール・クッターブが突き出ている。大きなモスクの方は、他のスルタン・モスクと大差ない十字形プランのモスクであるが、店舗群と通路の上に建てられている。1層分持ち上げられているので、モスク内部では、前面道路のスークの雑踏は あまり気にならない。1階は現代の地下街の先駆のような趣である。 ![]() ![]()
都市内のキャラバンサライは、防御本位の砦のような造りを必要としない。またラクダや馬の厩舎の機能よりも 物資の倉庫および、それを都市内で売りさばくための事務所、取引所としての機能が重要となる。カイロではそうしたハーンを「ワカーラ」あるいは「ウィカーラ」と呼び、交易型の多くが平屋であるのに対して、3階建てあるいは4階建て、ときには5階建ての都市型とし、上部は商人の家族のための住居に充てた。通常、廊下は2階までが中庭を取り囲んでいて、その上部は各住居の内部階段が結ぶメゾネット、あるいはトリプネットである。 「死者の町」のスルタン・イナール廟複合体の南隣りに、もっと大きな アミール・クルクマス廟+モスク複合体がある。マムルーク朝時代の最後の大規模な複合体であるが、これはスルタンではなくアミール(指揮官)の造営である。もはやスルタンの勢威は失墜していた。といっても、クルクマスは もともとスルタン・カーイトバーイの奴隷軍人だったので、この廟複合体も スルタン・カーイトバーイ廟+モスク 複合体に 忠実に範をとっている。クルクマスはスルタンたちの信望あつく、この廟は彼の生前に建てられた。ハーンカーのように見える部分は、実際はスーフィーの修道場ではなく、クルクマスの家族の住居として用いられたらしい。
![]()
ガマル・アッディーン・アルダハビー邸は、アル・グーリーヤの少し南にある金細工商の家で、中庭を囲む広い邸宅である。こうした都市型の邸宅はマンジル (Manzil) という。1階にはカーア(広間)があり、2階にはマクアド(半外部空間のテラス)がある。道路側の部屋にはムシャラビーアで囲われた出窓がついていて、中の婦人からは道行く人が見えるが、外からは内部が覗かれない。
![]() ![]()
アリー・アーガー・ダル・アッサアダのサビール・クッターブはオスマン時代のもので、隣のアミール・ターズ小宮殿と ほとんど一体化していて、見事な外観を作っている。上階のクッターブは、今も小学校に使われている。アリー・アーガーはオスマン宮殿で 黒人の首席宦官だったという。 バザルアのワカーラ(都市内のキャラバンサライ、ハーン)は カイロの都市型建築の常で、凸凹の不整形な敷地をいっぱいに利用して建てられている。しかし中庭は整然とした矩形につくられるので、ここを見ているかぎり、それはわからない。道路に面しては小店舗が並び、中央の入口部分のみが 奥の施設を暗示する。建物は 4.5階建て。
![]()
スルタン・カーイトバーイのサビール・クッターブと双璧をなす モニュメンタルなサビール・クッターブが、アブド・アッラーフマーン・カトフダーの寄進した、このサビール・クッターブである。イスラーム地区の中央部、それも道路の中央に建っているので、非常に目立つ。三叉路の角に面するファサードのアーチ開口、上階の木造持ち出し構造、石の壁面の繊細巧緻な彫刻等がこの小規模な建物を珠玉の建築作品にしている。内部の装飾も手が込んでいる。 ![]() シタデルの創建は 1176年と古く、十字軍を撃破したアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンの時代に遡る。その後マムルーク朝もオスマン朝もこの城塞を拡幅して種々の施設を建て、カイロの守備の中枢とした。市内から行くときに最も目立つのが 1754年のアザブ門 (Bab al-Azab) で、シタデルの一番西に位置し、スルタン・ハサン学院と向かい合うように建っている。ちょうどフスタート北端のフトゥ−フ門のように 半円形をした櫓が入口の両脇に立っていてシンボリックである。
![]() 城壁で囲まれた広大な丘状のシタデル(城塞)には、各時代に建てられた多くの宮殿やモスク、文書館、官衙、砲台などがあった。市街をながめる砲台テラスの背後には軍事監獄がある。ゲディード門 (Bab al- Gedid) はシタデルの北門で、1826年の建立。
![]() ![]()
![]() ムサーフィク・ハナ邸ともいわれる小宮殿。バザルアのワカーラの東方にある (map-12)。18世紀に裕福な商人、マフムード・ムハッラム (Mahmud Muharram) が建て、ヘディーヴ・イスマーイルの生家となった。ヘディーヴとは オスマン朝によるエジプトの支配者の称号である。20世紀に荒廃していたのが、すっかり修復された。広い中庭の南側にタフタブシュ(半戸外のサロン)があり、その東隣に、三方にイーワーンのあるマンダラ(噴水のある男子用居間)があり、2階にメインのカーア(女子用広間)がある。邸宅は、男子用のエリア(サラームリク)と 女子用のエリア(ハラムリク)が截然と区画されていた。
![]() ![]() さまざまな建築種別の中で、住宅は生活の必要に応じて 絶えず手を入れられ、建て直されてしまうものであるから、さすがのカイロにも 伝統的なつくりの古い住宅は そう多く残っていない。その中で 最もよく保存されているのは、旧市街のメイン・ストリート(ムイッズ・リッディーン・アッラーフ通り )から 少し脇道に入ったところにある スハイミー邸である。住宅といっても、これは石造3階建ての大邸宅であるから、むしろ小宮殿に近く、アルハンブラ宮殿のミニチュア版のような性格を備えている。緑に満ちた矩形の中庭は、水路こそないものの 四分庭園(チャハルバーグ)風で、中央には噴泉があり、まさに都会のオアシスである。
● 詳しくは「イスラーム建築の名作」のサイトの
![]() ![]()
ワディ・ナトルーンとファイユームで見た「鳩の塔」。イランの「鳩の家」は鳩の糞を肥料にするためだったが、エジプトでは 鳩を食用にするため。形態的には、イランのほうが多様性に富んでいるようだ。鳩は放し飼いだが、帰巣本能があるので、夕方には もとの「鳩の塔」に戻ってくる。塔も 主として日干しレンガで造られるので、維持に手間も費用も あまりかからない。しかし近代技術の鳩飼育に比べれば、効率は悪い。今は 田園の風物詩と言えようか。
