ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - XIX
ゾディアック

『 シトー会の美術 』

Zodiaque (ed.) :
" L'ART CISTERCIEN "
Collectiion 'La Nuit des Temps' 16, 34, Zodiaque
2e Edition 1974 (France), 1971 (Hors de France)


神谷武夫

『シトー会の美術 』
『シトー会の美術 』フランス編とヨーロッパ編

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 前回の「古書の愉しみ」に『堀辰雄全集』を紹介した折に、堀辰雄の『聖家族』を極北とする「純粋造本」が、建築ではシトー会の修道院に相当すると書きました。時折り シトー会の修道院のことを引き合いに出していますが、シトー会の修道院建築とは どんなものか 知らない人が多いことでしょう。そこで、今回の「古書の愉しみ」は、『シトー会の美術』という本を採りあげることにしました。

 シトー会の修道院というのは、何よりもまず、絵画や彫刻による装飾を拒否したことで知られています。それなのに『シトー会の美術』という題名が付くのに 奇異な感じを抱く方もいることでしょうが、シトー会に 絵画や彫刻が、まったく無いわけではありません。まあ、いわゆる立体的な(丸彫りの)彫刻というのは 殆どありませんが、堂内や回廊の柱頭部分などに多少の彫刻が見られることがあります。そして中世の修道院には、聖書をはじめとする宗教書を 一冊一冊修道士が書き写す写本室というものがあり、書物は、大勢の人目に触れるパブリックな場所よりもプライベートな所で使用されるものであるがゆえに、シトー会の写本にも 挿絵が描かれました。そうした写本芸術の彩飾画は、仏語では アンリュミニュール(Enluminure)、英語では イリューミネイション(Illumination)と呼ばれます。シトー会には、量は少ないですが、ロマネスク絵画のサンプルとなる写本を 何冊も残しています(もっともそうした装飾は、シトーの第3代修院長 スティーヴン・ハーディング(1060-1134)の死後には 厳しく禁じられてしまいますが)。

写本
『シトー会の美術 』写本の アンリュミニュール

 しかし それらよりも、建築そのものが シトー会の美術を代表するものでありました。絵画や彫刻が禁じられたからこそ、彼らの表現意欲や職人的技芸は、より強く建築に向けられたのです。それは、イスラーム建築の場合と 似たような状況であったと言えましょう。私は『イスラーム建築』の第5章「イスラーム建築の特質」の中に、次のように書きました(この本は マフィアの圧力により、どこの出版社もスクラムを組んで 出版拒否しているので、いまだに出版されていませんが)。

< 偶像の忌避 >
 イスラーム建築が幾何学性を強めた もう一つの原因は、偶像崇拝を拒否するがゆえに、建築、とりわけ宗教建築には 彫刻や絵画として表現される偶像が一切 無いことである。
 世界中どこでも、古典建築は彫刻や絵画で飾られ、その発展の舞台となったので、建築は「諸芸術の母」であると言われる。にもかかわらず、絵画や彫刻を意図的に切り捨てた建築というのは、歴史上に3種あった。シトー会の修道院、モダニズムの建築、そしてイスラーム建築 である。クリュニー会の「華美」に反旗を翻して「清貧」を唱えたシトー会のクレルヴォー修道院長であった聖ベルナールは、修道院の回廊にある柱頭彫刻群をさしてこう言う。

 「あの奇形な美、あるいは美なる奇形ともいうべき 異様な怪物たちは何ごとか。 ・・・ それほどに多様なものたちが いるあまり、人は書物よりも 石の上を より熱心に読むこととなり、神の戒めについて熟慮するよりも、これらすべてを感嘆することに 終日を費やしてしまうのである。何たることか。人がこうした愚かしさを恥じないまでも、少なくとも それらがもたらす費用を 惜しむべきである。」

 ムハンマドはマッカに帰還した時、カアバ神殿に取りつけられていたすべての「奇怪な」偶像を打ち壊し、神殿を裸の躯体にしてしまった。
 当時のマッカの市民にとって、偶像で飾られたカーバ神殿は 美の代表であったはずだから、ムハンマドの行為は 美の破壊と映ったにちがいない。もし 美というものが「華美」を意味するなら、彼の行為は 美の否定ということになるが、クリュニー会の華美を擁護した美術史家 エミール・マールに対して、近代建築家たちは むしろ無飾のシトー会修道院における「清貧」の美を支持する。そして 華美でない 清貧の美を追求するなら、裸の構造体としての建築は 幾何学的にならざるをえない。建築は、絵画や彫刻で飾られることによって美しいのではない、構造体そのもののプロポーションとリズム、細部の精巧さ、そこに構成される内部空間、それこそが建築の美であるという思想。
 イスラーム建築は、無飾の幾何形態の分割と反復によって シトー会に先んじ、近代建築の原理を 何百年も早く先取りした。そしてまた、すべてのモスクがマッカの方向に向くという点において、求心的な幾何学は 世界的規模で完結したのである。

