東欧のイスラーム建築 / 神谷武夫
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イスラーム建築の 未知の地域

 イスラーム文化圏は実に広大で、西はスペインから東はインドネシアまで、ある時は軍事的征服により、ある時は貿易活動やスーフィー行者の布教によって、イスラームの宗教と文化が伝えられた。したがって、イスラーム圏全体の建築文化を把握するのは容易ではない。それぞれの地域の建築はその地のイスラーム以前からの伝統を取り入れて独自の建築文化を形成しているからである。そこで、イスラーム建築史を叙述する時には、その全てを網羅するわけにはいかないので、それらの歴史的および芸術的重要性に応じて取捨選択することになる。イスラームの始まりから近代に至るまでの建築的展開の、最も中心となる流れを強調しなければならないからである。

「イスラムの建築文化」の表紙写真

 私の翻訳した、アンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』は (今では入手困難であり、定価も高かったので、学生でも買えるように 小型本にして廉価な新版を出してくれるよう、鹿島出版会に頼んだが、『イスラーム建築』の出版ともども、拒否されてしまった)、そうした1巻本のイスラーム建築史の書物としては最も優れたものと言えるが、上記の原因で、イスラーム圏であるのに 本の中ではまったく扱われない地域というものが出てくる。たとえばブラック・アフリカ、中国、インドネシア、そして東ヨーロッパなどである。(中央アジアは皆無ではないにしても、かなり少ない。)
 その根本的な理由は、イスラーム建築の揺籃期をなす、歴史的に重要なアラビア、ペルシア、エジプトなどの地や、成熟期の傑作を生んできたインド、スペイン、マグリブ、トルコなどの地と比べると、それら「辺境の地」のイスラーム建築の価値や重要性は、はるかに劣ると判断せざるを得ないからである。(中央アジアは、当時はソ連圏であったために取材がむずかしく、また宗教が弾圧されていたので、イスラーム建築遺産が修復されずに荒れたまま放置されていたからであるが。)


東ヨーロッパの イスラーム建築

 それはアンリ・スチールランの本ばかりでなく、イスラーム建築についての ほとんどすべての本が そうである。すると 読者としては、イスラーム建築の歴史の 幹となる部分がよく理解できたとしても、そこで扱われていない 枝葉の地域の建築は どういったものだろうか という疑問を もつことになる。翻訳者である私自身もそうなので、イスラーム建築の主要地域をひととおり調査・撮影したあとは、できるだけ上記の 未記述地域に足を向けて 取材・記録するようにしてきた。
 この『世界のイスラーム建築』のサイトでは、「イスラーム建築の名作」のページで、できるだけ広く、世界各地の特徴的な建築作品を採りあげてきたが、ある地域全体として、新疆ウイグルを含む 中国、そしてブラック・アフリカを代表する マリ共和国 の イスラーム建築を 調査・撮影して、このサイトに公開してきた。今回は、いよいよ 東欧 のイスラーム建築 というわけである。

 イスラーム史の本をひもとけば、イスラーム勢力が 南ヨーロッパではスペインを征服して、一時はフランスの中央部まで進撃したこと、東ヨーロッパではバルカン半島を征服して、一時はウィーンまで迫ったことが書かれている。ところが、南欧のスペインのイスラーム建築は詳しく紹介されてきたのに、東欧のイスラーム建築については、まったく知られてこなかった。そして、数百年間をイスラームのオスマン朝に支配されてきた東欧は、20世紀はじめに 衰亡したオスマン帝国から独立すると、もともとのキリスト教(正教)に復帰してしまったので、それまでの長い間に建設された膨大な量のイスラーム建築は遺棄され、破壊され、他の用途に改変されたりして、その大部分が失われてしまったのである。

 しかし21世紀となって 国情も安定すると、それらの歴史的遺産としての価値が認識されるようになり、生き残った建物の修復や保存活動も行われるようになる。研究者も出てきて、わずかながら 出版も行われるようになってきた。そこで、それらを頼りに、私も昨年、初めて東欧の旅に出かけることができたのである。東欧といっても広く、特に旧ユーゴスラヴィアの紛争によって多くの国に分裂したので、複数の国をまわるのは容易ではない。したがって、トルコの隣国のブルガリアだけを、東欧のイスラーム建築文化を代表する地域として、訪れてきた。その成果を、ここに整理して 紹介するものである。


東欧への オスマン帝国の拡大

 シューメン
ブルガリア最大のモスク、シューメン

 東ヨーロッパがイスラームに征服されたというのは、要するに トルコのオスマン帝国によってであって、ペルシア軍が襲来したわけでもなければ、スぺインのアンダルシア地方と関連があったわけでもない。オスマン朝は、小アジアといわれるアナトリア地方全体を手中にし、1453年にコンスタンチノープル(現在のイスタンブル)を陥落させて ビザンツ帝国を滅ぼした。それよりも 90年近く早い 1361年に、ヨーロッパ側のアドリアノープル(現在のエディルネ)を奪取して、イスタンブルを帝国の首都とする以前は、このエディルネを首都とし、そこから東欧に勢力を伸ばしていったのである。
 エディルネは今もトルコ共和国の最西部の都市で、ブルガリアとの国境までは わずか 10km の位置にあり、しかも オスマン建築の最高傑作、建築家(ミマル)シナンが設計した セリミエ(セリム2世のモスク)の所在地である。東欧への軍事的進撃とともに、ここから建築的影響も広げていったであろうと思って不思議でない。オスマン帝国は 1345年にはブルガリア、マケドニア、ギリシアの大半を征服し、1389年にはセルヴィア帝国を破った。

 シューメン
シナンが設計した セリミエ、エディルネ(トルコ)

