『 宝石本 わすれなぐさ 』 |
神谷武夫
詩人の 北原白秋 (1885-1942) こと 北原隆吉と その弟の 北原鉄雄 (1887-1957) とは 1915年に「芸術書店」を興し「阿蘭陀(オランダ)書房」と名付けました。最初に出版した白秋の『抒情小詩選 わすれなぐさ』は売れ行きが良かったのですが、じきに社運が傾き、1917年に社名を債権者に譲り渡し、弟の鉄雄が単独で始めたのが アルス (ARS) という出版社で、『 ARS 』という詩誌を出すとともに、『わすれなぐさ』の出版も 引き継ぎました。 詩集のタイトルの『 わすれなぐさ 』は、上田敏の 訳詩集『海潮音』(明治38年、本郷書院)の 108 ページにある ヴィルヘルム・アレンの詩「わすれなぐさ」から採りました。
『 わすれなぐさ 』の最初の 阿蘭陀書房版は 贅(ぜい)を凝らしたもので、フル レザーの羊皮紙の表紙の半分を緑色に染め、木版の唐草模様と金文字箔押しのタイトルを入れたもので、きらびやかな詩心の「白秋好み」を 本の形にしたものでした。しかも その函の形が 前代未聞のもので、表側を三角形に切って、本体を半分見せる というものでした。白秋は常に、自著の造本や装幀に 意を凝らしました。
と あります。 今から 110年前の(あまり堅牢でない)古書なので、美本は非常に高価になっているので、私が架蔵するのは「普及版」と言うべきか、大正11年のアルス (ARS) 版で、第16版です。ところが 定価が1円80銭となっていて、豪華版たる 阿蘭陀書房版の2倍になっているのは 不思議です。それでも これも 絹布装に三方金の豪華版であり、洋画家・山本鼎(かなえ)の 装幀です。大きさは 同じ文庫サイズですが、函に入っていたのかどうか 分かりません。表紙は、忘れな草は 五つ葉なのに、三つ葉の花を並べたデザインになっているのは 少々奇妙です。ページ数も 17ページ少なくなっています。 ![]() ![]()
● 北原白秋 著 『 わすれなぐさ 抒情小詩選 』豪華版 (ウェブサイトより)
収録された 138編もの 詩は、ほとんどが 北原白秋の 先行詩集から採られた 短詩ですが、白秋の「自選 愛唱歌集」ともいうべきものなので、大いに人々の人気を博し、「アルス」版も 版を重ねました。
1「野辺」 p.62 (詩集『思い出』より) 特に 第2曲の「舟歌」(原題は 「片恋」)は、まことに美しいロマンティックな詩と曲です。
あかしやの 金(きん)と赤とが ちるぞえな。
伊藤京子(ソプラノ)の歌で 聴けるようになりました( ここをクリック)。 終曲の「希望」の詩も 載せておきましょう。
明日こそは
小寺謙吉によると、問い合わせの手紙は 100通ぐらい来たそうですが、半金を添えた 正式の申し込みは、A に 13部、B に4部、C に1部だったそうです。しかし、果たして これらの 珍奇にして高額な「哀しいまでの宝石本」の『 わすれなぐさ 』は、本当に 造られたのでしょうか?
![]() ![]()
● 小寺謙吉 著 『 書物奇譚 宝石本 わすれなぐさ 』 三角函 本体は背革装(クオーターレザー)で、背表紙にタイトルを金文字箔押しし、赤く染めた革と おもて紙の境界にも金線をいれた、上品で きれいな本です。中味は、『抒情小詩選 わすれなぐさ』の探求の他に、他の2冊の稀覯図書、児玉花外の伝説的な『社会主義詩集』と、東郷青児と古賀春江が描いた「薔薇絵」を挿入したという、堀辰雄の『ルウベンスの偽画』の探求結果と合わせた3編になっていますが、一番面白いのは『わすれなぐさ』の探求過程なので、それを本全体の表題として、『 宝石本 わすれなぐさ 』と名付けました。
![]() ![]() ![]()
● 小寺謙吉 著『 宝石本 わすれなぐさ 書物奇譚 』 表紙と 扉 著者の 小寺謙吉については 、近代日本の詩人たちと その詩集について研究、探索して、約1万冊の詩集の 初版本を収集したそうですが、自身も何冊か 本を出した人だ という以外、経歴などは 何も解りません。特に知られている著書は『宝石本わすれなぐさ』(1980) と、『発禁詩集、評論と書誌』 (1977) で、どちらも西澤書店から出版されていますが、後者は限定 200部ということですから、自費出版に近かったのでしょう。 政府によって発行禁止、発売禁止にされた 日本近代の詩集を発掘しては収集し、一冊ずつ詳しく解説した、貴重な著作です。ほかに、『現代日本詩書 綜覧』(1971, 名著刊行会)という立派な本も 編集・出版しています。
『 宝石本 わすれなぐさ』は、文学古書好きの人には とても面白い本ですが、私が 特に興をそそられたのは、この高価な宝石本を予約した人に、公家(華族)の名門「坊城家」の令嬢で 女子学習院に在学中だった 女学生がいた、という話からです。彼女が、この本のストーリーの 重要な役回りをします(まあ、どこまでが事実で、どこからがフィクションなのか 分かりませんが)。 小寺謙吉は この本の中に、「本を愛することは、多少とも 本に淫することである」と 意味深に書いています。 その坊城さんの没後に、その「遺稿」と「書簡」を集めて本にした『 にほへわがうた わがふみのあと 』(坊城俊民先生を偲ぶ会 編、1992, 不識書院)の 74〜77ページに、「 神谷武夫宛 39年2月19日 書簡 」が 載っています。それを編集部に提供した私が、そこに説明文として書いたのは: 北園の二年生の時に、美術評論集『 ルノワールの涙 』(La Larme de Renoir) と題する 手製の本を作りました。自分の進路を思いあぐねた末に、建築家になろうと心を決めた時、それを記念するように 自分の過去をふりかえり、あちこちに書きちらした文章を 集めたものでした。担任の内田先生から いつのまにか坊城先生の手に渡り、戻ってきたときには 先生の感想文と共に、当時 先生が自費出版された『京の翳(かげり)』とを贈られたものでした。
担任の 内田先生が (東京帝国大学の 文学部 国文科における)坊城さんの先輩で、やはり国語の先生だったので、私は坊城さんの授業は 受けたことが無いのですが、上記の、書簡のような 長文の感想文をもらって以来、親しくなって、会えば お話しするようになりました。
「少年期における 私の最初の 芸術的衝動の萌生えは、これを悉(ことごと)く とまで書いています。三島の 自伝的な短編小説『詩を書く少年』で、三島少年に影響を与える先輩「R」のモデルは、坊城俊民でした。三島の死後、坊城さんは『焔(ほのお)の幻影 回想 三島由紀夫』と題する本を書いています(1971, 角川書店)。
( 2025 /04/ 01 )
|