ラーナクプルの アーディナータ寺院 |
神谷武夫
「これこそインド建築の最高傑作だ。」インドの3カ月の旅の終盤近くになって、アーブ山から 汽車とバスを乗り継ぎ、町でもなければ村でもない、山奥のラーナクプルに 忽然(こつぜん)と聳えるジャイナ寺院を訪ねた時、興奮のうちに寺院内を歩きまわりながら、そう確信したものだった。東インドから始まった建築巡礼の旅で、北インド、南インドを へめぐって、ヒンドゥやイスラムの数々の傑作に圧倒されながら、それにも増して 深い感銘とともに旅のハイライトとなったのが、初代ティールタンカラのアーディナータに捧げられた この寺院である。 それから9年ずつへだてて、3たび ここを訪れることとなったが、そのつど 新しい感動をおぼえずにはいない。建築と彫刻や工芸との幸福な結合、変化に富んだ空間体験、白一色の純粋な美しさ、繊細きわまりないドーム天井をいただく 高い吹き抜けの浄土感覚、その他、筆舌に尽くしがたい美しさとは、このことである。最初の訪問以来、なぜ このような寺院が誕生したのかを調べるにつれ、ますます この寺院の魅力のとりことなってしまったのであった。
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寺院は大規模で(図面1)、全体が 60m× 62m(*1)の、まるで要塞のような基壇の上に建ち上がり、中央の入口階段の上には3層の「バラーナカ」(エントランス・ホール)が、ドーム屋根を戴いている。 前回説明したような 防御姿勢で、入口の扉は小さめである。これをくぐって なおも暗い階段を登ると、不意に 明るい大空間が劇的に現れ、その華麗さには 思わず息を飲む。
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林立する柱の群れは 細かく彫刻されて、同じ彫刻パターンの柱は2本とない という。 そして2層、3層に吹き抜けた空間に、高く低く大ドームや小ドームが架かり、そのドーム天井の彫刻がまた 途方もない密度である。天井の高低差の間や 中庭からは光があふれ、相互貫入する空間と、いたるところの繊巧な彫刻を浮かび上がらせる。 華麗といっても、床から天井までの一切が 白大理石で造られているので、実に清浄な華麗さであり、これもまた 浄土の世界の現前なのだろう。
建築的に 最も印象の近い例を思い浮かべるなら、フランク・ロイド・ライトの 中期の『エニス邸』と『帝国ホテル』であろうか。あの2作は 独特なコンクリート・ブロックやテラコッタ、そして大谷石が繊細な彫刻要素となり、その反復と展開を 通奏低音として、複雑にからみあい流れゆく、一種 非現実的な空間構成の魅力を創り出していた。そしてラーナクプルでは、外周壁以外に 内外をへだてる壁が ほとんどないために、空間の流動性が いっそう深まっているのである。
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この建築作品は 美術史家からは 過小評価されていると思われるが、そのわけは、個々の彫刻を独立的に眺めた時に、ヒンドゥのものよりも劣る という点にあるだろう。しかしジャイナ建築においては、彫刻は 独立価値を主張するのではなく、おびただしい彫刻が すべて建築要素の枠を はみ出さずに、全体的な建築空間に奉仕するのである(そのことがまた ライトの建築を彷彿(ほうふつ)とさせる点である)。次に、シカラを初めとする建築要素のほとんどが、ヒンドゥ建築と共通であって、独自のものを打ち出していないという点にある。
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まず第1は「彫刻的建築」である。おそらく ヒンドゥを初めとするインド建築の本質は彫刻性にあって、細部彫刻の豊かさは もちろんのこと、建物全体が ひとつの彫刻作品のような趣を呈することが多い。これを「かたまり的建築」と呼ぶこともできる。
このように、あらゆる建物は この3種の建築術(アーキテクチュア)に分類することができるだろう。
