ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - LIV
東海散士(柴四朗)著
『 佳人之奇遇 』
Tôkai-Sanshi (Shirô Shiba) :
" Fortuitous Meeting with Noble Beauties "
1885 -1897, Hakubundô, Tokyo


神谷武夫
佳人之奇遇

東海散士 (柴 四朗) 著『佳人之奇遇』巻1〜巻8
明治 18年 (1885) 〜 明治 21年 (1888)、博文堂

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政治小説『 佳人之奇遇 』

 今回の「古書の愉しみ」第 54回は、初めて「和本」を採り上げます。手漉きの和紙に 手彫りの「木活字」(もっかつじ)で印刷し、糸で「和綴じ」にした、今から130年以上前の、明治時代の本です。しかも、見開きの細密な石版画(リトグラフ)が 全部で 40枚も挿入された「挿絵本」でもあります。木活字の書体も美しく、主に 西洋古書を紹介してきた「愛書家」にとっても、なかなかに魅力的な古書です。

佳人之奇遇

東海散士(柴 四朗)著 『佳人之奇遇』 巻の1の挿絵ページを開く。
和本、明治18年、東京書林 博文堂。 挿絵は石版画(リトグラフ)
明治時代の和本の小説は、だいたいにおいて 挿絵本だった。

 東海散士(柴 四朗)による この『佳人之奇遇(かじんの きぐう)』の初編(巻の1と 巻の2)が明治 18年 (1885) に出版されるや、たちまち 大ベストセラーになり「洛陽の紙価を高めた」と言います。『佳人之奇遇』巻の9の巻頭に 柴四朗(しば しろう)自身が書いた序文には、

 「之を(巻の8で)中絶するときは、首尾貫通せず、既往 幾十万の愛読者諸君を 欺くに似たり」 (したがって、続編を書かざるを得なかった)

とありますから、その通りとすれば、数十万部のベストセラーだったというわけです。読書人口が現在の数分の一だったのではないかと思われる時代に、数十万部というのは、容易なことではありません。明治前期の日本に それほどの、木活字と石版画による印刷・出版・配本能力があったのだろうかと疑問にも思いましたが、大正3年に 徳富蘆花(とくとみ ろか)が 当時を回想して、

 「その頃 佳人之奇遇 と云う小説が出て、字を読む程の者は 読まぬ者はなかった」

と書いているほどですから、発売されるや 燎原の火のように流布し、万人に読まれたことは 確かでしょう。今田(こんた)洋三の『江戸の本屋さん』(平凡社ライブラリー, 2009)を読むと、出版活動は 江戸時代から大いに発展していて、江戸中期の出版業・蔦屋(つたや)重三郎が出した本は、時に1万数千部も売れたというし、明治5年に初編の出た 福沢諭吉の『学問のすすめ』は 第17編まで続いて、その発行部数は あわせて 340万部だったということですから、もっと後のベストセラーが 数十万部というのは、あながち誇大ではなかったでしょう。それに、日本人の識字率は、江戸時代から 非常に高かったのです(農民でさえも、草紙や娯楽本、実用本を読みました)。

 しかし それから百年の時を経た 昭和の戦後には、『佳人之奇遇』は 文庫本にもならず、現代語訳も されなかったので、今では すっかり忘れ去られられてしまいました。これを読んだことのある人は希でしょう。それでも 読書好きの人なら、東海散士の『佳人之奇遇』という 印象的な題名は、何かの本で読んで 記憶しているのではないでしょうか。

東海散士 (柴四朗) と会津藩

 著者の「東海散士」というのは 柴 四朗(しば しろう)のペン・ネームですが、姓が東海、名は散士というわけではなく、「東海」というのは 現在の東海地方ではなく、日本を指します。「士」というのは もともと侍の意で、藩の侍を「藩士」と言ったごとく、あるいは「戦士」「志士」さらには「策士」「文士」のように使われました。柴四朗は会津藩士でしたが、国(会津藩)が滅びて諸国に散ったので、「散士」と自称したのでしょう。それなので「散士」というのはむしろ一般名なのですが、この本の中では固有名詞のごとくに使われていて、柴四朗のほかには 散士というのは出てこず、「散士」と言えばこの小説の主人公のことであり、また著者のことでもあります。つまり『佳人之奇遇』というのは、「政治小説」に分類されてはいますが、東海散士が 自ら見聞きしたことに脚色を加えて、自分を主人公として書いた、半ば「私小説」だとも言えます。一人称小説で「私」と書く代わりに「散士」と言っているようなものです。

東海散士

東海散士(柴 四朗)(『明治文学全集』第6巻
「明治政治小説集 2.」1967, 筑摩書房刊 より

 柴 四朗 (1853-1922) は 幼時には 茂四郎(もしろう)といい、 江戸末期の嘉永5年に 会津藩の 富津(現在の千葉県 富津市)で生まれ、大正11年に熱海で死去したので、明治という時代を まるごと体現したような人です。日本が開国し、大政奉還、廃藩置県の頃に成人を迎えます。
 会津藩というのは、現在の福島県・会津若松を藩都として 栃木県から新潟県に広がった藩で、北方を守護する幕府の雄藩でした。幕末には蝦夷(えぞ)の守備を皮切りに、房総の湾岸警備、文久2年(1862)には藩主の松平容保(かたもり)が 遠い京都守護職を命じられ、新撰組を配下に置いて尊攘派を取り締まり、「長州征伐」を主導しました。しかし王政復古で徳川幕府が崩壊、薩摩・長州藩が加わった明治新政府によって会津藩は追放され、「鳥羽伏見の戦い」に始まって「箱館戦争」に至る大戦争(日本の内乱)の「戊辰(ぼしん)戦争」 (1868-9)で敗北すると 朝敵(賊軍)とされ、官軍、特に薩長同盟(岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通)に「会津討伐」として 徹底的に追撃されました。三千人近くが戦死し、藩領を没収されて、領主と藩士は捕虜となり、入牢したり僻地に追いやられたりして飢餓生活を送り、塗炭の苦しみをなめます。

 会津藩士・柴佐多蔵の四男・四朗は、16歳で 会津戦争の「白虎隊」の一員となりましたが、生来病身なので、その時も病床にあって、戦いと 飯森山での自決に加われず、生き永らえることになりました。その間に 自宅での母、祖母、姉、妹ら 家族の女5人は、敵軍に犯される前に 全員が自害、他にも多くの親族、朋輩、知人を失った柴四朗も 弟の五郎も、他の会津藩の生き残りと同様、生涯 薩長を仇として憎みました。ずっと後の明治11年に、明治の元勲となった大久保利通が暗殺された時には、旧会津藩士たちは 快哉を叫んだと言います。
 薩長による苛烈な会津討伐は 明治元年10月に会津降伏で終わり、柴四朗も「亡国 亡藩の士」となりました。後に東海散士と名乗る所以(ゆえん)です。以来 苦難の道をへたあと、明治 10年の「西南戦争」に 官軍(西征軍)として従軍して、西郷隆盛の軍に勝利し、恨みの一端を晴らします。その間、軍人で 後に清廉な大物政治家となる谷干城(たに たてき 1837-1911)の知遇を得て、後々まで親交を結び、引き立ても得ます。

