『 佳人之奇遇 』 |
東海散士 (柴 四朗) 著『佳人之奇遇』巻1〜巻8
明治 18年 (1885) 〜 明治 21年 (1888)、博文堂
今回の「古書の愉しみ」第 54回は、初めて「和本」を採り上げます。手漉きの和紙に 手彫りの「木活字」(もっかつじ)で印刷し、糸で「和綴じ」にした、今から130年以上前の、明治時代の本です。しかも、見開きの細密な石版画(リトグラフ)が 全部で 40枚も挿入された「挿絵本」でもあります。木活字の書体も美しく、主に 西洋古書を紹介してきた「愛書家」にとっても、なかなかに魅力的な古書です。
東海散士(柴 四朗)著 『佳人之奇遇』 巻の1の挿絵ページを開く。 東海散士(柴 四朗)による この『佳人之奇遇(かじんの きぐう)』の初編(巻の1と 巻の2)が明治 18年 (1885) に出版されるや、たちまち 大ベストセラーになり「洛陽の紙価を高めた」と言います。『佳人之奇遇』巻の9の巻頭に 柴四朗(しば しろう)自身が書いた序文には、 「之を(巻の8で)中絶するときは、首尾貫通せず、既往 幾十万の愛読者諸君を 欺くに似たり」 (したがって、続編を書かざるを得なかった) とありますから、その通りとすれば、数十万部のベストセラーだったというわけです。読書人口が現在の数分の一だったのではないかと思われる時代に、数十万部というのは、容易なことではありません。明治前期の日本に それほどの、木活字と石版画による印刷・出版・配本能力があったのだろうかと疑問にも思いましたが、大正3年に 徳富蘆花(とくとみ ろか)が 当時を回想して、 「その頃 佳人之奇遇 と云う小説が出て、字を読む程の者は 読まぬ者はなかった」 と書いているほどですから、発売されるや 燎原の火のように流布し、万人に読まれたことは 確かでしょう。今田(こんた)洋三の『江戸の本屋さん』(平凡社ライブラリー, 2009)を読むと、出版活動は 江戸時代から大いに発展していて、江戸中期の出版業・蔦屋(つたや)重三郎が出した本は、時に1万数千部も売れたというし、明治5年に初編の出た 福沢諭吉の『学問のすすめ』は 第17編まで続いて、その発行部数は あわせて 340万部だったということですから、もっと後のベストセラーが 数十万部というのは、あながち誇大ではなかったでしょう。それに、日本人の識字率は、江戸時代から 非常に高かったのです(農民でさえも、草紙や娯楽本、実用本を読みました)。
しかし それから百年の時を経た 昭和の戦後には、『佳人之奇遇』は 文庫本にもならず、現代語訳も されなかったので、今では すっかり忘れ去られられてしまいました。これを読んだことのある人は希でしょう。それでも 読書好きの人なら、東海散士の『佳人之奇遇』という 印象的な題名は、何かの本で読んで 記憶しているのではないでしょうか。 著者の「東海散士」というのは 柴 四朗(しば しろう)のペン・ネームですが、姓が東海、名は散士というわけではなく、「東海」というのは 現在の東海地方ではなく、日本を指します。「士」というのは もともと侍の意で、藩の侍を「藩士」と言ったごとく、あるいは「戦士」「志士」さらには「策士」「文士」のように使われました。柴四朗は会津藩士でしたが、国(会津藩)が滅びて諸国に散ったので、「散士」と自称したのでしょう。それなので「散士」というのはむしろ一般名なのですが、この本の中では固有名詞のごとくに使われていて、柴四朗のほかには 散士というのは出てこず、「散士」と言えばこの小説の主人公のことであり、また著者のことでもあります。つまり『佳人之奇遇』というのは、「政治小説」に分類されてはいますが、東海散士が 自ら見聞きしたことに脚色を加えて、自分を主人公として書いた、半ば「私小説」だとも言えます。一人称小説で「私」と書く代わりに「散士」と言っているようなものです。
