第3章 神谷武夫
モロッコは 北アフリカ北西部のマグリブ地方に位置する立憲君主制の国家なので、国名は「モロッコ王国」という。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。最大の都市は 経済の中心地、カサブランカだが、行政上の首都はラバトである。7世紀にイスラム教が伝来してアラブ人がモロッコを征服してイドリ―ス朝(788ー974年)を建てて以来、継起したイスラーム王朝は、11世紀にムラービト朝、12世紀にムワッヒド朝、13世紀にマリーン朝、降って16世紀にサアド朝が成立し、現在のアラウィー朝(17世紀に成立)と続く。
中世のムラービト朝は 新都マラケシュを建設して首都とし、ムワッヒド朝もこれを受け継いだ。しかし 11世紀半ばから 12世紀半ばまでのムラービト朝時代 (1040-1147) に多くの建物が建てられたものの、あまり残っていないのは、次のムワッヒド朝 (1130-1269) によってその大部分が破壊されたからである。そのこともあってか、エジプトや日本のような一極集中の国とはならず、主要な建築遺産も 各地に分散している。
イスラーム建築というと、ドーム屋根を戴くというイメージが世界中に蔓延している。それは近世のイスラーム圏を三分した大帝国(トルコのオスマン帝国、ペルシアのサファビー帝国、インドのムガル帝国)がそれぞれにドーム建築を発展させ、その属領が それに倣ったせいである。タージ・マハル廟はその代表であるし、広大なオスマン帝国領のモスクはすべて 鉛葺きの単殻ドームで覆われていた。現在もイスラーム圏の各地に立てられる新しいモスクは ドーム屋根を載せることが多いが、中身のない、飾りとしてのハリボテであることも多い。つまり、ここはモスクですよ、という記号になっているのである。 モロッコではドーム建築が見られない代わりに、どこの町でも 背の高いミナレットが目立つ。イスラーム世界では東方のミナレットは円形、西方のミナレットは角型を常とする。モロッコには、たった1本の円形ミナレットが ムーレイ・イドリスで見られる以外、すべて 似た形の正方形プランの角型ミナレットであり、トルコの鉛筆型 円形ミナレットと よい対照をなしている。モスク本体が失われているのに、地震に一番弱そうな 高層ミナレットだけが残っていることがあるのは、日本の五重塔に似ている。長年の経験から、塔の耐震構造を 身につけていたのだろう。
モロッコ建築を全体的に評価すると、建物も、その装飾も、日本人好みの「渋い」美しさだということができる。派手さやきらびやかさを避ける傾向には大いに共感する。ところが近くに寄って細部をみると、その粗っぽい仕上げに驚いてしまう。日本の美学に近い「渋さ」とは逆に、細部の粗さは日本とは遠く、美術館に展示してある工芸品にも感じるところである。 また、そうしたイスラーム建築とは全く違う「土の建築」が、モロッコ中央部の アトラス山脈南東部にある。前章 アルジェリアのサハラ砂漠の中、ムザッブの谷のそれと似た「カスバ」と呼ばれる、ベルベル人の集落(オアシス都市)である。それが点々と連なる「カスバ街道」も興味深く、特に アイト・ベンハドゥの集落は ユネスコ世界遺産に登録されてもいる。 ( 2026 /06/ 01 )
ハサン2世広場 ![]() ハサン2世広場
スペインからモロッコに行く手段はいろいろあるが、私はスペインのアルヘシラスから フェリーでセウタ(スペイン領)に渡った。ヨーロッパからアフリカまで、わずか1時間半の船旅というわけで、1985年のことだった。タクシーで国境を越えてテトゥアンの街に夕方着いた。翌朝 街をぶらつくと、人が大勢集まっている広場に出た。王宮前の『ハサン2世広場』で、そこの建築造形が強烈にモロッコを意識させたが、旅日記にはこう書いてある:
ミント・ティーまた、工芸品店をひやかしていると、ミント・ティーが出てきた。これも旅日記には: 「今まで諸国を旅してきたが 初めて見るもので、コップの中に 緑茶と ハッカの
![]() メディナ(旧市街)の子供たちと、大モスクの外庭
いよいよ モロッコの内陸部に行くが、まずターザの町に行った。特に重要なモニュメントは無いが、人々の生活と街並みの構造を観察し、集団礼拝中の大モスクの内部と 外庭に入ることができた。礼拝室は マグリブのモスクに多い「T形プラン」で、ミフラーブまわりは かなり過剰に装飾されている。