 四朗は幼時から学問を好み、会津藩が滅んでからも 英語塾などで英語やフランス語を学んでいて、27歳の明治 12年 (1879) から6年間、岩崎家の援助を得て アメリカに留学することになります。ハーバード大学やペンシルヴェニア大学で経済を学び、財政学の学位をとります。その間 アメリカ中を旅行し、世界情勢を研究し、「自由貿易」が アフリカやアジアの国々を 債務国にし、植民地に陥れていることを知り、日本は絶対に「保護貿易」を堅持すべきだという考えを抱きます。インド、中国、エジプト、スペイン、アイルランドその他の国々が ヨーロッパ列強から独立を侵され、どれほど苦境に陥っているかを知り、日本がその轍を踏むことを 絶えず危惧していたのです。
 柴四朗が 明治18年 (1885) に 32歳で米国から帰国した頃は ちょうど「鹿鳴館時代」で(鹿鳴館の開館は1883年)、日本は欧米と対等の国になろうと、欧米崇拝の風潮にひたって、連日 洋装をした貴族や政治家とその夫人たちが ダンス・パーティに憂き身をやつしています。その愚行と政治を正すべく、 小説に形を借りて 彼の思想と世界情勢の認識を世に示そうと、東海散士の名で『佳人之奇遇』の初編 (巻の1と2)を書きます。すると 思いもかけず、これが文学作品として大評判となってベストセラーになり、「憂国の志士」が、あっという間に「文壇の寵児」となるのです。『佳人之奇遇』は 毎年のように続編が書かれ、ベストセラーを続けました。最終編が出版されるのは、初編の 12年後の明治 30年 (1890) のことです。

 四朗は アメリから帰国の翌年、明治19年から1年3ヵ月、日本で最初の内閣(伊藤博文首相)の農商務大臣となった谷干城の秘書官として、ヨーロッパの視察旅行におもむき、欧米ばかりでなく アジア・アフリカ諸国の情勢や独立運動なども見てきます。革命家や独立運動の闘士にも会ってきました。この旅行と彼の世界認識、そして日本国家への提言が、『佳人之奇遇』の後編で語られます。『佳人之奇遇』の作者として有名人になった東海散士は 政治の分野に打って出て、国会議員まで務めます。初めは民権主義者でしたが、次第に国権主義者(日本主義、ナショナリズム)の政治家となります。その最大目的は、日本を欧米の植民地に陥らせないことでした。アメリカ留学以来、あまりにも多くのアジア、アフリカその他の国々が「悪魔のような」ヨーロッパ列強、とりわけ大英帝国に蹂躙されてきた姿を見、英語の関係書を絶えず読んできたからです。

柴五郎   柴五郎

  (左)石光真人 編著 『ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)』1971
   中公新書、東海散士の弟 柴五郎の半生と、会津藩滅亡の記録
(右)中井けやき 著 『明治の兄弟』2018, 文芸社         .
柴太一郎、柴四朗、柴五郎3兄弟の伝記。     .

 東海散士(柴四朗)の弟は 会津藩 滅亡後、辛酸をなめて陸軍士官学校卒の軍人となった 柴五朗で、中国における「義和団の乱」における西洋諸国の公使館員など外国人 925名 および中国人クリスチャン 3,000人が 北京の 東交民巷エリアに2か月間 籠城した時、彼らを守るための総指揮を執りました。彼は英語・フランス語・中国語と数か国語に精通していて、各国人の連絡をよくし、指揮も優れていたので、解放後、日本人からだけでなく、欧米人からも称賛されました。
 彼の伝記は 石光真人(いしみつ まひと)の編著になる『ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)』(1971、中公新書)で、東海散士との関係がよくわかります。また 柴太一郎・柴四朗・柴五郎3兄弟の伝記は 中井けやき 著『 明治の兄弟 』(2018, 文芸社)で、非常に詳しいものの、調べ上げたことの羅列になりがちで、全体的なパースペクティブに欠ける嫌いがあるのが残念。

明治時代の和本

 「和本」というのは「わほん」と読み、「わ」ではなく「ほん」にアクセントがあるということも、今の若い人は知らないかもしれないし、見たことさえ ないかもしれません。私も 主に西洋の本(洋本)を対象にしてきたので、和本については あまり詳しくはありません。製本法とその姿に注目した場合は「和装本」とも言いますが、日本で鎌倉時代から明治時代にかけて書かれ、製本された古書を 和本というのであって、現代の西洋文学の翻訳書を和装にしたからといって、和本とは呼ばないでしょう。歴史と内容を伴ってこそ 和本と言うのですが、ここでは 『佳人之奇遇』に即して、和本の作られ方を見ておきます。

佳人之奇遇
東海散士 著 『佳人之奇遇』全16巻のうち、巻1〜巻8、和本、博文堂
今から 130年以上前の 明治 18〜21年 (1885〜88) 発行の古書

 最も 和本らしい 和本というのは、この『佳人之奇遇』のように、手漉きの和紙に、手彫りの「木活字(もっかつじ)」で印刷し、丈夫な糸で「和綴じ」にした冊子本です。したがって「背表紙」というものは ありません。中世から近世では 活字ではなく、ページ全体を木版画にしたものが主流で、これを「活字本」に対して「整版本」と呼び、江戸時代のほとんどの本はそうで、明治時代まで 木活字の本と並んで続きました。浮世絵版画と同じ原理です。豊臣秀吉の時代には 朝鮮から「銅活字」が伝えられたので、少数派ながら 金属活字の和本もあり、『佳人之奇遇』より 13年早い 福沢諭吉の『学問のすゝめ』も、木活字ではなく、金属製の彫刻活字を用いた和本です。

 『佳人之奇遇』は、薄い手漉きの和紙の半紙(約 33 × 24cm)を二つ折りして綴じた大きさの「半紙判」です。標準的な4つの穴に糸を通して綴じるのを「四つ目綴じ」と言いますが、ここでは 上下最端部に もうひとつずつ穴をあけて 糸を通して かがって 丈夫にしています。中国の清の康煕(こうき)帝による製本法ということで、これを「康煕綴じ」と呼びますが、見た目の装飾性から「高貴綴じ」とも綴られます。背の天地の角には 角革(かどかわ)ならぬ 角(かく)ぎれ を貼って 補強しています。
 ただ、「丈夫に、堅固に」というのは 洋本の発想のようで、和本というのは、手作りの華奢(きゃしゃ)な本であること(「剛構造」に対する「柔構造」と言うべきか)が 前提になっていて、綴じ糸は もともと 切れやすくなっているのだそうです。「本を無理に開けば まず糸が切れることで、中の紙が破れないように 守るのである」(中野三敏著『和本のすすめ』2011、岩波新書、P.128)。 綴じ糸がきれても 補修は容易で、1本の針と糸さえあれば、素人にも できました。その点では、「背表紙」のないことが、逆に強みだったのです。

佳人之奇遇

和綴じの装本『佳人之奇遇』、康煕 (こうき) 綴じ、題箋貼り付け
各冊の厚さが1cm 弱なので、和本としては やや薄手

 『佳人之奇遇』の本文は すべて「袋綴じ」になっています。袋綴じというのは、今でも 学生さんが本のコピーをする時には 本の両面2ページずつコピーして、それらを二つに折って反対側をホチキスで止めますが、あれが「袋綴じ」です(コピーの場合は、実物とは 奇数ページと偶数ページが逆になりますが)。 『佳人之奇遇』では、各巻に挿絵が3枚挿入されていますが、挿絵は すべて 「見開き」 の石版画(リトグラフ)ですから、これらは 袋綴じにはできません。版画を内側にした二つ折りの谷部を、糸で そのまま綴じると 中央部が隠れてしまうので、谷の裏に紙を継ぎ足して(足をつけて)そこを綴じることによって、挿絵をきれいに全部見せるのです。見開きの大きさの挿絵でなければ、こんな手のかかることを する必要はありません。

