| 砂漠の都市・ジャイサルメル |

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西インドのラージャスターン州に、タール砂漠という巨大な砂漠が、パキスタン国境まで広がっている。 その砂漠の中央に、あたかも 中世の砂漠都市が タイム・カプセルに乗って忽然と現れたかのような、驚くべき都市がある。 市壁に囲まれ、寺院といわず宮殿と言わず、民家から墓廟に至るまで、すべてが地面と同じ黄色い砂岩で造られたラージプートの都市、ジャイサルメルの全貌をここに紹介する。 |
| 砂漠の中世都市 |
| ジャイサルメルの歴史 |
| 黄金の都市、ジャイサルメル |
ジャイサルメルの市民が最も好む この町の形容は、「黄金の都市 (The Golden City)」 である。 近郊から採れる砂岩は良質で黄色く輝き、その黄砂岩で 宮殿から町家に至るすべての建物が造られた この町の眺めは、その華麗なファサード彫刻とあいまって、「黄金の都市」 と呼ぶにふさわしい。 ジャイサルメルの位置は、インド砂漠とも呼ばれる タール砂漠の中央にあり、デリーからは 600キロ、ジョードプルから 270キロの距離で、狭軌の鉄道が連絡している。 広大な砂漠には 1本の川もないが、モンスーンの雨がせきとめられて、各所に小さな湖を造り、これが砂漠の民にとっての 唯一の水源となる (それも 乾季には干上がってしまうのだが)。
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ジャイサルメルが栄えたのは、ラクダの隊商による 東西貿易の通商ルート上にある オアシス都市だったことである。 シルクロードとも結ばれ、絹や香料、インディゴ、そして阿片などを運ぶ中継地として発展し、貿易の相手国はペルシャ、アラビア、イラク、エジプト、そしてアフリカやヨーロッパに及んだ。 隊商はこの町で一息つくとともに物資を仕入れ、多額の通行税を納めて 都市と宮廷をうるおした。 かつてこの町が引きつけたのは、商人や金融業者ばかりではない。 ムガル帝国が北インドを征服するにつれて、ジャイサルメルは ヒンドゥ教徒やジャイナ教徒の避難所となったし、ラージプート相互の争いは、ここを学者や文化人、芸術家の集積地ともした。 建物のファサード彫刻や内部の壁画などは、各地から集まったクラフトマンや石工、画家たちが大いに貢献している。 一方隊商たちは、雨季の間はジャイサルメルで暮らし、雨季があけると家族を離れて 諸国へ旅立つ者が多かった。 そのために、家族との離別の歌や望郷の詩、そして 遠く離れた愛の歌などの文学を 多く生んだのである。 さて都市の構造はというと、まったく中世的である。 街路は自然発生的で、直線的な道路区画や バロック的な都市計画は見られない。 同じラージプートでも、ジャイプルの町が碁盤目状の都市計画をしているのとは対照的である。 インドでは、古文献には理想的な都市として 幾何学的な図形が提示されているものの、実際には ほとんどその実例がない。 インドに都市計画が始まるのは、イスラム文化の到来後であると思われる。 それでも ジャイサルメルの城内町と城下町では多少の違いがあり、城下町のほうが やや碁盤目状をしていて、時代の差を示している。
サリーム・シングのハヴェリー 城下町が発展するのは アカイ・シング王の治世の 1722年からであって、城下の建物は すべて 18世紀以降に属する。 それまでは 中世的な城塞都市で完結していたのだが、都市が栄えるとともに人口が増え、城内町では 納まりきらなくなったのである。 城下町全体を囲む市壁 (シティ・ウォール) ができたのは 1750年で、ムールラージ王によって建造された。 そこには 4つの門が造られ、ガディサル門、アマルサーガル門、マルカ門、バロン門と名付けられている。 残念ながら、市壁の多くは建設資材として持ち去られてしまい、あまり残っていない。