フェスがエジプトのファーティマ朝の支配下に入ると、919年にカラウイーン・モスクは金曜モスクとされた。10世紀後半は後ウマイヤ朝の支配下に置かれ、イベリア半島からの影響を強く受け、後ウマイヤ朝の建築様式は、ムラービト朝とムワッヒド朝にフェスを通して継承された。 1069年にムラービト朝がマラケシュを首都にした後も、フェスは芸術・学問の中心地として発展を続け、1146年にはムワッヒド朝の支配下に入った。ムワッヒド朝の君主ムハンマド・ナースィルの時代に行われた統計調査では、782のモスク、9万の住宅、1万の店舗、467の商館がフェスに存在していたと記録されている。 13世紀初頭、アルジェリア東部で遊牧民族が建国したマリーン朝が台頭し、1248年にフェスもその支配下に入る。マリーン朝は、マラケシュに代えて フェスを首都にした。1276年にマリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブはフェスの新市街(フェス・エル・ジェディド)の建設をしたので、フェスは旧市街が経済の中心地、フェス・エル・ジェディドが行政の中心地となり、あたかも双子都市のようになった。旧市街には家屋が密集し、14世紀の最盛期にはおよそ10万人の市民が旧市街に居住したという。 1276年に起きたポグロム(ユダヤ教徒の大量虐殺)の後からマリーン朝はユダヤ教徒の居住区としてメッラーフ(mellah, ユダヤ教徒の強制隔離地区)を設置した。 マリーン朝の次のワッタース朝はフェスを首都としたが、1549年にフェスはマラケシュを本拠とするサアド朝の支配下に入った。外来者の受け皿となり、グラナダのナスル朝の滅亡によって逃れた難民を受け入れた。17世紀に成立したアラウィー朝はフェスを首都に定めたので、文化・商業の中心地として繁栄した。 1911年にフェスはフランスによって占領され、その保護領となる。1916年にフランス人居住区として第三の市街地(ヴィル・ヌヴェル)が建設され、フェスに3つ目の市街が形成された。新市街は幅の広い道路が直角に交差する「近代的」な構造で、さながら迷路のような旧市街と 対照的な町並みとなる。フェスのイスラーム法学者はラバトの知識人と共にモロッコの民族独立運動の担い手として、フランスへの抗議活動に参加した。第二次世界大戦期のアフリカでの植民地戦争において、フェスはレジスタンスの拠点となった
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![]() アル・ハムラ・モスクのミナレットと、ムーレイ・イドリスのザーウィヤの外壁に沿った道。盲ら窓のスタッコ彫刻や 鉄工芸の格子がすばらしい。
![]() 「ダール」というのは住居の意味で、中東からマグリブにかけて、古い住宅、とくに邸宅は「ダール〇〇」と呼ばれることが多い。 19世紀末に ムーレイ・ハッサンによって建設された「バトハ邸」は、今ではモロッコ工芸美術の博物館になっているので、内部を自由に見て回れるが、さらに魅力的なのは、その「楽園庭園」である。この広い庭園は 単純な四分庭園のプランをしているが、樹木が茂って、それとは 気づかれにくく なっている。床のタイル・モザイク舗装も見ものである。
![]() フェス・エル・バリの「へそ」とも言うべきなのが ネジャリーン広場で、それほど大きくない不整形の広場だが、古い建物に囲まれ、非常に魅力的な「泉」(給水施設)もあり、何よりも この町の数百年の歴史と伝統が積み重なっているので、住人も観光客も ここに集う。
![]() 1711年に建設されたキャラバンサライ(フンドゥク)は20世紀に見事に修復されて、木工芸博物館として使われている。
![]() 9世紀にフェスを統治し、現在のメディナを建設した ムーレイ・イドリスの廟。フェスの創設者であり 守護聖人であるムーレイ・イドリス を祀る、フェスの最も聖なる墓所なので、異教徒は立ち入れない。ネジャリーン広場と、次の カラウイーン・モスクの中間にあり、そのミナレットは フェスで最も高い塔なので、どこの民家の屋上からも見える。
![]() ムラーヴィト朝の 859年に創建され、周囲が大学として発展して 大規模になった。アラブ型モスクの礼拝室は、しばしば1スパンごとに切妻屋根を架けた。オスマントルコのドーム型モスクとは正反対の、列柱ホール型モスクである。残念ながら、モロッコでは異教徒はモスク内に立ち入れない。
![]() 大モスク(カラウイーン・モスク)の平面図(ウェブサイトより)