挿絵
『佳人之奇遇』の挿絵のひとつ、小柴英 印行

 これらの挿絵は「小柴英の印行」であると 絵の脇に書いてあり、その工房の 東京・神田の住所まで書いてあります。小柴英(えい, 1858-1936) は 日本における 石版印刷の創始者だと言われますが、画家ではありません。原画を 石版画(リトグラフ)にして印刷する工房の主でした。また 巻7と巻8では「小柴英侍」と書かれていて、経営を継いだ 長男の小柴英侍(えいじ, ?-1922) ですが、これも画家ではなく、帝大の工科出身の技術者だったようです。次男はフランスに留学した 洋画家の小柴錦侍(きんじ, 1889-1961) ですが、『佳人之奇遇』出版の頃は、まだ生まれていないか 幼児でした。『佳人之奇遇』の挿絵の原画を描いたのは 小柴 英の知り合いの画家(達)だったのでしょうが、名前はまったく不明です。小柴工房が、作画からリトグラフ製作、刷りまでを 一括で請け負って 納入したのだと思われます。


『佳人之奇遇』の 梗概

『佳人之奇遇』の成立事情は、初編の「自序」 (明治18年3月記) に語られています。その要旨は、散士は幼くして戊辰の変乱に遭遇して藩が滅び、家の全員が陸沈して東西に漂流せしが、自分は長じて海外に遊学し、経済、商法、殖産の諸課を修めた。その間 国を憂い、世を慨して思いしことを筆にして十余冊になったので、帰朝後 これを修訂・推敲し、『佳人之奇遇』として ここに上梓する、ということです。

 『佳人之奇遇』の全体を一言でいえば、アジア・アフリカを初めとする世界の弱小諸国へのヨーロッパの暴虐に対する「悲憤 慷慨」の書です(はるか後の 2022年現在では、ウクライナに対する ロシアの暴虐)。 前半は 散士と幽蘭のロマンスの趣きがありますが、それは第5編で尻切れトンボとなり、あとは もっぱら日本とアジア諸国の情況への 散士の憂慮を主とする政治論文風になります。そこで 通常この書を二分して、「前編」と「後編」と呼びます。
 前編の主たる人物は、東海散士(米国に遊学する日本人)、幽蘭(ゆうらん、20歳くらいのスペインの佳人)、紅連(こうれん、23, 4歳のアイルランドの佳人)、范卿(はんけい、初老の中国人志士)という4人の才子佳人です。「紅連」は、巻1、第10丁に「其の態度風采 梨花の露を含み、紅蓮の緑地に浴するが如し」とあり、自ら 名は紅蓮と名乗り、散士と幽蘭の恋の仲立ちをします。「幽蘭」は、巻1、第14丁で「妾、名は幽蘭、スペインの京城マドリッドの者なり。家は西国の名族たり」と名乗ります。「妾(しょう)」というのは、女性の一人称で(「私」とは言わなかったようです)、男性は その頃から「僕(ぼく)」と言いました(もともとは それぞれ「めかけ」、「しもべ」を意味する謙譲語です)。幽蘭も紅蓮も、ヨーロッパ人なのに中国人のような名前をしているのが 妙ですが。

佳人之奇遇
『佳人之奇遇』初編(巻1-2)の 装幀と挿絵

(巻の1) 物語の発端は、明治 15年 (1882) のある日、アメリカ在住の東海散士が フィラデルフィアの「独立記念館」を訪れると、二人の西洋佳人が やはり記念館に上り、かつてのアメリカの独立戦争 (1775-83) による独立の達成と、それに引き比べての彼女らの国の不運について話しているのを耳にし、心惹かれながらも 帰途につきます。その翌日、散士がデラウェア川でボートに乗り、フィラデルフィア北方のフォージュ・ヴァレーに上ると、またしても その二人の佳人に邂逅し(奇遇)、美しい紅蓮(こうれん)に導かれて、さらに美しい幽蘭(ゆうらん)の仮寓する館(やかた)を訪れて、3人で団欒をします。
 前日フィラデルフィアの独立記念館で 彼女らが感慨悲憤していたことについて 散士が その訳を尋ねると、二人の佳人は それぞれに身の上と、幽蘭の母国 スペインと 紅蓮の母国アイルランドが、それぞれイギリスによって蹂躙され 半植民地のようにされている状況を詳しく語り(特に幽蘭の父、幽将軍の闘いについて)、悲歎に暮れるので、散士は 大いに同情して落涙します。

(巻の2) すると、それを陰で聴いていた この家の料理人の中国人、50がらみの范卿(はんけい)が進み出て、今度は 中国人(清(しん)人)の苦境を語ります。明の滅亡の悲劇から、英国がまき散らしたアヘンの害によって 英国とのアヘン戦争に至り、惨敗して 不平等条約を結ばされ、今や清人は米人にも侮蔑され、ひどい扱いを受けていると。
 次いで散士もまた心情を吐露し、問われて 故国 会津藩の滅亡と、自身およびその一家の 甚だしい苦難を語って3人の涙を誘います。いずれも「亡国の徒」であるところの4人の「奇遇」について、かつは驚き、かつは それぞれの母国の運命を慨嘆し、心を奮い立たせるためにフランスの革命歌(今は国歌)の『ラ・マルセエイエーズ』を皆で歌い、再会を約して別れます。
 物語の主要人物、幽蘭、紅蓮、范卿の3人は 柴四朗の創作ですが、その他の語られる人物は、ほとんどが実在した 世界 諸国の偉人、志士たちで、その幾人かは 柴四朗が実際に会ってもいるので、この小説は 当時の「世界現代史」の側面を もっています。

佳人之奇遇
東海散士著 『佳人之奇遇』貮編(巻3-4)の装幀と挿絵

(巻の3) 散士は再訪を約した当日 嵐にあって 再会を果たせず、1年後にフォージュ・ヴァレーを訪れると、館を守る老人から 幽蘭の手紙を渡され、幽蘭、紅蓮、范卿の3人とも、囚われの身となった幽将軍(幽蘭の父)を救うために スペインに去ったことを知ります。この折、近くのベンジャミン・フランクリンの墓で会った一士人が散士に、ポーランドの乱世・亡国の危機と、その遺臣である 高節公(こうせつこう)すなわち タデウシュ・コシチューシコ (1746-1817) の、祖国復興のための愛国の義挙について 詳しく語ります。
 しばらく後、散士は 新聞にて スペインでの 幽将軍の脱獄を知り、パーネル女史(アイルランド独立党の党首チャールズ・スチュワート・パーネル (1846-91) の妹、ファニー)を訪ねます。病身のパーネルは母とともに散士を歓迎し、川畔で 散士と釣を愉しみ、家で 深夜まで大いに談論します。パーネルは 故国の惨状を 滔々と嘆き、琴を弾じながら 英国に対する闘争心を歌うのです。

(巻の4) 翌月、散士はパーネル女史の病死(28歳)を新聞で知り(1882年、実際は 34歳)、散士がパーネルの墓を訪ねると、図らずも紅蓮に出会います(またしても奇遇)。散士がその後の3人(紅蓮、幽蘭、范卿)の行状を問うと、紅蓮は散士をデラウェア川の館にいざなって、幽蘭と范卿が既に亡きことを まず 告げます。そして、軟弱の婦女(紅蓮)が奇策を用いて幽将軍を救出した顛末を詳細に物語ります。