 オスマン帝国を絶頂に導いたスレイマン大帝(1495−1566)は、1529年に ウィーンを包囲攻撃した。しかし この時も、2回目の 1683年にも、ついにウィーンは 落ちなかった。したがって、オスマン帝国が支配した東欧というのは、おおむね バルカン半島である。ギリシア、ブルガリア、アルバニア、旧ユーゴスラヴィア(現在のマケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)、そしてルーマニアからハンガリー、チェコ・スロヴァキアやウクライナの南部まで支配したこともあるが、当然トルコから距離が離れるほど、オスマン朝の建築遺産も少なくなる。最も多いのはトルコの隣のブルガリアと、ギリシア北部であろうと予想された。ところが最近出版された ギリシアのオスマン遺産の本を見ると、現存するものは、かなり少ない。まして 旧ユーゴやルーマニア以北の地域には、ほんの わずかしか残らないであろう。ブルガリアの建築遺産だけで東欧のイスラーム建築を代表させるのは、それほど極端な話ではなさそうである。


ブルガリアの 建築遺産

 ブルガリアの国土面積は日本の約 4分の1、北海道よりも少し大きい程度である。首都は人口 150万のソフィアで、西部にある。アラビアの マッカ(メッカ)は東南方向になり、すべてのモスクはこの方向に向けて建てられている。といっても、ブルガリア共和国は、東方キリスト教のブルガリア正教を 主要な宗教とする国(国民の 84パーセント)であるから、現在のブルガリアのモニュメンタルな建物の大半はキリスト教聖堂であって、イスラームのモスクではない。かつて 1394年から 1908年までの 約 500年にわたって オスマン・トルコの支配下にあったが、イスラームは寛容な宗教であるから、キリスト教を禁じはしなかったし、イスラームへの改宗を強制もしなかった。それでも自主的に改宗してムスリムになった者は多かったことだろうし、その 500年間に大々的なキリスト教聖堂の建設はなされなかったから、現在見る聖堂、修道院の多くは近年の建設、あるいは再建である。

 その代表が、ユネスコ世界遺産にも登録されてブルガリアの代表的な観光遺産にもなっている リラ修道院である。ビザンティン様式で建てられ、至る所に伝統的な壁画、天井画が描かれているので、一見、中世の建物のように見えるが、 また 実際に創建は 10世紀の小聖堂に遡(さかのぼ)るが、現在の聖堂は1833年に火事で焼失したあと、主に 20世紀に再建されたものである。オスマン朝時代にも異教でありながら優遇されたリラ修道院にしてそうなので、ブルガリア正教の古建築というのは、ネセバルの諸聖堂と ソフィア近郊のボヤナ聖堂(11-13世紀)などを除いて、あまり存在しない。

リラ修道院   リラ修道院
ブルガリア正教の リラ修道院

 一方、優位にあったモスクやマドラサはというと、オスマン朝の支配が終わったあと 20世紀になって、ブルガリアのイスラーム建築は多くが破壊されてしまったので、現在に残るモスクその他は、ごくわずかである。そのことは、中国におけるイスラーム建築の現状と似ている。しかし、それでも、このサイトの「中国のイスラーム建築」は、かなりの量の古建築としての モスク(清真寺)その他を収録している。それに比べると、ブルガリアは少ない。
 それを説明するのは、ムスリム人口の絶対数である。中国のムスリムは 現在、約 2,300万人にもなる。それに比べて、ブルガリアの総人口は約 750万人で、その内、2011年の統計では約 58万人がムスリムである。これは中国のムスリム人口の約 40分の 1であるにすぎない。ムスリムが日常生活で必要とする 礼拝場所としてのモスクの数も、ほぼ それに比例すると言えるだろう。(ただしムスリムの比率には諸説あり、10%とも、12%とも、13%の 90万人とも言う)


イスラーム建築遺産の種別

 ブルガリアのイスラーム遺産の建築種別としては、大半はモスクであるが、他にはハンマーム(公衆浴場)、ベデステン(屋内マーケット)、テッケ(スーフィー修道場)、チェシュマ(泉亭)、時計塔、そして城塞などがある。テッケというのは、スーフィー聖人、指導者のもとで学問や修行をする人たちのための施設であったが、現在では石造またはレンガ造の聖人の廟のみが残り、他の建物はおそらく木造であったろうがゆえに残っていないのが普通である。

 聖人の廟というのは、神以外の礼拝対象をもつことになるので、本来はイスラームの精神に反することで、ムハンマドもそれを禁じていたのであるが、各地のイスラーム以前からの風習と合体して、次第に盛んとなった。そして、モスクはひたすら神を礼拝する場所で、しかも主に男性用であったから、女子が願いごとをするためには聖人の廟に参詣したので、よくメンテナンスされたテッケの聖者廟がブルガリア各地にある。そして、しばしば宗教の区別も外されるので、キリスト教徒も参詣する。オブロチシュテ村のアク・ヤズル・ババの廟には、キリストの小祭壇 まで設けられている。ブルガリアにおける宗教混交の象徴である。

 もう一つの目立った建築種別としては、屋内マーケットとしてのベデステンが挙げられる。特にヤンボルのそれ は最もよく修復保存されている。これほど きれいに残された 15世紀のベデステンは、イスラーム圏でも他に例がないだろう。それと同じように、宗教建築ではないイスラーム建築、ハンマーム(公衆浴場)や泉亭、そして近代の産物である 時計塔 などが各地にみられるのも珍しい


トルコ型のモスク

 ヴァンのモスク
オスマン・トルコのモスク、ヴァン(トルコ)

 宗教建築としては、マドラサ(学院)に見るべきものが何も残されていないのは寂しい限りである。モスクと、それに付随するミナレット、さらにミンバル(説教壇)は、まったくオスマン様式であって、その大胆な変化形というものは全くない。それも、ほとんどは単一ドームのトルコ型モスクであって、多数のドームが並ぶ大規模なモスクは、ソフィアのビュユク・モスク(現在は博物館に転用)と、プロヴディフのジュマヤ・ジャーミヤ(金曜モスク)のみである。

