CLASSIFICATION of ISLAMC ARCHITECTURE
イスラーム建築の種別ー5
聖者廟(マザール、ダールガー)

神谷武夫
メリカ
メリカにある、素朴な墓の造形(アルジェリア)


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イスラームの聖者廟

 イスラーム建築において、モスクに次いで幾多の名作を生んだのが 墓廟建築である。墓の上に屋根をかけたものを 廟と呼んでいるが、東方イスラーム圏においては、金曜モスクよりも 壮大に、豪華につくられたものが 少なくない。廟には2種類あり、聖者信仰による参詣(ジヤーラ)の対象としての聖者廟は 宗教建築とみなせるが、王侯貴族の権威づけや顕彰のための廟は 世俗建築である。しかし 両者のあいだにスタイルの区別はなく、しかもモスクやマドラサとも ほとんど同じ語彙によって組み立てられるので、王侯の廟でさえも 宗教建築のような姿をしている。

預言者
ムハンマドの墓のある、マディーナの「預言者のモスク」
17世紀のオスマントルコの細密画(ウェブサイトより)

 イスラームが 廟建築をつくるようになったのは、多分に キリスト教の影響であったのだが、そのキリスト教においては、初期には 各地に殉教者廟(マルチリウム)を建てたものの、後には 聖人のためであれ 王侯のためであれ、偉大な廟建築を発展させるということが なかったのと比べると、イスラームにおける 廟建築への傾倒は、少々異様に見えるほどである。なぜムスリムは それほどに墓廟を愛好したのだろうか。しかも ムハンマドはそれを好まず、最初期のイスラームにおいては 墓廟の建設や墓参が禁止されていたというのに。
 聖人の廟を建て、そこに参詣するというのは 個人崇拝であり、神以外の礼拝対象をもつということは 一神論のイスラームの 根底に抵触する行為である。したがって ムハンマドは そうした行為を厳しく非難したから、最初の ほぼ2世紀のあいだ、ムスリムが埋葬されたのは 常に簡素な墓であった。

 イスラームでは火葬をせず(それは 地獄で業火に焼かれるのと同じことだから)必ず土葬にするので、その上に土を盛りあげる 墓だけは必要となる。これが石棺となれば 地表に平らな墓石が見え、頭部には 墓標を立てるようになる。トルコのアフラトには セルジューク朝時代からの広大な墓地があり、無数の墓標が すべて同じ方向を向いている。イスラームでは 遺体の右の脇腹を下にし、顔をマッカの方向(キブラ)に向ける決まりに なっているからである。アフラトは アナトリア東方のヴァン湖に南面する ローマ時代からの古都で、11世紀にはセルジューク朝の支配を受けたが、 アルメニア風の文化を 色濃く伝えている。

アフラト
アフラトの、セルジューク朝の墓地(トルコ)

 ムハンマドの墓もまた そうしたものだった。632年に没すると、マディーナの家の一室の下に、特別な飾りもなしに 埋葬された。それが、神の前には すべての人間が平等であるという、イスラームの理念の実践なのだった。彼の墓が立派なものとなるのは、706年に ウマイヤ朝のハリーファ・ワリード1世が ムハンマドの家(最初のモスク)を、大規模な「預言者のモスク」に建てなおす時である。現在の巨大なマディーナのモスクにおいても、内部に ムハンマドの廟が設けられていて、マッカの巡礼者は 必ずマディーナに行き、ムハンマドの意思とは逆に、この廟に参詣をする。

 このように イスラームで墓廟建築が盛んになった原因は、まず イスラーム以前からの聖者信仰の習慣があったこと、モスクは主に男性用であったから、女性はマザール(トルコ語ではチュルベ)と呼ばれる 聖者廟に参詣したこと、スーフィズムの発展によって 尊崇すべきスーフィーの墓所が 各地につくられたこと、そしてモスクにおいては もっぱら神を礼拝したのであるから、願いや祈りの現世利益を求める相手は 神ではなく、霊力を備えた聖者の廟であったこと、等が考えられる。

各地の聖者廟

 聖者廟の周囲には しばしば修道所(ハーンカー)や 救貧院、同じ教団の 後続スーフィーの廟などが加えられた。こうして一大宗教団地のようになった聖所を、東方イスラーム圏では ダールガー、あるいは マクバラーとよぶ。デリーのニザームッディーン廟や アジュメールのムイーヌッディーン廟は その代表で、参詣者は 毎日引きも切らない。

ニザームッディーン
デリーの ニザームッディーン廟(インド)

 さらには、聖者廟のまわりに人が住みついて 村となり、モロッコのムーレイ・イドリースのように、ひとつの宗教都市の趣を 呈することもある。ムーレイ・イドリース(?-793)は預言者 ムハンマド及び 第4代ハリーファ、アリーの子孫で、初のシーア派王朝であるイドリース朝の創始もした。ムーレイとは聖者の意。

イドリース廟
イドリース1世を祀る聖者廟都市(モロッコ)

 また 単なる聖人でなく、中国のジャフリーヤ教団を率いた馬明心のような 殉教者の廟は、教団の人々にとっては 強い精神的結束の 聖地となる。中国では グンバドがなまって、拱北(ゴンベイ)あるいは 拱拝(ゴンバイ)と呼ばれた。(馬明心とジャフリーヤ教団の歴史を描いた本に、張 承志の『 回教から見た中国 ― 民族・宗教・国家 』(1993, 中公新書)がある。)

馬明心
蘭州の、馬明心のゴンベイ(中国)

 しかしながら 聖者廟の多くは、民間信仰的なものの常として、建築的に高度なものとはならない。シャー・ルクネ・アーラーム廟や サリーム・チシュティー廟、ムハンマド・ガウス廟などは その例外だと言えるが、その理由は、それらが王侯の命と寄進による 入念な造営だったからである。

ガウス廟
グヮーリオルの、ムハンマド・ガウス廟(インド)

ムハンマド・ガウスは スーフィーの聖者で、廟はムガル朝のアクバルの時代に建てられた。1辺が約 30メートルの正方形プランをしていて、各面の中央と四隅に張り出し部を設けて チャトリ(小亭)を載せているので、ずいぶんと複雑な印象を与える。外周部は壁に見えるが、実はすべてジャーリー(石の格子スクリーン)であって、光と風を内部に導き入れる。周廊内部からの ジャーリーの眺めは見事。墓室自体は厚い壁で囲まれ、かつては青いタイルが象嵌されていた 大ドーム屋根をかけている。

( 2006年『イスラーム建築』第4章「イスラ-ム建築の建築種別」)



● ムルターンのシャー・ルクネ・アーラーム廟(パキスタン)については、
「イスラーム建築の名作」のサイトの「 シャー・ルクネ・アーラーム廟 」を参照。


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