インドの他の都市と比較して ジャイサルメルが際立っているのは、その密集性である。 砂漠の都市として、外敵から身を守るために 都市の境界をはっきりさせて壁で囲むので、平面的に広がることを制約された建物は、高層化していかざるをえない。 アーチを用いずに、木造的な軸組み構造の石造建物が、4階、5階と積み重なっているのは 驚くべきことである。 都市の人口は、1815年に 3万 5,000人だったのが、1960年代の初めには 1万人以下にまで落ち込んでいた。 しかし 1965年と 1971年の印パ戦争は、ジャイサルメルの重用性を再認識させた。 タール砂漠からの石油の採掘もあり、ラージャスターン運河や国道なども 建設されるようになった。 ジャイサルメルへの鉄道は 1968年に開通し、トゥーリスト・バンガローは 1974年にオープンした。 70年代半ばから、インデラ・ガンディー首相のきもいりで、荒廃していたジャイサルメルの町の 保存と復興計画が始まり、1981年には人口 2万 2,000人にまで回復した。 近年は観光都市として、急激な変貌をとげつつある。 |
| 城塞 (シタデル) |
中世の建築技芸書 『シルパ・シャーストラ』 では、インドの城は 9種に分類されている。 (1)山の城、(2)水辺の城、(3)砂漠の城、(4)森の城、(5)土の城、(6)人の城、(7)複合型の城、(8)神の城、(9)人工の城 である。
宮殿の一室から城塞を見る ジャイサルメルの城は、軍事施設と支配者の宮殿だけでなく、市民が住む城内町まで組み込んだ 「城塞 (シタデル)」 として、シリアのアレッポの城塞と、フランスのカルカソンヌの城塞を 思い起こさせる。 アレッポの街並みの中に スックと聳える岩山の城塞は、ジャイサルメルの城塞とよく似た構図であるが、城内の街並みはまったく残っていず、モスクや宮殿などが散在するのみである。 バグダードの古都も残らない今、城郭都市の姿を最もよく伝えるのは、ジャイサルメルとカルカソンヌが東西の双璧ではないだろうか。 日本には城下町はあっても城内町はないから、こうした城塞は見ることができない。 ジャイサルメルの城塞は 1156年に、平地から 76メートルの高さに聳える トリクータの丘に建設された (トリクータとは、「3つの峰」 の意である)。 ロデルヴァから移された住民は すべて城内に家を建て、当初はカーストごとに 地区を決めて住み分けたという。 1577年から 1623年にかけて、スラジ・ポル (太陽の門)、ガネシャ・ポル (象神の門)、ハワ・ポル (風の門)が建造された。 スラジとはスーリヤ (太陽の神)であり、朝日の昇る側、つまり東門に名付けられる。 入口の上部には太陽の円盤と、トラナ・アーチが装飾として刻まれている。 城壁は高低 2重に作られ、その間に衛兵の巡警路がとられている。 R・A・アガラワーラによれば、城壁の石積みはモルタルを用いずに、正確な切石で積まれているという。 城郭の造形を印象的なものにしている、半円形の稜保の数は 99。 そのうち 92は砲台を設けるために、1633年から 47年にかけて建造された。 稜保の内部は、衛兵の住居や武器庫として用いられている。城壁の上には 丸い石が並べられているが、これは飾りではなく、大砲が発達する以前の キャノンボール (砲弾)で、城壁まで迫った敵兵の上に 投げおろしたのである。
城塞への入口、スラジ・ポル 城内へは、スラジ・ポルを通ってから 180度方向転換をし、すぐにガネシャ・ポルをくぐって、坂道を登って行く。 城内町の入口がハワ・ポルだが、その上部は王宮である。日本の感覚でいけば、王宮は城内の一番奥にありそうなものだが、インドでは、まず最初に宮殿があるというのが珍しくない。トンネル状の門を出ると、そこが王宮広場である。イタリアの広場のような造形性はないが、ここは王の謁見からキャラバンの市まで、さまざまな用途に使われる不定形の広場である。道はここから四方に延びて、市民の住居地区や寺院へと続く。 |
| 王家と宮殿 |
ジャイサルメル王国の王族は、マールワール地方 (ラージャスターン地方中西部) を制圧した ラトール・ラージプート族の流れをくみ、王族をラーワルという。 国王はよそと同じように <マハー・ラージャ (大王の意)> と呼んでいたが、第 11代のデーヴラージ王のときから <マハー・ラーワル> と称するようになった。 ジャイサルメルから 15キロメートルの ロデルヴァに居を定めたのは、この王である。
12世紀に第 17代のジャイサル王が、現在のトリクータの丘に城塞を築き、城内町を建設した。 当然、王宮も造られたはずだが、それは今は残っていない。 現在、王宮広場のまわりに見ることのできる宮殿は、16世紀から 19世紀に至るまで順次建設され、絶えず手をいれられた建物群である。 それぞれが独立した建物ではなく、お互いにくっつきあっているので、むしろ、絶えず増築され続けたと言ったほうがよいかもしれない。 それらを年代順に並べると、次のようになる。