 トルコのオスマン型モスクを説明するために、かつて書いた文をここに再録しておくと、

オスマン建築は、アルメニア的なセルジューク建築とは 明確に異なった方向に進んでいった。その最大の特徴は、ドーム屋根を大発展させたことにある。世界の建築の中でも、ドーム屋根を これほど駆使した建築は オスマン建築をおいて無い。それは アラブ型の列柱ホール式と対極をなし、内部に ほとんど柱のない大空間を、石造でありながら まるでテント屋根でもあるかのように、薄い皮膜のドーム屋根で 軽々と覆ったのである。

 トルコではモスクを 「ジャーミイ」と言うが、ブルガリアではそれが訛(なま)って 「ジャーミヤ」 と言う(トルコ語では「ジャ」 にアクセントがあるが、ブルガリア語では 「ミ」 にアクセントを置く)
 トルコにあるような純木造のモスクは残っていないが、石造あるいはレンガ造と木造の併用は しばしば見られる。気候的にはトルコと同様、中東のイスラーム圏としては寒冷地に属し、雨量も多くて、あまり木材に不足はしないから、かつては木造のモスクも多かったと思われる。現存のモスクでの木材の使い方は、主に 外部の列柱型のポーチ(ポルティコ)あるいはテラスと、内部での女子用 中2階を支える構造に多い。
 ミナレット は鉛筆型の鋭く尖ったオスマン型の塔であるが、トルコほどに長大なものは無いから、シューメンのトンブル・モスクのミナレットにおいても、バルコニーは1段のみである。

 このブルガリアで最大規模のシューメンのモスクでさえも、オスマン朝本国の スレイマニエ(イスタンブル)や セリミエ(エディルネ)その他の大モスクに比べれば、ずっと小規模だと言える。つまり、ブルガリアのイスラーム建築というのは、すべてトルコのオスマン建築のミニチュア版だと言っても過言ではない。ただ、膨大な数の 取り壊されたモスクの中に、もっと大規模なもの、異形なものがなかったかどうかは不明であるが。


完璧に修復された ジュマヤ・ジャーミヤ、プロヴディフ

 独立後のブルガリアではムスリム人口の減少によって、礼拝場所としてのモスクが維持できなくなり、今も半壊状態のもの、転用する用途が見つからずに荒れたまま放置されているものも多い。ソフィアのバーニャ・バシ・モスクやシューメンのトンブル・モスクは現在も修復工事が続けられているが、既に修復されたものの中で 最も見事に蘇ったのは、プロヴディフのジュマヤ・ジャーミヤである。

 以下に、ブルガリア各地のイスラーム建築を、西部、中部、東部にグルーピングし、各地域では 北から南の順に紹介する。

( 2013年 2月 1日)


ブルガリア地図
ブルガリア共和国の イスラーム建築所在地図



ブルガリア西部




ヴィディン VIDIN ***

ババ・ヴィダ城郭 **
FORTRESS OF BABA VIDA

ヴィディン   ヴィディン  

ヴィディンはブルガリア西部の最北端の都市で、ドナウ川を隔てた対岸はルーマニアである。オスマン朝時代にブルガリアに建てられた城塞は、1877-8年の露土戦争でオスマン帝国が敗北した後、多くが取り壊されたので わずかしか残らないが、その中で最も保存のよいのが、この都市の ババ・ヴィダ城郭である。東側はドナウ川に面しているので守りが固い。ここにはローマ時代から城塞があったというが、オスマン朝の城塞の建造は 13世紀以降である。全体構成は、中央の小規模な中庭を諸室が二重に囲み、その周囲を頑丈な塁壁が囲んでいくつもの角塔の櫓を建てる。さらにその全体を周壁と濠が囲むという堅固なものであるが、内部に市民の居住地区はないので、城塞(シタデル)ではなく、あくまでも領主の城郭である。なお、ヴィディンの発音は、ヴィではなく、ディにアクセントがある。

平面図




オスマン・パズヴァントール・モスク **
OSMAN PAZVANTOGLU JAMIYA (MOSQUE)

ヴィディン   ヴィディン   ヴィディン

ドナウ川に沿う閑静な公園を散策すると、この 19世紀初めのモスクに出る。これ以外のモスクは、1970年代と 80年代にすべて破壊されたという。これは 2003年に修復されて蘇ったが、単なる保存モスクではなく、実際のモスクとして機能し、イマームが常駐している。定型のミナレットは白塗り、礼拝室は 3連アーチのポーチ(ポルティコ)を先立てているが、屋根はドームではなく、ゆるい勾配の寄棟の瓦屋根である。
この脇に 独立した図書室(キタブハーネ)が建ち、こちらは鉛で葺かれたドーム屋根である。ポーチも付いていて、小さいながら ていねいに造られた、愛らしいオスマン建築作品である。



考古博物館(コナック博物館)*
ARCHEOLOGICAL MUSEUM (KONAK MUSEI) *

ヴィディン

トルコでは邸宅をコナウというが、ブルガリアではそれが訛ってコナックと言う(インドのハヴェリー、英語のマンションに相当する)。各地に残る大規模な邸宅は保存されて民俗博物館や歴史博物館とされていることが多く、コナック・ムゼイと呼んでいる。ヴィディンのコナック博物館は 18世紀半ばのもので、他と同様に白壁に瓦屋根であるが、中央に通り抜け通路があるのが珍しい。
他に、オスマン時代の十字形プランをした兵舎が民俗博物館となっているが、筆者が訪ねた時には全面的な改修工事が行われていて、撮影できなかった。



ベログラドチック BELOGRADCHIK **

ベログラドチック城塞 *
CITADEL OF BELOGRADCHIK

ベログラドチック   ベログラドチック

ヴィディンの南 50kmあまりの ベログラドチックに、ギリシアのメテオラやアトス山のような奇岩が立ち並ぶ奇景をバックにした城塞がある。石造の長大な塁壁が囲んでいるが、そのピクチュアレスクな城門以外には、あまり建物が残らない。ベログラドチックとは、小ベオグラードの意。