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大モスク(カラウイーン・モスク)の航空写真(Google Maps より)
カラウィーン・モスクに付属するマドラサ(神学校)は西方イスラム世界で最古のもののひとつであり、歴史家イブン・ハルドゥーンもこの学校で教鞭を執った。カラウィーン・モスクが高等教育機関としての性質を備えるようになったのは11世紀のムラービト朝の時代からだと考えられており、特に医学の分野で名声を博した。カラウィーン・モスクは植民地時代に民族主義派の活動の拠点となり、人材の育成、政治綱領・独立宣言の起草もここで行われた。1956年のモロッコ独立後にカラウィーン・モスクは法人化されて教育部門が教育省の管轄化に置かれるようになり、イスラーム諸学とアラビア語の専門家の育成、それらの分野における学術研究の振興を目的としてカラウィーン大学が運営されている。10世紀に建設されたカラウィーン・モスク付属の図書館には10,000冊超のアラビア語写本が所蔵されており、その中にはイブン・バットゥータの手による写本も含まれている。
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アル・カラウイーン大学は 1963年からモロッコの国立大学となったが、それ以前から、世界に現存する最古の 継続的に活動している教育機関であり、初の学位授与を行った教育機関である という。 ![]() フェスの、フェス川の対岸(東側)に建てられた、もうひとつの大モスクである。スペインのアンダルシア地方からやって来た人々のために、カラウイーン・モスクを建立したファーティマ・フェヘリーヤの妹のメリアムが建てたという。残念ながら、入口の門から奥へは、異教徒は立ち入れない。
![]() ブー・イナーニーヤ学院 は、フェスに数あるマドラサの中でも 最もモニュメンタルなもので、1351年から1356年にかけてベルベル人の王アブー・イナーン・ファーリスによって建設され、マリーン朝時代を代表する建築作品である。建物の名前である「ブー・イナーニーヤ」は国王の名前に由来し、彼はメクネスにも、同名のマドラサを建設している。マドラサの正門から続く道の反対側には沐浴場があり、中庭の左右に ドーム屋根の教室の建物が 独立的に建っているのも 珍しい。また これはフェスにおいて、ミナレットを持つ唯一のマドラサである。
![]() ブー・イナニーア学院の平面図(From Wikimedia) ![]() ![]() シェラティーン学院は、アラウィー朝のスルタン・ムーライ・アッラシードの時代の 1670年に起工された、3階建ての大規模なマドラサです。中庭の周囲に寮室群があり、それぞれに小中庭を囲んでいて、それを3階から見下ろすと、まるで井戸の底をのぞくような印象である。 ![]() シェラティーン学院の平面図(From Wikimedia) 1323年から1325年にかけて建立されたアッタリーン・モスクには、化粧漆喰とタイル装飾が施されている。アッタリーン・モスク付属のマドラサ(学院)は、非イスラム教徒も入場することができ、屋上に登ることもできる
![]() ミフラーブが八角形の部屋になっている。 1321年から1323年にかけてアブー・アルハサン・アリーによって建設されたサフリージュ学院の名前は、7種類のコーランの詠唱法が教えられていたことに由来し、留学生だけを受け入れていた。
アラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマーイール (1645-1727) は メクネスを首都とし、そこに 壮大な宮廷都市を建設することを もくろんだ。その規模は マラケシュのアル・バディ宮殿にも劣らないものだったが、1727年に彼が没すると 中断された。都市の周壁(40km に及ぶ)や門、モスクなど、多くの史跡が残るので、「古都メクネス」として、ユネスコ世界遺産に登録されている。 ![]()
メクネスの市門で特に名高いのは、どちらもムーレイ・イスマーイールのの命による 西のクミス門と、ムーレイ・イスマーイールの宮廷都市への入口をなす マンスール門である。後者は、モロッコ最美の市門との 世評が高い。