城内の古王宮、ガジ・ヴィラス
広場に面して、城塞の中で最も華麗な姿を誇示している建物が、ガジ・ヴィラスである。 足元の 2層分の高さは堅固な壁とし、その上の階には <チャトリ (小亭)> を配置し、さらに上の階には 小曲面の庇が連続するバルコニーをめぐらせ、頂部は独立した曲面屋根の あずまやで飾っている。 けれども、この華やかな姿を宮殿がまとったのは 19世紀になってからであって、それまでは もっと質実な外観をしていた。 このガジ・ヴィラスは、その奥に古くからある <マルダナ (男子の館)> の手前に増築されたものなのである。 写真をよく見ると、ファサードの一段奥の壁面、および右側の <ゼナーナ (女子の館)> のファサードがずっと控え目であるのがわかる。 こうして宮殿を年代順に見ていくと、17世紀末に スタイルの変更があったことがわかる。 それまでの剛健なものから 装飾的な表現へと変化していったのは、ジャイサルメルの都が 東西貿易の中継地として発展し、その通行税によって 経済的に豊かになったのと符節しているのである。 宮殿群が増築を重ねて形成されていったのも、そのことと関連している。 したがってこの宮殿群は、ムガル朝の宮廷地区のように一気に計画されたものではない。 デリーや アーグラ に見られるような 四分庭園 (チャハルバーグ) や回廊もなく、軸線に沿った配置もない。 けれども全体計画の不在ということはまた、城内のジャイナ寺院群にも見られるように、イスラム以前のインドの伝統でもあったと言えるだろう。
19世紀の後半になると、英国の保護下におかれたラージプート諸国は、次第に ヨーロッパの文化を取り入れるようになる。 それまでの宮殿が 新しい生活のスタイルとあわなくなるにつれて、各地で洋風の新宮殿を建てるようになった。 ジョードプルやバローダのように、英国の建築家を招いて設計を依頼したケースも 珍しくない。 ジャイサルメルもまた 城内の宮殿を捨てて、城下町に新宮殿を建てることになるのだが、他に比べると、洋風化の度合は小さく、伝統的な建築様式を大切にしていたように見える。
新宮殿、ジャワハル・ヴィラス
新宮殿のなかで一番目につくのは、バダル・ヴィラスの 5層の望楼であろう。 イスラムのシーア派が ムハッラムの祭りに街を引き歩く <タジア (ハッサンとフサインの墓の写し)> と形が似ていることから、「タジア・タワー」 と呼ばれる。 実は、これを建てたのはムスリムの職人たちであって、ムスリム・コミュニティから ヒンドゥの王に献上されたのだという。 これはジャイサルメルの建築のスタイルと同じく、ヒンドゥとイスラムの融合がかなり行われていたことを示している。 |
| ジャイナ寺院 |
ジャイサルメルの王族は、代々ヒンドゥ教徒であった。 ところがジャイサルメルには ヒンドゥ寺院にたいしたものがなく、建築的に見るべきものは、いずれもジャイナ寺院である。 このことは歴代の王が、ジャイナ教であれイスラム教であれ、異教徒に寛容であったことを意味している。 そしてまた、東西貿易や金融を通じて、この都市の経済的実権を ジャイナ教徒が握っていたことを示してもいる。
以前に書いたように、ジャイナ教は 2,500年の伝統をもち、「アヒンサー」 (非殺生、非暴力) をその中心的な教義としている。 マハーヴィーラを開祖とし、仏教と同じく東インドに生まれたが、紀元前後の大飢饉のときに 南インドや西インドに移住したと伝えられている。 現在では 西インドに最も教徒の数が多く、建築的な傑作も集中している。
パールシュヴァナータ寺院のランガ・マンダパ ジャイサルメルの城内町には、<シュエターンバラ (白衣派)> のジャイナ寺院が 8院あって、これはヒンドゥ寺院の数の 2倍であるから、都市におけるマイノリティであるにもかかわらず、いかにジャイナ教徒の商人が王家に対して力を持っていたかを示している。 しかしそれゆえにジャイナ教徒の側にも遠慮があり、寺院内の彫刻にはヒンドゥ教の神々の像をも多く作って、ヒンドゥとの融和をはかったものと思われる。
マハーヴィーラ寺院が離れて建っているほかは、7つの寺院が一か所に集まっている。 しかしこれらは同時に建立されたわけではなく、次のような順序で建てられた。