東海散士(柴 四朗)(『明治文学全集』第6巻
柴 四朗 (1853-1922) は 幼時には 茂四郎(もしろう)といい、 江戸末期の嘉永5年に 会津藩の 富津(現在の千葉県 富津市)で生まれ、大正11年に熱海で死去したので、明治という時代を まるごと体現したような人です。日本が開国し、大政奉還、廃藩置県の頃に成人を迎えます。
会津藩士・柴佐多蔵の四男・四朗は、16歳で 会津戦争の「白虎隊」の一員となりましたが、生来病身なので、その時も病床にあって、戦いと 飯森山での自決に加われず、生き永らえることになりました。その間に 自宅での母、祖母、姉、妹ら 家族の女5人は、敵軍に犯される前に 全員が自害、他にも多くの親族、朋輩、知人を失った柴四朗も 弟の五郎も、他の会津藩の生き残りと同様、生涯 薩長を仇として憎みました。ずっと後の明治11年に、明治の元勲となった大久保利通が暗殺された時には、旧会津藩士たちは 快哉を叫んだと言います。
四朗は幼時から学問を好み、会津藩が滅んでからも 英語塾などで英語やフランス語を学んでいて、27歳の明治 12年 (1879) から6年間、岩崎家の援助を得て アメリカに留学することになります。ハーバード大学やペンシルヴェニア大学で経済を学び、財政学の学位をとります。その間 アメリカ中を旅行し、世界情勢を研究し、「自由貿易」が アフリカやアジアの国々を 債務国にし、植民地に陥れていることを知り、日本は絶対に「保護貿易」を堅持すべきだという考えを抱きます。インド、中国、エジプト、スペイン、アイルランドその他の国々が ヨーロッパ列強から独立を侵され、どれほど苦境に陥っているかを知り、日本がその轍を踏むことを 絶えず危惧していたのです。 四朗は アメリから帰国の翌年、明治19年から1年3ヵ月、日本で最初の内閣(伊藤博文首相)の農商務大臣となった谷干城の秘書官として、ヨーロッパの視察旅行におもむき、欧米ばかりでなく アジア・アフリカ諸国の情勢や独立運動なども見てきます。革命家や独立運動の闘士にも会ってきました。この旅行と彼の世界認識、そして日本国家への提言が、『佳人之奇遇』の後編で語られます。『佳人之奇遇』の作者として有名人になった東海散士は 政治の分野に打って出て、国会議員まで務めます。初めは民権主義者でしたが、次第に国権主義者(日本主義、ナショナリズム)の政治家となります。その最大目的は、日本を欧米の植民地に陥らせないことでした。アメリカ留学以来、あまりにも多くのアジア、アフリカその他の国々が「悪魔のような」ヨーロッパ列強、とりわけ大英帝国に蹂躙されてきた姿を見、英語の関係書を絶えず読んできたからです。
(左)石光真人 編著 『ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)』1971
東海散士(柴四朗)の弟は 会津藩 滅亡後、辛酸をなめて陸軍士官学校卒の軍人となった 柴五朗で、中国における「義和団の乱」における西洋諸国の公使館員など外国人 925名 および中国人クリスチャン 3,000人が 北京の 東交民巷エリアに2か月間 籠城した時、彼らを守るための総指揮を執りました。彼は英語・フランス語・中国語と数か国語に精通していて、各国人の連絡をよくし、指揮も優れていたので、解放後、日本人からだけでなく、欧米人からも称賛されました。
「和本」というのは「わほん」と読み、「わ」ではなく「ほん」にアクセントがあるということも、今の若い人は知らないかもしれないし、見たことさえ ないかもしれません。私も 主に西洋の本(洋本)を対象にしてきたので、和本については あまり詳しくはありません。製本法とその姿に注目した場合は「和装本」とも言いますが、日本で鎌倉時代から明治時代にかけて書かれ、製本された古書を 和本というのであって、現代の西洋文学の翻訳書を和装にしたからといって、和本とは呼ばないでしょう。歴史と内容を伴ってこそ 和本と言うのですが、ここでは 『佳人之奇遇』に即して、和本の作られ方を見ておきます。 東海散士 著 『佳人之奇遇』全16巻のうち、巻1〜巻8、和本、博文堂