 イスラーム建築とシトー会の建築の間に親近性があるとは、意外に思われれるでしょうか。実は このことは、『シトー会の美術』の中でも アンセルム・ディミエ (1898-1975) が触れていますので、次回にその訳文を載せようと思います。

表紙
『シトー会の美術』フランス編の表紙と内容

 さて「清貧」、そして「祈り、働け」が標語となったシトー会の発端は、モレームの修院長 ロベール(ローベルトゥス, 1027-1111)が 1098年に 21名の修道士を伴って、寂寥の地 シトー(ラテン語で キステルキウム)に行き、新修道院(ノヴム・モナステリウム)を創設したことにあります。
 「キリストに倣いて」華美を捨て、清貧に生きようとしたシトー会士たちは、生成りの白い衣を着て ベネディクトスの「会則」を忠実に守り、「完徳」をめざして 修道に励みました。建物からは一切の「不要な物」を追放し、観想の妨げとなる絵画や彫刻の無い、禁欲的な建築を求めたのです。

 ロベールのあとは アルベリック(アルベリクス)、イングランド人のスティーヴン(ステファヌス)・ハーディングが 第2代、第3代の修院長を務めて、困難な草創期のシトー会を 堅固なものにしていきました。これを大発展させたのは、貴族の出で 1113年に入会した、若きベルナール(ベルナルドゥス, 1090-1153)でした。後にクレルヴォーの修院長となって シトー会の理想を広めたばかりでなく、十字軍の勧説や深い神学思想などによって、サン・ベルナール(聖ベルナルドゥス)の名は フランスばかりか 全ヨーロッパに轟きわたります。そのために シトー会の歴史では、しばしば 聖ベルナールが シトー会の実質的な創始者であるように記述されたりもします。

 シトー会は、シトー修道院を「母修道院」(マテル・アバティア)、最初期に設立された4修道院(ラ・フェルテ、ポンティニー、モリモン、クレルヴォー)を「父修道院」(パテル・アバティア)として、各地に娘修道院を設立していきました。その数は 1119年には 12でしたが、1153年には 393を数え、ついにはヨーロッパ中に広まって、742もの多数に達しました。(母修道院と父修道院の5院は フランス革命で破壊され、ポンティニー を除いて、当時の聖堂建築はまったく残っていませんが。)

『シトー会の美術 』
『シトー会の美術 』フランス編と ヨーロッパ編 2冊
左の写真はフォッサノーヴァの修道院(イタリア)、右の平面図はル・トロネ修道院(フランス)

 さて シトー会は「聖ベネディクトゥスの会則」を忠実に守ろうとしたので、クリュニーの大修道院と同じく ベネディクト会に属しますが、華美と典礼に明け暮れたクリュニーとは正反対の立場にあったので、これら二者を、ベネディクト会の中の「クリュニー派」、「シトー派」と呼ぶこともあります。しかし今ではクリュニー会、シトー会と、独立修道会として扱うのが一般的です。
 美術史の上では、西欧の中世 宗教美術についての名著、『ヨーロッパのキリスト教美術』の冒頭において、エミール・マール (1862-1954) は 次のように書いています。(柳宗玄、荒木成子訳、岩波文庫)

 「彫刻は、・・・ クリュニーの修道院長たち、つまり聖フゴと尊者ペトルスとによって、思想を最も強力に補助するものとして採用された。彼らは、アキテーヌ、ブルゴーニュ、プロヴァンスから さらにスペインにいたるまでの地域に、彫刻を普及させたのである。これらの偉人たちに、私たちはどれだけ感謝すべきことであろう。彼らは、芸術の力を信頼したのである。聖ベルナルドゥスが彼の支配下にある聖堂から 装飾をすっかり取り払ってしまったその頃、尊者ペトルスの方は、柱頭を刻ませ ティンパヌムを彫らせたのだった。簡素と厳しさとを熱心に説いた あの聖ベルナルドゥスの雄弁をもってしても、美は危険なものだということを ペトルスに納得させるにはいたらなかったのである。彼は、それとは逆に、聖オドも言ったように、美は天国を予感させるものであると考えたのだった。芸術愛は、クリュニーの偉大さの一つをなすものであった。クリュニーは、それほど芸術を大切にしたのである。この本の中で、私たちは、クリュニーという あのすばらしい そして憂鬱な名を 絶えず繰り返すことになるだろう。」