王宮と同じく一院づつ、時をへだてて順次建設され、しかも城内町の限られた敷地であるので、(おそらく そのつど、敷地が買い足されたのであろう) 完全な形式を整えた寺院は少なく、それぞれに 寺院形式が変形されつつ適用されている。 そのことが、同じ集合寺院群ではあっても、アーブ山やクンバリアーとは大いに異なった、都市型のジャイナ寺院群となっている (それらの設計者は、現代日本の建築家と同じような苦労をつんだことだろう)。 特に道路をへだてた寺院が 上部ではつながっていたりするので、それぞれの寺院の相互関係が まことにわかりにくい。 そのことが、エローラーのジャイナ窟院群 にも似た、変化にとんだ空間体験を与えてくれもする。 その相互関係を明らかにすべく、3回目にここを訪れたとき、私は実測を試みたのである。
城内のジャイナ寺院群の配置図 15世紀 (拡大図) 左側 シータラナータ寺院、パールシュヴァナータ寺院、サンバヴァナータ寺院 右側 上から リシャヴァナータ寺院、チャンドラプラバ寺院、 シャーンティナータ寺院 (上階)、クントゥナータ寺院 (下階)
最も形式の整っているのは、最初に建てられた パールシュヴァナータ寺院である。 しかし敷地が狭いために、入口の前面に せっかくの <トラナ> (記念門) が建てられているのに、あまりにも引きがなさすぎる。 この寺院の両側には敷地いっぱいに、ごく細長い寺院が 増築のような形で建立された。 こうしたプランは、他に類例がない。 様式的には いずれも、10世紀から 13世紀にかけてグジャラート地方で発展した 「ソーランキー様式」 を踏襲していて、アーブ山のデルワーラ寺院群 と基本的には同じである。 アーブ山では すべてが白大理石で造られていたが、ここでは すべてが黄砂岩で建造され、また異なった味わいを見せて魅力的である。 それにしても、西インド全体で何百年も同じスタイルで建てられた寺院を見るにつけ、インド人の保守性を強く感じるのである。
パールシュヴァナータ寺院の柱頭とトラナ・アーチ 建築と離れて注目すべきは、サンバヴァナータ寺院の地下にある 「ギャン・バンダール」 である。 <バンダール> というのは、経典や細密画をはじめとする古文献を納める ジャイナ教の書庫で、グジャラート州、ラージャスターン州の各地に作られた。 ギャン・バンダールは ジーナバドラ師が 1443年に設立したもので、同師による他の 2か所は破壊されてしまったらしい。 ここからは ジャイナ教の写本のほかに、仏教関係のサンスクリット経典が 多数発見されたことでも知られている。 砂漠の中の孤立したバンダールであるがゆえに、純粋な保存が可能となったのであろう。 古い写本は 11世紀に遡り、写本の数は約 3,000、そのうち 500が貝葉 (ばいよう、椰子の葉) に書かれている。 ところで ジャイサルメルには、独立前に 2,700家族のジャイナ教徒がいたというが、今ではわずか 17家族しか住んでいない。 ジャイサルメルが 東西貿易の中継地としての役割を終えるにつれて、ジャイナ商人もボンベイやその他の都市に移住していったのである。 北方のビーカーネルでは、今もジャイナ教徒が人口の 35パーセントだというのに、ジャイサルメルでは 60パーセントがヒンドゥ、40パーセントがムスリム (イスラム教徒) となってしまった。 それでもこの町が気持ちよいのは、昔からの伝統をひいて 宗教紛争がなく、異教徒どうしが友好的なことである。 ジャイサルメルに移る前の古都 ロデルヴァは、1152年と 1615年に破壊されて、今はほとんど跡形もない。 パールシュヴァナータに献じられたジャイナ寺院もまた破壊されてしまったが、1675年にタール・シャーハという人物によって再建された。 20年前には修復工事の真っ最中であったが、今はトラナ (記念門) まで含めて、見事な姿を砂漠の中に見せている。 |
| ハヴェリー (邸宅) |
ジャイサルメルでは 宮殿や寺院のような モニュメンタルな建物ばかりでなく、街並を構成する都市住居までが、そのファサードを華麗に構成している。 黄砂岩の壁面からは、必ずといってよいほど バルコニー が突き出し、小柱で支えられた庇が架かる。 そして隅から隅まで緻密に彫刻されているさまは、すべての建物が宮殿ではないか と錯覚させるほどである。