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ムーレイ・イスマーイール廟の背後には、メクネスを首都としたムーレイ・イスマーイールの宮殿と庭園の巨大な宮廷都市を創る計画があった。その大庭園の南端には「ムーレイ・イスマーイールの穀倉」が造りかけられ、アーチ架構列が残っている。 モロッコで唯一、観光客が 廟の中にまで入れ、モロッコ工芸の粋を尽くした 内部の美しさを堪能できる所として知られている。多彩に装飾された門を入ると噴泉のある広間があり、ここから屈折した通路お階段を登って イスマーイール廟のホールに達する。ここのインテリアの美しさは、モロッコ随一ではないかと思う。華麗でありながら抑制がきいていて、実に快い。
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ムーレイ・イスマーイール廟の背後には、メクネスを首都としたムーレイ・イスマーイールの宮殿と庭園の巨大な宮廷都市を創る計画があった。その大庭園の南端には「ムーレイ・イスマーイールの穀倉」が造りかけられ、アーチ架構列が残っている。
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スルタン・ムーレイ・ハッサンの大宰相を務めたモフタール・ベン・アルビ・アル・ジャマイの邸宅が 現在は博物館に転用されている。展示品よりも 建物の内装が 豪華絢爛で驚く。 ![]()
フランス植民地だった1913年に、アル ヘディム広場に面した宮殿の外側にタイルの幾何学モザイクの素晴らしい泉が造られた。
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メクネスの守護聖人と言われた イスラームの聖者、シディ・アーイシャが住んでいた所に、今は 白壁と緑色瓦の、彼女の廟が建っている。
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メクネスの北 22km、
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(左)聖廟への入口通路、異教徒は門から入れない。
Hassan Mosque, 1199 ![]() ![]() ハッサン・モスク 復原立面図と、現状遺跡 (From "Islamic Architecture" by Robert Hillenbrand, p.140) モロッコのモスクは、礼拝室の屋根を幾棟にも分けて 緑色の瓦で葺き(ex. カラウイーン・モスク)、その脇に正方形プランのミナレットを高く建て、その 頂部に小塔を立てるのが標準である(ただし、モロッコに1本だけ、円形プランのミナレットが ムーレイ・ドリスにある)。ムワッヒド朝時代の未完成のミナレット(ハッサン塔)を持つハッサン・モスクは、1755年のリスボン地震で 壊滅してしまったが、同形式である。
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ルワー門は 首都 ラバトの市門で、ムワッヒド朝のヤークーブ=アル=マンスールによって建造された。現在は 現代美術のギャラリーとして用いられている。 ![]() ウダイヤのカスバの門と城壁
ウダイヤのカスバは、ラバトのメディナの北に位置する城塞地区である。ムワッヒド朝時代に築かれた城壁を利用して、17世紀にムーレイ・ラシッドによって造営された。カスバを囲む塁壁は 厚さが 2.5メートル、高さが8メートルから 10メートルもあるという 堅固なもの。その中には城塞ばかりでなく、城内町や 広大な庭園もあり、市民の散策路になっている。 ![]() シェッラのカスバと、その門
シェッラのカスバは ラバトの郊外にあり、ローマ時代の遺跡の上に建設された。周囲が完全に塁壁で囲まれた大規模なもので、庭園あり、ローマ遺跡あり、オリーブ畑あり、多くのコウノトリの巣のある 楽園である。 ![]() ムハンマド5世の廟
フランスから独立を勝ち取った英雄としての 国王ムハンマド5世の廟なので、ハッサンの塔の隣の敷地に、贅を尽くして建設された。外観に比して 内部が壮観。
![]() 河岸のイスラーム墓地と、メディナ(旧市街)の通り
サレの町は、ラバトと河を挟んだ対岸の街だったが、今では道がつながり、ほとんど一体化している。河を渡ってすぐの、サレのイスラーム墓地が 印象的だった。 ![]() アブー・アルハサン学院 内部と、柱頭詳細 サレにも 伝統的な作りのマドラサが いくつかある。マリーン朝の スルタン・アブー・アルハサンによって建てられた アブー・アルハサン学院は、小規模の故に 中庭まわりの装飾密度が高く、規模の大きなマドラサを見慣れた目には、一種の緊迫感となる。通常のマドラサと異なるのは、2,3階の学生個室が 中庭にではなく、外部に向けて窓を持っていることである。初めから敷地が狭すぎたのであろう。