フセイン・パシャ・ジャーミヤ *
HUSEYN PASHA JAMIYA (HADJI HUSEIN MOSQUE) *

ベログラドチック   ベログラドチック

城塞の麓にある小モスクで、ハジ・フセイン・モスクともいう。大きく張り出した木造の屋根は4本柱で支えられた木造ポーチ(ポルティコ)になっている。扉口の上には植物文様のペインティングがある。ブルガリア北部のモスクは、トラキア地方のドーム型モスクと違って、木造のフラットに近い勾配屋根モスクが多かったらしい。



ソフイア SOFIA ***

バーニャ・バシ・ジャーミヤ **
BANYA BASHI JAMIYA (MOSQUE)

ソフィア   ソフィア   ソフィア

ブルガリアの首都ソフィアは 人口 150万の大都市だが、高層建築のあまりない 静かな都市で、中心部には大小種々のキリスト教聖堂やユダヤ教のシナゴーグが 歴史都市の風格を与えている。バーニャ・バシ・ジャーミヤは、その目抜き通りにキリスト教と共存して残るモスクなので、旅行者にもよく知られているが、それほど大規模ではない。
1576年に、スレイマン大帝の宮廷建築家 シナン(1490-1588)の設計で建てられ、近くにあった温泉浴場(バーニャ)から名が付けられた。ブルガリアに典型的なシングル・ドームの礼拝室の前面に 3連小ドームのポーチ(ポルティコ)が付く。1970年代に修復されてモスクとして復活したが、筆者が訪ねた時にはさらに修復工事中で、内部は足場が建ち並んでシートがかかり、撮影はできなかった。オスマン時代に 30以上あったソフィアのモスクは、独立後に大半が破壊され、現在に残るのは3件のみで、礼拝に用いられているのは このモスクだけである。

平面図




国立考古学研究所・付属博物館(旧 ビュユク・モスク)**
ARCHAEOLOGICAL MUSEUM (Former BÜYÜK JAMIYA) **

ソフィア   ソフィア

バーニャ・バシ・ジャーミヤよりも大規模で古い ビュユク・ジャーミヤ(大モスク)は、国立考古学研究所の付属博物館として保存されている。1451年に 大臣マフムード・パシャ・アンジェロヴィチの命で建設が始まり、1491年に竣工した。内部に4本の柱が立って全体を9つのベイに分割し、中央は大ドーム屋根列、左右は中ドーム列を戴く、プロヴディフのジュマヤ・ジャーミヤと並ぶ大規模モスクである。内部にほとんど装飾がなく、現在は白塗りの大展示室となっている。ソ連時代には 軍の病院として用いられ、次いで図書館となり、1905年に国立博物館となった。



聖シリル・メトディウス聖堂(イマーレット・モスク)*

CHURCH OF SVETI SEDMOCISLENITSE
(IMARET JAMIYA or BLACK MOSQUE)


ソフィア

モスクとは見えない、キリスト教の聖シリル・メトディウス聖堂であるが、もともとは シナンが設計したシングル・ドームのイマーレット・モスクだった。本来の名はボスナル・メフメト(ソフ・メフメト)・パシャ・ジャーミイで(Bosnali Mehmet Pasha Jamiya or Black Mosque)、1547/8年に完成した。 黒花崗岩で仕上げられていたので、ブラック・モスクとも呼ばれた。寄進したボスナル・メフメト・パシャは ルメリア総督で、モスクの背後にイマーレット(救貧食堂)を設け、マドラサや図書館、キャラヴァンサライ、泉亭も含むキュリエとして建てられた。
エウリヤ・チェレビはこのモスクを、シナンの芸術的達成が最もよくわかると賞賛したが、1903〜5年にキリスト教聖堂に転換された際、5連ドームのポーチと2本のミナレットが取り壊され、鐘楼を兼ねたナルテックスが付け加えられ、ビザンティン様式で全体が仕上げられたので、直径 18.3Mの大ドーム以外に モスクの面影はない。

平面図  平面図
シナンのモスクの 復元平面図と、 聖堂の 現状平面図




キュステンディル KYUSTENDIL **

アフメト・ベイ・モスク **
AHMED BEY JAMIYA (MOSQUE)

キュステンディル   キュステンディル   キュステンディル

1573年に アフメト・ベイによって建立された、定型の単室型モスクである。ドーム天井が高いので、やや縦長の印象がある。きれいに保存・修復されたが、モスクとして維持するほどのムスリムが市内にいないので、現在は簡易な歴史博物館の展示室として用いられている。ミナレットは 1904年の大地震で崩壊した。敷地はローマ時代の浴場があったところで、その伝統を継いで、隣にトルコ式の浴場、チフテ・バーニャがあって、現在も公衆浴場として営業している。かつてはキュステンディルに 12の浴場があったという。



フェティーフ・メフメト・ジャーミヤ **
FETTIH MEHMED JAMIYA (MOSQUE)

キュステンディル

市内にはもうひとつのモスク、フェティーフ・メフメト・ジャーミヤがあり、こちらのほうが古く(15世紀半ば)大きい。大変に荒廃していて、前面の3連アーチは鉄骨と木による支保工で支えられている。レンガ造のミナレットも、バルコニーが半壊している。ミナレットの、レンガによる六角形の亀甲パターンはユニークである。



ドゥプニッツァ DUPNITSA **

アフメト・ベイ・ジャーミヤ *
AHMED BEY JAMIYA (MOSQUE)

ドゥプニッツァ  ドゥプニッツァ"  ドゥプニッツァ

たばこ産業の中心地ドゥプニッツァには 1570年代に建立された アフメト・ベイ・モスクが残されている。粗い石積みの単室型モスクで、ドームの上には瓦屋根が載せられている。修復が済んで、現在は美術ギャラリーとして用いられている。白塗りのインテリアの四隅にはムカルナスのようなパターンのペンデンティヴがあるが、ドームの荷重はアーチで支えられているのだから、これは単なる隅部の意症状の処理か。ミナレットは失われてしまったが、ミナレットの螺旋階段への入口が奇妙な形で残されている。



