プロローグ |
神谷武夫
![]() さて、この浩瀚な本をひろい読みしていたところ、80〜81ページの記事に 私の目は釘付けになった。そして 若い日の記憶が呼びさまされて、深い感慨に捕えられた。その2ページに 何が書かれていたのかというと、モスクワ市 中心部に立つ「救世主聖堂」と、それに関連した「ソヴィエト大宮殿」についての解説である。その内容は 歴史的な紆余曲折があって錯綜しているが、それを要約すると 次のようになるだろう。 ナポレオンがモスクワに攻め入ったのは 1812年のことであるが、ロシアの雪と寒さに耐えることができなかった。補給路を断たれたナポレオン軍は その冬に撤退を余儀なくされ、追撃を受けながら パリまで敗走する。戦勝したロシアは、この時の戦没者を慰霊するための「救世主」大聖堂を、モスクワ南西郊外の ヴァラビョーヴィ丘に建設することとし、1824年に 大コンペティションを開催する。その時一等を獲得したのが、80ページの下に 小さい図 のある A・ヴィットベルグの設計案である。ところが 彼は
「建設の初期段階で 経験不足による経理上のミスを犯し、
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ところが ロシア革命の後、スターリンは宗教弾圧を強めて、1931年に この聖堂を爆破してしまう。ソ連邦の首都モスクワを、ローマやパリに匹敵するような都市にしようとする 新たな「モスクワ再建計画」に基づき、この敷地には 聖堂に代わって、国家を象徴する「ソヴィエト大宮殿(ソヴィエト・パレス)」を建設することとし、またしても一大国家コンペを催すのである。
![]() しかし、ムラギルディンによる このソヴィエト大宮殿のコンペの記述は、いささか わかりにくい。Cees de Jong と Erik Mattie が書いた ”ARCHITECTURAL COMPETITIONS 1792-1949” (1994, V + K Publishing, The Netherlands) には もっと詳しい記述があるので、これによって 再度見ていくことにしよう。それによると、このコンペは、まだ レーニンが存命していた 1923年に開催された「人民宮殿」のコンペに端を発するという。コンスタンチン・メルニコフや ヴェスニン兄弟ら 構成主義者が参加したこのコンペの段階では、それは ソヴィエト "人民" を讃えるための施設計画であり、革命的なモダニズムの設計案こそ ふさわしかったのだが、実際に入選したのは "カメレオン建築家" トロツキーの 新古典主義のデザインだった。その建物は資金不足のために 実現しないのであるが。
「ソヴィエト・パレス」のコンペが始まるのは、その8年後の 1931年である。この時、すでに革命は スターリニズムの段階に はいりかけていて、コンペの対象は "人民" のための宮殿であるよりも、ソヴィエト "国家" を記念するモニュメントに すりかわっていた。ヒトラー付きの建築家・シュペーアがナチスのためにつくった「首都ベルリン計画」に相当するような「モスクワ改造計画」が推し進められ、芸術の世界を支配するのは "社会主義レアリスム" となっていく。しかし、モダニズムの建築家たちは、まだ そのことに気がついていない。 こうしたことは ともかくとして、『ロシア建築案内』には もっと重要なことが 記されていないのが 不思議である。このコンペは、人民宮殿コンペ の時以来、終始 モダニスト建築家たちと 保守派の様式主義建築家たちとの戦いであった。 最終的にモダニズムは却下され、大時代的な社会主義レアリスムへと進んでいくのであるが、この戦いを象徴するのが 第1段階のコンペである。ここにはロシア以外のヨーロッパから モダニストの建築家が何人も 招待されたにもかかわらず、それらのすべてが 落選させられてしまったのである。そのモダニストたちとは、ル・コルビュジエ、ワルター・グロピウス、オーギュスト・ペレー、エーリヒ・メンデルゾーン、ハンス・ペルツィヒという、近代建築の革命児たちである。彼らは裏切られるとは知らずに、理想主義国家建設の希望に燃えて、新しい建築を構想したのであった。
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中でも ル・コルビュジエ (1887-1965) の案は、巨大なアーチから 大ホールの屋根を吊るという 大胆な構造計画にして、かつモニュメンタルな造形で群を抜いた。もしこれが実現していれば 近代建築の最高傑作になったろう、とも言われるほど 有名な設計案である。この案は 実現こそしなかったが、その後の世界各地の近代建築家たちに 大きな影響を与えた。丹下健三の広島平和公園のコンペ案に 慰霊のための大アーチが モニュメンタルに架けられていたことはよく知られているし、実現したものとしては アメリカの建築家、イーロ・サーリネンによる ジェファーソン・メモリアル・アーチ (セントルイス)、その他がある。
![]() そして、1949年に行われた「広島市平和記念公園 及び記念館 競技設計」、略して広島平和センターのコンペ案である。丹下は現在の "家型埴輪" 風の慰霊碑があるところに 大アーチをかけるつもりだった。藤森はこう評している。
藤森はさらに言う。 丹下健三の東京オリンピック・プールもまた ソヴィエト・パレスを一粒の麦として咲いた 20世紀建築史上の大輪の花であったし、1個の模型に終わったソヴィエト・パレスの夢を どう実現するかが 20世紀後半の世界の建築史のうえでの丹下の仕事であった、とまで言う。いささか コルのパレス案への思い込みが強すぎるのではないか という気もするが、しかし この本は本当におもしろかった。私はコルビュジェアンではないが、思いおこせば、恥ずかしながら 私でさえ 大学時代の設計課題で、大アーチからの吊り構造を 試みたことがあるくらいである。
![]() それほどに 後世への影響の大きかったこのコンペのことを思えば、ムラギルディンの『ロシア建築案内』は このページに、そうしたモダニストと様式主義者の角逐を記述し、ル・コルビュジェの図面か模型写真をここに載せれていれば、この本の内容は はるかに豊かなものになったことだろう。 しかし、私が『ロシア建築案内』を読んでいて この2ページで感慨に捕えられた と書いたのは、実はこのことによってではない。それは 19世紀、そもそもの 1824年に行われた「救世主聖堂」の最初のコンペにおける アレクサンドル・ヴィトベルクの案 によって であり、それが 後のソヴィエト・パレスのコンペにつながっていることを 初めて知ったからである。 |