『佳人之奇遇』は、薄い手漉きの和紙の半紙(約 33 × 24cm)を二つ折りして綴じた大きさの「半紙判」です。標準的な4つの穴に糸を通して綴じるのを「四つ目綴じ」と言いますが、ここでは 上下最端部に もうひとつずつ穴をあけて 糸を通して かがって 丈夫にしています。中国の清の康煕(こうき)帝による製本法ということで、これを「康煕綴じ」と呼びますが、見た目の装飾性から「高貴綴じ」とも綴られます。背の天地の角には 角革(かどかわ)ならぬ 角(かく)ぎれ を貼って 補強しています。
和綴じの装本『佳人之奇遇』、康煕 (こうき) 綴じ、題箋貼り付け 『佳人之奇遇』の本文は すべて「袋綴じ」になっています。袋綴じというのは、今でも 学生さんが本のコピーをする時には 本の両面2ページずつコピーして、それらを二つに折って反対側をホチキスで止めますが、あれが「袋綴じ」です(コピーの場合は、実物とは 奇数ページと偶数ページが逆になりますが)。 『佳人之奇遇』では、各巻に挿絵が3枚挿入されていますが、挿絵は すべて 「見開き」 の石版画(リトグラフ)ですから、これらは 袋綴じにはできません。版画を内側にした二つ折りの谷部を、糸で そのまま綴じると 中央部が隠れてしまうので、谷の裏に紙を継ぎ足して(足をつけて)そこを綴じることによって、挿絵をきれいに全部見せるのです。見開きの大きさの挿絵でなければ、こんな手のかかることを する必要はありません。
これらの挿絵は「小柴英の印行」であると 絵の脇に書いてあり、その工房の 東京・神田の住所まで書いてあります。小柴英(えい, 1858-1936) は 日本における 石版印刷の創始者だと言われますが、画家ではありません。原画を 石版画(リトグラフ)にして印刷する工房の主でした。また 巻7と巻8では「小柴英侍」と書かれていて、経営を継いだ 長男の小柴英侍(えいじ, ?-1922) ですが、これも画家ではなく、帝大の工科出身の技術者だったようです。次男はフランスに留学した 洋画家の小柴錦侍(きんじ, 1889-1961) ですが、『佳人之奇遇』出版の頃は、まだ生まれていないか 幼児でした。『佳人之奇遇』の挿絵の原画を描いたのは 小柴 英の知り合いの画家(達)だったのでしょうが、名前はまったく不明です。小柴工房が、作画からリトグラフ製作、刷りまでを 一括で請け負って 納入したのだと思われます。
『佳人之奇遇』の成立事情は、初編の「自序」 (明治18年3月記) に語られています。その要旨は、散士は幼くして戊辰の変乱に遭遇して藩が滅び、家の全員が陸沈して東西に漂流せしが、自分は長じて海外に遊学し、経済、商法、殖産の諸課を修めた。その間 国を憂い、世を慨して思いしことを筆にして十余冊になったので、帰朝後 これを修訂・推敲し、『佳人之奇遇』として ここに上梓する、ということです。
『佳人之奇遇』の全体を一言でいえば、アジア・アフリカを初めとする世界の弱小諸国へのヨーロッパの暴虐に対する「悲憤 慷慨」の書です(はるか後の 2022年現在では、ウクライナに対する ロシアの暴虐)。 前半は 散士と幽蘭のロマンスの趣きがありますが、それは第5編で尻切れトンボとなり、あとは もっぱら日本とアジア諸国の情況への 散士の憂慮を主とする政治論文風になります。そこで 通常この書を二分して、「前編」と「後編」と呼びます。