(巻の5) それは、紅蓮が 守城長(幽将軍を幽閉する刑務所の所長)を誘惑、篭絡して、幽将軍の健康のための外出時と所を聞き出し、范卿は銃を手に入れ、男装した幽蘭と紅蓮と共に 乗馬した3人で守城長の一行を急襲して幽将軍を救出したと。この一連の策謀と行動が、巻5を通じて活劇小説として描かれます。
 幽将軍の一行は船でイタリアに渡ったものの、頼るつもりだった、イタリア統一に尽くした英雄 ジュゼッペ・ガリバルディ (1807-82) の死を知り、今度はフランスの革命的政治家 レオン・ガンベッタ (1838-82) を頼るべく、汽船にてフランスに向かったが、船が難破して 幽将軍は 幽蘭、范卿とともに海の藻屑となったこと、紅蓮のみ助けられて小艇で小島に逃れたことを、紅蓮は嘆きながら語るのです(ガンベッタは、パリ・コミューンの時 気球に乗って ドイツ軍の囲むパリから脱出して 義勇兵を集めたことで有名)。

佳人之奇遇
『佳人之奇遇』第三編(巻5-6)の 装幀と挿絵

(巻の6) 紅蓮は ひとりパリに行って ガンベッタに会見し、幽将軍の死を告げ、アイルランド、日本、フランスの状況に対する見解を聞きます。ガンベッタいわく、アイルランド人は心を一つにして力を合わせて英国の隙に乗じて独立を達成すべきこと、「日本は これより欧人の羈絆を脱して不正不義の抑圧を免れ、治外法権を廃し、国民ようやく自由の晴日を拝するを得べし」、かつてのアメリカ独立の義挙のように、また西インドにおけるセント・ドミンゴ(ハイチ)の独立闘争のように、と。
 ここで、ハイチの黒人革命家 ローアチール(トゥサン・ルヴェルチュール, 1743-1803) の活躍と、1801年のハイチ革命、奴隷制の廃止、フランスからのハイチの独立が 詳しく語られます。ローアチールは姦計に陥って捕えられ、法廷で正義を述べるも、ナポレオン1世によって獄死させられます。しかしまもなくナポレオンはロシアに敗れてエルバ島に流されるので、ハイチはフランスと闘って 独立を果たしました。これに比して 日本人民は、打って一丸となって条約改正のための奮闘もせず、外国勢力から国を守ろうとする気概も決意も聞かない、とガンベッタは断じます。散士は紅蓮からこれを聞き、日本における、欧米に対する腰抜け状態(不平等条約の改正もできない)を嘆き、大息するのです。
  紅蓮は、かの守城長がパリまで自分を追ってきているのを見つけ、ただちに汽船でアメリカに渡って来たのだと言う。彼女の大車輪の動きに 散士は感嘆し、その無事を喜びます。
 散士はこれより紅蓮との親愛が深まりますが、ともに祖国に帰る気なので、愛は実りません。折しもエジプトに アラビー・パシャの乱が起こるので、ここに、ヨーロッパ列強に虐げられ 植民地化されるエジプトの苦難と独立の動きが 詳細に語られます。紅蓮が散士に読ませた セイモア・ケイの著書『埃国(エジプト)惨状史 (Spoiling the Egyptians) 』には

「我が大英国は立憲公儀の始祖なるをもって 常に世界に誇視し、世界各国もまた皆称賛してやまざる所なり。しかるにエジプト人民が立憲公儀の政体を組織せんとするにあたり、大英国は権謀 詐術、力を尽くして これを破壊せんと欲するは何ぞや。けだし エジプト国にして、立憲公儀の政体を組織し、公儀輿論をもって政令を施工するに至れば、従来 英人が施工したる 専横不正の条約に服従しなくなることを 恐れるからである。」

と書かれています。以下、巻の6は その後半全体を費やして、エジプトに対する英国の悪逆非道を 延々と述べます。散士は こうしたエジプトの状況に いたく同情・悲憤し、欧米に蹂躙されて不平等条約の改正もできない日本の立場と重ね合わせ、後述のように、このセイモア・ケイの書にもとづいて『埃及近世史』を書くことになります。
 さらに紅蓮が提示する雑誌には、エジプトの軍人政治家 アラビー・パシャと行を共にする一老将と その娘のことが書かれていて、二人は驚き、茫然とします。

(巻の7) 幽蘭と幽将軍は生きていたのです。そうしているところに、30代半ばの婦人が訪れます。紅蓮と同船だったコシュート夫人(ハンガリーの志士 コシュート・ラヨシュの娘)です。夫人は、幽蘭を置き去りにして一人アメリカに帰った紅蓮を非難し、難船後の経過を物語ります。夫人は 幽将軍と幽蘭も乗っていたボートに救われたが、小舟は嵐の浪間を漂い、やっとギリシアの郵船に助けられ、エジプトのアレクサンドリアに着いた 。4人が暴動に会ったところを、アラビー・パシャに助けられて、幽将軍は パシャ勢力の軍師となる。ところがエジプト人はイスラームを奉じてキリスト教徒を撃つことを主張するばかり、幽将軍がアラビー・パシャに宛てた一書が衆議に拒否され、やむを得ず 闘うこととし、幽蘭をコシュート夫人とともに国外に逃れさせようとするが幽蘭は従わず、夫人のみを故国イタリアに逃れさせた。夫人は、紅蓮と范卿が もし生きていれば、必ずデラウェア川の館に帰るであろうと、ここを訪れたのだと言いいます。

(巻の8) 散士がコシュート夫人に、なぜ自分の名を知っていたのかを問うと、夫人は、散士が 巻の3で出会った一士人の娘、マリであり、父というのは ハンガリーの志士、コシュート・ラヨシュ (1802-94) であると告げます。和をとりもどした3人は食事をとりながら歓談し、話中論として「美人に年齢なき論」を講じ、デラウェア川に遊びます。
 真剣な話になると、夫人はハンガリー国の苦患を 祖先の話から始め、近世オスマン帝国とオーストリアに支配され、独立の戦をしたものの 衆寡敵せず、100年にわたる服従の後、マリア・テレジアが現れて皇位につき、独立を達成するも、その後メッテルニヒがオーストリアの宰相となり、その悪政が国を衰退させ、人民の反乱にあって 英国に亡命したことを語ります。
 また夫人は 散士の求めに応じて、父コシュートについて話します。コシュートは獄につながれ、迫害されても 祖国独立の志を捨てず、新聞を発行し、政治改革に奔走し、議員となって数々の施策を立て、メッテルニヒを攻撃したのでした。
 散士は巻の8の大部分をハンガリー動乱史に宛てますが、オーストリア・ハンガリーに事寄せて、日本の近代と 当時の政治情勢を批判しているのです。

佳人之奇遇
『佳人之奇遇』第四編(巻7-8)の 装幀と挿絵

(巻の9) コシュート夫人は なおハンガリー動乱史の続きを語ります。革命軍は 将軍クラプカの善戦にもかかわらず、オーストリア・ロシアの同盟軍に敗れ、敵側に暴虐されます(散士は会津落城とその後の会津藩の苦難をここに重ねあわせているようです)。
 紅蓮は決然として 幽蘭を救うためにエジプトに発つというと、コシュート夫人も同行し、 ただちに出発します。散士はフィラデルフィアに帰宅して新聞を読むと、カイロの営中に幽蘭がいることを知ります。ところが翌日には新聞の号外で、アラビー将軍が敗北してセイロン島に流され、エジプトが英国に平定されたことを知ります。数日後に紅蓮から手紙があり、フランスのガンベッタに会ったが、彼はエジプト反乱軍には関心なく、フランスの国益のみを求めていると、紅蓮は憤慨しています。
 フィラデルフィアに在った散士は、故国より 父、柴佐多蔵の死去の知らせを受けて 茫然自失とし、波乱の人生を送ってきて 父に孝養を尽くせなかったことを憾(うら)みます。一方、アジアは、特に日本と清国は 合体連合して、インド・エジプトを仲間として、ヨーロッパ、特に英仏の暴戻に対抗すべきことを考え、故国を思って慨嘆します。 散士の素志は、

