マリのイスラーム建築 / 神谷武夫
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西アフリカの マリ共和国

 アフリカ大陸は、建築文化的には 北部の地中海に面した「アラブ・アフリカ」と、サハラ砂漠以南の「ブラック・アフリカ」とに二分される。アラブ・アフリカは 東から順に エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコの 5カ国で、7世紀以後 中東のアラブ・イスラーム文化が流入し、アラブ人が移住して ベルベル人などと混血し、アラビア語を主言語とするようになった。
 古代エジプト文明を別にすれば、ウマイヤ朝の石造建築と アッバース朝のレンガ造建築に始まる 正統的なイスラーム建築を発展させてきた地域である。質量ともに 西アジアのイスラーム建築に比べて遜色はなく、特にカイロは イスラーム文化のひとつの中心であり続けてきた。

 これに対して ブラック・アフリカは黒人の国々であり、20世紀の後半にヨーロッパの植民地から独立しながら、今もなお 貧困や政情不安に悩む国が多い。イスラーム教の浸透は中世に始まるものの、軍事的に征服されたわけではなく、交易活動を通じての 緩やかなものだった。イスラーム化が大きく進んだのは 19世紀からである。
 現在のアフリカ全体では 全人口の約 40%がムスリムであるが、ブラック・アフリカだけでみれば その半分くらいになるだろう。同じくらいの比率で キリスト教徒がいるほかは、古来の 部族宗教(アニミズム)を保持している。しかし現在も 急速にイスラーム化が進んでおり、21世紀中には その過半がムスリムになるとみられる。

 文化圏としては、歴史上 マリ帝国やソンガイ帝国をもった「西アフリカ」と、スワヒリ文化を中心とする「東アフリカ」とに区分される。地理的な呼称としては、アラビア語の「ビラード・アッ・スーダーン」(黒人たちの国々)に由来する「スーダン」が、サハラの南、大陸の東西にわたる全エリアに用いられた。現在のスーダン共和国は 東アフリカにあるが、かつてフランスの植民地にされた「仏領西アフリカ」(Afrique Occidentale Française) は「仏領スーダン」とも呼ばれた。その西部スーダンから 1960年に独立したのが、マリ共和国である。
 マリの北部は サハラ砂漠で、遊牧のトゥアレグ族以外は無人に近い。南部は アフリカ第3の大河ニジェールが 首都バマコから東部のガオに流れるステップ地帯で、ニジェール流域に かつてガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国などが興り、文明を発展させた。イスラーム化が進み、現在の人口 1,300万の 90%が ムスリムとなっている。そのほとんどは スンナ派である。


土の文化、土造建築

 ブラック・アフリカは、木の文化圏や石の文化圏と異なる「土の文化圏」である。 古来、ほとんどすべての建物は 土、つまり「日乾しレンガ」(sun-dried brick) で建てられてきた。それはアフリカばかりでなく、世界中の建物の約 40%は 今も土で造られていて、世界の人口 68億の内、半数の 30〜35億人は 土の住居に住んでいると言われる。土は最も安価な材料であり、人の住むどこでも入手可能であり、しかも保温性が高いので、雨量の少ない地域である限り、これは優れた建設材料だったのである。
 エジプトの近代建築家で、第三世界の建築界のリーダーとなった ハッサン・ファティ(1900-89)は、当時の(現在も)アフリカの経済状態からいって、日乾しレンガ造による建物が その風土に最も適していると考え、生涯それを実践して、土による近代建築を設計し続けた。彼のニュー・グルナでの体験を著わした『貧者のための建築』 ("Architecture for the Poor") は、中東とアフリカにおける 若い建築家たちのバイブルであった。

 とはいえ、土は降雨や洪水に弱く、また放置されれば ひび割れ、崩れ落ち、遺跡となるよりは 大地に還ってしまう、はかない材料でもある。かつてのアッバース朝イスラーム帝国の首都として 栄華を極めた バグダードの都でさえ、放棄された後は 跡形もなく消え去ってしまった。建築史の書物は 石造建築や木造建築の歴史で構成され、土造建築が扱われることは ほとんどない。実際、ブラック・アフリカの中で最も建築的に知られている マリにおいてさえ、18世紀以前の古い建築文化は 何も残っていないのである。では、アフリカの土の文化を代表する、そのマリの「土造建築」とは、どんなものだろうか。

