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中庭の魅力 ・ クロイスター
世界の都市を見て歩くと、古い建物と新しい建物とが調和しながら 美しい街並みを作っていることに しばしば感動する。 そうした都市景観を作ることに 日本の近代は失敗してしまったからである。 そしてもうひとつ、私が外国で心をとらえられるのは、そうした街並みから一歩奥へ入った時に出会う 「中庭」 である。
日本には小さな 「坪庭」 という概念はあっても、建物で囲みながら、それ独自の高度な形式感をもった中庭というものを作ってこなかった。 庭というのは 建物の周囲にあって、襖や障子を開け放てば 室内と一体化する、緑豊かな外回りの空間、という思い込みがある。 しかし私が感銘をうける中庭というのは、建物を建てたあとに残る 敷地の残余スペースではなく、建物に囲まれた内側にあり、周囲の建物は むしろその中庭の存在感を際立たせるために存在しているのではないか と思わせるほどに 明確な形式と形態をもった庭である。
それは多く回廊で囲まれ、その回廊自体が雨や日差しを防ぐ 陰影のある半外部空間となり、そこから眺める明るい中庭の緑が いっそう美しい。 外の世界と切り離された、静寂に満ちたこの中庭にたたずむ時、それが人間の心の深い部分に 安らぎを与えてくれる空間であることに気づくのである。
サン・ペドロ教会のクロイスター、エステーヤ
そうした中庭の代表が、ヨーロッパの修道院建築における クロイスターだと言えよう。 クロイスターというのは 「閉ざされた場所」 を意味するラテン語に由来し、修道院の 「囲われた庭」 をさすが、中庭を囲む回廊のことをさすこともあり、また俗世間から隔離された領域としての 修道院自体をそう呼ぶこともある。 ヨーロッパに旅行する時、私はいつもクロイスターをさがして訪ねるのであるが、しかしルネサンス以後のものは 回廊の柱が細く、スパンが大きく、全体が軽快になりすぎて面白くない。
クロイスターは やはり中世、それも 11〜12世紀のロマネスクのものが 最も深い感動を与えてくれる。 フランスのムワサックやル・ピュイなどが とりわけ有名であるが、ヨーロッパにはロマネスクのクロイスターだけで 優に百を超える数があり、そのどれもが美しく、訪れる人の心を洗い清めてくれるように存在する。
そうした修道院の中庭のようなたたずまいを 住宅に取り入れようとして設計したのが 「クロイスター」 と名づけた名古屋の住宅である。
「クロイスター」 の中庭
中庭の魅力 ・ アトリウムとパティオ
中世ヨーロッパにおける クロイスターの魅力について前回書いたが、そのクロイスターの源流としては 2種の中庭が考えられる。 ひとつは古代ローマ時代の住宅の中庭であって、これはアトリウムと呼ばれた。 時には天窓から採光する広間となり、それが現代の公共建築にしばしば作られる 「アトリウム」 の起源である。 しかしポンペイの遺跡を訪ねれば、屋根のない中庭としての アトリウムのある住宅を 多く見ることができよう。
もうひとつは中東の住宅の中庭であって、これはパティオと呼ばれる。 もともと中東の砂漠地域では、自然は人間を優しく包み込むものではなく、暑い日差しや熱風、砂嵐など、むしろ人間と敵対する 恐ろしい存在であった。 そこで人間にとっての快適な空間を得るには、周囲の自然から守るべく 壁や塀で囲まれた庭を造る必要があった。
水が引かれて木々や花々が育ち、涼しい日陰のある 「囲われた庭園」、これを古代ペルシアでは パイリダエーザと呼んだが、これが英語の パラダイス (楽園) の語源となったのである。
イスラムの建築や庭園はこの理念を受けつぎ、外部から見た形の美しさよりも、内部に囲み取られた空間を できる限り快適なものにしようとした。 『コーラン』 には 敬虔な信者を待ち受ける天上の楽園が繰り返し語られているが、イスラム庭園と建築の理想は その天上の楽園を地上に実現することだったのである。
ライオンのパティオの回廊、アルハンブラ宮殿、グラナダ
そうした中東の建築や庭園のあり方は イスラム教とともに、砂漠でもない スペインのアンダルシア地方にまで伝えられた。 グラナダやセビーリアの町を歩くと、塀で囲まれた家々の格子状の門扉から、美しい中庭が垣間見られて、庭を中心にした豊かな生活が想像される。 その最も華麗なものが、14世紀に建てられた グラナダのアルハンブラ宮殿である。 細い柱群の立ち並ぶ回廊で囲まれ、四方の部屋から流れる水路が 中央の噴水へと集まる 「ライオンのパティオ」 は、一日中 ここに座りこんでいても飽きないほどの 快適な中庭空間である。