サモコフ SAMOKOV *

バイラクリ・ジャーミヤ *
BAIRAKLI JAMIYA (MOSQUE)

サモコフ   サモコフ   サモコフ

オスマン朝時代以来の産業都市サモコフに、かつては数多くのモスクがあったが、今ではこのモスクだけが保存されている。創建は 15世紀だが、現存モスクは 1845年の再建。ヒュスレフ・パシャの寄進という。シングル・ドームのモスクだが、前面ポーチ(ポルティコ)は5スパンもある2階建てである。ドームは木造で、内部の4本の柱で支えられている。ミナレットも残り、横手の広場にはオスマン朝の曲線を用いた泉もある。建物の軒やポーチの壁面には絵が描かれ、この町が美術家の町であったことも示している。イスラームとキリスト教の文化的混交も見せている。広いポーチで興味深いのは、礼拝室の2階の女子席への階段室が、内部にではなく、ここに設けられていることで、残存例としてはこれが唯一と思われる。1960年に修復が行われ、ミナレットも再建された。胴部のレンガによる螺旋状のパターンが鮮やかである。



ゴリャマタの泉(チェシュマ)*
GOLYAMATA CHESHMA

サモコフ   サモコフ   サモコフ

ゴリャマタ・チェシュマとは 大泉亭 の意で、1660年頃に建てられた。今も町の中心をなしている。きっちりとした石造の立方体に木造瓦葺きの屋根を架けている。かつては この周囲に時計塔やハンマームがあったが、取り壊された。



ブルガリア中部




ヴェリコ・タルノヴォ VELIKO TARNOVO ***

民俗復興期博物館(総督邸)*
KONAK MUSEI

ヴェリコ・タルノヴォ   ヴェリコ・タルノヴォ

ヴェリコ・タルノヴォは13、14 世紀に第2次ブルガリア帝国の首都だった。三つの丘に囲まれた風光明媚な観光都市となっているが、歴史的なモスクはない。オスマン朝時代の 1872年に、ブルガリアの建築家・コリュ・フィチェト(Nikola Fichev, 1800-81)が設計したヴェリコ・タルノヴォ総督邸が、以前は市役所として用いられていたが、今は民俗復興期博物館となっている。ファサードの中央部が前面に突出し、曲線を多用するという、典型的なコナックである。その部分の1階は切石と石の円柱を用いているが、他はすべて木造である。



カルロヴォ KARLOVO *

クルシュン・ジャーミヤ *
KURSHUN JAMIYA (MOSQUE)

カルロヴォ   カルロヴォ   カルロヴォ   カルロヴォ

15世紀にトルコ人の植民で作られた 閑静なカルロヴォの町の中心部の公園に、クルシュン・モスクが保存されている。カルルザデ・ララ・アリ・ベイ(Karlizade Lala Ali Bey)が モスクを含むワクフとして1485年に建設した。単一ドームの礼拝室はレンガ造だが、前面の5間×3間の広いポーチ(ポルティコ)は木造で、瓦葺の勾配屋根が架かる。礼拝室屋根も、鉛葺きの八角形のドラムとドームの外側は 瓦葺きである。おそらくブルガリアで最も広いポーチは、礼拝室の延長という以外の用途があったのだろうか。壁面の盲アーチと柱の位置が合致していないのは、建設時期が異なっているのだろう。礼拝室内部の修復はまだ手つかずで、かろうじてムカルナスのミフラーブが見える。レンガ造のミナレットは下部だけ残して失われた。



カロフェル KALOFER *

浴場址
HAMAM (PUBLIC BATH)

カロフェル

カルロヴォから 17kmの小さな町 カロフェルの町はずれに、浴場址がある。切石とレンガの組み合わせで建てられている。



カザンラク KAZANLAK **

ララ・シャヒーン・パシャの墓
TÜRBE OF LALA SHAHIN PASHA

カザンラク   カザンラク

カザンラクは、ブルガリアの薔薇(バラ)産業の中心地で、人口8万ほどの都市。ユネスコ世界遺産に登録されている「トラキア人の墳墓」の隣に、この小さな廟が残っている。ブルガリアにおける最も初期のイスラーム建築のひとつで、14世紀半ばの建造と考えられる。焼成レンガで造られ、ドームを戴くが、四方は吹き放ちで、最も単純な廟建築である。ララ・シャヒーン・パシャはブルガリアの大部分を征服し、オスマン朝のルーメリア総督となった人。



スタラ・ザゴラ STARA ZAGORA **

エスキ・ジャーミヤ(古モスク)
ESKI JAMIYA (OLD MOSQUE)

スタラ・ザゴラ   スタラ・ザゴラ   スタラ・ザゴラ

紀元前からの歴史をもつスタラ・ザゴラの町は 1364年代にオスマン朝の領土となり、エスキ・ザグラ(後に エスキ・ザーラ)と呼ばれた。17世紀にエウリヤ・チェレビがこの町を訪ねた時には、47のモスクがあったという。1408/9年に ハムザ・ベイによって建立されたこのモスクは、早くから古モスクと呼ばれた。露土戦争中の1875年に この町は戦場となり、トルコ軍によって大虐殺が行われ、町は壊滅して 焦土と化した。唯一生き残った公共建物が、このモスクである。戦後に復興計画を担ったオーストリア・ハンガリーの建築家 ルボル・バイェルは、この生き残ったモニュメントを中心に碁盤目状の都市計画をしたので、市の街路はモスクの軸線と一致している。しかし それはマッカ方向のキブラではなく、モスクが土台としたキリスト教聖堂の東西軸だという。レンガ造のモスクは、直径 17mの 浅めの単一ドームで覆われ、ポーチには3連の小ドームを架けている。ブルサのセルジューク朝の建築の影響が指摘されている。現在、モスクは 宗教博物館として保存されている。