「いつか 東洋列国が連合し、インドの独立を助け、エジプトやマダガスカル島から英仏の干渉を絶ち、朝鮮の独立を保護し、日本は清国と連合して ロシア人を遠く退け、アジアからヨーロッパ人の鼻息を消し、断固として世界を三分割して アジア、ヨーロッパ、アメリカを対等に鼎立させる。武器を捨て、道理にしたがい、人生の安楽と世界の平和を計る大業」(岩波版 p.444 の私訳)に あったのです。

 3年後、散士は帰国のため フィラデルフィアを去り、途中 メキシコでは 憂国の新聞記者 サンタを訪ね、メキシコ国家の惨状を聞き、それに関連して 日本の置かれた状況を嘆きます。メキシコの近代史の講義を聞いたあと ここを去り、サンフランシスコを経由して 日本に帰ります。

(巻の10) 帰郷した散士は とある客から朝鮮情勢を聞き、清国、朝鮮両国が 久しからずして西洋諸国に分割占領されようとしていることを知ります。客との談論の翌日、(范卿より)無署名の手紙がきます。(范卿は)その時を利用して、明朝を再興する願いを達成するつもりである、と。その数日後に電報があり、日清ともに朝鮮から撤兵するという日清 天津条約が結ばれたとあるので、巻の10の舞台は 1885年の設定とわかります(日清戦争がおこるのは、この9年後)。散士は朝鮮独立党の金玉均を訪ねて談論し、朝鮮の苦境と彼の闘争史を聞きますが、これが章の大半を占めます。
 散士が帰宅して 東洋諸国を歴訪する計画をしながら 伊豆に病を養っているところへ、農商務大臣となった 谷干城(たに たてき)より手紙が届き、翌春に 政府から派遣されて欧米視察に行くので、同行しないかと。散士は エジプトに知人(幽蘭)の行方を探るのを兼ねて 同意します。こうして 谷の秘書官として 洋行に出発するところで、巻10を終わります。
 この編までが『佳人之奇遇』の「前編」と見なせます。次章からは幽蘭、紅蓮の話はあまり出てこず、もっぱら散士の行動とその政論の提示に終始するので、これを「後編」とします。


 第6編(巻の11、12)と 第7編(巻の13,14)は、巻の10の刊行から6年の時を経て、ほとんど一気に出版されました。その休みの間、散士は国会議員となって東奔西走し、とりわけ朝鮮問題に関わっていました。一応 第5編までの続編ではありますが、第6、7編では 主に 明治 19年から1年余、谷干城と共にした ヨーロッパ視察旅行の 内容が語られます。以下、「後編」の梗概は 簡潔に記します。

(巻の11) 洋行の途上、散士は香港の船上にて范卿に会います。先般、散士に 書を上げたのは范卿なりと。しかし彼は水中に没した幽蘭、紅蓮の運命を知らないので、散士は二人の無事を告げるものの、しかし現在を知らずと言います。范卿は 船が沈没した時の模様と仏艦に助けられたことを語ります。
 散士の船はアフリカに至り、エジプトと、アメリカの解放奴隷によって建国されたリベリア共和国の運命について 詳述します。またマダガスカル島の近代史と、中国の清仏戦争についても記述します。

(巻の12) 途中 セイロン島で エジプトの敗将 アラビー・パシャを訪ねたあと エジプトに着き、カイロでピラミッドに登り、夜はロードス島の館で 幽蘭に邂逅し、幽蘭の その後の動静、戦陣への父の出発を聞きます。悲恋物語は なお続いてはいるのです。散士は幽蘭に 紅蓮と范卿の無事を伝えて フィラデルフィアに戻るよう促し、幽蘭は、紅蓮に宛てた手紙を 散士に託します。

(巻の13) 散士は海南将軍(谷干城)とヨーロッパを歴訪し、ボスフォラス海峡ではロシアの一士と政情を論じて、コンスタンチノープルに上ります。ここで オスマンパシャに会って、ヨーロッパに蹂躙されるトルコの現状を知ります。ブルサを訪ね、ギリシャに遊び、各地で歴史に想いを寄せ、次いで イタリアのトリノに 老コシュートを訪ねます。

(巻の14) 散士の問いにコシュートが答えて、ヨーロッパ諸国は 極東にまで兵を送る余裕は無いが、日本国民が一団となって戦えば、条約改正はできる と言い、そして新たな脅威としての ロシアについて 情勢分析をします。世界の軍拡競争は激しく、社会の貧富の差が拡大し、ついに革命になるか? 一縷の望みは 国家社会主義の台頭か?と。
 散士はロンドンに着き、英国議会での討論を傍聴して触発され、ビルマにおける英国の悪行を この章の後半に 延々と記します。

(巻の15) 散士は ヨーロッパの帰途に アイルランドに寄ると 紅蓮に再会し、まさに女傑と言うべき紅蓮の その後の遍歴を聞き、アイルランドの自治は 今や前途に望み無しと知らされ、幽蘭から託された書状を渡します。散士は海南将軍と共に帰国し、停滞した日本の内政・外交についての憮然たる思いを綴ります。

(巻の16) 朝鮮問題に深く関与した散士は これを詳しく語り、朝鮮の王后暗殺の「閔妃(びんひ)事件 (1895) 」に連座して 広島の監獄に収監され(翌年、証拠不十分で釈放されますが)、獄中で、死刑になった朝鮮の同志 李豊栄と、暗殺された 金玉均の夢を見たところで、『佳人之奇遇』全巻の幕を閉じます。


『佳人之奇遇』の巻数と分量

 『佳人之奇遇』は、初編から第五編まで(巻1〜巻10)が、自由民権主義と才子佳人のロマンスを主とする「前編」であり、第六編から 最終の第八編まで(巻11〜巻16)が、ナショナリズム(鹿鳴館に代表される欧化主義に対しての)と 国権拡張主義の「後編」とされるのを常とします。一編の小説という観点からは、「前編」のみが高く評価されて、「後編」は やや異質なものとして、文学全集への収録を省略されたりもします。前編と後編の区切りは、巻10と巻11の出版の間に5年半もの隔たりがあることからも、ここを区切りとするのが一般的です。ところが 古書店に現れる場合は 巻8までで区切っていることが多く、ということは、昔も そのようにセットで売られていたのかもしれません。全巻の発行年を確認すると、次のようになります。