(巻の1) 物語の発端は、明治 15年 (1882) のある日、アメリカ在住の東海散士が フィラデルフィアの「独立記念館」を訪れると、二人の西洋佳人が やはり記念館に上り、かつてのアメリカの独立戦争 (1775-83) による独立の達成と、それに引き比べての彼女らの国の不運について話しているのを耳にし、心惹かれながらも 帰途につきます。その翌日、散士がデラウェア川でボートに乗り、フィラデルフィア北方のフォージュ・ヴァレーに上ると、またしても その二人の佳人に邂逅し(奇遇)、美しい紅蓮(こうれん)に導かれて、さらに美しい幽蘭(ゆうらん)の仮寓する館(やかた)を訪れて、3人で団欒をします。
(巻の2) すると、それを陰で聴いていた この家の料理人の中国人、50がらみの范卿(はんけい)が進み出て、今度は 中国人(清(しん)人)の苦境を語ります。明の滅亡の悲劇から、英国がまき散らしたアヘンの害によって 英国とのアヘン戦争に至り、惨敗して 不平等条約を結ばされ、今や清人は米人にも侮蔑され、ひどい扱いを受けていると。
(巻の3) 散士は再訪を約した当日 嵐にあって 再会を果たせず、1年後にフォージュ・ヴァレーを訪れると、館を守る老人から 幽蘭の手紙を渡され、幽蘭、紅蓮、范卿の3人とも、囚われの身となった幽将軍(幽蘭の父)を救うために スペインに去ったことを知ります。この折、近くのベンジャミン・フランクリンの墓で会った一士人が散士に、ポーランドの乱世・亡国の危機と、その遺臣である 高節公(こうせつこう)すなわち タデウシュ・コシチューシコ (1746-1817) の、祖国復興のための愛国の義挙について 詳しく語ります。 (巻の4) 翌月、散士はパーネル女史の病死(28歳)を新聞で知り(1882年、実際は 34歳)、散士がパーネルの墓を訪ねると、図らずも紅蓮に出会います(またしても奇遇)。散士がその後の3人(紅蓮、幽蘭、范卿)の行状を問うと、紅蓮は散士をデラウェア川の館にいざなって、幽蘭と范卿が既に亡きことを まず 告げます。そして、軟弱の婦女(紅蓮)が奇策を用いて幽将軍を救出した顛末を詳細に物語ります。
(巻の5) それは、紅蓮が 守城長(幽将軍を幽閉する刑務所の所長)を誘惑、篭絡して、幽将軍の健康のための外出時と所を聞き出し、范卿は銃を手に入れ、男装した幽蘭と紅蓮と共に 乗馬した3人で守城長の一行を急襲して幽将軍を救出したと。この一連の策謀と行動が、巻5を通じて活劇小説として描かれます。
(巻の6) 紅蓮は ひとりパリに行って ガンベッタに会見し、幽将軍の死を告げ、アイルランド、日本、フランスの状況に対する見解を聞きます。ガンベッタいわく、アイルランド人は心を一つにして力を合わせて英国の隙に乗じて独立を達成すべきこと、「日本は これより欧人の羈絆を脱して不正不義の抑圧を免れ、治外法権を廃し、国民ようやく自由の晴日を拝するを得べし」、かつてのアメリカ独立の義挙のように、また西インドにおけるセント・ドミンゴ(ハイチ)の独立闘争のように、と。
と書かれています。以下、巻の6は その後半全体を費やして、エジプトに対する英国の悪逆非道を 延々と述べます。散士は こうしたエジプトの状況に いたく同情・悲憤し、欧米に蹂躙されて不平等条約の改正もできない日本の立場と重ね合わせ、後述のように、このセイモア・ケイの書にもとづいて『埃及近世史』を書くことになります。 (巻の7) 幽蘭と幽将軍は生きていたのです。そうしているところに、30代半ばの婦人が訪れます。紅蓮と同船だったコシュート夫人(ハンガリーの志士 コシュート・ラヨシュの娘)です。夫人は、幽蘭を置き去りにして一人アメリカに帰った紅蓮を非難し、難船後の経過を物語ります。夫人は 幽将軍と幽蘭も乗っていたボートに救われたが、小舟は嵐の浪間を漂い、やっとギリシアの郵船に助けられ、エジプトのアレクサンドリアに着いた 。4人が暴動に会ったところを、アラビー・パシャに助けられて、幽将軍は パシャ勢力の軍師となる。ところがエジプト人はイスラームを奉じてキリスト教徒を撃つことを主張するばかり、幽将軍がアラビー・パシャに宛てた一書が衆議に拒否され、やむを得ず 闘うこととし、幽蘭をコシュート夫人とともに国外に逃れさせようとするが幽蘭は従わず、夫人のみを故国イタリアに逃れさせた。夫人は、紅蓮と范卿が もし生きていれば、必ずデラウェア川の館に帰るであろうと、ここを訪れたのだと言いいます。