    
ジェンネの民家と カマラガル村

 古いスタイルの民家が最もよく残っているのは、ジェンネの町である。北部アフリカとスーダン南部の交易活動の結節点として栄えた町なので、土造の家としてはかなり装飾的である。ファサードに付け柱を並べ、入口上部と建物コーナー部に角(つの)状の突起を出し、窓には しばしば木製の装飾的なフレームを嵌めこむ。けれども壁面に彩色することは稀で、タイルなどを貼ることもないから、あくまでも土のプラスター(アドビー)仕上げである。
 その造形は、ちょうど海水浴で、子供たちが砂を盛り上げてつくる城や宮殿に似ている。それら砂の城が、波にさらわれればひとたまりもなく崩れ去ってしまうような儚さが、こうした土造の家々にもあり、定期的に土のプラスターを塗りなおさなければ、たちまちひび割れ、表面がはがれていくのである。この裕福だった町をあとにして村々に行けば、半分大地に還ってしまったような家々が並んでいる。

    
日乾しレンガと コンクリート・ブロック

 土の家といっても、海水浴の子供たちのように いきなり土を盛り上げるわけではなく、手で持って積み上げることのできるように、日乾しレンガをつくる。その製法はごく簡単で、底の抜けたロの字型の木枠に、藁を混ぜて練った土(粘土が望ましい)を押し込み、すぐに木枠を抜いてしまう。これを太陽の熱で乾かしたものが 日乾しレンガである。これを火にかけて焼けば、石のように硬い「焼成レンガ」になるが、そのためには 貴重な木材を燃料にしなければならないので、特別な建物にしか用いない。最近は 都市内ではコンクリート・ブロック造の建物が増えてきたが、その上に土のプラスターを塗ると、見かけ上は 土造建築と区別がつかない。
 雨量が少ないので 勾配屋根にする必要が あまりなく、基本的に 屋根はフラットである。また土壁は 昼間蓄えた熱を夜 室内に放射するので、人びとは涼しい屋上で寝るのを好み、そのためにも陸屋根が必要とされる。もちろん農作業にも使われ、干草置き場にもなる。ただし 穀物倉は雨で崩れないよう、藁で とんがり帽子のような 簡易屋根をかけることが多い。
 陸屋根(ろくやね)を架けるためには 梁や母屋としての木材が要る。 高価であっても、これは欠かせない。燃料として消費してしまうのではないから、この建物が壊れたあとでも、別の建物に使うことができる。


土のモスク

 マリで最も有名なモスクは、古都 ジェンネの大モスクである。古都といっても 前述のように 古建築や遺構があるわけではなく、すべては 近代になってから建て直された土の建物が建ち並ぶ、人口 23,000ほどの小さな町である。しかし 川で囲まれた街の構造は古いままであり、約 2,000にのぼる家々は 古来のスタイルを伝えている。1988年には この町全体がユネスコ世界遺産に登録された。なかでも 町の中央部に建つ大モスクが 土造のイスラーム建築を代表するものとして、世界に知れわたっている。

朝日に輝く ジェンネの大モスク

 ところが ジェンネに着いてみると、驚いたことに、ファサードに建ち並ぶ 3本の塔のうちの 左の塔が失われている。私が訪れる 1週間前の 11月6日に、乾季であるにもかかわらず 豪雨があり、崩壊してしまったというのである。建物の一部とはいえ、世界遺産の景観をなすモスクの塔が、こんなにも あっけなく崩れてしまうとは。もちろん その分、再建も楽にはちがいないが、土の建築のもろさを いやというほど思い知らされたのである。
 このことを念頭におきながら、大モスクを詳しく見る前に、まずは マリのモスク建築の原理を、村々の小モスクによって確認しておこう。

 『イスラーム建築』(マフィアの圧力によって、どこの出版社も出版拒否をしているのであるが)に書いたように、近世のイスラーム世界を三分した帝国、オスマン帝国、ペルシア帝国、ムガル帝国において イスラーム建築が大発展し、周辺国にも多大の影響を与えたことから、モスク建築は古典的な「アラブ型」に加えて「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の 4タイプ に大分類されることとなった。これに対して、限られた地域で独自の形を造りだした マイナーなスタイルがある。これを「型 Type」 に対して「式 Style」と呼ぶなら、「中国式」モスクは その典型である。
 マリのモスクは、基本的には アラブ型でありながら、材料、形態、内部空間において、一目でそれとわかる「マリ式」モスクを生み出した。これを「スーダン・サヘル様式」と呼ぶ人もいる。サヘルというのは、サハラ砂漠の南縁部をさし、マリばかりでなく、もっと東西に広がる地域に共通する様式と見ている。