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「初編」 巻1、2  1885( 明治 18年10月 ) 32歳 博文堂 74,78ページ
「貮編」 巻3、4  1886( 明治 19年1月 ) 33歳 博文堂 88,76ページ
「三編」 巻5    1886( 明治 19年8月 )33歳 博文堂 96ページ
  〃     巻6 1887( 明治 20年2月 )34歳 博文堂 92ページ
「四編」 巻7    1887( 明治 20年12月 ) 35歳 博文堂 86ページ
  〃     巻8 1888( 明治 21年3月 )35歳 博文堂 92ページ
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「東洋之佳人」 全  1888( 明治 21年1月)  35歳 博文堂 45ページ
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「五編」 巻9    1891( 明治 24年11月 ) 38歳 博文堂 74ページ
  〃     巻10  1891( 明治 24年12月 )38歳 博文堂 96ページ
「六編」 巻11、12 1897( 明治 30年7月 ) 44歳 博文堂 86,86ページ
「七編」 巻13、14 1897( 明治 30年9月 ) 44歳 博文堂 72,76ページ
「八編」 巻15、16 1897( 明治 30年10月 ) 44歳 博文堂 82,90ページ
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 上表のページ数というのは、洋本と同じように、表紙を含めず 本文紙の片面づつを数えた場合の合計数です(ノンブルは 印刷されていません)。和本の場合は、2ページ ひとつながりで袋綴じにした「半紙」を一丁(ちょう)と言い、折り目に丁数(丁付け)が 印刷されています。40丁が 80ページになるわけです(「乱丁」「落丁」という言葉は、ここから来ています)。また、序文は 序文だけの丁数が書かれていて、見開きの挿絵には 丁数は書かれていません。上表のページ数というのは、それらも すべて数えた合計(総ページ数)です。
 現在の文庫本にすれば、各冊 30ページくらいの薄い本になります。全巻合わせて 480ページくらいになりますから、プルーストの『失われた時を求めて』の第1巻「スワン家の方へ」の半分程度の長さです。

 出版当時、前半は 大ベストセラーになりましたが、後半は そこまで 行かなかったのかもしれません。それなので 現在の古書業界でも、全 16冊揃いが出ることは 少なく、また高価です。前半8冊 +『東洋之佳人』の9冊セットが よく出陳され、価格も手頃になるので、私もそれを購入しました。一番よく売れた 初編(巻の1と2)および 弐編(巻の3と4)には再版本があり(明治19年の3月と4月)、私のものも そうです。この再版本では、挿絵の石版画が 製作され直したようで、図柄や細部が 改良されています。本文の「若干の字句の訂正」も あるようです。
 前述のように 『佳人之奇遇』の「前編」と「後編」というのは、内容的には 初編から第五編まで(巻の1〜巻の10)と、第六編から第八編まで(巻の11〜巻の16)で分けるのが順当で、また執筆時期からも そう言えますが、古書業界に 前半8冊 +『東洋之佳人』の9冊セットが多く出るというのは、出版当時の実際の販売部数が そうだったのでしょう。したがって私は、巻の8までは 所蔵する和本で読み(といっても、諸所に挿入される 漢文は困難ですが)、巻の9からは『新日本古典文学大系』で読みました。

 各編を上下2巻に分けて「袋」(封筒)に入れて販売するというのは、江戸時代からよく行われていたようです。江戸時代の『偐紫田舎源氏(にせむらさき いなか げんじ)』などにも そういう記録がありますし、『佳人之奇遇』もそうだったようです。しかし「袋」というのは残っていないのが通例です。「日本の古本屋」のサイトに、名雲書店が 珍しい袋入りの『佳人之奇遇』を出展していましたので、その画像を借りると、

佳人之奇遇
『佳人之奇遇』は、各編2巻ずつ袋に入れて売られた

 しかし、なぜ各編を2巻に分けるのか よくわかりません。2冊分でも 大した厚みではないので、十分に和綴じができますから。そのために、私も最初のうちは「編」と「巻」を混同して、いろいろ誤解をしてしまいました。
 「袋(封筒)」に入れるという意味も、よくわかりません。袋といっても、紙をぐるっとまわして 端部を貼って 筒状にしただけのものらしく、本をいじられたり 盗まれたりするのを 防ぐ目的だったのでしょうか? それであれば、店頭用のダスト・ジャケットにあたるのかもしれません。

 和本の長所は、軽くて持ちやすいことと、壊れても再製本が たやすいことです。逆に欠点は、背表紙がないので 素早く本の識別ができないことと、本棚に自立しないことです。 和本用の本棚(箱)というのは、本を寝かせて重ねて置いておくための棚、あるいは 引き出しでした。しかも背表紙がないので、数が多くなると、求める本を見出すのが面倒だったことでしょう。本を立たせるためには、何冊かまとめて、帙なり函なりに 入れねばなりません。今回の『佳人之奇遇』9冊のためには、大きな辞典の空き函に紙を貼って、本棚に自立させるための函を 特製しました。

函  函
『佳人之奇遇』9冊用の 手作りの函
本を取り出しやすくするために、函の奥行きを本より縮めた

 さて、大正12年 (1923) に起きた関東大震災で、古い和本の多くが 焼けて 失われてしまったので、現在 古書店で求められる和本の『佳人之奇遇』は、「震災」と「戦災」を生き延びてきた 貴重な古書であるわけですが、それでも もともとベストセラーとなって多くの部数が刷られていたので、稀覯本というほどではありません。
 関東大震災の2年後の大正14年 (1925) には、一巻本の『佳人之奇遇』が、創業したばかりの聚芳閣(しゅうほうかく)という出版社から「洋本」仕立てで復刊されました。和本の初編が出た時から 40年も後のことになりますが、それでも 今から百年ほど前の古書になります。布装のハードカヴァーで、定価は5円でした。日本の近代化も一応終わった大正末年、天金がほどこされ、背表紙には 金文字のタイトルが箔押しされて 函入りという、すっかりヨーロッパ風の造本ですが、本文には縦罫線入りというのが 日本的です。

佳人之奇遇
一巻本の『佳人之奇遇』大正14年 (1925) 聚芳閣(クリック詳細)

 漢字仮名交じり文の カタカナは ひらがなになり、句読点、濁点、半濁店がついたので 読みやすくなったとはいえ、その反面 漢文調の文体のままで フリガナがないので、読みやすさは相殺でしょうか。 欄外漢文評は一切無く、非常に多かった「傍点」「傍丸点」も 省略されました。校注や解説などは一切なく、本文のみです。挿絵は見開きではなく、片面に複写したものが9点だけ挿入されています。時代にあわせた ハイカラ本になりました。

物語の祖型『 東洋美人嘆 』

 『佳人之奇遇』のコンセプトの祖型をなすのは、柴四朗が 米国に留学するよりも前の明治9年 (1876) 11月24日、東京日日新聞(現在の 毎日新聞の前身)に寄稿した短編「東洋美人嘆」です。後述のように、のちに これは『佳人之奇遇』の前編と後編の間に『東洋之佳人』として書き直され、『佳人之奇遇』と同じ体裁で出版されます(単冊)。「東洋美人嘆」は 柳田泉の『政治小説研究』上巻 (1967, 春秋社)の p.365-7 に全文が再録されています。その要旨は、

東洋に 蜻和(せいわ)という 温和で美しく、行い正しい少女がいて、四周からの誘惑を はねつけていたが、西方から 貴公子(遊冶郎)が現れ、その猾才(かっさい)に欺かれて 情交にふけり、乳母の忠告をも無視して 贅沢三昧な生活を送るうちに、梅毒に冒され、容色を失い、財産を奪われ、悲歎に暮れる境涯に 陥ってしまう

という物語です。「蜻和」とは日本の寓意であり、西方の貴公子(遊冶郎)とは西洋諸国のことです。西洋化に励む日本が、日本固有の価値を放擲(ほうてき)し、西洋の毒手に侵されて 破滅の道をたどりつつあると、批判しているわけです。植民地にされてから 悲歎しても 遅いのだ と。
 東海散士 (1852-1922) のナショナリズムは、東京美術学校に西洋画科を設けず 日本画科だけにした岡倉天心 (1863-1913) の「反欧化主義」と似ていると 言えるかもしれません。二人は同時代人でした。柴四朗が谷干城とのヨーロッパ視察旅行からの帰国の年 (1887) に、東京美術学校が設立されます。この「古書の愉しみ」の第26回『茶の本』に書いたように、岡倉は