そうした 「囲われた庭」 としてのパラダイスを 現代の別荘建築に適用したのが、木更津の 『パラダイス・ガーデン』 であった。 しかしここは区画整理がなされた時に、道路を作るために取り壊されてしまい、今では 「幻の楽園」 となってしまった。
木更津の別荘、「パラダイス・ガーデン」
内向きの建築 と 外向きの建築
中庭型の住居が古くから発展したのは中東地域であった。 前回書いたように、砂漠的風土にあっては、庭は建物の周囲に広がるよりも、逆に塀や建物で囲まれる必要があったからである。 そのことが 宮殿や宗教建築などにも適用され、それらのモニュメンタリティーは 外観よりも中庭において表現された。 中東におけるイスラム教のモスク建築は そうした性格を受け継ぎ、しばしば街並みの中に埋もれてしまっていて、その外観というものが ほとんど見られないことがある。 わずかに道路に面しているファサードの入り口を入り、奥へと進んで行くとはじめて 中庭を囲んで整然とした外部空間が現れるのである。
ペルシア (現在のイラン) のモスクはその代表で、長方形の中庭を囲む四辺の各中央に大きなイーワーンを設けた 「四イーワーン型」 モスクとなる。 イーワーンというのは、尖頭アーチ形の大開口の周囲を四角く枠取りし、アーチの内側に ヴォールト天井の半外部空間を備えた建築要素である。 四つのイーワーンが向かい合うこの中庭が、モスクの中で最も美しく快適な空間となる。 中庭の中央には泉があり、礼拝室に入る前に身体を清めるという実用的な目的と共に、楽園としての中庭のシンボルともなっている。
金曜モスクの中庭で向かい合うイーワーン、ヤズド
一方、インドにイスラム建築がもたらされるのは 13世紀で、それはペルシアから伝えられた。 ところがペルシアの 「四イーワーン型」 モスク形式が インドでそのとおりに建てられることはほとんどなかった。 雨季と乾季があり、変化に富んだ自然をもつインドでは、四つのイーワーンが向かい合う中庭形式を最も快適とは感じなかったようなのである。
中庭の形式ばかりが強調されて、外観というものが可視的でない 「内向き」 の建築は、インド人には馴染みにくかった。 イスラム建築が輸入される以前、千年以上にわたってインドで発展させられてきたのは、外側から見たときに魅力的な全体像と、優美で繊細な細部彫刻を見せる 「外向き」 の建築だったのである。 そこで、ペルシアの四イーワーン型のモスクは インド的な変容を遂げることとなった。
すなわち、礼拝室を中庭の中で独立した建物のように扱うモスクであり、さらに、建物が中庭を囲むのではなく、逆に広い幾何学庭園の中央に 建物を配置しようとする願望である。 それがインド人にとっては 快適な建築と庭園の構成なのであった。
現代の囲われた庭、「ライラック・ハウス」
カシュミールのムガル庭園
インドにイスラム建築がもたらされたのは 13世紀初めであった。 デリーを首都とし、350年間にわたって継起した 「デリーのスルタン朝」 の間に、インドの建築家や職人たちは 外来のイスラム建築の技法を身につけ、それまでインドにはなかった アーチやドームを駆使した石造建築を各地に作り上げていった。 しかしこの間、幾何学的なイスラム庭園はあまり造られなかった。
もちろんインドにも庭園はあったろう。 古代の叙事詩 『ラーマーヤナ』 や 『マハーバーラタ』 に庭園や植物の描写は数多い。 しかしインドにはペルシアの 「四分庭園 (チャハルバーグ)」 のような 形式感の整った庭園構成はなく、日本と同じように 自然の状態に近い庭園が主であったらしい。 自然と対峙するような幾何学庭園には 抵抗感があったかもしれない。
そのイスラム庭園をインドに根付かせ発展させたのは、近世のムガル朝であった。 とりわけ 初代皇帝のバーブルは庭園を好み、自ら作庭の指揮をとった。 3代目の皇帝アクバルは領土を拡げて安定したムガル帝国を打ち立てると、夏は酷熱のデリーを逃れて、北のカシュミールに 「快適さ」 を求めて避暑に出かけるようになる。 以後、代々の皇帝や高官は夏ごとにカシュミールに出かけては中心地のシュリーナガルその他に ムガル庭園を作っていった。
ニシャート庭園、シュリーナガル
ダル湖のほとりのシャーラマール庭園などは その構成の基本を四分庭園としたが、ここは中東の砂漠ではない。 水と緑の樹々にあふれる涼しい山間の地に、四分庭園は建物に囲まれるのではなく、雄大に広がって それぞれの中央に園亭を建てた。 これは まさに砂漠の民が夢見た 「天上の楽園」 だったのである。
私が初めてシュリーナガルに行ったのは、もう 25年も前の 4月で、インドでは夏の始まり、ムガル庭園は避暑客でにぎわっていた。 ところがその後カシュミール紛争が始まって 入域がむずかしくなり、やっと再訪することができた時には 庭園に雑草が生え、人けなく静まり返っていた。 私は 1週間、ダル湖に浮かぶハウスボートのホテルに泊まって、毎日周囲の庭園や近郊の寺院を訪ねてまわった。
