シカゴ周辺 |
神谷武夫
THE VILLAGE OF OAK PARK near Chicago, Illinois
シカゴ近郊の オウク・パーク村は、ライトがルイス・サリバンの事務所に勤めていた間に自邸を建て、独立すると 事務所(スタジオ)を増築した所である。 ![]() ![]() オウク・パ-クの ガイドマップと 街路の景観
FRANK LLOYD WRIGHT HOME & STUDIO,
英国のウェールズからのユニテリアンの移民一家(ロイド・ジョーンズ家)の 家長 リチャードの娘、アナ・ロイド・ライトの息子として生まれたフランクは、母が念願したとおりの大建築家になる。「ライト」というのは、アナが離婚することになる父、ウィリアム・ラッセル・ケアリー・ライトから受け継いだ姓である。成長したフランクが最初の居を構えたのは、まだアドラーとサリヴァンの設計事務所に勤めていて、17歳のキャサリンと恋愛して結婚した 22歳の時だった。若くして才能を発揮して サリヴァンの片腕となっていたライトは、シカゴ郊外の住宅地 オウク・パーク村に サリヴァンの援助で土地を買い、他にも大きな借金をして、まずまずの家を建てた。( この最初の妻 キャサリンが 87歳で亡くなるのは 1959年で、ライトの死の1ヵ月前である。) ![]() 1893年に アドラーとサリヴァンの事務所から独立すると 住宅設計を次々に行い、所員を雇う余裕もできると、1898年に この自宅にスタジオを増築して、シカゴの借室から ここに自身の設計事務所を移した。以来 1909年に 妻子を捨てて メイマ・チェニーとヨーロッパに旅立つまでの 18年間、ここで 初期の数々の作品を設計したのである( 数で言うと、全作品の 1/4 にもなる)。
![]() ![]() W. H. WINSLOW RESIDENCE, 1894, River Forest
ウィンズロー邸は、ライトがサリヴァンの事務所から独立して得た 最初の仕事である。まだ「近代建築」とは言えない クラシックな設計だが、はっと させるほどに 鮮やかな外観をしている。27歳の若者の、斬新なデザインだった。大きな寄棟屋根で水平線が強調された外観は、プレーリー・ハウスの先駆だとも言えるが、当時、この外観は 人々からは嘲笑されたという。外観を撮影していたら 招き入れられて、内部を見せてもらったような記憶もあるが、フィルムが巻けていなかったので、写真は残っていない。上の写真その他は、そのことに気が付いて 大あわてで撮り直したもの。
N.G. MOORE RESIDENCE, 1895, 1923, Oak Park
1893年のシカゴ万国博覧会で 日本館としての鳳凰殿(平等院鳳凰堂をモデルにした木造建物)に天啓を受けたライトは、水平線を基本とする「プレーリ−・スタイル (Prairie Style) 」を発展させて行くが、それ以前は 種々の試行錯誤をしていて、この2軒の住宅、ムーア邸 と ファーベック邸も そうである(ムーア夫妻は、ウィンズロー邸のようでは ないデザインを望み、この家に満足したが、ライト自身は そうではなかった と「自伝」にある)。 F.W. THOMAS RESIDENCE, 1901, Oak Park
(ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』復刻版 30図 ) プレーリー・スタイルが確立している。
トーマス邸は オウク・パークにおける 最初のプレーリ−・ハウス(大草原住宅)として知られる。以前の切妻屋根が影をひそめ、次のハートリー邸と同じように 浅い勾配の寄棟屋根となり、水平線が 全体を支配するようになる。何よりの特色は、玄関から居間、食堂、その他へと 空間が流れるように連続し、暖炉を中心とする快適な住まいとすることだった。
![]() A HOUSE for the PRAIRIE TOWN, 1901
(『 レディース・ホーム・ジャーナル 』誌、1901年2月号)