![]() では、そうした総合性を ジャイナ建築が獲得しえた原因は何だったのだろうか。それこそが、今までも たびたび登場した「チャトルムカ」(四面)堂形式なのである。ラーナクプルの寺院の中央部を、アーブ山のデルワーラ寺院群の中で 一つだけ異なった平面形をしていた カラタラ寺院の平面(第1章参照)と比べてみれば、両者がそっくりであることに 気付かれるだろう。そこでは 中央祠堂が四方に開かれていて、それぞれの前面にドーム天井の「マンダパ」(ホール)を備えている。 ところで、ヒンドゥ寺院の基本形は<聖室+マンダパ>であって、聖室(ガルバグリハ)は 常に前面にのみ扉口を持つから、四方にマンダパを備えることは ありえない。ヒンドゥ寺院における「ガルバグリハ」(*2) とは「神の住まい」なのであって、1軒の家のように 戸締まりがなされねばならない。昼は神像に食事が備えられ、オイル・ランプの光でもてなされるが、夜はそこで神が眠るべく、扉が閉ざされる。
![]() ![]() サマヴァサラナにおける マハーヴィーラ (From "Kalpa-Sutra" c. 1475-1500, Detroit Institute of Art) ジナが全智になると、インドラ神が 彼のために 説教場としてのサマヴァサラナを用意する。 四方に開かれたサマヴァサラナは、円形の場合もあれば 矩形の場合もある。 これに対してジャイナ寺院というのは、神の住まいなのではなく、「ティールタンカラ」(祖師、ジナ)が 教えを説く場所なのである。それを「サマヴァサラナ」と呼ぶが、ジナの教えは四方(世界)に説かれねばならない。ジャイナ教の本尊形式で特徴的なのは、しばしば4体のティールタンカラ像が(立像あるいは座像で)背中あわせになっていることで、これを「チャウムカ」、あるいは「チャトルムカ」(四面) 像 と呼ぶ。このチャトルムカ像を本尊とした場合に、その聖室(ガルバグリハ)もまた 四方に開かれ、各面に 礼拝場であるとともに説教場である「マンダパ」を備えることになるのである。
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ジャイナ教のチャトルムカ像は3世紀のものがマトラから出土しているから、古くから四面堂が建てられていたらしいが、それらは現存していない。寺院の主流は、ヒンドゥにならった<聖室+マンダパ>であって、中世になってから「四面堂形式」が 次第に独自の展開をとげるのである。
![]() ![]() リンガラージャ寺院、ブバネーシュワル 五堂形式の寺院、シンナール もう一つの方法は、本堂寺院の対角上の四方に4つの小祠堂を建てることで、この全体を「パンチャーヤタナ」(五堂形式)と呼ぶ。これはヒンドゥに限らず、仏教やジャイナ教でも 広く行われ、実は このラーナクプルの寺院も一種の「五堂形式」をとっている。ここでは それら対角上の4つの祠堂が「二面堂」形式をとり、さらに 南北両端に4つの「側堂」を加え、外周を 86の小祠堂が取り囲んで 伽藍の全体を作っているのである。 これがヒンドゥの「五堂形式」と異なるのは、ちょうどアーブ山で、「ムーラ・プラーサーダ」(中央祠堂)の手前に「ンガ・マンダパ」を作って周廊と連結させ、一気に全体をインテリア化したように、ここでも これら全ての要素が、ドーム天井を戴くマンダパ群によって連結され、いくつかの中庭を囲みとりながら、全体が一続きのインテリア空間となったのである。いわば この寺院は、伝統的なインド建築の あらゆる要素の集大成であって、しかもそれを きわめて高い完成度にまで もっていったのであった。
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記録によれば、ラーナクプルの寺院の直接のモデルとなった「四面堂」形式の大寺院が シッダプラ (*3) にあって、「ラージャ・ヴィハーラ」(王の僧院)と呼ばれていた。 残念なことに、これは破壊されて、今はない。ラーナクプルの寺院は、ソーランキー朝のラーナー・クンバ王の治世の 1439年に、ダラナー・シャーが寄進した(*4)。
