アルメニア中部の建築 |
コタイク県 KOTAYK PROVINCE |
ケチャリス修道院(ヴァンク)***
ケチャリスとは、フラズダンの西4km、標高 1,840メートルのスキー・リゾートとして知られるツァグカゾールの町の 昔の名前である ケチャリュク Kecharyuk に由来する。町は 1947年に ツァグカゾールという名になった。修道院は町の上方に、パフラヴィ朝の行政長官 グリゴールによって設立され、11世紀から13世紀半ばまで、断続的に建設が続けられた。12、13世紀には、ケチャリス・ヴァンクはアルメニアの重要な教育・文化センターのひとつだった。
メインの聖グリゴール・ルサヴォリッチ聖堂は、1033年にパフラヴィ朝の神学者であり、ヴジュニ公の息子であった 行政長官の グリゴール・マギストロス(Prince Grigor Magistros, 990-1059) によって建てられた、修道院の最初の建物である(創建年については、1003年、1013年という説もある)。ドーム式のホール型で、アプスの両側に2層の小チャペルがある。南側の外壁面には 実に堂々たるポータル(扉口)を備えているが、そのタンパンには 絵ではなく 文字だけが刻まれている。ドラムから上の塔状部は 1827年の地震で崩壊したままになっていたが、2000年までに再建された。
聖グリゴール聖堂の南に離れて建つ 小規模な聖ヌシャン聖堂は、聖十字架聖堂とも呼ばれ、聖グリゴール聖堂のすぐあとの 1051年に、やはりグリゴール・マギストロスによって献堂された。きわてスレンダーで、こうした縦長の聖堂というのは、ヨーロッパにはあまり見られない。背が高く細い 円筒形ドラムに、6連のアルカチュールが巡っているのが印象的である。 一番南の カトリケー(カテドラル)は、プロシアン家のヴァサク・ハフバキアン公 Prince Vasak Khahbakian の下で 13世紀初めの 1203-1214年に、建築家 ヴェツィク Vetsik によって建てられた。聖グリゴール聖堂とほとんど同じプランであるが、ガヴィットはないので、入口ポータルは南側ではなく 西側にある。その4段アーチは 尖頭形で、しかも馬蹄形という珍しいものである。カトリケーも 1827年の地震でドームとドラムが大きな被害を受けたが、2000年に再建された。ドラムには 優美な 12連のブラインド・アーケード装飾が施されている。
ガヴィットは 1206年に建てられた。4本柱の標準的なプランだが、左右の東隅に2層の聖具室があり、ガヴィットでは最初とされる。四本の柱は全て単岩の円柱である。中央のベイは、同時代の ゴシャ・ヴァンクのガヴィットと似た 八角形のクロイスター・ヴォールトのイェルディクにして、頂部のスカイライトから採光している。外部では 南側のファサードの中央の窓上に、八弁形のロゼットと日時計が 愛らしく彫刻されている。1230年代のモンゴルの侵入によってヴァンクは荒廃したが、1248年にハチェン Khachen のハッサン公 Prince Hasan によって修復された。おそらくその時に、ガヴィットから聖グリゴール聖堂への入口上のタンパンに、ジョージア風のフレスコ画が描かれたと考えられる。
聖グリゴール聖堂と聖ヌシャン聖堂の間には二つの最古層の小チャペルと中央ホールがあったが、ほとんど失われ、ホール跡にはハチュカルが並べられている。聖堂群の裏手にも多くのハチュカルがあり、一番大きなものは「ヴェツィクのハチュカル」と呼ばれている。ヴェツィク Vetsik は ケチャリス修道院のメインの建築家であった。 ( PC.45, AA.546, OK.227, MH.148, DOC.11 )
ヴァンクの向かいの西に 100メートルばかり離れた林の中に 単独に建つ 13世紀の聖アルチュン聖堂がある、アルチュン(ハルチュン)とは復活 Resurrection の意である。円筒形のドラムと円錐屋根を戴く聖堂で、1220年にHasanの息子によって建てられた。カトリケーの建て主である プロシアン家のヴァサク公の葬祭聖堂だったのではないかと言われる。聖堂の手前には、小ガヴィットというべきか 珍しい形の 閉じたポーチを備えている。( PC.45, AA.541 )