ハウスボートは、バスルームつきのツインベッド・ルームが 4室ぐらいと 居間・食堂とからなり、居間の先には湖に面したデッキがある。 朝、目覚めるとまず繊細な木彫で飾られたデッキに出て 椅子に座ると、周囲には澄んだ水の水面が広がり、対岸には森と、頂部に雪を頂いた山々が望まれ、これほどに快適なホテルは 世界にまたとないのではないかと思われた。
ハウスボートのデッキ、ダル湖 (シュリーナガル)
インドの親水空間
インドの庭園を代表するのはムガル庭園であって、それは基本的に イスラムから伝来した四分庭園に基づいていた。 では インドでそれに匹敵する 伝統的な外部空間は何であったかというと、それは庭園であるよりは 「水辺の空間」 であったと言えよう。 雨の降らない乾季が長く続くインド平原にとって、水は生命の源であり、それゆえに神性の宿る場所でもある。 ヒンドゥ教の聖地は常に川や湖、海などの水辺にあり、宗教的な聖地や巡礼地のことを ティールタと呼んだ。 その原義は 「川の浅瀬」 ということであって、苦難に満ちた現世から 浄土としての来世への渡し場という意味合いがこめられている。
水辺の近くには寺院が建てられるばかりでなく、水辺そのものが宗教空間であるので、そこを石造の建築と同じように荘厳するのが 習いである。 聖なるガンジス河の ほとりにあるバナーラスの町では、河沿いに石造のガート (階段岸) が並び、人々は毎朝この階段から河に入って沐浴をし、また聖なる水を口にする。 ガートのテラスでは 説教をする僧たちや 瞑想にふける修行者たちが傘の下に座っている。
人造湖のガートとパビリオン、ラージャサマンド
一方、ペルシアの四分庭園における水路は、庭園を灌漑して花や果樹を育てるとともに、流れる水と噴水が 部屋と中庭に冷房効果をもたらす効用があった。 これに対してインドでは、もっと直接に人間と水とが触れ合うこと、すなわち沐浴が重視される。 聖なる水で体を清めることには 宗教的な意味あいとともに、入浴にかわる実用的意味もあった。
ペルシアの砂漠では、山地から はるばると カナートと呼ばれる地下水路で水を引くことが行われたが、雨季のあるインドでは その雨水をためておく貯水槽や、地下水を汲み上げる井戸が実用的であり、そうした池や井戸をも 水辺空間として建築的に荘厳したのである。
インド各地に見られる、地下建築としての階段池 (クンダ) や階段井戸 (バーオリ、ステップウェル) の壮麗な姿には 驚かざるをえない。 そうした階段池や階段井戸では、どんな水位の時にも水面まで降りていけるように、水底まで モニュメンタルな石の階段が続いているだけでなく、しばしばその周囲に地下室が設けられる。 窓から水面を見下ろす、このヒンヤリとした地下空間は、地上の炎暑を忘れさせる、インドで最良の快適空間だったのである。
地下7層のクンダ (階段池)、アーバーネリー
ラーナクプルのアーディナータ寺院
インドで階段井戸 (ステップウェル) や階段池 (クンダ) が最も発達した地は、背後に広大なタール砂漠をかかえて乾燥した 西インドであった。 それらは階段やテラス、上階を支えるための柱や梁などが石で作られ、そこには神像や唐草模様、幾何学紋などが彫刻されていて、華麗な寺院建築と まったく同じ技法の 「石造建築」 となっている。 井戸や貯水池というのは 日本では土木の領域に分類されるところだが、昔のインドでは 両者の間にまったく区別がなく、等しく宗教建築空間として造営された。
けれどもヒンドゥ寺院というのは 基本的に 「神の家」 として構想されていて、しかもヒンドゥは基本的に集団礼拝というものを行わないので、寺院の外観は華やかであっても 内部空間にはあまり広がりというものがない。 したがって近代建築が求めたような 「空間性」 は寺院建築よりも、むしろ階段井戸や階段池のような地下空間において発揮されたのである。 それらは地上に外観というものがなく、ひたすら地下に掘り下げられて作られたから、あたかもイスラム建築におけるように、彫刻的な外観よりも 内部空間 (ここでは半外部空間だが) の充実が目標となっていたからである。
アーディナータ寺院の西ランガ・マンダパ、ラーナクプル
しかし西インドには、地上の建物でありながら それら地下建築と同じように豊かな内部空間をもった寺院建築も存在している。 それはジャイナ教という、日本にはあまり知られていない宗教の寺院である。 仏教と同じか それよりも古い歴史をもつこの宗教は、元来無神論であったので、寺院の理念は 「神の家」 ではなく、24人の聖人 (ティールタンカラ、祖師) が教えを説く説教場であった。