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この理想プランは ラーナクプルの寺院を さらに大規模にした形をとり、通常のスパンを当てはめれば、全体で約 100m角という壮大な規模の寺院となる。それを可能にさせるのが「チャトルムカ形式」であることは言うまでもないが、この平面図は一種の「マンダラ」であって、仏教のマンダラと同じく、一つの宇宙観の表現であるともいえる。しかしながら、これほどに大規模なマンダラ的寺院は、インドでは ついに建てられることがなかった。それが実現するのは、むしろインド圏の 東南アジアだったのである。
![]() 東南アジアでは、ジャワ島(インドネシア)の ボロブドールや ロロ・ジョングラン、クメール(カンボジア)の プノム・バケンから バーヨンに至るまで、壮大な寺院計画がなされた。けれど、単に平面的な境内の広さだけでなく、建築的にラーナクプル ないしジャイナの理想プランに比較しうるのは、11〜 12世紀に建てられた アンコール・ワットであろう。
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(図面 3) に示すのはアンコール・ワットの第2回廊から内側であって、この外側には 第1回廊がある。第2回廊の規模は約 100m× 120m(*5)であるが、その構成は ジャイナの理想プランと たいへんによく似ている。しかも、アンコール・ワットの中央祠堂もまた 四面堂であった、ということに気がつくのである。つまり、四方に広がる大規模な寺院計画では、その本堂がチャトルムカ的であることが 必然的に要請されてくる。
さて、ジャイナの「四面堂」とアンコール・ワットの間の 橋渡しをするのは、現在のバングラデシュのパハールプルに 廃墟として残る仏教寺院、8〜9世紀建立の ソーマプラ大僧院(マハーヴィハーラ)である (*6)。これは 300m× 300mもの広大な境内の中央に聳える寺院であって、これは まぎれもない四面堂である。 ![]() ![]() 南アジアの地図 どうやら仏教は ジャイナ教の影響を受けて「チャトルムカ像」を造り始めたらしく、古いものでは7世紀のものが、仏教の聖地 ボードガヤーから出土している(ネパールでは もっと早くから造られていたようであるが)。そして パハールプルの地には、もともと ジャイナ寺院があったらしい。こうして インドの仏教寺院で唯一の作例である パハールプルを通して、四面堂形式が東南アジアに もたらされた。それが クメールやジャワの マンダラ的な大伽藍のプランを発展させたのである。
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インドのヒンドゥ寺院は「四面堂」を発展させることが なかったが (*7)、イスラーム時代になると、ムガル朝の墓廟建築は「チャトルムカ形式」をとることが多かった。インドのイスラーム建築の源流はペルシャにあり、庭園構成もまた ペルシャの「四分庭園(田の字形の幾何学庭園)」が もたらされた。デリーのフマユーン廟 は、そうした大規模な四分庭園(チャハルバーグ)の中央にあり、必然的に 四面堂形式 をとっている。
こうして見てくると、ジャイナ教が生み出した四面堂形式は、インド圏を通して ずいぶんと大きな役割を果たしたことがわかる。その実例は 多数に及ぶが、しかし その四面堂プランによって生み出された 空間の豊かさを比較するとき、ラーナクプルの寺院は 比類がないように思われる。
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さて こうした「四面堂(チャトルムカ)形式」を、特にジャイナ教が発展させてきたのは なぜだったのだろうか。こうした問いに対する完全な答というものは ありえないから、その宗教的内容に即して 仮説を立てる以外にない。ここでの仮説は、ジャイナ教の論理学に基づくものである。
