CLASSIFICATION of ISLAMIC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー17

庭園 (バーグ、ジャンナ)

神谷武夫

フィン庭園
フィン庭園の平面図、カーシャーン、19世紀再建(イラン)

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ペルシアの イスラーム庭園

フィン庭園  フィン庭園
フィン庭園、カーシャーン(イラン)

 「庭園」は アラビア語で「ジャンナ」、ペルシア語では「バーグ」という。庭園芸術はペルシアで大いに発展したが、アラビアでは自然条件が厳しすぎるせいか、それほど作られず、むしろ憧れの対象であったので、ジャンナの語は、来世の庭園(楽園)の意で用いられることが多い。東方イスラーム圏にあまねく普及したイスラーム庭園は ペルシアを源流とするので、中央アジアからインドに至るまで バーグと呼ばれる。もちろん それ以前にも インドに庭園はあったが、日本のものにも似て 植物を主とした自然の状態に近い 不定形のものであったから、幾何学的に 際だった形態をとるイスラーム庭園の移入後は 影が薄くなった。ムガル朝の創始者バーブルは インド来住以前に造園した カーブルのヴァファー庭園を なつかしみながらも、インドにおける作庭に 情熱を傾けた。以後の数々の「ムガル庭園」は、イスラーム庭園の代表的存在となる。

 ペルシア庭園の特徴は、何よりも整形に「囲われる」ということにある。半砂漠状態の地で 人間にとって快適な場所を獲得するためには、外界と遮断した「囲い地」をつくる必要があった のである。繰り返し述べてきたように 建築の場合も そうであったから、ともに囲い地の中にある建築と庭園は、切っても切れない仲となって発展した。それが、建物によって囲われた庭園、すなわち「中庭」である。

 日本において 庭園といえば、水と緑にあふれたオープン・スペース ということになるが、植物に乏しい中東では、緑よりも 水のほうに 重点を置かざるをえなかったので、モスクの中庭には 泉亭はあっても 緑はない。しかも 幾何学的形態をして 硬い材料で舗装されてるので、庭園というよりは 西洋の広場の印象に近くなる。それでも 水場と日陰のある 囲われたオープン・スペースは、中東の人々にとっては 十分に庭園なのである。

スペインのイスラーム庭園

城塞
ヘネラリーフェ庭園、14世紀、グラナダ(スペイン)

 緑に満ちた、もっと豊かな庭園を実現するには、温和な気候と十分な降雨が 必須となる。したがって 西方イスラーム圏では、マグリブ地方からスペインにかけてが 庭園の造営地となり、スペインのモスクの中庭には オレンジの木が植えられた。アルハンブラ宮殿のパティオ群は 観賞用の中庭の傑作であり、宮殿の近くの ヘネラリーフェ庭園は テラス状のオープン庭園の傑作である。後者は ティヴォリ(イタリア)の エステ邸の庭園にも似て、眺めのよいテラスが 段状に連なり、水と緑に囲まれた園亭が 軸線上に散在する。

 これを さらに大規模に展開したのが カシュミール(インド)の シュリーナガル周辺における ムガル庭園群である。ヒマラヤの雪山を背景に、澄んだ水面の ダル湖に面した幾何学庭園には 水路が流れ、噴水が吹き上げ、亭々と茂る樹木の下に 冷涼な風が吹きわたる。これこそ アラビアの人々が思い描いた ジャンナの姿にほかならない。

墓園  墓園
カイロの北墓地(エジプト)と、ブルサのムラディエ(トルコ)

 もうひとつの庭園形態は「墓園」である。樹木が並ぶ モニュメンタルな墓地は、ヨーロッパの墓地と同じように 市民の散策庭園となる。イスラーム圏で最大の墓地は、カイロ東方の ムカッタムの丘のふもとに伸び広がる 広大な墓地で、死者の町(カラーファ)とも呼ばれた。ここに バルクーク廟の複合体のような スルタンの廟や修道所、マドラサなどが 諸所に建ち並ぶ。商業活動から切り離された 静穏な死者の町もまた、一種の大庭園であった。

インドのイスラーム庭園

ニシャート  イティマード
ムガル庭園の傑作、ニシャート・バーグ、シュリーナガル、1632年(インド)
四分庭園の中央に建つイティマード・アッダウラ廟、アーグラ、1628年 (インド)

 王侯の墓廟と庭園との組合せが 最も発展したのは 中央アジアからインドにかけてである。とくにムガル朝の墓園では 大規模な四分庭園の中央に 園亭としての廟が 彫刻的な姿を誇示し、周囲の庭園は 市民のピクニックの場となった。フマユーン廟、アクバル廟、イティマード・アッダウラ廟、それにタージ・マハル廟など、密集した市街地に住む庶民にとって、そこは 別世界の楽園である。

 中央アジアから西方に移住したトルコ人は、セルジューク朝の時代に モニュメンタルな「墓塔」を建てた。しかしオスマン朝の時代になって、マッカやマディーナの町を支配下に置いて イスラームの守護者を任じるにつれて、イスラーム教義と違和のある 大規模な廟の建設を 控えるようになる。オスマン朝最大の君主であった スレイマン大帝でさえも、小規模なドームを戴く廟が、スレイマニエ・モスクに付属した囲い地に つつましく建てられているに すぎない。この境内も 墓園ではあるが、ムガル朝における皇帝の墓園の壮大さには 比ぶべくもない。

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)



● 「イスラームの庭園、過酷な風土が求める地上の楽園」という文は、
「イスラーム建築入門」のサイトの「 イスラームの庭園」を参照。

グラナダ のアルハンブラ宮殿(スペイン)の庭園については、
「イスラーム建築の名作」のサイトの「 アルハンブラ宮殿」を参照。

デリーのフマユーン廟 の四分庭園(スペイン)については、
「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの「 フマユーン廟」を参照。

アーグラのタージ・マハル廟 の四分庭園(インド)については、
「インドのユネスコ世界遺産」のサイトの「 タージ・マハル廟 」を参照。



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