マクラ修道院(ヴァンク)* フラズダンはイェレヴァンの北東45kmに位置し、ソ連時代に工業都市として開発された。旧市の郊外のマクラヴァン地区にはマクラ修道院(ヴァンク)があった(ケチャリス・ヴァンクから わずか2kmの距離である)。ここには 13世紀のドーム型の聖母聖堂が残り、さらにその脇に、もっと古い 単室型の10世紀の小聖堂がある。聖堂のドームは円錐屋根で、小聖堂は切妻屋根で覆われている。かつては聖母聖堂の前にガヴィットがあり、周囲は墓地だった。聖堂のアプスには、アルメニアには珍しく、木造の祭壇障壁(イコノスタシス)が作られ、しかも聖堂のような形をしていて彩色されている。 (PC.39 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 * ブジュニはフラズダンの東南12kmの村で、城塞の残る山のふもとに 14世紀初めの大きな聖母聖堂が建つ。ホール型の聖堂で、中央のドーム天井の上は細かい小間割りの傘型円錐屋根である。全体は完全な長方形プランで、東外壁には馬蹄形アーチ・プランのアプスの両側に切り込みニッチがあって、アプス中央の窓とともに装飾効果をあげている。内部のアプス前の横断アーチを支える束ね柱は興味深い柱頭をしている。1647年に改修された記録があり、その時に屋根が急勾配にされたと考えられている。20世紀(1947年)には大々的に修復された。聖堂の周囲に多くのハチュカルがある。( PC.46, AA.505. MH.138, DOC.16.p.53, EC.276 )
聖母聖堂の東南の丘の上に建つ、7世紀と推定される小聖堂で、十字架型平面の聖堂としては アルメニアで最小と言われる。ドームの上に八角錐屋根のドドラムが高く立ち上がるが、外壁には、窓回りでさえ、ほとんど装飾が無い。1970年に完全修復された。 聖サルキスは 殉教者・聖セルギウスのこと。( PC.46, AA.504, EC.98 )
ネグチ修道院(ヴァンク)*
アルザカンのネグチ修道院(ヴァンク)、ブジュニの西 3.5kmのアルザカンの、さらに西の山の上に残る廃墟のヴァンク。ほとんど禿山で、修道院の廃墟と残骸、ハチュカルが散在している。( PC.44 )
ゾーラヴァル(聖テオドロス)聖堂 *
ゾーラヴァン村の近くにあるゾーラヴァル聖堂(聖テオドロス聖堂)は、 イリンドの 八アプス式聖堂と良く似たプランだが イリンドより やや小さめで、四角い要素の無い「純粋な」八アプス式である。wiki では ガルガ・ヴァンク Ghargha Vank と記載している。
( PC.52, AA.593, MH.78, EC.147dr, 330-1 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 ***
イェグヴァルドはイェレヴァンの北18kmに位置する町でイェグバルドとは「バラの香り」の意である。起源はアルメニアで最古の集落のひとつだったらしい。多くの歴史的建造物を抱えているが、大半は廃墟となっている。
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂は、入口ドアの彫り付けでは 1301年にザカリア朝 (1201-1360) の アジズベク (Azizbek) 王による建立とあり、ドームへの書き込みでは 1318年から1328年の建設とある。修道士建築家のサヒク (Sahik) による設計という。
四周の壁とも手の込んだレリーフ彫刻で満ちていて、またよく保存されている。絵柄は幾何学紋を基本として、牛やライオンや鷹などの動物もあり、西正面の頂部には聖母子像が彫られている。1階の内部は、交差ヴォールトの天井で、窓がないので 入口からしか光がはいらない。アプスの祭壇は床が高められていて、左右に階段がある。( PC.51, AA.521, MH.210 )