城下町のパトウォンのハヴェリー 都市住居は稠密な街区に密集しているので、2階か 3階、時には 4、5階建てのものも珍しくない。 そして敷地は細長く、間口が狭いので 採光のために中庭を持っている。 それは京都の西陣などの町家を思わせる。 ただしプランとしては、西陣のような通り庭の構成ではなく、中庭が生活の中心をなして、半戸外のリビングルームのようになっている。 ひとつには あまり雨が降らないこと、そして気温が高いので、内外の区別があまりないことによる。
1階は 原則的に道路から半階分高くなっていて、道の砂ぼこりやごみ、時には砂漠の砂嵐から 生活を守るとともに、住居のプライバシーをも保護する。 その構成は ロンドンのタウンハウスの街並みを思わせよう。 こうした住居形式は ジャイサルメルだけの特徴ではなく、西インドに広く見られる。 なかでも、ジャイサルメルの北の ビーカーネルのオールド・タウンには、赤砂岩によるこうした街並みが多く残っている。
ジャイサルメルで特に有名なハヴェリーが 3軒ある。 最大、最美のハヴェリーは 5階建の 「パトウォンのハヴェリー」 である。 1805年頃、ジャイナ教徒のパトゥアー・グマン・チャンドが 5人の息子たちのために建てた 5連の家である。 パトゥアー家は金銀細工の商人から始まり、手広く貿易商や金融業を営んで、その勢力範囲は西インド全体に及んだ。 やはり敷地は狭いから、道路いっぱいに建ち、中世ヨーロッパ同様、上部が街路に迫り出して、一部は道路をまたいでいる。 壁面がすべて出窓になって、曲面の庇と細かい彫刻が施されている眺めは壮観で、その豪華さは王宮をも凌ぐ。
ナトマルのハヴェリーの 2階にある居間 「ナトマルのハヴェリー」 は、王の大臣 ナトマルによって 1885年に建てられた (バダル・ヴィラス宮殿と同時期)。 その バイリサル王が建てて 大臣に与えたのだともいう。 今もヒンドゥが住んでいるが、大邸宅にふさわしく 24人の大家族である。 やはり 5階建で、部屋数は約 40。 建てたのは ハティーとルルという、ムスリムの兄弟建築家で、建物の左右を それぞれ担当したと伝える。 2階の居間は、壁画でカラフルに飾られている。 敷地の裏側も道路に接していて、そちらは主にサービス口、作業場の中庭と ラクダ小屋がある。
もうひとつの豪華ハヴェリーは 「サリーム・シングのハヴェリー」 といい、王家の世襲の主席大臣 モフタ家の住居である。 サリーム・シングは王にまさる権力を乱用し、圧政を敷いたので、多くの住民が町を逃げ出したという。 その苛斂誅求 (かれんちゅうきゅう) のために、1827年に毒を盛られて暗殺された。
こうしたハヴェリーをはじめとする、ジャイサルメルの建築の特徴をなす要素は 3つある。 まず <ジャーリー> と呼ばれる石の格子スクリーンがあげられる。 日本の連子窓とも似て 風通しのある壁面を作るが、はるかに細かい彫刻をほどこす。 特に <プルダー> (女子部屋) の女たちが 外から見られずに外をのぞき見る壁面に重用される。
パトウォンのハヴェリーのジャロカー もうひとつ特徴的なのは、屋根の造形である。 とりわけ バルコニーの庇に顕著なのだが、両端部が大きく垂れ下がった曲面屋根が 至る所に見られる。 その起源は、実は はるか遠く、東インドのベンガル地方の 民家 (バングラー) の屋根にある。 今のバングラデシュも含め、ベンガルには雨が多いので、こうした形の草葺き屋根が一般的であり、それは寺院にも採りいれられた。
ベンガル地方は ムガル帝国にとっての穀倉であったので、ベンガルを征服したムガル朝は、この屋根形態をも デリーやアーグラに持ち帰って、宮殿建築に用いた。 ラージプートはこの <バンガルダール屋根> を愛好して、ジャイサルメルにまで伝えたのである。 多雨地帯の機能的な形態が、砂漠の建築の造形要素になったというのは、皮肉な話である。 余談だが、英語のバンガローもまた 「ベンガル風の住宅」 を意味しているのだが、そこでは曲面屋根を前提とは していないようである。 |
| サーガル (人造湖) |
| 王家の墓園 |
| 世界の文化遺産 |
● JAISALMER, City of Golden Sands and Strange Spirts: Bindu Manchanda, 2001, Harper Collins, India, B5-170pp. |