 つまり、絵画や彫刻が極度に少ないシトー会の美術は、通常の美術史家にとっては 興味の外だったわけで、古い美術史の書物では、シトー会の修道院は ほとんど語られることがありませんでした。

 このシトー会の美術、とりわけ建築が 人々から見直されるようになったきっかけは、1940年代にマルセル・オベールその他によって研究書が出始めたにせよ、1956年に出版された 1冊の写真集だった、と言うこともできるでしょう。
 近代建築の闘将、ル・コルビュジエ (1887-1965) は 1952年に、リヨンの近くの ラ・トゥーレットの修道院の設計を依頼されました。その修院長の希望で、ル・コルビュジエは南仏の(シトー会の)ル・トロネ修道院を一日訪れましたが、その時に 彼の作品の撮影をしていた写真家で、彼が「建築家の魂を持った写真家」と呼んだ リュシアン・エルヴェ (Lucien Hervé 1910-2007) を伴いました。
 実はその日、ル・コルビュジエは ル・トロネを それほど高く評価しなかったらしいのですが、写真家のほうは これに熱中してしまい、その後も撮影に通って、4年後の 1956年に ル・トロネの写真集を出版してしまいました。その題名は『世界で最も偉大な冒険』(La Plus Grande Aventure du Monde)というものでした(翌年、イギリスとアメリカで出版された英語版の題名は『真実の建築』(Architecture of Truth)となりましたが)。私のところにあるのは、2001年に復刊された英語版(Phaidon Press)ですが、その写真を見ていった時に まっさきに思い出したのは、石本泰博 (1921-2012) の写真集『桂』(1960 造型社)でした。これらの写真集を通じて、フランスでは ル・トロネに近代建築の原型を見、日本では 桂や伊勢にそれを見たのでしょう。二人の写真家の 近代的な切り口による 古典建築のモノクロの映像は、たいそう似ているように思えます。

ル・トロネ
リュシアン・エルヴェの写真集『真実の建築』

ヨーロッパの近代建築家たちは リュシアン・エルヴェの写真集を通じて、近代建築と同じように装飾を排除した ル・トロネ修道院の、いわば「純粋建築」に魅了されたのでしょう。シトー会の建築は、一気に人々の関心を集めました。
 おそらく この写真集に触発されたのでしょう、フランスの建築家 フェルナン・プイヨン (Fernand Pouillon 1912-86) は その6年後の 1962年に、小説『粗い石』(Les Pierres Sauvages、邦訳 1973、文和書房)を書いて 出版しました。これは ル・トロネの修道士 建築家の回想録の形をとった ル・トロネの建設記録とその内面の葛藤を描いています。その深い精神性と、建築家の原型のような修道士 建築家の姿が、人々の心を打ちました。
 これと同年の 1962年に出版されたのが、今回紹介する『シトー会の美術』(ラール・システルシアン)です。これは 必ずしも建築の本ではなく(といっても 建築が中心になりますが)、ロマネスク美術を 地方ごとに採りあげて、見事な写真と解説で紹介するシリーズの一冊です。20世紀の後半に、細々と、しかし 延々と出し続け、フランスからヨーロッパ全体まで範囲を広げて 88巻に及ぶことになりますが、その 16巻目に、早くも シトー会の修道院を採りあげたのでした。これはフランス編でしたので、1971年には 続編としてのヨーロッパ編が出版されました。実によく編集された この2冊は、その詳しさと写真の素晴らしさと合わせて、シトー会美術を愛する人たちのバイブルとも言えましょう。

表紙
『シトー会の美術』ヨーロッパ編の表紙と内容

 この本を最初に日本に紹介したのは 加藤周一 (1919 -2008) です。フランス生活が長かった加藤は、早くからシトー会の建築に関心を抱いていて この本を所蔵していたらしく、朝日新聞に連載していた『言葉と人間』の中に「詩的幾何学 または「シトー派の美術」の事」と題する文で、次のように書きました。 (朝日新聞 1975年6月13日 夕刊)

「12世紀前半のフランスに、いわゆるシトー (Citeaux) 派の教団が興った。その僧院建築は、ロマネスク様式の発展史のなかで全く画期的であり、ほとんど 20世紀前半の「バウハウス」の出現を思わせる。文献は少なからず、そのなかで素人に手ごろな案内書の一つは、ロマネスク美術の叢書の一冊として、ディミエ神父編『シトー派美術 (Père M. Dimier et al.: L’Art Cistercien. Zodiaque 1962) 』であろう。その派の歴史と美術を概説し、今日フランス各地に残る代表的な僧院を詳説して、写真集を兼ねる。」