(巻の8) 散士がコシュート夫人に、なぜ自分の名を知っていたのかを問うと、夫人は、散士が 巻の3で出会った一士人の娘、マリであり、父というのは ハンガリーの志士、コシュート・ラヨシュ (1802-94) であると告げます。和をとりもどした3人は食事をとりながら歓談し、話中論として「美人に年齢なき論」を講じ、デラウェア川に遊びます。
(巻の9) コシュート夫人は なおハンガリー動乱史の続きを語ります。革命軍は 将軍クラプカの善戦にもかかわらず、オーストリア・ロシアの同盟軍に敗れ、敵側に暴虐されます(散士は会津落城とその後の会津藩の苦難をここに重ねあわせているようです)。
3年後、散士は帰国のため フィラデルフィアを去り、途中 メキシコでは 憂国の新聞記者 サンタを訪ね、メキシコ国家の惨状を聞き、それに関連して 日本の置かれた状況を嘆きます。メキシコの近代史の講義を聞いたあと ここを去り、サンフランシスコを経由して 日本に帰ります。
(巻の10) 帰郷した散士は とある客から朝鮮情勢を聞き、清国、朝鮮両国が 久しからずして西洋諸国に分割占領されようとしていることを知ります。客との談論の翌日、(范卿より)無署名の手紙がきます。(范卿は)その時を利用して、明朝を再興する願いを達成するつもりである、と。その数日後に電報があり、日清ともに朝鮮から撤兵するという日清 天津条約が結ばれたとあるので、巻の10の舞台は 1885年の設定とわかります(日清戦争がおこるのは、この9年後)。散士は朝鮮独立党の金玉均を訪ねて談論し、朝鮮の苦境と彼の闘争史を聞きますが、これが章の大半を占めます。
(巻の11) 洋行の途上、散士は香港の船上にて范卿に会います。先般、散士に
書を上げたのは范卿なりと。しかし彼は水中に没した幽蘭、紅蓮の運命を知らないので、散士は二人の無事を告げるものの、しかし現在を知らずと言います。范卿は 船が沈没した時の模様と仏艦に助けられたことを語ります。 (巻の12) 途中 セイロン島で エジプトの敗将 アラビー・パシャを訪ねたあと エジプトに着き、カイロでピラミッドに登り、夜はロードス島の館で 幽蘭に邂逅し、幽蘭の その後の動静、戦陣への父の出発を聞きます。悲恋物語は なお続いてはいるのです。散士は幽蘭に 紅蓮と范卿の無事を伝えて フィラデルフィアに戻るよう促し、幽蘭は、紅蓮に宛てた手紙を 散士に託します。 (巻の13) 散士は海南将軍(谷干城)とヨーロッパを歴訪し、ボスフォラス海峡ではロシアの一士と政情を論じて、コンスタンチノープルに上ります。ここで オスマンパシャに会って、ヨーロッパに蹂躙されるトルコの現状を知ります。ブルサを訪ね、ギリシャに遊び、各地で歴史に想いを寄せ、次いで イタリアのトリノに 老コシュートを訪ねます。