    
土の文化、村々の小モスク

 マリのモスクは 民家と同じようにフラット・ルーフであって、ドーム屋根は用いない。もちろんアーチは用いるし、ドームの工法が伝えられなかったわけではない。にもかかわらず、乏しい木材を使って陸屋根を造るのは、基本的に 日乾しレンガの建物だからである。雨で もろくも崩れ去ってしまう建物に 恒久性は期待できない。ドーム屋根を架けるためには、木材による大々的な型枠や支保工が要るので、ドームが崩れるごとに 木の型枠や支保工を作って再建するのは、経済的にも労力的にも 大きな負担となるが、陸屋根ならば、崩れても その木材を使ってすぐに屋根を架けなおすことができるからである。

 大きなモスクでは 内部に柱を立てなければならないが、村の小モスクには 柱の必要がなく、壁から壁へと 小梁を架け並べる。この ワンルーム空間の礼拝室と同じほどの広さの 前庭を備えるのが一般的で、それは塀で囲まれるので、中庭と呼ぶほうが適切である。この中庭への入口には ドアがあるが、礼拝室への入口は開け放していることが多い。
 マリのモスクの特徴としては、ミフラーブが外部に突き出して、小部屋のようになっていることである。コルドバのモスクをはじめとして、北アフリカからスペインにかけては そうしたモスクが珍しくないので、それが伝えられたのであろう。

 外壁には何の装飾もなく、塗装もされない。唯一の装飾は 角(つの)状の突起である。ミフラーブの上に一番高く角を出し、建物の隅部に 小突起を出す。この、最も簡易な「顕示法」が、ジェンネの大モスクの塔へと発展していったのである。しかしながら イスラーム建築において、こうした造形上の垂直要素としては ミナレットを建てるのが一般的であるが、マリでは どんなに大きなモスクにも、独立したミナレットは無い。これも 構造的に、土の建築ゆえの倒壊しやすさが理由であろう。
 大規模なモスクでは ミフラーブ上の角を高い塔にして、これをミナレットに充てる。小モスクでは、ムアッジンによる礼拝の呼びかけは 屋上からなされるので、屋上に上る外階段を 中庭に造っていることが多い。それがない場合は、丸木の梯子をかけることになる。


アラブ型、ジェンネの大モスク

 マリの最大のモスクは、ジェンネの大モスクである。その威容は 表現派的な外観とあいまって、工業化社会の建築家たちを驚かせるに十分な視覚的効果をもっている。工業化製品のアセンブリッジでつくられる建物とはまったく異なった、手作りの塑像のような表現だからである。そしてまた平面図を見る時、その驚きは いっそう深まる。すべてが歪んでいる上に、礼拝室の内部が 柱で埋め尽くされているからである。

ジェンネの大モスク 平面図
( from R. Bedaux, B. Diaby & P. Maas, "L'Architecture de Ddjenne" 2003)

 創建は マリ帝国時代(13〜16世紀)の 1280年頃、イスラームに改宗した ジェンネの第 26代目の王、コイ・コンボロによってと伝える。自身の宮殿を取り壊した跡地に建てたもので、これが 19世紀に破壊されるまでは ずっと用いられていたという。西アフリカを植民地にしたフランスが 1893年にジェンネを占領した時、このモスクは すでに廃墟になっていた。
 現在のモスクは 1907年に、フランスの援助のもとに再建したものである。基壇やモスクの下部は既存部を利用しただろうから、プランは ほぼオリジナルの通りだったと考えられるが、上部の形態は、その時代の美意識が反映したものとなったことだろう。工事の指揮をとったのは、石工(いしく)ならぬ 土工(つちく)ギルドの長、イスマーイーラ・トラオレであった。

 さて、川が氾濫した洪水時に モスクが損傷しないように、全体は 高さ2m強の基壇に載っているが(約 75m×75m)、この基壇が正方形ではなく、平行四辺形のように歪んでいる。これに応じて モスクのプラン自体も歪んでいて、中庭は完全に平行四辺形である。このモスクは広場に面しているので、カイロのイスラーム建築のような敷地上の問題はなかった筈だから、これらの歪みは、測量術の未発達が原因だったろう。平行線を出すのは容易であっても、大規模に直角を作図するのは むずかしかったのかもしれない。