聖母聖堂の近くに、初期中世のバシリカの遺跡がある。建築のスタイルから7世紀と判断されるが、5世紀のカテドラルだったという説もある。1730-35年のトルコ・ペルシャ戦争で大部分が破壊され、20世紀初めの発掘でプランが明らかになった。それは三廊式のバシリカで、内側が半円形で外側が五角形のアプスが突出していた。( PC.49, AA.520, EC.109dr, 227-9 )
カプタ修道院(ヴァンク)*
カプタンのカプタ修道院(ヴァンク)聖堂は、アマグのノラ・ヴァンクおよび イェグヴァルドの 聖アストヴァツァツィン聖堂と同じスタイルの聖堂だが、これが一番シンプルで小規模である。あたりの平原を睥睨するように、あるいは海洋の灯台のように、丘の上に屹立している。イェグバルドの橙色の石に対して、こちらは灰色の玄武岩で作られていて、屋根のみ赤茶色の石で葺かれているのが効果的である。ロトンダの柱は、アマグやイェグバルドの16本に対して8本である。
( PC.22 )
聖ハコーブ聖堂* イェレヴァンの北郊外といってもよいほど近い距離にある、かつてのカナケル村に残る17世紀末の聖ハコーブ聖堂。聖ハコーブとは 聖ヤコブのことである。三廊式のバシリカ形式のプランであって、ドーム天井と円錐屋根が無く、外壁にV字型の切り込み(ニッチ)もないので、建築造形としては 単純すぎる感が無くもない。こうした 大きな切妻屋根で覆われた長方形の建物は、農家の納屋に近いと言えるだろう。アルメニア聖堂の最も原初的な形式である。 これが聖堂であると気付かせるのは、屋根の上のロトンダ形式のスカイライト屋根と、西側ファサードの きわめて装飾的な3連アーチのポータルである。何重にも重なるアーチの、雷紋やムカルナスの幾何学装飾は、やはり17世紀のムグニ修道院のポータルと ほとんど同じスタイルである。しかし こちらは、前面にあったポルティコの柱と屋根が失われてしまった。内部では諸所に近年の壁画が描かれているが、聖堂とはあまり調和していない。私の訪問時には、堂の前面に塀を築いていた。 ( PC.13, AA.541 )
SURP ASTVATSATSIN, 17c. カナケラヴァンの丘の上には、もう一つの17世紀の聖堂、聖アストヴァツァツィン聖堂が残る。規模も形式もプランも、丘の下の聖ハコーブ聖堂とよく似た 姉妹聖堂である。近世の17世紀の建立だが、聖ハコーブ聖堂よりも早いと考えられる。扉口まわりは、聖ハコーブ聖堂やムグニ・ヴァンクの聖堂の扉口と同じスタイルで装飾されている。西側ファサードの切妻下の、石の色違いによる市松模様が目を引く。南側ファサードでは壁面全体が横ストライプ模様になっている。中央部のスカイライトのロトンダ風の屋根は、規模は小さいが、6本柱の柱頭に至るまで 非常に緻密に作られている。これが鐘楼でないのなら、ポルティコの上に鐘楼が立っていたのかもしれない。聖堂の内部には ほとんど装飾がない。 ( PC.12, AA.542 )
村の中に、珍しく建物状になったハチュカル(十字架石)がある。ハチュカル堂というべきか。碑文によれば、ペテワン Petewn とその妻の アワグ Awag の注文で、彫刻家のムヒタルが 1265年に制作したという。ハチュカルに人物が組み込まれているのも珍しいが、その夫妻と家族の肖像なのだろう。この周囲には、いくつもの 17世紀のハチュカルがある。
カトリケー(カテドラル、プトガ・ヴァンク)* フラズダン川を望む丘の上に残る、大規模なプトグニのカトリケーの遺跡である。プトガ・ヴァンクとも言う。建設年不明だが、6世紀か7世紀のものと推定されている。プランはアルッチの聖グリゴール聖堂やデドマシェンの聖堂とよく似たドーム・ホール型。全体の長さは約28メートルで、アルッチと同規模であるが、こちらは半壊しているので、建築作品として嘆賞するわけにはいかない。( PC.32, AA.566, MH.52, DOC.16, EC.163dr, 363-6 )
ローマ神殿 *
