TRAVEL TO HIMACHAL PRADESH 1
パングナドゥルガー寺院

神谷武夫


パングナの寺院塔(ドゥルガー寺院)

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ヒマーチャル・プラデシュ 一周の旅

 3年ぶりに北インドのヒマーチャル・プラデシュ州を旅してきた。一般にインドの旅行シーズンは乾季の 11月から 3月であるが、ヒマラヤの高地は 逆に雨季の6月から 10月でないと旅ができない。冬は豪雪で峠が閉ざされてしまうので、現地へ行くこと自体が困難になるからである。
 今回は9月に、今まで行くことのできなかったところを最大限回ってくることとし、州都シムラでジープと運転手を 12日間やとった。兄弟の運転手が交互に運転して、標高 1,000〜4,500mの州内をぐるりと一周したわけだが、走行距離は全部で 2,250kmに及んだ。ここに連載するのはその記録で、特に偉大な建築とはいえないが、通常のインドのイメージとは異なった、知られざるヒマラヤの木造建築の紹介である。


ヒマ-チャル・プラデシュ州の位置(詳細地図は ここをクリック

 10年前から行き始めたヒマーチャル地方は今回が4回目なので、サラハンやスングラなど、よく知っている所はほとんど省略し、なるべく未知の(ということは 行き難い)所を訪ねた。悪路をジープで走り続ける上に、さらに山道をトレッキングして寺院を訪ねることも多く、疲労困憊の 12日間であった。

スピティ地方の山上のダンカル・ゴンパ

 州を一周するルートというのは、高地側では一筋しかない。マナーリから標高 3,990mのロータン峠を越えてラホール地方に入り、次いで 4,550mのクンズム峠を越えてスピティ地方のカザへ行き、タボ・ゴンパを過ぎてキンノール地方をレコンピオまで行くルートである。ここからシムラへ最短なのはサトレジ川沿いの街道で、以上のルートを「ナショナル・ハイウェイ」と称している。
 ハイウェイといっても全部舗装されているわけではなく、悪路、難路の続出であるから、スピードは平均時速 25kmぐらいしか出ない。そして、雨季には雨によってしばしば土砂が崩れ、一車線の幅しかないハイウェイが毎日どこかで崩壊している。PWD(公共事業省)が修理に当たるものの、崩壊の度合いがひどいと 修復に何日もかかる。ルートは一筋しかないから、その間、車は待つほかない。
 昨年の夏にはキンノール地方の橋が押し流されて、何ヵ月間もルートが不通になったらしい。したがって運が悪ければ一周できずに、不通個所から何日もかけて戻ってこなければならない。幸い、今年の雨季は雨量が少なく、予定期間内で一周することができた。しかしながら、ヒマラヤの道路がどんなに不安定であるかは、ジープ・サファリの初日に こっぴどく体験することになった。


ジャローリ峠の難

 シムラを出発してルーリから山奥に分け入り、標高 3,223mのジャローリ峠を越えて ショージャのレストハウスに一泊する、というのが初日の旅程だった。ところがアニの村を越えた夜の7時頃に突然雷雨となり、ジャローリ峠の手前 10kmくらいの所で、土砂崩れによって道路がふさがれているのにぶつかった。
 そこで、先に進むのは無理と判断して道を戻り、ナルカンダに行くことにした。ところが 数kmを戻ると、またも道路が崩れていて、山から奔流がほとばしっている。 我々がジープで通った直後に山崩れを起こしたのである。 こうして進むもならず、戻るもかなわず、山道の中に閉じ込められてしまった。やむなく近くの農家の納屋を借りて、木の台の上に寝袋を敷いて一夜を過ごすはめになった。

  
ジャロ-リ峠近くの民家の納屋と、道路復旧工事

 翌日は PWDによる道路復旧が始まったが、ジャローリ峠への道は 2〜3日かかるというので、午後の3時半に開通した反対側の道を戻り、カルソグ経由の大回りをして夜の 10時半に宿泊地マンディに着いた。本来なら この日はクルに泊まるはずであったものを、完全に1日をフイにしてしまった。そのために このあと数日間は その遅れを取り戻すべく、朝から夜中まで ジープを走りに走らせたので、運転手とは 何度も言い合いになってしまった。まことに過重な労働を強いたものだ とは思う。

 このようにヒマーチャル地方は、現代でさえも大変に交通不便なのだから、昔は はるかに難儀をきわめた。そのことが、この地方にインドの中でも独特の文化や風俗を保持させることになった 大きな理由である。カシュミール地方まで征服したアショーカ王の支配も、このヒマーチャル地方には 十分に行き渡らなかったようであるし、その後も 強大な統一国家は建てられず、常に小さな王国群が各地を支配することとなったので、建築的にも地域差が大きい。
 宗教的には 大半がヒンドゥ教圏であるが、高地のスピティ地方はチベット仏教圏に属し、その両隣のラホール地方とキンノール地方では 両者の宗教混交が行われてきた。したがって建築も、高地はチベット式の日乾しレンガによる壁と、土を踏み固めたフラット・ルーフであるが、低地側は石と木の混構造の上に、木の板かスレートで葺いた勾配屋根を架ける。そして宗教混交の地域では、建築のスタイルも混交するのである。


パングナの ドゥルガー寺院

 さて、マンディへと走り続けた夕方、その日の損失を埋め合わせるように、思わぬ拾い物をした。チンディを過ぎたあたりで、ふいに丘状の町が遠くに現れ、その頂部に寺院塔が建っているのである。今までどんな本にも情報のなかった寺院なので、すでに夕闇の迫る中、大急ぎでこのパングナの町へ寄ってみた。
 町の中央に登って行くと、それは城址公園のようなたたずまいの丘に、低層の建物群を従えた 7階建ての角塔 であった。 事実それは、かつてこの地方を支配した王国の、寺院を併せもった居城であった。こうした小王国群は、今から 54年前にインドが独立した時にその統治機能を失い、城は全面的にヒンドゥ寺院の境内となったのである。城主だったセン家の人々は、今は他の町に住んでいる。

  
ドゥルガ-寺院の壁面詳細と、本尊のモフラ (仮面)

 パングナのドゥルガー寺院は前面にスレート葺きの下屋とポーチが増築されて、やや表情を変えているが、みごとな角塔本体は、反りのついた切妻屋根もバルコニーもオリジナルのままである。案内してくれた医師と、鍵をあけにきてくれたプージャーリ(僧)の話では、ほぼ 300年前の建設だという。
 外壁は例によって井桁状に組んだ木造の枠組みを積み重ねて、その間に石灰岩を詰めた構造である。初めて見る人には、垂直の柱のない木造建築というのは意外でもあり、不思議でもあろう。これは地震の多いヒマラヤ地方で、地震の水平力に対抗するために、木材を水平材として石材と組み合わせた知恵である。コーナーの井桁が直に重なり合っていないのは、窓を多く配することによって窓の側柱に支持させているからで、珍しい作例である。
 最上階には本尊のドゥルガー神が祀られているが、本尊といっても彫像ではなく、ヒマーチャル地方に特有のモフラ(仮面)として安置されている。


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