「彼らの反芸術主義は、その建築から装飾を奪ったが、構造的な美を除くことはできなかった。ーー というよりも、その石の壁と柱、アーチと窓、階段と床の作る空間の、整然として合理的な秩序は、また同時に、いうべからざる甘美なつり合いを作り出していた。そこでは すべての線と平面がうたい、幾何学が詩と化し、建築が音楽になった。今も われわれの眼前にあって、疑うべからざるものは、その詩的幾何学である。
しかしその他に 建築の理想というものがあり得るのだろうか。装飾的なるもの、その合理的秩序が同時に精神と心の感覚的表現に他ならぬもの。詩人ヴァレリーは、古典ギリシアの建築の裡に、建築家「エウパリノス」の恋人の肖像さえも見ていたらしい。グロピウスが「バウハウス」について言ったことの要点もまた、「バウハウス」が決して単なる機能主義ではなく、機能的であると同時に詩的な「形」を作り出すための運動であった、ということである。」

「もし すべての現代建築が「バウハウス」から始まったとすれば、現代の眼は、シトー派僧院を再発見せずには いなかったはずであろう。たしかに シトー派およびその教義の表現としての僧院建築の歴史的な意味は、まことに大きい。それこそは われわれの知的関心である。しかし林のなかに静まりかえった八百年まえの僧院のなかに歩み入ったときに、われわれを襲う激しい感動は、まさに われわれの時代の感覚的与件に他ならない。」 

これは 近代建築との親縁性に限ってシトー会の修道院を性格づけているので、まことに解りやすい。とはいえ、これを読んで 日本の多くの人がフランスから この本を取り寄せたとも思えないので、一般の人にシトー会の美術が浸透したわけでもありません。もっぱら建築家、それも精神的なものを重視する建築家だけが、ル・トロネ修道院などを訪ねて 感動して帰ってきたのでした。しかし、1980年代にはいると、饗庭孝男氏のような文学者たちが ロマネスク建築に魅入られ、シトー会の修道院建築についても文を書くようになって、少しづつ 一般読書人にも愛好者が増えていったようです。

ル・トロネ
『シトー会の美術』より、ル・トロネ修道院

 それに伴って「ゾディアック叢書」も、ずいぶんと知られるようになりました。ヨーロッパに旅行した折に 何冊か買ってきた人もいることでしょうが、しかし 88巻の全容を知る人は 殆どいないので、いつか この「古書の愉しみ」で、一挙に紹介しようかとも思っています。ただ、「ゾディアック叢書」というのは、本当は 正しい呼び名ではありません。文学の「プレイヤード叢書」を、出版社の名で「ガリマール叢書」と呼んでしまうようなものだからです。

 ゾディアックというのは、フランスのサント・マリ・ド・ラ・ピエール・キ・ヴィール修道院の中に設けられた 出版・印刷工房の名前で、ゾディアック出版所(Editions Zodiaque)といいます。ここから いくつもの宗教美術に関する本のシリーズが出版されましたが、その中心となる 最も名高いシリーズが、前述の、地域ごとのロマネスク美術シリーズであって、これは当初から「ラ・ニュイ・デ・タン叢書」(Collection de la Nuit des Temps)と名付けられました。ラ・ニュイ・デ・タンというのは、「太古の時代」あるいは「蒼茫たる太古」といった意味です。おそらく、ロマネスクというのが、ヨーロッパ文化の 曙(あけぼの)の時代なので、そう名付けられたのでしょうが、なかなか日本語には訳しにくいので、これを日本では「ゾディアック叢書」と呼ぶようになりました。
 本サイトでもそれを踏襲していますが、ゾディアックでは他にも本を出していることを示すために、シトー会の修道院に関するものだけを下に掲げておきましょう。

プロヴァンス

『プロヴァンスの三姉妹』 クロード・ジャン・ネミー著、1979年、ゾディアック
ペーパーバック、74ページ、写真50ページ、「レ・トラヴォー・デ・ムワ」シリーズの1冊
南仏プロヴァンス地方に、互いによく似たシトー会の修道院が3院ある。
ル・トロネ、セナンク、シルヴァカーヌである。これを「プロヴァンスの三姉妹」と呼ぶ。