プロヴディフ PLOVDIV ***

ジュマヤ・ジャーミヤ(金曜モスク)***
JUMAYA JAMIYA (FRIDAY MOSQUE)

プロヴディフ   プロヴディフ   プロヴディフ

プロヴディフはギリシア時代にフィリッポポリスの名で知られた古都。ブルガリアのトラキア地方で最も豊かな都市で、ソフィアに次いでブルガリア第2の都市、人口は約 34万人。1364年から 1878年までのオスマン時代にはフィリベと呼ばれ、19世紀にはブルガリアで最大の都市だった。古代ローマ劇場をはじめ、多くの歴史遺産がある。
中心部のジュマヤ広場には、地下にローマの競技場跡があり、それに面して建つ、ブルガリア最大のモスク、ジュマヤ・ジャーミヤ(金曜モスク)は ムラト2世治下の 1425年の建立とも、それより早いムラト1世治下の建立とも言われる。18世紀に大地震で甚大な被害を受けたが、スルタン・アブドゥルハミットの治世の 1785年に修復された。そしてブルガリア独立後に荒廃していたのが、近年見事に修復された。9ベイから成る大規模なモスクで(33m×27m)、ソフィアのビュユク・モスクと同じく、中央はドーム屋根列、左右は木造の船底天井の列となっている。
もうひとつのモスク、1440年(1444-5とも)のイマレット・ジャーミヤは現在閉じられているのと、周囲の樹木とで、ほとんど撮影ができなかった。しかしこれら二つのモスクを結ぶ道が 市のメイン・ストリート(ウズン・チャルス)で、このあたりが、それまでのキリスト教地区の外側にオスマン朝が造ったムスリム都市、フィリベであった。1873年頃に、フィリベには 24の金曜モスクがあったというが、1878年にオスマン帝国が露土戦争で敗れると、ムスリムの多くはこの地を去り、モスクは遺棄され 破壊され、2件を残すのみとなった。

プロヴディフ   プロヴディフ   プロヴディフ




チフテ・ハンマーム(公衆浴場) *
CHIFTE HAMAM (PUBLIC BATH)

プロヴディフ

1460年頃に建造された大規模な公衆浴場で(バルカンで最大)、ほぼ修復され、現在は美術ギャラリーに用いられているというが、筆者が訪ねた時には閉ざされていて、内部は まだ荒廃しているように見えた。カスタモヌを退役したイスファンディヤロール・イスマイール・ベイ (Isfandiyaroglu Ismail Bey) の設立であろうという。チフテというのはダブルの意で、男子用の翼と女子用の翼に分かれていたからという。1874年にはプロブディフに 12件あったというハンマームのうち、これは唯一の現存建物である。



地域民俗博物館* と 地域歴史博物館(ゲオルギアディ・ハウス)*
REGIONAL ETHNOGRAPHIC &
REGIONAL HISTORICAL MUSEI (GEORGIADI HOUSE)


プロヴディフ   プロヴディフ

現在の地域民俗博物館(左)は、プロヴディフの山の手に残る多数のコナックの中でも ひときわ立派なもので、1847年にイスタンブル出身の ハジ・ゲオルギが建てた。民族復興様式にバロックを加味したもの。
地域歴史博物館に用いられているコナック(右)は、1848年(1846年とも)に富裕なギリシア人商人のディミタル・ゲオルギアディが建てたので、ゲオルギアディ・ハウスとも呼ばれる。1958年に建築家・クリスト・ベエーフによって改修された。国の重要文化財に指定されている。



ハスコヴォ HASKOVO **

エスキ・ジャーミヤ(古モスク)
ESKI JAMIYA (OLD MOSQUE)

ハスコヴォ

プロヴディフの東南 78 kmのハスコヴォは、オスマン帝国に征服されたばかりの 1394/5年頃に、トルコ人によって造られた町で、ハスキョイと呼ばれた。ここには バルカンにおける 現存最古といわれる エスキ・ジャーミヤ(古モスク)がある。周囲は店舗やカフェに囲まれてしまい、ミナレットの存在によって、かろうじてモスクがあることが知れる。最古のモスクといっても、躯体以外はすべて後世の補遺である。ごく小さなモスクで、入口側に木造の女子用2階席、マッカ側にミフラーブ、天井はドームではなく、木造のフラット天井である。1967年から 文化財として保存され、今もモスクとして使用されている。



ウズンジョヴォ UZUNJOVO **

聖母被昇天聖堂(旧モスク)*
THE CHURCH OF THE ASSUMPTION

ウズンジョヴォ   ウズンジョヴォ   ウズンジョヴォ

ハスコヴォの東方の小村、ウズンジョヴォに残ったモスクが、キリスト教の聖堂に転換されたおかげで、美しく維持されている。大臣 ホジャ・シナン・パシャ(1506-96)が、この村を商業都市として発展させるために、モスクを含むキュリエを 16世紀末に建設した。350室のキャラヴァンサライ、1,000頭の馬を容れる厩舎、ハンマームやイマーレットも含んだという。17世紀末に エウリヤ・チェレビが、モスクとキャラヴァンサライを訪ねたと記述しているが、今ではキャラヴァンサライは、モスクの境内に 1基のアーチを残すのみである。イブラヒーム・タタルリが入手した古文書によると、そのキュリエを設計したのは 建築家 シナンだというが、真偽不明。



テケト TEKETO *

オスマン・ババのテッケ *
OSMAN BABA TEKKE

テケト   テケト   テケト

オスマン・ババは ベクタシー教団と密接な関係のある アレヴィー派のスーフィーで、1389年に生まれ、1478/9年に没した。ベクタシー教団の指導者は ババという尊称を持つことが多い(父または祖父が原義である)。オスマン・ババはハスコヴォの西方のテケト村にテッケ(スーフィーの修道場)を開いて活動したが、諸施設は木造であったろう。ほとんどのテッケに現在残るのは指導者(シャイフ)の廟のみである。オスマン・ババの廟(チュルベ)は 1505年から 07年にかけて建設された。シングル・ドームの墓室に 小ドームのポーチが付くという、ほとんどモスクと同じ建築形式である。ただし墓室にミフラーブはなく、中央に墓が横たわる。管理人と参詣者によって よくメンテナンスされ、献花が絶えない。境内にはもう一つの小廟があり、複数の墓を収めている。オスマン・ババの弟子なのだろう。



