カイロのバロン宮殿 |
カイロの国際空港から市内に向かう途中、幹線道路に面した広い敷地に、インドの ヒンドゥ寺院のような石造建築が建っているのが 人々の目をひきます。インドの寺院建築に特有の シカラが高く立ち上がり、頂部にはアーマラカと その上のカラシャを戴いています。スタイルとしては カジュラーホ型のシカラですが、しかし四方に開口部を何段にも開き、バルコニー状にしているのは、ジャイナ教の四面堂の趣です (ラーナクプルの アーディナータ寺院の中央祠堂 と比較してみてください)。それを支えるヤーリ(ライオンのような空想上の動物)の彫刻などは本格派で、インドのものに比べて遜色がありません。
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カジュラーホ型のシカラと インド・サラセン様式のドーム屋根とは 奇妙な組み合わせですが、他にも古代仏教寺院や カンボジアのアンコール・ワットなども装飾モチーフにされていて、20世紀初頭のオリエンタリズムの一大饗宴といったところです。 それにしても、エジプトには まったく場ちがいな形態の建物を、いったい誰が、何のために建てたのでしょうか。調べて見ると、実はこれはヒンドゥ寺院ではなく、20世紀初頭の住宅だったのです。しかも設計したのは、アレクサンドル・マルセル (1860-1928) という、フランス人の建築家だというのだから驚きです。
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この建物は現地では「カスル・アル・バロン」 と呼ばれていて、英語では BARON’S PALACE と訳されています。バロンとは人の名ではなく男爵のことなので、本来はその男爵の名をとって「アンパン宮殿」と呼ぶべきなのでしょうが、カイロの人々は「バロン」を特定の人物をさす固有名詞のように扱ったようです。したがって ここでも「バロン宮殿」と呼ぶことにします。
![]() 1904年にカイロ北東部の砂漠に 6,000エーカー(2,400ヘクタール)の土地を買うと、ここに新しいカイロとしての近代的な田園都市を計画し、1907年に建設を開始しました。ちょうど インドの デリーに対する ニューデリー(この6年後に建設開始)に相当する地域です。 混沌とした旧市街と対照的に、広い道路を整然と通し、建物をゆったりと配して、「ヘリオポリス」(太陽の都)と名づけました。現在はカイロの一部ですが、20世紀のカイロの都市発展にとって、ヘリオポリス地区は大きな役割を果たしました。 後にその東北端に カイロ国際空港がつくられために、外国からの訪問者は必ずこの地区を通り抜けていくので、ヘリオポリスはカイロの顔となっています。
そのヘリオポリスの建設を推し進めていた1907年、彼は新都市の中央部に 大邸宅を建てることとし、その設計をフランスの建築家、アレクサンドル・マルセルに依頼したのです。新都市のホテルに宿泊する、外国からの賓客たちを招いてパーティを催す 公邸のような役割をもった邸宅で、広大な敷地にさまざまな施設と庭園をしつらえ、家の中にはエレベーターを 2台備えたといいます。
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パリの地下鉄は、1900年のパリ万国博覧会の開催にあわせて建設されたものでしたが、この万博において話題をよんだのは「世界の旅」と題するパビリオンで、それはインドのヒンドゥ建築や ビルマのパゴダ、日本の五重塔などを結合したエキゾチックな大建築でした。これを設計したのが アレクサンドル・マルセルです。ロンドンの第1回万博 (1851年) 以来の東洋の文物への興味は ますます刺激され、べルギーの国王 レオポルト2世は、自身のラーケン王宮の庭園に オリエンタルなパビリオンを配することを望むと、パリ万博の マルセルによる五重塔を買い取って王宮に移築し、さらに中国風のパビリオンの設計を マルセルに依頼したのです。 ![]() ![]() マルセルが設計した ラーケン王宮のパビリオン群
当時のヨーロッパ人にとって オリエントというのは、エジプト以東、極東の日本まで含む地域全部をさす習慣から抜けきっていませんでした。そこでは中東からインド、中国までが ごっちゃになっていたので、エジプトに入れ込んでいたアンパン男爵も、カイロに建てる自身の邸宅を インド風にすることを望んだのです。その設計をできるのは、やはりアレクサンドル・マルセルだったというわけです。
![]() バロン宮殿は 1909年に建設を開始し、1911年に竣工したあと、男爵の死までの 20年間、カイロの社交界の中心地となりました。その間、エジプト人がこの建物をどんな気持でながめていたのかは わかりませんが、話題性をもった宮殿建築としては大成功でした。しかしアンパン没後、男爵家とカイロ政府との関係は悪化し、住み手が引き上げてしまうと、以後半世紀以上にわたって、宮殿は荒廃の一途をたどりました。 ジョルジュ・クロードによる インテリアの家具や備品は競売に付され、壁画は消され、鏡は はずされ、悪臭漂う コウモリの巣窟となり、はては麻薬の密売場となり、「吸血鬼の館」とまで あだ名されました。 近年になって やっと建築の価値が見直され、ムバラク大統領夫人の掛け声で保存活動が始まりました。1980年にはエジプトの文化財に指定されているので、そのうちに美術館か、あるいはエジプトの「パンテオン」になるのではないか と言われています。内部まで一般公開される日も、そう遠くはないでしょう。 ( 2006年5月25日 ) |