(巻の14) 散士の問いにコシュートが答えて、ヨーロッパ諸国は 極東にまで兵を送る余裕は無いが、日本国民が一団となって戦えば、条約改正はできる と言い、そして新たな脅威としての ロシアについて 情勢分析をします。世界の軍拡競争は激しく、社会の貧富の差が拡大し、ついに革命になるか? 一縷の望みは 国家社会主義の台頭か?と。 (巻の15) 散士は ヨーロッパの帰途に アイルランドに寄ると 紅蓮に再会し、まさに女傑と言うべき紅蓮の その後の遍歴を聞き、アイルランドの自治は 今や前途に望み無しと知らされ、幽蘭から託された書状を渡します。散士は海南将軍と共に帰国し、停滞した日本の内政・外交についての憮然たる思いを綴ります。 (巻の16) 朝鮮問題に深く関与した散士は これを詳しく語り、朝鮮の王后暗殺の「閔妃(びんひ)事件 (1895) 」に連座して 広島の監獄に収監され(翌年、証拠不十分で釈放されますが)、獄中で、死刑になった朝鮮の同志 李豊栄と、暗殺された 金玉均の夢を見たところで、『佳人之奇遇』全巻の幕を閉じます。
『佳人之奇遇』は、初編から第五編まで(巻1〜巻10)が、自由民権主義と才子佳人のロマンスを主とする「前編」であり、第六編から 最終の第八編まで(巻11〜巻16)が、ナショナリズム(鹿鳴館に代表される欧化主義に対しての)と 国権拡張主義の「後編」とされるのを常とします。一編の小説という観点からは、「前編」のみが高く評価されて、「後編」は やや異質なものとして、文学全集への収録を省略されたりもします。前編と後編の区切りは、巻10と巻11の出版の間に5年半もの隔たりがあることからも、ここを区切りとするのが一般的です。ところが 古書店に現れる場合は 巻8までで区切っていることが多く、ということは、昔も そのようにセットで売られていたのかもしれません。全巻の発行年を確認すると、次のようになります。
上表のページ数というのは、洋本と同じように、表紙を含めず 本文紙の片面づつを数えた場合の合計数です(ノンブルは 印刷されていません)。和本の場合は、2ページ ひとつながりで袋綴じにした「半紙」を一丁(ちょう)と言い、折り目に丁数(丁付け)が 印刷されています。40丁が 80ページになるわけです(「乱丁」「落丁」という言葉は、ここから来ています)。また、序文は 序文だけの丁数が書かれていて、見開きの挿絵には 丁数は書かれていません。上表のページ数というのは、それらも すべて数えた合計(総ページ数)です。
出版当時、前半は 大ベストセラーになりましたが、後半は そこまで 行かなかったのかもしれません。それなので 現在の古書業界でも、全 16冊揃いが出ることは 少なく、また高価です。前半8冊 +『東洋之佳人』の9冊セットが よく出陳され、価格も手頃になるので、私もそれを購入しました。一番よく売れた 初編(巻の1と2)および 弐編(巻の3と4)には再版本があり(明治19年の3月と4月)、私のものも そうです。この再版本では、挿絵の石版画が 製作され直したようで、図柄や細部が 改良されています。本文の「若干の字句の訂正」も あるようです。 各編を上下2巻に分けて「袋」(封筒)に入れて販売するというのは、江戸時代からよく行われていたようです。江戸時代の『偐紫田舎源氏(にせむらさき いなか げんじ)』などにも そういう記録がありますし、『佳人之奇遇』もそうだったようです。しかし「袋」というのは残っていないのが通例です。「日本の古本屋」のサイトに、名雲書店が 珍しい袋入りの『佳人之奇遇』を出展していましたので、その画像を借りると、
しかし、なぜ各編を2巻に分けるのか よくわかりません。2冊分でも 大した厚みではないので、十分に和綴じができますから。そのために、私も最初のうちは「編」と「巻」を混同して、いろいろ誤解をしてしまいました。 和本の長所は、軽くて持ちやすいことと、壊れても再製本が たやすいことです。逆に欠点は、背表紙がないので 素早く本の識別ができないことと、本棚に自立しないことです。 和本用の本棚(箱)というのは、本を寝かせて重ねて置いておくための棚、あるいは 引き出しでした。しかも背表紙がないので、数が多くなると、求める本を見出すのが面倒だったことでしょう。本を立たせるためには、何冊かまとめて、帙なり函なりに 入れねばなりません。今回の『佳人之奇遇』9冊のためには、大きな辞典の空き函に紙を貼って、本棚に自立させるための函を 特製しました。 『佳人之奇遇』9冊用の 手作りの函