![]() アブー・アルハサン学院 平面図と、内部写真 (From "Andalusian Morocco" Museum with no Frontiers, 2002, p.244)
中庭は幅よりも高さが高く、すべての線が細くて 円柱も多く、それをタイルやスタッコで飾り立てている。剛健な全体構成の魅力というものが失われて 表層の飾りばかりが目に付いてしまうので、モロッコ・イスラムのバロック期という印象を受けた。しかし実際にはこれは 14世紀のものであって、マラケシュの 16世紀のマドラサ群よりも古いのである。
![]() モロッコにおける モダンデザインの2例として、最もモダン都市のカサブランカから、市役所と裁判所を挙げる。 ![]() 巨大なモスクである。礼拝室の建物全長が 250mもあり、ミナレットの高さは 210mもある。ところが 内部に足を踏み入れた時、これはモスクではなく、5廊式のキリスト教聖堂であると感じた。このモスクの設計は国際コンペで選ばれたのかと思ったらそうではなく、前モロッコ国王のハッサン2世が、以前から付き合いのある、モロッコ在住のフランス人建築家、ミシェル・パンソーに設計を依頼したというのである。そのために、この巨大なモスク空間を設計するのに パンソーは、子供の時から親しんできた カテドラルの方法に頼ってしまったのだろう。ミナレットを礼拝室と平行ではなく、45度振って配置するという造形上の新機軸を打ち出したにしても、その造形や装飾は伝統的なものに頼りきっていて、現代的な新しさは 少しも無い。この建物はモスクの歴史と原理を知らないか 無視した、完全な失敗作であるというほかない。その素晴らしいロケーションから大いに目立つモニュメントではあるが、莫大な工事費と8年もの歳月をかけたのだから、伝統を尊重しながらも、もっと現代的な建築作品、20世紀を代表するモスク建築にしてほしかったものである。 ![]() カサブランカのハッサン2世モスク平面図("Archnet" より)
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モロッコのムラービト朝 (1056-1147) は、新都 マラケシュを建設して これを首都とし、次のムワッヒド朝 (1130-1147) も これを受け継ぎながら、ムラービト朝を滅ぼした。マラケシュという名前は、元々この地を支配していた ベルベル人の言葉で、「神の国」を意味する「ムルトゥン・アクーシュ」に由来すると言われる。11世紀半ばから 12世紀半ばまでの ムラービト朝時代に多くの建物が建てられたが、イブン・トゥーマルトがイスラム改革運動として興した、厳格で 奢侈を嫌ったムワッヒド朝によって 大々的に破壊されたために、あまり多く残っていない。
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ユースフ学院」は、『イスラーム建築の名作』のサイトで 詳しく扱っているので、ここをクリック して ご覧ください。
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アグノー門はマラケシュに 19ある門の一つで、ムワッヒド朝のカリフ、ヤークーブ・アルマンスールによって 1188年に建てられた、モロッコ有数の壮麗な市門である。マグリブの古都は みな、これに準じた壮大な市門をもっていた。 ![]() クッバ・バアディン(古廟)は 12世紀初頭の 古拙な建物で、ムラービト朝の美術を伝える、マラケシュで唯一の遺構である。クッバとはアラビア語でドームのことで、ひいてはドームをいただく 廟を指す 外観は簡素だが、内部の天井は きわめて複雑に装飾されている。廟として用いられてきたが、本来は ムラービト朝時代に建てられた水利設備で、敷地内の貯水池の水は オート・アトラス山脈から カナートで水を引いている。