アルディノ ARDINO **

悪魔の橋 **
DEVIL'S BRIDGE

アルディノ   アルディノ

標高 420mの山奥のオルダ川に架かる、ブルガリアで最大の石造アーチ橋は、人為の仕事とは思えないほど (!) の雄大さから、「悪魔の橋(シェイタン・キョプリュ)」という異名をもらった。長さは 56m、幅は 3.5m、川面からの高さは、中央部で 11.5m ある。現在、水の流れは速くないので、中央の大アーチが水面に姿を映して、円形の像を結ぶ。とりたてて装飾はないのだが、木々に覆われた周囲の山々と調和した、中世のような手造りの橋の風景が、人々の郷愁をさそう。かつて、プロヴディフとエーゲ海方面を結ぶ重要な隊商路であった街道に、オスマン朝のセリム1世(在 1512-20)の命で、ネデリノ出身のディミタルが建造したという。しかし街道は 20世紀半ばから廃れて、この橋の存在も忘れられていた。アルディノの町から 10kmのところにある この橋が 旅行者に発見されて、1984年に文化遺産に指定されてから、実用よりも、次第に観光遺産となりつつある。



ブルガリア東部




シリストラ SILISTRA **

メジディタビヤ城塞 *
MEJIDITABIYA FORTRESS

シリストラ   シリストラ

シリストラはブルガリア最北の都市で、ルーマニアとの国境をなすドナウ川に面している。ローマ時代にはドゥロストルムと呼ばれた古都だが、今は 小さな地方都市にすぎない。市の南3kmの丘陵に、メジディタビヤ城塞がある。1841年から 53年にかけて、長六角形プランに建設された城郭で、残っている建物はわずかだが、弧を描く兵舎の棟が、軍事博物館の展示室として用いられている。城塞の名は、1847年にここを視察したスルタン・アブドゥル・メジからとられたた。竣工の直後に始まったクリミヤ戦争の舞台となり、トルストイも参加したロシア軍の攻撃を受けた。

平面図



クルシュンル・ジャーミヤ *
KURUSHUNLU JAMIYA (MOSQUE)

シリストラ   シリストラ

市内にシングル・ドームのモスクがひとつ残る。16世紀初頭にさかのぼる古モスクである。1630年と、18世紀後半に修復された記録がある。2004年にはアメリカの援助で修復され、現在は かろうじて保存されているが、今後の用途がきまっていないので、内部は荒れたままに放置されている。



ラズグラド RAZGRAD**

イブラヒーム・パシャ・ジャーミヤ **
IBRAHIM PASHA JAMIYA (MOSQUE)

ラズグラド   ラズグラド   ラズグラド

ラズグラドは、ブルガリアでトルコ人の比率の最も高い(27%)都市である。その中心となるモスクは、スレイマン大帝の大臣だったパルガル・イブラヒーム・パシャ(Pargali Ibrahim Pasha)によって、16世紀にワクフとして寄進されたが、未完成に終わった。1616/7年にこれは取り壊され、規模を拡大してマフムード・パシャによって建設された。それでもモスクの名前はイブラヒーム・パシャ・モスクのままだった。その 35年後に訪れたエウリヤ・チェレビーはこのモスクを、ルーメリア地方(バルカン南部)で最も美しいモスクだと評した。現存するモスクとしては、バルカン半島で3番目に大きいモスクだと言われる。19世紀までは前面に3連ドームのポーチがあったが、露土戦争の折に破壊された。現在、外側の修復は終わったものの、内部は手が付けられていない。大きな単一ドームの隅部に、小ミナレットのような小塔が立っている。トルコ型の鉛筆状ミナレットは、高さが 21mある。19世紀には11のモスクがあったというが、現在は このモスクのほかにアフメト・ベイ・モスクを残すのみである。



時計塔 *
CLOCK TOWER

ラズグラド   ラズグラド

かつて、住民に時を知らせるのは、モスクのミナレットからの1日5回の礼拝の呼びかけであったが、近世になると 時計製造の技術が普及し、各地に時計塔を建てることが流行していった。ブルガリアには 50ほどの時計塔が現存している。ラズグラドでは、イブラヒーム・パシャ・モスクの近くの公園に、スマートな時計塔が残っている。創建は 18世紀だが、1864年に 石工の トドル・トンチェフ(Todor Tontchev)によって再建されたという。石造の四角の塔の上に、例によって木造の展望台を載せ、曲面屋根を架けている。
市内には、他に大規模なハンマーム(公衆浴場)があったが、1970年代に取り壊されてしまった。



タルゴヴィシュテ TARGOVISHTE *

サハト・ジャーミヤ *
SAHAT JAMIYA (MOSQUE)

タルゴヴィシュテ   タルゴヴィシュテ   タルゴヴィシュテ

タルゴヴィシュテは18、19世紀に栄えた商業都市で、18世紀に建てられたモスクが、ミナレットとともに残っている。サハトというのは時計塔のことで、1860年代に建てられたが現存せず、名前だけが残った。モスクの外壁は石造だが、内部の前室と女子用中二階は木造である。近年の修復で内部のタイル装飾がすっかり新しいものに変えられ、華やかなインテリアになった。



シューメン SHUMEN ***

トンブル・ジャーミヤ ***
TOMBUL JAMIYA (MOSQUE)