「洋化主義の風潮と真っ向から対立し、当時退潮の一途にあった日本の伝統美術の
復興を目指した」

のでした。日本美術を、蜻和のような運命にしてはならない というわけです。

 では、東海散士の『佳人之奇遇』への最終的評価は どのようになるかというと、明治文学研究の第一人者だった 柳田泉 (1894-1969) が、『明治文学全集』の第6巻「明治政治小説集 2.」『佳人之奇遇』の「解題」に書いた次の文が、要をえていると思います。(p.484)  

『佳人之奇遇』は、 「小説としては、未完成の作、然し」・・「未完成ながら 傑作は傑作と言ってよいと思う。」・・「政治嫌いの人からいえば、文壇外の傑作と言ってもらいたいところ かとも思うが、然し 文壇、非文壇をとわず、明治の青春の情熱を これほど真実に、これほど十分に、心から歌いあげた作品が ほかに あろうか。やはり無条件で(明治文学の)初期傑作の随一といって よかろう。」

『佳人之奇遇』の 文体

 『佳人之奇遇』の文体は、漢文読み下し体です。現代の日本人には いささか読みにくい文体ですが、文芸評論家の中村光夫 (1911-88) は、『日本の近代小説』 (1954, 岩波新書)の中で 次のように述べています。(p.31)

「政治小説の大きな魅力をなしたのは、その文体です。ここに用いられた いわゆる漢文くずしの文章は、その形式からいえば むろん新鮮とはいえなかったのですが、当時の青年の教養と気風にもっとも適合していたので、これらの文章の音調と抑揚は、後の口語文では ほとんど失われたリズムによって 読者を陶酔させる力を持ったのです。」

佳人之奇遇
東海散士著 『佳人之奇遇』のサンプル・ページ

 しかしながら、『佳人之奇遇』が出版されたのは 1885年〜 1897年 のことで、ジェイムズ・ファーガスンの『インドと東方の建築史』が出版されたのは、初版が 1876年で、改定増補の2巻本が 1910年ですから、ちょうど同じ時代に出版された本だと言えます。ところが両者を比べると、ファーガスンの本に書かれた英語は 現代の英語と ほとんど変わらないのに対して、『佳人之奇遇』の文体は 現代の日本語から見れば 非常に古めかしく、今の若者には 読むのが きわめて むつかしいでしょう。
 『佳人之奇遇』は ほとんど漢文体ですが、その初編が出たのと 時を同じくして書かれたのが、坪内逍遥の『小説神髄』(1885) であり、二葉亭四迷の『浮雲』(1887) で、これらによって 次第に日本語の言文一致体が確立してゆき、現在の日本語につながります。その点から言えば、『佳人之奇遇』は それ以前の 旧時代の文語体の日本語なのですが、それが当時の大ベストセラーになり、広く読まれた というのですから、当時の日本の読書人にとっては、ほとんど違和感は なかったのでしょう。

 しかし 漢文の素養がない 現代の日本人が読むには、かなり難しい。しかも 地名や人名のような 外国の固有名詞が、今だったらカタカナで表記されますが、『佳人之奇遇』では すべて漢字で表記されているので、フリガナ が無ければ 読めないものが多い。たとえば巻の一、第五丁の右ページから、アメリカ独立戦争の記述の4行ばかりを引きますので、読んでみてください(固有名詞には下線があります)。

(米民は)「百萬虎狼ノ英軍ニ抗シ兵結テ解ケサル七年慕士頓府敵ニ委シ新府継テ陥リ費都亦其蹂躙スル所トナル是ニ於テ大将華聖頓疲兵ヲ率退テ竃谿ニ陳ス時ニ天寒ク積雪千里堅氷途ニ塞リ援兵至ラス」

句読点もなく 濁点もなく、また漢字で表記されたアメリカの固有名詞が多く出てくるので、スラスラとは読めません。 現代語訳を試みれば、

(アメリカ民衆は) 「暴虐な大軍のイギリスと戦い、組織した兵団を解かざるまま7年におよび、ボストンの都を奪われ、ニューヨークもまた敵手に陥り、首都フィラデルフィアまで蹂躙されることとなった。 こうなっては ワシントン将軍は 疲弊した兵団を率いて、フォージュ渓谷に退いて 陣を結ぶほかない。 時に寒気ひとしおで、数キロにおよぶ積雪に街道をふさがれ、援軍も 到着しない。」

といったところでしょうか。 「慕士頓」はボストン、「新府」はニューヨーク、「費都」はフィラデルフィア、「華聖頓」はワシントン、「竃谿」はフォージュ・ヴァレーの漢字表記です。フリガナがなければ 読めません。
 これに対して、『佳人之奇遇』に1年遅れて明治 19年 (1886) に出版された、末広鉄腸(すえひろ てっちょう, 1843-96)の、「政治小説」と銘打った、名高い『 雪中梅(せっちゅうばい)』は 口語体に近く、はるかに読みやすい。とはいえ 言文一致体の日本語は まだ確立していず、『 雪中梅 』の文体も 今から見れば あまり「文学的」とは言えず、演説文以外は 講談・落語の口調のような印象があります。
 柴四朗は もっと格調の高い散文形式を求めて、上級武士の子として 幼時から学んで身につけていた 漢文調を選んだのでしょう。そもそも明治前半の「政治小説」というのは、矢野龍渓にしろ、東海散士にしろ、末広鉄腸にしろ、文学者あるいは 小説家を志していたわけではなく、むしろ政治に風雲の志を立て、その意見を表明するために 小説形式をとって書いたにすぎません。日本の文学・小説が もっと発展して人口に膾炙(かいしゃ)し、専門の小説家・尾崎紅葉の『金色夜叉』が新聞に連載されて大人気をとったのは 明治 30年 (1897) 、同じく 徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』は その翌年ですから、『佳人之奇遇』の初編より 10年以上 後のことです。漢文調の『佳人之奇遇』は、その出版当時の「青年の教養と気風に もっとも適合していた」のでしょうか?
 坪内逍遥は、「小説は まず人情を描くべきで、世態風俗の描写が これに次ぐ」
と論じたのですが、『佳人之奇遇』巻5の「序」には、弁護士・増島一郎が 東海散士を代弁して 次のように書いています。

「小説家の期する所は、独り趣向の巧妙をもてあそび、世態人情を描出するにあらず、これを借りて 定理定見を示し、容易に人心に貫徹せしめんとするものにして、大いに 筆墨のほかに期する所あるなり。」

「政治小説」たるの所以(ゆえん)ですが、この 前期明治文学の最高傑作のひとつとされる『佳人之奇遇』は、今の若い人たちにも読まれるように、ぜひとも現代語訳の文庫本にしてほしいものです。そうすれば、多くの読者を獲得するのでは ないでしょうか。当今の 大きめの字の文庫本にすると、全部で 480ページくらいになります。各ページに多くの註をつけ、挿絵を全部大きく入れれば、600ページくらいの 厚手の文庫本になるでしょう。小説的な前編と、政治論文的な後編の、上下2分冊にするのもよいと思います。
 現在 多数の人にとって、『佳人之奇遇』を読むには、これを収録した「文学全集」などに頼らねばなりません。註を読むのは 特に気になる所だけにして、多少理解できなくとも、ともかく全体を通読する というのも良いことです。今まで『佳人之奇遇』を収録した文学全集には、次のようなものがあります。