ジェンネの大モスク 模型 (平面図と逆方向から見る) バマコ国立博物館

 <礼拝室+中庭>という構成は 先ほどの 村の小モスクと同じだが、規模の違いが 種々の変更を生んでいる。まず 中庭を囲むのは単なる塀でなく、回廊である。 そして西側の回廊が 女子用の礼拝スペースに当てられている。また、マッカ(メッカ)は マリからは東方にあたり、東側のキブラ壁に ミフラーブが3ヵ所設けられている(小部屋のようには なっていないが)。
 コイ・コンボロの後継者は そのいずれの上にも塔を建てたので、ここに「三塔式」モスクが生まれた(インドにおける「三ドーム式」モスクのように)。そしてモスクの東側は、毎月曜日に大々的な市が開かれる広場になっているので、本来はモスクの裏側である東面が 正面のように扱われ、装飾的な「三塔式」の外観を誇示することとなった。

 その装飾というのは、屋上に突き出す角を コーナー部だけでなく、壁面の上部に連続させたこと、塔を3段にして、各段のコーナーにも角を出したこと、そして壁面全体に 椰子の木の棒(トロン)を突き出させたことである。これらの棒は 年に一度、モスクの壁面全体に土のプラスターを塗り直すときに 足場になるものであって、高い位置に必要となる。したがって 高さの低い村の小モスクには無かったのであるが、次第に これが 装飾要素として、低層のモスクにも 用いられるようになる。しかし これ以外には、世界のイスラーム建築の装飾の定番である カリグラフィーも ムカルナスも、植物紋も 幾何学紋もない。

    
ジェンネの大モスク、塔、崩壊部、内部

 ジェンネにおける 約 50m×26mの幅広型の礼拝室内部は、ドーム屋根で覆われたトルコ型モスクの対極に位置するもので、宇宙的な大空間どころか、室内の全体を見通すことさえ できないほどに、太い土の柱が 90本も林立している。これは まさにアラブ型の列柱ホール式モスクの、最も極端な例である。柱が林立するのは、ドーム屋根を用いずに 大面積のホールに陸屋根を架ける場合の宿命であるが、それが土の柱であるだけに、石の柱 よりも はるかに太くなってしまうのである。
 広々とした礼拝空間を見慣れた目には ずいぶんと奇妙に映るが、モスクとして、実用的には これでも可能である。というのは、集団礼拝時においても、信者は キブラ壁と平行に 横一列ごとに並んで礼拝するのであるから、人が床に額づくだけのスペースをあけて、キブラ壁と平行に アーケードが並んでいれば 礼拝に支障はない。ただし、イマームが ミンバルから説教をするときに、参列者が その姿を見ることができず、声を聴きづらいのは欠点である。

  
カイロのイブン・トゥールーン・モスク 平面図と内部

 このプランの原形が どこにあったかといえば、エジプトに現存する最古のモスク、イブン・トゥールーン・モスク(876-879)であったろう。アッバース朝のアフマド・ブン・トゥールーン将軍は バグダードから派遣されてエジプトを征服すると、自ら トゥールーン朝を開き、故国のレンガ造の技術を持ち込んで 大モスクを建てた(エジプトには 石造建築の伝統があったのに)。以後の エジプトのモスク建築のモデルとなった アラブ型モスクで、そのプランが カイロから、マッカ巡礼路をへて ジェンネに伝えられたと見られる。あるいは、カイロから建築家を招いたのかもしれない。
 イブン・トゥールーン・モスクのレンガは 日乾しレンガではなく 焼成レンガであるが、それでも石柱のモスクに比べれば、レンガ造であるが故に ずいぶんと太い柱が林立している。基壇ではなく 外庭(ジヤーダ)で囲まれているが、(ジェンネの基壇は この外庭だと見ることもできる)、尖頭アーチのアーケードが キブラ壁と平行に並ぶこと、中庭を 回廊が囲むことなど、このモスクの基本形式が ジェンネに受け継がれたことは明らかである。マグリブとスペインにおいては、コルドバのモスク以来、アーケードはキブラ壁と直角方向に配置するのが基本であるから、このプランはモロッコから もたらされたのではない。

 ジェンネの尖頭アーチのアーケードは 土のアーチであるから、崩壊しにくくするために、カイロよりもずっと尖っている。それだけ 天井を高くして、垂直性の強い空間としている。こうした縦長の通路状空間の並列のみで 成り立っているモスク空間というのは、土の文化圏以外では 決して見ることがない。また、イブン・トゥールーンと違って、マリでは独立したミナレットを建てず、ミフラーブ上の塔を それに充てたことは、見たとおりである。