トンブル・モスク   トンブル・モスク   トンブル・モスク

シューメンはトルコ系の住民の多い都市で、1880年代には 47のモスクがあったとされるが、1980年には 8件、1989年にはわずか3件になってしまった。
トンブル・モスクは ブルガリアで最大のモスク。近年まで、エディルネより北部のヨーロッパで 最大のモスクだった。シューメン出身でオスマン朝の大臣(ヴェジール)にまでなった シェリフ・ハリール・パシャ(Sherif Halil Pasha)が、他の施設とともに、1744/5年に キュリエとして寄進した。内部はトルコ・バロックと言うべき チューリップ時代(ラーレ・デヴリ 1718-30)の 華やかな装飾が施されている。おそらくイスタンブルから建築家を招聘したのだろう。ここ数年、ずっと修復工事が続けられている。完了の暁には、ブルガリアを代表する素晴らしいモスクと賞賛されることだろう。
ミナレットもブルガリアで最も高さが高く、約 40mもある。しかしながら トルコ本土の大規模モスクでは ミナレットが2本、4本、時には6本も備え、ムアッジンが登ったバルコニーも2段、3段とあったが、ブルガリアには 2本以上のミナレットを備えるモスクはなく、最大のシューメンのモスクでさえ、ミナレットは 1本で、バルコニーも1段のみである。
マドラサの、回廊で囲まれた中庭には八角形の泉亭があり、回廊の一面の2階には図書室がある。中庭の泉亭としては、ブルガリアに残る 唯一の作例である。

トンブル・モスク   トンブル・モスク




ベデステン(屋内マーケット)* と、ソントゥール・ハンマーム(公衆浴場)
BEDESTEN (COVERED MARKET) &
SONTUR HAMAM (PUBLIC BATH)


シューメン   シューメン

トンブル・モスクから少し離れた所に、今は使われていないベデステンと、半壊したハンマームが残る。ドブロヴニクの商人たちによって建てられた かなり大きなベデステンは 1529年の建設で、ブルガリアで最も古いイスラーム建築のひとつである。1878年以後は、弾薬庫に使われ、共産党政権時代にはレストランになっていたという。
ハンマームは、ベデステンに接して、19世紀に建てられた。現在は廃墟である。



泉亭(クルシュン・チェシュマ)* と、泉付きの時計塔 *
KURSHUN CHESHMA (FOUNTAIN) &
CLOCK TOWER


シューメン   シューメン

市内の公園には泉亭が、トンブル・モスクの背後の丘の上には 泉の付いた時計塔が建っている。石造のクルシュン泉亭は 1710年の建造で、瓦葺き屋根のきちっとした建築的構成をしている。
18世紀後半の時計塔(サハト)は基部に噴水口を設け、その上に木造の庇を持ち出しで架けている。多くの時計塔と同じく、最上部は木造で、展望台のようになっている。かつてはこの背後にモスクがあり、タルゴヴィシュテのモスクと同じように、サハト・ジャーミヤ(時計塔モスク)と呼ばれていたらしい。



スヴォロヴォ SUVOROVO *

ジャーミヤ(モスク)
JAMIYA (MOSQUE)

スヴォロヴォ   スヴォロヴォ   スヴォロヴォ

スヴォロヴォの町に残る 切石積みの シングル・ドーム・モスクは、1573年の建立と推定されているが、別の説では、16世紀に 巨匠シナンが建てたのだという。内部は4つの壁付きアーチと4つのコーナー・アーチが八角形のドラムをつくり、ドーム天井を載せている。ドームの上は 八角錐の瓦屋根となっている。モスクの前面はオープン・ポーティコではなく、閉鎖的な二階建ての建物となっている。後世の付加であろう。



オブロチシュテ OBROCHISHTE **

アク・ヤズル・ババのテッケ*
AK YAZlLl BABA TEKKE

オブロチシュテ   オブロチシュテ   オブロチシュテ

アク・ヤズル・ババのテッケは、16世紀前半に設立された。ベクタシー教団のテッケ(修道場)としては、バルカンで最も規模が大きかったと見なされる。広い境内には、1866年に建立された アク・ヤズル・ババの廟(チュルベ)のほかに、同時期の建設と考えられるイマーレット(救貧食堂)の遺跡も残っている。テッケのまわりには村ができ テケジ村と呼ばれたが、1942年にオブロチシュテという名前に改められた。 廟の七角形プランの墓室の一辺の壁には キリスト教の小祭壇が設けられていて、ブルガリアにおける イスラームとキリスト教の 宗教混交を示している。

オブロチシュテ   オブロチシュテ




ヤンボル YAMBOL **

エスキ・ジャーミヤ(古モスク) *
ESKI JAMIYA (OLD MOSQUE)

ヤンボル   ヤンボル"   ヤンボル"

ヤンボルは、1365年にオスマン朝による征服後に作られた都市である。エスキ・ジャーミヤ(オールド・モスク)は 1375年から 1385年の間に建てられた(1420年代ともいう)。ビザンティン建築風のレンガと切石を組み合わせた壁面の上に直径約 25mの大きなシングル・ドームの載るモスクで、15世紀のミナレットも よく保存されている。1878年にオスマン帝国が露土戦争で敗れるとブルガリアが自治公国となり、ヤンボルのソフラル・モスク(1481)を始め、図書館やテッケなど、多くのイスラーム建築が破壊され、エスキ・モスクもキリスト教聖堂に転用された。すっかり修復された現在は、モスクとして礼拝に用いられている。



ベデステン(屋内マーケット)**
BEDESTEN (COVERED MARKET)

ヤンボル   ヤンボル"

ブルガリアで最も保存のよい、またよく修復されたオスマン朝のベデステン(屋内マーケット)である。15世紀に大臣の ハディム・アリ・パシャによって建設された。17世紀に ここを訪れたエウリヤ・チェレビは、他のどこにも匹敵するもののないベデステンだと賞賛している。ここの収益が、モスクの維持に使われた。1878年以降は弾薬庫やタバコ倉庫などとして用いられたが、1972年にオリジナルの形に修復された。現在は広場に面して、外周の店舗ユニット列の周囲にカフェテラスがまわり、市民の憩いの場所となっている。広場を隔てた斜向かいに エスキ・モスクがある。


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