ヨーロッパ

レ・フォルム・ド・ラ・ニュイ叢書 10.
『シトー会のヨーロッパ』 テリー・N・キンダー著、2002年、ゾディアック
30cm×23.5cmの大型本、405ページ、写真は約半数がカラー。
ヨーロッパ全体のシトー会修道院を視野にいれながら、
種々の局面から修道院と修道生活を考察する。

フォントネー

『フォントネーの神秘』 ジャン・パチスト・オーベルジェ著、クロード・ソヴァージョ写真、
1997年、ゾディアック、29cm×20cm、176ページ、写真の約半数はカラー
ブルゴーニュ地方の フォントネー修道院を、歴史、施設案内と、丁寧に叙述する。

セナンク

『セナンク修道院』 エレーヌ・モラン・ソスヴァードとカルステン・フライシャウアー著、
クロード・ソヴァージョ写真、2001年、ゾディアック、224ページ、写真(ほとんどカラー)117枚
プロヴァンスの三姉妹のうち、セナンクの修道院を扱う。

 「ゾディアック叢書」の本の大きさは 22cm× 17cmですから、大型本ではなく、A5判と B5判の中間といったところです。写真を主体とする建築書は大型本が多いのですが、それらは大きくて重く、扱いづらいので、昔からあまり好きではありませんでした。私には この叢書の大きさが 大変好ましく感じられます。
 『シトー会の美術』のフランス編は 379ページのうち、152ページがモノクロ写真で、カラー写真は 6ページが挿入されています。詳しく扱われる修道院は、フランス編では 13院で、次の通りです。

フォントネー、 レスカル・デュー、 セナンク、 シルヴァネ
レオンセル、 オバジーヌ、 ル・トロネ、 エグベル、 フォンフルワード
ヌワールラック、 ポンティニー、 フララン、 シルヴァカーヌ

 これらの次に重要な 36院は、写真なしで、概要のみが(時には平面図が添えられて)与えられています。本文はフランス語ですが、巻末に英語と独語のレジュメが付されているので、仏語が不得手な向きには有益でしょう。
 ヨーロッパ編で詳しく扱われる修道院は、次の 10院です。

ファウンテンズ(イギリス)ボンモン(スイス)エーバー バッハ(ドイツ)
ポブレト(スペイン)ビルドワス(イギリス)グラデフェス(スペイン)
フォッサノーヴァ(イタリア)カザマリ(イタリア)
サンテス・クレウス(スペイン)アルコバーサ(ポルトガル)

 「ゾディアック叢書」の『シトー会の美術』の出版以後、シトー会の修道院はずいぶんと有名になり、さまざまな出版社から 本が出版されてきました。ゾディアックの『シトー会の美術』よりもずっと大型で カラー写真が満載の本も出ていますが、私にとっては この『シトー会の美術』が最も貴重な本で、特にヘリオ・グラヴュールによるモノクロ写真の印刷は 本当に素晴らしいものです。実は 1978年にこの本を購入してから、フランス語の勉強を兼ねて、一通り翻訳をしました。ところが、まだ これを推敲する前に、次第に『イスラムの建築文化』の翻訳にシフトしてしまいましたので、翻訳草稿は机の中に仕舞われたままに なってしまいました。今後も 私の本は マフィアの圧力で出版されませんので、この機会に 総論部分だけでも、次回の「古書の愉しみ」で HP上に公開しておこうかと思っています。

( 2013 /11/ 01 )



< 本の仕様 >
 "L'ART CISTERCIEN" by Anselme Dimier ゾディアック叢書 16, 34 『シトー会の美術』
  Zodiaque, éditée a l'Abbaye Sainte-Marie de la Pierre-qui-Vire, Yonne
  photographié par P. Belzeaux, G. Franceschi et Zodiaque.
  France (La Nuit des Temps 16.) 2e Edition, 1974, (1re Edition 1962, 3e 1982)
  Hors de France (Collection La Nuit des Temps 34.) 1re Edition, 1971
   サン・レジェ・ヴォバン(ヨンヌ県)、サント・マリ・ド・ラ・ピエール・キ・ヴィール修道院編
   アンセルム・ディミエ著(「シトー会の彩色写本」の章のみ ジャン・ポルシェ著)
   フランス編 1984年、22cm x 17cm x 3.5cm、379ページ (map 4pp., plan 26pp.)
    写真は、カラー 6ページと モノクロ 152ページ。
   ヨーロッパ編 1971年、22cm x 17cm x 3cm、325ページ (map 5pp., plan 21pp.)
    写真は、カラー 8ページと モノクロ 131ページ。
   白の布製本、カラー写真のジャケットつき。重量:2冊で 1.7kg。フランス語



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