関東大震災の2年後の大正14年 (1925) には、一巻本の『佳人之奇遇』が、創業したばかりの聚芳閣(しゅうほうかく)という出版社から「洋本」仕立てで復刊されました。和本の初編が出た時から 40年も後のことになりますが、それでも 今から百年ほど前の古書になります。布装のハードカヴァーで、定価は5円でした。日本の近代化も一応終わった大正末年、天金がほどこされ、背表紙には 金文字のタイトルが箔押しされて 函入りという、すっかりヨーロッパ風の造本ですが、本文には縦罫線入りというのが 日本的です。
漢字仮名交じり文の カタカナは ひらがなになり、句読点、濁点、半濁店がついたので 読みやすくなったとはいえ、その反面 漢文調の文体のままで フリガナがないので、読みやすさは相殺でしょうか。 欄外漢文評は一切無く、非常に多かった「傍点」「傍丸点」も 省略されました。校注や解説などは一切なく、本文のみです。挿絵は見開きではなく、片面に複写したものが9点だけ挿入されています。時代にあわせた ハイカラ本になりました。 『佳人之奇遇』のコンセプトの祖型をなすのは、柴四朗が 米国に留学するよりも前の明治9年 (1876) 11月24日、東京日日新聞(現在の 毎日新聞の前身)に寄稿した短編「東洋美人ノ 嘆」です。後述のように、のちに これは『佳人之奇遇』の前編と後編の間に『東洋之佳人』として書き直され、『佳人之奇遇』と同じ体裁で出版されます(単冊)。「東洋美人ノ 嘆」は 柳田泉の『政治小説研究』上巻 (1967, 春秋社)の p.365-7 に全文が再録されています。その要旨は、
という物語です。「蜻和」とは日本の寓意であり、西方の貴公子(遊冶郎)とは西洋諸国のことです。西洋化に励む日本が、日本固有の価値を放擲(ほうてき)し、西洋の毒手に侵されて 破滅の道をたどりつつあると、批判しているわけです。植民地にされてから 悲歎しても 遅いのだ と。
のでした。日本美術を、蜻和のような運命にしてはならない というわけです。
『佳人之奇遇』の文体は、漢文読み下し体です。現代の日本人には いささか読みにくい文体ですが、文芸評論家の中村光夫 (1911-88) は、『日本の近代小説』 (1954, 岩波新書)の中で 次のように述べています。(p.31)
しかしながら、『佳人之奇遇』が出版されたのは 1885年〜 1897年 のことで、ジェイムズ・ファーガスンの『インドと東方の建築史』が出版されたのは、初版が 1876年で、改定増補の2巻本が 1910年ですから、ちょうど同じ時代に出版された本だと言えます。ところが両者を比べると、ファーガスンの本に書かれた英語は 現代の英語と ほとんど変わらないのに対して、『佳人之奇遇』の文体は 現代の日本語から見れば 非常に古めかしく、今の若者には 読むのが きわめて むつかしいでしょう。 しかし 漢文の素養がない 現代の日本人が読むには、かなり難しい。しかも 地名や人名のような 外国の固有名詞が、今だったらカタカナで表記されますが、『佳人之奇遇』では すべて漢字で表記されているので、フリガナ が無ければ 読めないものが多い。たとえば巻の一、第五丁の右ページから、アメリカ独立戦争の記述の4行ばかりを引きますので、読んでみてください(固有名詞には下線があります)。
句読点もなく 濁点もなく、また漢字で表記されたアメリカの固有名詞が多く出てくるので、スラスラとは読めません。 現代語訳を試みれば、
といったところでしょうか。 「慕士頓」はボストン、「新府」はニューヨーク、「費都」はフィラデルフィア、「華聖頓」はワシントン、「竃谿」はフォージュ・ヴァレーの漢字表記です。フリガナがなければ 読めません。