木造天井の種々相


ティンブクトゥと モプティ

 さて、マリで最も人口に膾炙した町は、「黄金の都」ティンブクトゥである。(西アフリカを植民地化したフランスは「ティン」の音をフランス語にもたない故に、「トンブクトゥ」(Tombouctou)と発音し綴ったので、それが現在にまで ヨーロッパでは流布している。)サハラ砂漠の南端と、湾曲するニジェール川の北端との接点に位置するので、北アフリカからのラクダの隊商と 南からの水上輸送との結合点にあたり、ジェンネと並ぶ交易都市として、14〜16世紀に とりわけ繁栄した。最も重要な取引は、北からの岩塩と 南からの金との交換であった。

  マリ帝国の絶頂期の王(マンサ)・カンカン・ムーサーが 1324年から 1年半かけてマッカに巡礼した際、その道中 およびマッカで 金を湯水のごとくに使ったということから、「黄金の帝国マリ」の噂が ヨーロッパにまで広まった。その黄金を求めて、16〜19世紀の数々の冒険家が アフリカへ、マリへと旅して、ある者は途中で死し、ある者は黄金のかわりに さびれた貧しい街をそこに見出した。そうしたヨーロッパ人が ティンブクトゥに住んだ家には プレートが掲げられている。黄金はなかったけれど、ティンブクトゥは 15、16世紀に イスラーム世界の学問の中心地のひとつとして栄えた町でもあった。1988年に ユネスコ世界遺産に登録されている。

  
ティンブクトゥの ジンガリーベル・モスク

  ティンブクトゥには 14〜15世紀の創建と言われる3大モスクがあるが、もちろん現在の建物は 当時のものではなく、何度も崩壊、修復、再建を繰り返してきたもので、どこまで原形を伝えているのかは わからない。最大のものは ジンガリーベル・モスクで、これはマッカ巡礼から戻る途次、カンカン・ムーサー王が カイロで大金を積んで 請うてマリに招じた、アンダルシア出身の建築家であり 詩人でもあった アブー・イスハク・アッサヒリに、1325年から 1330年にかけて建てさせた と伝えられている。 アッサヒリは ダマスクスの大モスクを手本にしたというが、現在のものはそう見えない。また 彼は王の宮殿をも建てたというが、これは まったく残っていない。

 現存するジンガリーベル・モスクは、ミフラーブの上の塔が、突き出した多くの木の棒(トロン)によって目立ちはするものの、建築的に特別のものは見出せない。外観の表現も控えめである。 礼拝室に 100本ほどの柱が林立するのは、ジェンネと同様。 大モスクでありながら、派手な三塔式ではなく 単塔式であるのが、古式を伝えているのだろう。その塔は 道路に面しているのではなく、中庭に面している。ということは、中庭は前庭ではなく、後庭なのである。また、このモスクのみ焼成レンガで建てられているともいうが、筆者は未確認。後庭で工事をしている現場を見ると、野石を積んでいた。

  
ティンブクトゥの サンコーレ・モスクと シディ・ヤフヤー・モスク

 サンコーレ・モスクは ジンガリーベル・モスクよりも規模が小さいが、創建は 12世紀末というから、西アフリカ最古のモスクということになる。それだけに天井も低く、ミフラーブ上の塔が ピラミッド状をしているのも アルカイックな印象を与える。北側部分が近年の再建であるように、全体が どれほど古式を保っているのかは不明である。ここには 学校(大学)が併設されて、学問の中心地となった。
 一方 シディ・ヤフヤー・モスクは、15世紀半ばに ティンブクトゥの首長がモロッコから招いた イマーム、シディ・ヤフヤーのために、1400年とも 1440年とも言われる頃に建てた と伝えられる。しかし改変が甚だしく、当初の面影は あまりないと思われる。

 こうした 創建の古い大モスクとは対比的に、近世の大型モスクは ジェンネの大モスクを真似て、高さを上げ、ファサードを三塔式として、立派に見せようとする傾向がある。ニジェール川とバニ川の合流点に位置するモプティは マリ第2の都市で、首都バマコと ティンブクトゥ、あるいはガオとの中間に位置し、陸路、水路とも マリの交通の要衝となる繁華な商業都市である。この都市の発展とともに、ジェンネは交易上の重要性を失い、ローカルな歴史都市となっていったのだった。