多くの宗教が 自分の神や世界論をのみ 真理と主張し、時に 他の宗教と 宗教戦争まで引き起こしてきた歴史を かえりみる時、これは ずいぶんと近代的な考え方では ないだろうか。インドにも 宗教紛争が 数多くあり、現在もなお 引き続いているが、ジャイナ教は 武力闘争をしたことは一度もない。 すべての宗教が こうした観点に立てば、世界は どれほど平和になることだろうか。
![]() そもそも ジャイナ教が 24人ものティールタンカラ(祖師)を想定したということ自体が、私には不思議であった。キリスト教や仏教のように、開祖は一人で十分なのではないだろうか。おそらくジャイナは、その場合の マハーヴィーラへの個人崇拝を避けるために、そして 絶対者の存在を否定するために、マハーヴィーラ以前に 23人ものティールタンカラを想定して、それらに同等の価値を与えたのであろう。 インドで生まれ育ったから、ジャイナ教もまた 偶像崇拝のスタイルをとってはいるが、キリスト教やヒンドゥ教の偶像群と異なって、ジャイナ教のティールタンカラ(ジナ)像には 個性的表現というものがない。24人のどれをとっても ほとんど 同じ姿勢の立像か座像 の姿をしていて、まるで 見分けがつかない。それは 彫刻作品としての、美術史の研究対象とは なりにくいし、極端に言えば、それは 一種の 記号に過ぎないように思われる。そこで礼拝されるのは、キリストだとが シヴァ神だとかいったような 人格や神格ではなく、記号の形をとった 世界の秩序、あるいは 宇宙の多様な真理 なのではないだろうか。 そのとき、ジャイナ教は 不意にイスラーム教に類似してくるのである。形の上では 両者は全く対照的で、イスラームは絶対的一神論であるが、その唯一神とは 人格神ではなく、宇宙の秩序 そのものと同義ともいえる。またイスラームでは 偶像が一切禁止されているが、ジャイナのティールタンカラ像も 一種の記号に過ぎないとすれば、両宗教の礼拝は 結局 同じことのようにも思える。共に階級制度を否定し、イスラームでは、神の前には「すべての人間が平等」であり、ジャイナ教では、輪廻の相のもとでは「すべての生物が平等」なのである。
![]() ![]() 白大理石の柱の彫刻と、パ-ルシュヴァナ-タ像 イスラームは 偶像崇拝を否定したがゆえに 絵画や彫刻は あまり発展せず、その造形意欲は ひたすら建築に集中した。ジャイナでは 偶像彫刻に人格的表現や 物語性を与えなかったから、ジャイナ寺院もまた 建築に打ち込み、彫刻は イスラームのアラベスクと同じように、建築要素の枠組みの中での装飾に 専念させたのである。おそらく このことが、今までの美術史家が ジャイナやイスラームの美術を 高く評価してこなかった 大きな原因であり、同時に 私のような建築家は、ジャイナやイスラームの建築に ひときわ 感銘を受けることになるのであろう。
ついでに もう一つ 似たような例を挙げておくなら、ヨーロッパのシトー会の修道院が それである。ベネディクト会の華美に反発して、絵画や彫刻による虚飾を排除しようとしたシトー会は、従って ひたすら建築の構成と 空間の美しさの開拓に没頭したのだった。それによって、美術史家の評価とは違って、われわれ建築家が深く感動する ル・トロネや フォントネーの修道院建築を生んだ。ジャイナ教の建築、なかんずく ラーナクプルのアーディナータ寺院は、こうした文脈においてこそ 価値づけられるのである。
ジャイナ教の建築が ラーナクプルの寺院で絶頂に達したあと、ジャイナに限らず、インドの伝統的建築様式の発展は 終わりを告げ、以後 凋落の一途を たどることになる。外来のイスラーム建築の時代に入ったのである。南インドを除けば、独立を保ったヒンドゥ王朝の建築でさえも、イスラーム建築の影響を強く受けた。
![]() ![]() アフマダ-バードのハティ-シング寺院と カルカッタのシ-タラナ-タ寺院
カルカッタにも同時代の シータラナータ寺院 がある。英領時代に発展した大都会の中では 異彩を放つ建物ではあるが、近世のシカラ寺院と ムガル宮殿、それにイタリア・バロック様式を結びつけたようなスタイルには、かつてのラーナクプルのような偉大さは見られない。 (『 at 』誌 1994年1月号)
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