「政治小説」たるの所以(ゆえん)ですが、この 前期明治文学の最高傑作のひとつとされる『佳人之奇遇』は、今の若い人たちにも読まれるように、ぜひとも現代語訳の文庫本にしてほしいものです。そうすれば、多くの読者を獲得するのでは ないでしょうか。当今の 大きめの字の文庫本にすると、全部で 480ページくらいになります。各ページに多くの註をつけ、挿絵を全部大きく入れれば、600ページくらいの 厚手の文庫本になるでしょう。小説的な前編と、政治論文的な後編の、上下2分冊にするのもよいと思います。
●『明治大正文学全集 』第1巻 「東海散士・矢野龍渓篇」(佳人之奇遇・経国美談) 昭和5年 (1930)、春陽堂書店。 この中では、最後の岩波書店版が 一番読みやすく、親切な編集です。近くの公共図書館で借りられますので、ぜひ挑戦してみてください。
『 新日本古典文学大系 明治篇 17 』2006年, 岩波書店
東海散士は『佳人之奇遇』の第三編と第四編の間に、『東洋之佳人』と『埃及(エジプト)近世史』を書いて出版しています。『東洋之佳人』は東海散士著となっていますが、実際は 散士の同郷の後輩である 高橋太華(たいか 1863-1947)が 散士の意向を受けて筆にしたらしい。その元となったのは 前述のように、『東京日々新聞』に柴四朗が寄稿した(明治9年11月9日)『東洋美人ノ 歎』です。谷 干城が政府批判をして 農商務大臣を辞任した時に 柴もその秘書官を辞任し、静岡県の興津 清見寺に隠棲している間に、高橋太華が 稿を起こしたとされますが、もちろん その筋と構成、思想は 柴四朗によります。どういう内容かというと、 東海散士が 田子の浦に 釣に来るが まったく釣れず、三保の松原を散策して 松の樹根に座って うたたねをする間に、松の枝に衣が掛けられていたので 手に取る。それは ひとりの仙妃が 水浴をするために掛けたもので、散士の前に現れて返却を乞う。散士は「天女の羽衣」伝説を語り、同じように仙妃の舞を求めると、仙妃は秘曲を舞う。散士が無礼を謝して立ち去ろうとすると、仙妃は自身を語り始める。「旭 (きょく)」という名の 東天の帝女に仕えていたが、自分は讒言(ざんげん)にあって下界に投じられてしまった。 これは、アメリカ留学より帰国した散士が目にした、鹿鳴館時代の日本の堕落を 風刺した寓話です。旭という名の東天の帝女が 日本のことで、西家富豪の 遊治郎が 欧米諸国のことです。
(左)東海散士著『東洋之佳人』扉、明治 21年 (1888)、博文堂
『埃及(エジプト)近世史』の方は、主にセイモア・ケイ (Seymour Keay, 1839-1909) の『エジプトの略奪 (Spoiling the Egytiens) 』(散士のいう「埃国惨状史」)をもとにしていて、その内容は『佳人之奇遇』巻6においても語られています。散士はエジプトの運命を日本の境涯に重ね合わせたのでしょう。本の内容は、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。
ところが 東海散士の研究家 高井多佳子は、論文「柴四朗の言論活動 : 政治と思想の実践」(2009) の中で、逆の見方をしています (ウェブサイト、p.113)。
として書いたものです。その 最後の 295人目は、目次によれば ヘレン・ケラーです。四朗の養子の 柴 守明が、四朗の遺稿を整理して 昭和7年 (1932) に 私家版で出版しました。(国立国会図書館のデジタル・コレクションで読めますが、「295、ヘレンクラー」は 落ちています。)
( 2022 /03/ 01 )
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