ムハンマド・アリー・パシャ (1769-1849) はマムルーク勢力を一掃して、世襲のエジプト総督となり、エジプトの近代化、西洋化を推し進めた。彼がカイロの高台のシタデルに建てた大モスクは、それまでの伝統的なエジプトのモスクとは決定的に異なった オスマン様式のモスクとしたので、市内のどこからも見える、カイロで最も目立つモスクとなった。ただしトルコのシナンなどによる重厚なモスクと比べると、プロポーションも 細部のデザインも、レベルが低いのはやむをえない。この建設のために、スルタン・ナーシル・ムハンマドの宮殿(いわゆるアブラク宮殿、1314年)は 破壊された。内部は豪華に飾られているが、内装まですっかり完成したのは 1857年のことだった。
スルタン・ハサン学院の隣に建つリファーイー・モスクは、ヘディーヴ・イスマーイール・パシャの母、ホシヤル・カディン ( Hoshiyar Qadin) によって建設が始められ、当初の建築家はフサイン・パシャ・ファフミ ( Husayn Pasha Fahmy) だったが、その死後、ハンガリーの建築家、マックス・ヘルツ (Max Herz) によって完成させられた。そこは中世の聖人、リファーイー教団の創始者、アフマド・リファーイー (Afmad Rifa'i) を祀るザーウィヤがあった場所だった。リファーイー廟の手前のモスクは中庭をもたず、大空間も作っていないので、その大きさにも関わらず、やや平板な印象を与える。 エドワール・ルイ・ジョゼフ・アンパン (1852-1929) は、カイロ北部の新都市地域 ヘリオポリスの開発と建設を推し進めていた途中の1907年、新都市の中央部に 自身の大邸宅を建てることとし、その設計をフランスの建築家、アレクサンドル・マルセル (1860-1928) に依頼した。マルセルはそれをインドのヒンドゥ寺院風に設計したので、これはイスラーム建築ではないが、カイロにある特異な建築作品として紹介しておく。ヨーロッパ人による、インド建築とエジプト建築との融合と言えようか。
● 詳しくは『世界建築ギャラリー』のサイトにおける、
![]() ![]() イスラーム建築の近代を語るときに 不可欠の建築家が、エジプトの ハッサン・ファトゥヒー(ファティ) (Hassan Fathy, 1900−89) である。ところが 彼の作品の写真を見ると、それらは近代建築というより、伝統的な、それもヴァナキュラーな建物のように 見えることだろう。実際は ル・コルビュジエの3歳年下、ルイス・カーンの1歳年上の 同時代人である。彼らとの違いは、途上国に生まれ育った ムスリムの建築家だったことで、貧困国における環境の改善と その建築の実現に 一生を費やしたことである。当時の「第三世界」への彼の影響力は、西側諸国における ル・コルビュジエのそれに匹敵するものだった。彼の著作『Architecture for the Poor』(貧者のための建築) は、日本では まったく知られていないが、イスラーム圏ばかりでなく、途上国の若い建築家たちにとっては、「バイブル」あるいは「クルアーン」のような存在であった。
● 詳しくは「イスラーム建築入門」のサイトにおける、 ![]() ![]() 1989年に国際コンペで選ばれたノルウェーの建築家グループによるアレクサンドリア図書館は、場所がイスラームのエジプトであるにもかかわらず、伝統建築からの引用は何もない。しかし外観を誇示するよりも 地下10階まで階段状に伸び広がる大閲覧室が、現代の生き生きした皮膜的空間をつくっている。外光を採りいれる屋根(天井)がリズミカルに反復する列柱ホール空間は、イスラームと 何の違和感もない。
詳しい目録は『イスラーム建築文献目録』の「 G. アフリカとエジプトの建築 」の章を参照。
![]()
MONUMENTS OF EGYPT, The Napoleonic Edition
Written by Iraida Barodina, 1987, Planeta Publishers, Moscow, 32.5cm-210pp. 2vols
![]()
ISLAMIC ARCHITECTURE in CAIRO, An Introduction
Written by Doris Behrens-Abouseif, 1992, E, J. Brill, Leiden, 27cm-173pp, paperback
![]()
CAIRO OF THE MAMLUKS
Written by Doris Behrens-Abouseif, 2007, I.B. Tauris, London & New York, 29.5cm-380pp.
![]()
THE MINARETS OF CAIRO
Written and photographed by Doris Behrens-Abouseif, 2004, I.B. Tauris, London・New York, Paper 33cm-352pp.
![]()
ARCHITECTURE FOR THE DEAD
Written by Galila el Kadi and Alain Bonnamy, 2007, The American University in Cairo Press, Cairo, New York, 25cm-300pp. ![]()
THE MONUMENTS OF HISTORIC CAIRO
Written by Nicholas Warner, 2005, An American Research Center in Egypt Edition [ARCE Conservation Series 1.] , The American University in Cairo Press, 33cm-250pp. + 31 folding large maps. ( 2020 /12/ 01 )
![]() メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp
|