モプティのコモゲル・モスク 平面図

 1933年に建てられた モプティのコモゲル・モスクは、ジェンネの大モスクを模している。しかし市街地の中で 敷地が狭いためであろう、中庭を備えていないので、車の行きかう街路に じかに面している。ジェンネと同じように アラブ型の列柱ホールであるが、現代のものであるだけに、屋根にはコンクリートのスラブを用いているらしく、柱はずっと細くなり、また上部はアーチになっていない。

  
モプティの コモゲル・モスク (三塔式)

 ジェンネと何よりも ちがうのは、派手な三塔式のファサードを見せているにもかかわらず、それらの塔が ミフラーブと無関係なことである。今まで見てきたように、マリのモスクの塔は ミフラーブの屋上に立てた 角状の突起が発展してできたもので、ジェンネではミフラーブが3ヵ所あったがために 三塔式のファサードとなったのである。ところがモプティでは ミフラーブと関係なく、ただ繁華な通りに面する西側のファサードを立派に見せるためにのみ、三塔式に飾り立てた。ミフラーブは東側にあるのだから、これは一種の伝統の 皮相的な形式化である。
 (モプティと同様ながら、さらに規模の大きい 1957年のモスクが ニオノにあるが、滞在日数が不足して、訪ねることができなかった。)


ドゴン族のモスク

 ティンブクトゥとモプティにおけるような対比は、ローカルなモスク建築においても見られる。ジェンネに近いシルム村のモスクは、村のモスクとしては大きく、特に幅が広い ダマスクス型をしている。外壁の上には 多くの角を立ち並べているが、しかしミフラーブは1ヵ所であり、塔も一つである。この表現派風の外観は、素直な建築の生成なのであった。内外とも装飾がなく、土一色で造られている。

  
シルム村のモスク (単塔式)

 これに対して、村の小モスクであっても、派手な造形で三塔式のものが 近年建てられるようになった。とりわけ目を引くのが、ドゴン族のモスクである。ドゴン族というのは、マリの中央部のバンディアガラ山系の麓に 点々と村を営む部族で、その壮大な神話体系と習俗、仮面の踊りなどで世界に知られている。かつては山の断崖の中腹に 土の集落を造って、狩猟採集の生活をしていたが、森林の減少とともに麓に降りてきて村をつくるようになり、現在では農耕生活を送っている。

  
ドゴン族の断崖住居群と、バグル村

 その文化の特異性から世界の注目を集め、観光客がやってくるようになると、その観光収入をもとに、観光客を意識した、派手なモスクをつくるようになった。あまり観光客の訪れない北方の村々のドゴン族は 昔ながらの部族宗教(アニミズム)を守っているが、南方のドゴン族は急速にイスラーム化し、どこの村にもモスクがある。古いモスクは前記の村々の小モスクと同様であったが、近年は村の外側に 新しいモスクを建てるようになった。

    
ドゴン族のテリ村と カニコンボレ村のモスク (三塔式)

 テリ村やカニコンボレ村のモスクは、小モスクであるにもかかわらず、ミフラーブを3つ設けて後部に突き出させ、三塔式にしているし、外壁には「角出せ槍出せ」式に起伏をつけて「造形的」にしている。また、壁面から突き出る 木の棒にさえも彫刻をするようになった。小モスクを過度に飾りたてると、まるで砂糖菓子のような印象となる。いわば、ヨーロッパにおける ロマネスクからバロックへの建築史の変化を、土でなぞっているかのごとくである。


マリの造形


首都バマコに唯一聳える高層ビル、BCEAOタワー

 下の写真は、現地で購入したマリのドゴン族の彫刻であるが、どこか日本の埴輪と銅鐸を思わせるものがある。こうしたアルカイックな彫刻と同じような印象が モスク建築にもあって、というよりも、埴輪や銅鐸が弥生の造形だとするなら、マリのモスク建築は縄文の造形ではなかろうか。弥生的な繊細な装飾性には欠けるが、縄文土器や土偶のような、生命の発露のような力強さがある。(縄文時代の土偶には、マリの彫刻と区別のつかないようなものもある。)
 世界最貧国のひとつとされるマリ共和国。しかしアフリカ大陸の中では模範的な民主国家で、音楽などの文化も発展させている。工業国の建築とは異なった「土の建築」としてのイスラーム建築、独自のモスク建築が展開していくことを期待したい。


マリのアルカイックな 「騎馬像」( ブロンズ、高さ 16cm )

( 2009年 12月 2日)

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