●『明治大正文学全集 』第1巻 「東海散士・矢野龍渓篇」(佳人之奇遇・経国美談) 昭和5年 (1930)、春陽堂書店。
●『日本現代文学全集 』第3巻「政治小説集」、「佳人之奇遇」の全録、本文のみ、註なし、中村光男・柳田泉解説、初和 40年 (1965)、講談社。
●『明治文学全集』第6巻「明治政治小説集 2.」「佳人之奇遇」巻1〜巻10、本文のみ、註なし、柳田泉解説、昭和 42年 (1967)、筑摩書房。
●『新日本古典文学大系』明治編17.「政治小説集 2.」、「佳人之奇遇」巻1〜巻10、平成 22年 (2006)、大沼敏男・中丸宣明の詳細な校注(巻11〜16 は付録で、校註なし)岩波書店。

この中では、最後の岩波書店版が 一番読みやすく、親切な編集です。近くの公共図書館で借りられますので、ぜひ挑戦してみてください。

佳人之奇遇   佳人之奇遇

『 新日本古典文学大系 明治篇 17 』2006年, 岩波書店
「 政治小説集 2 」『 佳人之奇遇 』外函とサンプル・ぺージ

『東洋之佳人』と『埃及近世史』

 東海散士は『佳人之奇遇』の第三編と第四編の間に、『東洋之佳人』と『埃及(エジプト)近世史』を書いて出版しています。『東洋之佳人』は東海散士著となっていますが、実際は 散士の同郷の後輩である 高橋太華(たいか 1863-1947)が 散士の意向を受けて筆にしたらしい。その元となったのは 前述のように、『東京日々新聞』に柴四朗が寄稿した(明治9年11月9日)『東洋美人歎』です。谷 干城が政府批判をして 農商務大臣を辞任した時に 柴もその秘書官を辞任し、静岡県の興津 清見寺に隠棲している間に、高橋太華が 稿を起こしたとされますが、もちろん その筋と構成、思想は 柴四朗によります。どういう内容かというと、

 東海散士が 田子の浦に 釣に来るが まったく釣れず、三保の松原を散策して 松の樹根に座って うたたねをする間に、松の枝に衣が掛けられていたので 手に取る。それは ひとりの仙妃が 水浴をするために掛けたもので、散士の前に現れて返却を乞う。散士は「天女の羽衣」伝説を語り、同じように仙妃の舞を求めると、仙妃は秘曲を舞う。散士が無礼を謝して立ち去ろうとすると、仙妃は自身を語り始める。「旭 (きょく)」という名の 東天の帝女に仕えていたが、自分は讒言(ざんげん)にあって下界に投じられてしまった。
 清純 美麗な 旭譲 は 破瓜(16歳)になり、世を知らざるによって、西家 富豪の 遊治郎(ゆうやろう)に誘惑されて 堕落し、かの 驕慢 不敬 薄情の 遊治郎のなすごとき 贅沢な衣装や家屋、庭園、飲食に明け暮れ、西家 陋習を真似し、天性の美質を失って 軽躁 浮薄の徒となり、仙妃の諫(いさ)めを全く聞かず、先祖の財を使い果たし、ついに 肺患を患って その容色をも失ってしまった。
 こう語った仙妃は 涙ながらに、主家の再建の手助けを 散士に乞う。同情した散士は、仙妃とともに赴こうとして 身をおこすと、これが一場の夢であったことを悟る、という話です。

 これは、アメリカ留学より帰国した散士が目にした、鹿鳴館時代の日本の堕落を 風刺した寓話です。旭という名の東天の帝女が 日本のことで、西家富豪の 遊治郎が 欧米諸国のことです。

東洋之佳人    エジプト

(左)東海散士著『東洋之佳人』扉、明治 21年 (1888)、博文堂
(右)東海散士(柴四朗)著『埃及近世史』扉(ウェブサイト より)
明治 22年 (1889)、博文堂書店と敬業社 発売
      全25章、小挿絵12点、556ページ、金属活字、定価1円50銭

 『埃及(エジプト)近世史』の方は、主にセイモア・ケイ (Seymour Keay, 1839-1909) の『エジプトの略奪 (Spoiling the Egytiens) 』(散士のいう「埃国惨状史」)をもとにしていて、その内容は『佳人之奇遇』巻6においても語られています。散士はエジプトの運命を日本の境涯に重ね合わせたのでしょう。本の内容は、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。
 アフリカ学者の藤田みどりは 著書『 アフリカ「発見」、日本におけるアフリカ像の変遷』 (2005、岩波書店)の中で 次のように、肯定的に書いています。(p.135と p.148)  

「東海散士のもう一つの著書『埃及近世史』を読めば、彼の異文化に対する理解が、人間同士の共感を根底に据えていることがわかる。これが『佳人之奇遇』を、単なる「警世の書」という域から脱して、明治のベストセラーに押し上げた要因のひとつと考えられよう。」
 「『佳人之奇遇』は、瑞々しい近代日本を象徴した書であり、同時に日清・日露戦争後に日本が辿る運命を胚胎した書でもあった。東海散士は、まだアフリカ人を同志と見ることのできた、若い日本の歴史の一瞬を駆け抜けたのである。言い換えれば、彼は日本人が民族の優越性を第三世界に振りかざす直前の、ためらいの時代の光芒であったと言えよう。」

 ところが 東海散士の研究家 高井多佳子は、論文「柴四朗の言論活動 : 政治と思想の実践」(2009) の中で、逆の見方をしています (ウェブサイト、p.113)。  

「したがって先に述べた『埃及近世史』は、エジプトへの共感をともなって書かれたものでは 決してないことも ここで明らかとなろう。このことは 第1章 第1節で指摘した、柴には敗者への共鳴、共感がみられないということと 結びつくのである。」



 東海散士(柴四朗)には、死後に出版された、もう1冊の著書があります。『世界盲人列伝』という、世界各国から集めた、295人の盲目の人たちの伝記です。亡国の会津藩士として辛酸をなめた四朗は、恵まれない境遇の中で苦難の人生を歩んだ人々への共感と称賛があったのでした。

「失明という不幸にも拘わらず、詩文や音楽、学問に傑出した人物が多いのに、伝記が散逸していて残念である。そこで自ら著した伝記が読者の心に届き 志をたて、また不幸にして失明した人の慰め、自分から努力し励もうとする助けになればよい」

として書いたものです。その 最後の 295人目は、目次によれば ヘレン・ケラーです。四朗の養子の 柴 守明が、四朗の遺稿を整理して 昭和7年 (1932) に 私家版で出版しました。(国立国会図書館のデジタル・コレクションで読めますが、「295、ヘレンクラー」は 落ちています。)

( 2022 /03/ 01 )




< 本の仕様 >
 『 佳人之奇遇 』 東海散士(柴 四朗)著、東京書林 博文堂(原田庄左衛門)発行
  和本 全16冊の内、私の架蔵8冊、「初編」〜「第四編」(巻の1〜巻の8)
  明治 18〜21年(1885〜1897)、(最終の「第八編」は 明治 30年 (1897)
 8冊の重さ 870グラム(1冊あたり 110グラムという軽さ!) 23 × 15 cm  
 藍色紙表紙の和本、康煕(こうき) 綴じ、題箋貼り付け。
 私が架蔵する8冊のうち、定価が書いてあるのは 巻8のみで、35銭とある。
 発行年度により、定価が変わったようだ。(『東洋之佳人』は 20銭とある。)


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