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マラケシュを象徴するミナレットであるクトゥビーヤの塔は、高さが 77メートルもあり、市内の どこからも眺められる。ムワッヒド朝の最盛期を築いた 第3代アミール、ヤアクーブ・マンスールによって 1147年に 建てられ、その建築装飾は イスパノ・モレスク美術の精髄をなす。マグリブ地方のミナレットは 四角いプランが原則であり、これは セビーリャのヒラルダの塔のモデルともなった。各階の中央に部屋があり、その周囲が斜路になっていて、ムアッジンが 最上階まで登ることができた。外部の頂部の装飾は、大小4つの銅の球体が積み重なっている。
カリフ・アルムーミンによる最初のモスクが 1158年頃に建て直されたのは、主として キブラ(マッカの方向)を正すため(約5度)であったらしい。ところが、現在の測量によるマッカの方向とは、さらに大幅にずれてしまった という、謎のような話である。今も、失われた旧モスクの 基礎が隣接しているので、見ることができる。
クトゥビーヤ・モスクはレンガ造であり、アーチはすべて 馬蹄形をしている。異教徒はモスクに入いれないので 内部の写真は撮れないが、ミフラーブの右側にはマクスーラがあり、左側には 壁の中に階段があって、背後の宮殿から カリフが 直接 モスクに出入りできたという。
![]() サアド朝 (1549-1659) の廟群は、フランス人が 1917年に空撮するまで その存在が知られなかったという墳墓群で、修復・復原された3つの部分から成る。メインのモハメッド・アルマンスールの墓には大理石の円柱が12本立つことから「12円柱の間」と呼ばれ、床はゼッリージュと呼ばれるタイル・モザイクで飾られている。その南側には「ミフラーブの間」がある。ここから離れて「ララ・マスウダの間」(3つのニッチの間)とその前室広間があり、壁の下半分のタイル・モザイク装飾は 特に見事である。
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アル・バディ宮殿は、サアド朝のスルタン、アフマド・アルマンスールが 1578 年に即位して すぐに建設を命じた、大規模な 四分庭園(チャハルバーグ)である。彼の治世のほとんどを通じて建設と装飾が続けられたが、後のアラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマーイールによって 破壊された。現在は 廃墟のようになっていって、コウノトリたちの 絶好の住み家となっている。 ![]()
アル・バディ宮殿址の平面図 (From Antonio Almagro)
当時の宮殿には、約 360 室のバロック様式の部屋が あったという。 135 m× 110 m の中庭に 現在も残るパビリオンは、かつて夏の宮殿として使われていたと考えられている。敷地内には、家畜小屋や奴隷用のエリア、地下牢などの建物もあった。 ![]()
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バヒアとは「美」の意。近世の建築工芸の粋が凝らされた、大規模な 大臣の宮殿である。サアド朝の 16世紀から 17世紀に創建され、1860年代にアラウィー派のスルタン、ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーンの宰相であった シ・ムーサによって、贅を尽くして完成された。彼は黒人奴隷出身であったという。
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近世のモロッコの建築の代表的な建物で、現在は王室の所有となっている。8ヘクタールもの敷地に複数の中庭と庭園、そして約 150もの部屋を持つ建物がある。長年にわたって拡張されたが、中心となる、回廊で囲まれた大中庭の作りは 大味である。
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マラケシュで最も崇敬されたスーフィーの聖人、シディ・ベル・アッバースの 「ザーウィヤ」(廟所)。1204年に死去した時ではなく サアド朝の17世紀に建設されたので、種々の建物やミナレットまで含む 大規模な複合体となった。そうした、宗教的な意味よりも 施設としての募廟は、地方によって マクバラーや ラウザ、ザーウィヤ、あるいは ダルガーと呼ばれる。
(写真は ウェブサイトの "Riad Al Ksar" からの借用) メナーラ庭園は、ムワッヒド朝の創始者 アブド・アルムーミンが 1157年に、今は無い宮殿の近くに作ることを命じた、96ヘクタールもの広大な庭園で、マラケシュ最古にして 最大の庭園である。今は 規則的にオリーブやナツメヤシの樹が立ち並ぶ 植物園のようになっているが、もとは菜園、果樹園だった。大庭園の中央には、アトラス山脈の麓からカナートで水を引いて 195 × 160メートルもの大貯水池を作った。現在はマラケシュ市民のピクニックと憩いの場になっている。