教えは世界に向かって説かれるゆえに、本尊を祀る中央祠堂は四面に開かれ、内部空間が四方に向かって伸び広がる マンダラ的なプランを作った。 さらに中央祠堂の周囲には、高くドーム天井のかかった拝堂 (マンダパ) 群が連なり、そのいたる所に彫刻がほどこされて、しかもそのすべてが白大理石で作られているので、あたかも浄土の空間を現前させたような 見事な建築空間を実現させた。
その代表作である ラーナクプルのアーディナータ寺院は マンダラ的なプランのために回遊性をもっていて、その変化に富んだ内部をめぐり歩き、たたずみ、彫刻に眺めいるのは、インド建築の豊富な遺産の中でも、とりわけ快適な体験を与えてくれるものといえよう。
アーディナータ寺院の西ランガ・マンダパ、天井見上げ
< 追補 >
ウールファザッシのクンダ (階段池)
インドの階段池 (クンダ) や階段井戸 (ステップウェル) は西インドに最も多く、造形的にも素晴らしい。 しかし南インドにも階段池が各地に作られていることは あまり知られていない。 ただ、それらは水面の面積が大きいのに比して 深さがあまりないので、西インドほどに 「空間」 を感じさせないし、また小祠堂群が併設されていることが稀なので、建築的魅力に乏しいからである。
その中ではカルナータカ州の フリーケーレにある (はずの) 12世紀のクンダが、西インドのものに負けずに 壮麗なものとなっている。 “Encyclopaedia of Indian Temple Architecture” には考古局による修復前の、かなり崩壊した写真が載せられているが、S・セッターによる “The Hoysala Temples” には 修復後の、実に立派なクンダの写真が掲載されている。 西インドのモデラーのクンダと同じように、修復後は防水が破れて 水が溜まらなくなってしまったようだが、南インドのクンダの代表として、これは是非訪ねてきたいと思っていた。
この春に南インドに旅した折に、ホイサラ建築の見残していた寺院群を訪ねると共に、やっとこのフリーケーレ村まで行くことができた。 ところが この村に着いてみると、そのようなクンダはおろか、歴史的な建造物は何もないと、長老たちの話である。
唖然として、近くの町 チカマガルールへ行って 夜まで調べてまわったが、このクンダのことは誰も知らない。 そこでマイソールに着いてから 市の考古部局を訪ねて調査したのだが、何と ここの所長も このクンダの存在を知らないのである。 部局内の図書室で A.S.I. とセッターの本を見つけて その写真を示したが、国の考古局と市の考古部局とは連携がないらしく、また学者が 「勝手に」 調査して書いた本など関わりなし、といった態度である。
とうとうフリーケーレのクンダは 私にとって 「幻のクンダ」 となってしまい、真の所在地も確認できずに終わってしまった。
ウールファザッシのヴェッタイコールマカン寺院に付属する階段池
今回の旅の主目的地は、むしろケーララ州であった。 この地方のヒンドゥ寺院は以前も異教徒に対して排他的であったが、近年のヒンドゥ至上主義の高まりのために 一層排他的となり、ルンギだけをまとった姿になっても 寺院境内への立ち入りを拒まれることが多く、ずいぶんと不便な思いをした。
ケーララ州は年間雨量が多いので、ベンガル地方と同じように水田が多く、川や運河、そして灌漑用の池が豊富にある。 ほとんどの寺院もまた沐浴池を併設していて、それらは満々と水をたたえている。 しかし建築的な興味を引くものは少ない。 上述のように広くて浅い水面であることと、周囲の浅い階段部のほとんどがラテライト (紅土) で作られていることによる。 ラテライトは安価であるが 気泡が多く汚れやすいので、見栄えがしないのである。
そうした中で、ウールファザッシのクンダに行き着いた時には 息を呑んだ。 西インドと同じように十分な深さをもち、周囲が完全に階段で囲まれている。 広場側からは 大階段がゆるい勾配で水面に降り、池の周囲は 直角方向の階段を組み合わせた急勾配の階段で囲まれている。 寺院の側からは 幅広の中階段が降りていて、その中央に瓦屋根の あずまや が建っているのも珍しい。 ケーララ州のクンダをすべて見たわけではないが、おそらくは これが最も造形的に見事な作例だろう。
あずまや には神像が置かれていないから 祠堂ではないらしく、水辺の休憩所として使用されたものだろうか。 不思議なのは水面の低さで、他のクンダのように満水にならないのは、オーバーフローの装置でも設けられているのかもしれない。
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