「プレーリー派」という名称のもとは 勿論ライトにあるが、大草原住宅と言っても、その多くは 田園にではなく、都市近郊に建てられた。ライトによる「プレーリー住宅」のマニフェストは、1901年に『レディース・ホーム・ジャーナル』誌に載せた「プレーリー・タウンの家」という 提唱記事である。プレーリー・タウンというのは 語義矛盾であるが、クライアントの多くは 大草原よりは、都市近郊の土地に建てる住宅の設計を依頼してきた。しかし ライトの頭にあった「原風景」は、あくまでも 故郷のウィスコンシンにおける、なだらかな起伏の丘や森が 伸びやかに広がる 大草原だったのである。
A. & G.HEURTLEY RESIDENCE, 1902, Oak Park
アーサー・ハートリー邸は、オウク・パークにおける プレーリー・スタイル(大草原様式)の初期の住宅で、寄棟の大屋根で覆われ、深い庇の下には、アート・グラス(ステンドグラス)の窓が連なっている。ここでも玄関は 大振りなアーチ開口である。今から120年も前の家が これほど きれいに保たれているのは、
文化財として修復・保全されているからだろう。 M.B. & E.H. CHENY RESIDENCE, 1904, Oak Park
レンガ造の平屋に方形屋根を架けた、コンパクトなプランのプレーリー住宅。この家の設計と工事中に、ライトとチェニー夫人は恋に落ち、不倫の仲となる。 P.A. BEACHY RESIDENCE, 1906, Oak Park
銀行家 ピーター・A・ビーチーの住まいは プレーリー住宅に分類されるものの、寄棟の大屋根ではなく、切妻屋根がいくつも並んでいるので 眼を引かれた。2階に4寝室があり、それらの窓に すべて切妻の庇をかけたのであって、プランの作り方やディテールはプレーリー住宅であった。 THOMAS H. GALE RESIDENCE, 1909, Oak Park
ユニティ・テンプルと同じ 1904年に設計された ゲイル邸は、同じようにフラット・ルーフである。建て主のトマス・ゲイルが1907年にガンで急死したので、未亡人のローラと 娘のサリーが亡くなるまで住んだ。竣工は 1909年で、 装飾が少なくなり、キャンティレバーの白いバルコニーが強調されて、のちの 落水荘のデザインの先駆けとなった。しかし、RC(鉄筋コンクリート)造ではなく、木造である。 M.B. & H.S. ADAMS RESIDENCE, 1913, Oak Park
このアダムズ邸は プレーリー・ハウスの総括とも言われ、ライトがオウク・パークに設計した最後の住宅ともなった。 私が訪れた年の「ライト・プラス・ハウスウォーク・トゥア」で 内部が公開されていたので、かろうじて撮影できたが、逆に外観写真が 残っていない。世の中では、ライトの住宅に似た「プレーリー・ハウス」が一般化していった。
UNITY TEMPLE, 1905-08, Oak Park
1970年代に荒廃していたユニティ・テンプルは、エドガー・カウフマン・ジュニアの
オウク・パークに建つ この聖堂は、この HP の「世界の建築 名作ギャラリー」
F.C. ROBIE RESIDENCE, 1908, Chicago
ロビー邸は都会の中の住宅地に建つが、ライトのプレーリー時代の「大草原様式」の集大成であり、決定版であると言える。立地は シカゴの中心部のハイド・パーク地区であるが、シカゴ市内には「〇〇パーク」という地区名がたくさんあり、オウク・パーク村も 実際は その一つのようなもので、ハイド・パーク地区からは わずか 16キロメートルの距離である。
![]() ![]() ロビー邸の 道路側と、エントランス
フレデリック・C・ロビー邸 2階平面図
1階にエントランスやプレイ・ルーム、ビリヤード室、そしてガレージがあり、広い居間・食堂が2階にあり、寝室は3階という三層構成をとっている。特にメイン・フロアの2階は居間と食堂が連続した 24メートルにも及ぶ長大なワン・ルーム空間とし、その四周をステンドグラスの連続窓で囲って、住居空間というよりは 宗教空間のような、きわめてモニュメンタルなものとなった。
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![]() ロビ-邸の透視図 (ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』復刻版 58図)
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