![]() 池の南端には 休憩所としてのガーデン・パビリオン(園亭)が 16世紀に建てられ、アラウィー朝の 19世紀に改築されて現在の姿となった。16メートル四方の小規模な建物だが、内部はモロッコ工芸の精で飾られている。
![]() モロッコは王国なので 各地に王宮があるが、もちろん 中には入れないので、外から眺めるだけ。マラケシュの王宮は主に冬季に用いられ、日本の皇居にあたるのが 首都 ラバトの王宮であり、京都御所にあたるのは フェスの王宮である。
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迷路のような メディナ市街の道筋(路地)は狭いが、新しいスーク(市場)の道は 広く作られている。このページの一番上にも メディナの小路.の写真があるが、道路の上にアーチが架かっていると、狭い路地と共に、いかにもメディナ(旧市街)という印象を与える。日本の「建築基準法」では、消防車の侵入のために、道路の幅は4メートル以上と 規定されている。メディナの路地ではどうしているのだろうか。 ![]() フランス人が造った新市街に対して 旧市街をメディナと呼び、その中心広場がジャマ・エル・フナ広場。約400メートル四方の広大な広場が 店舗群、飲食店、屋台、大道芸人で賑わう。かつて ここには未完成のモスクがあったというが 放棄され、公開処刑場ともなった。その跡に市場広場ができ、伝統と現在が 混沌と交じりあって、世界的に有名な広場となり、ユネスコの「無形文化遺産」にも登録されている。
![]() マラケシュは モロッコ一番の観光地なので、ホテル不足気味。ジャマ・エル・フナ広場の近くに やっと見つけた オテル・シェラザダ(シェーラザード)は、朝食をとるのは本館の屋上庭園だったが、泊まったのは 別館の2階で、とても趣のある、小さな古民家の 広い一室だった。別館には、小中庭と、街並みが眺められる 屋上もあった。
ティンマル・モスク ![]()
ティンメルとも ティンマルとも言い、マラケシュの南約 40kmの山奥に廃墟となっていたモスクだが、今は すっかり修復されている。ムワッヒド朝の創始者、イブン・トゥーマルトを祀ったモスクで、1995年に ユネスコ世界遺産リストに登録された。
「カスバ街道」は英語で Kasbah Road、Kasbah Highway、仏語で Route des Kasbahs と表現されます。モロッコ中部のワルザザードからティネリールを経てエルラシディアまでを結ぶ街道で、カスバと呼ばれる城塞集落が点在することで その名がある。
ワルザザート市内にも いくつかのカスバがあるが、本稿では市内南部の タウリルト・カスバのみを扱う。 ![]()
タウリルトは、ワルザザート市内の南部にあるカスバ。
アイト・ベンハドゥは ワルザザートの北西 25kmぐらいの ベルベル人の集落。最も有名な「カスバ都市」で、1987年には ユネスコ世界遺産リストにも登録されたので、今では毎日、観光バスが行くのだろうが、私が 初めて訪れた 1985年には、まだ あまり観光化も されていなかった。当時の旅日記には、次のように書いてある。
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![]() アイト・ベンハドゥの、とあるカスバの 上層階 平面図 (From Myron Goldfinger : "Villages in the Sun" p.160) ![]() スクーラは、ワルザザートの東 35kmぐらい。
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ブーマルヌは、ワルザザートの東北95kmぐらい。 ![]()
ティネリールはティンジルとも言うらしい。ワルザザートの東北東 150kmぐらいの町。 ![]()
グルミマは、ワルザザートの東 200kmぐらい。
ヴィジュアルな本を紹介しておきます。詳しい目録は 『イスラーム建築文献目録』の「 F. スペインとマグリブの建築 」の章を参照。
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