アルメニアにローマ神殿が建っていることに違和感を覚える人もいるかもしれないが、もちろん これは 20世紀の再建であって、最初に建てられたのも アルメニアがキリスト教を国教とするより ずっと以前の、紀元1世紀のことである。伝説によれば、アルシャク朝 (66-248) の初代の王、トルダト1世 (66-88) の妹(あるいは姉)によって 紀元 77年に建立されて ヘリオス神(太陽神)に献じられたという。 聖室がイオニア様式の円柱で囲まれた、周柱式の神殿である。
三方がアザト川の深い峡谷に面した半島のような要害堅固の丘を神域として、残る一方(西側)にアニの城壁のような壘壁を築き、門を設けた。壘壁には 14の角形の櫓があった。王室のキリスト教改宗(301年)以後は 城塞化した 広い神域内で、神殿の西に宮殿が設けられ、夏の離宮として用いられた。1638年にオスマン朝によって損壊され、1679年の地震で壊滅した。ずっと後の 20世紀になって、ガルニ村近くの この神域が大々的に発掘され、1969年から 1975年かけて 復原された、完全なローマ神殿である。ただ 石材は、ローマ神殿に一般的な 柔らかい大理石ではなく、地元産の 硬い花崗岩を用いている。( AA.528, OK.47, EC.335 )
神殿の西 50mのところに、3世紀のローマ風浴場の遺跡がある。神殿に付属していたのか、アルシャク朝の宮殿に付属していたのかは不明。内部は4室から成り、熱浴室(カルダリウム)、温浴室(テピダリウム)、冷浴室(フリギダリウム)、そしてホールである。私の訪問時には 外壁の上に仮設の屋根が架けられていて、内部の修復工事をしていた。かつては床や壁に 自然石によるモザイク画があったのだが、内部には仮設の通路などが作られていて、写真撮影は不可能だった。
7世紀、ビザンティン帝国のアルメニア支配時代(631-693)の659年、神殿のすぐ隣に(神殿と接するように)円形聖堂(聖シオン聖堂)が 総主教ネルセース3世によって建てられた。四アプス型を 矩形でなく 円形の外郭で囲うという珍しいプランで、外形の直径が約 20mであるから、かなりの規模である(厳密に言うと 24角形をしている)。同様の円形聖堂はマルマシェンなどにもあったが、いずれも上部構造は崩壊してしまった。ここも 発掘跡が見られるのみである。( PC.25, AA.529, EC.149dr, 334 )
ローマ神殿区域から離れて、ガルニ村にはいくつかの聖堂と遺跡が残る。最も古いのは単廊式聖堂跡で5世紀末のものと考えられている。4ベイにアプスの付く長大な聖堂で、南側に イェレルークのような柱廊を備えていた。( EC.99dr, 206-70, AA.529 )
13世紀のマシュトツ・ハイラペト聖堂は 単スパンの小聖堂ながら、四面の壁面も 上部のドラムも、実に入念に レリーフ装飾がほどこされている。陽が当たると 本体のグレーの石に対して、屋根が赤石灰石で仕上げられている色彩の対照が鮮やかである。傍に小規模なハチュカル堂が建っている。ハイラペトとは総主教 (Patriarch) のこと。実際は聖母(アストヴァツァツィン)聖堂である。( PC.23, AA.530 )
ゲガルド修道院(ヴァンク)***
ハグバトと双璧をなす アルメニア建築の傑作、ゲガルダ・ヴァンク(槍の修道院)。古名は アイリ・ヴァンク(洞窟の修道院)で、ここには 最良の石窟聖堂群があり、13世紀の石造聖堂(カトリケー)と一体化して、他に例を見ない、ユニークなヴァンク(修道院)を形成した。修道院は 4世紀に聖グリゴール・ルサヴォリッチ(啓蒙者)が、既存の異教寺院をキリスト教聖堂に建て換えて設立したと伝えられている。しかし初期の建物は10世紀にアラブ軍によって、また12世紀にセルジューク朝によって破壊された。12世紀の聖母聖堂(現在の聖グリゴール聖堂)だけは 破壊を免れたが、それ以前の建物は全滅して 今は残っていない。
● 詳しくは、「世界建築ギャラリー」のサイトの INDEX |
首都 イェレヴァン YEREVAN, CAPITAL |
カトリケー(カテドラル)* アヴァン(アワン)は、イェレヴァンの特別行政区内ではあるが その北東郊外で、かつては6世紀以来の総主教座だった地区に、大聖堂(カテドラル)の遺跡がある。約15×20メートルの小さからぬ規模であるが、1679年の地震で大きな被害を受け、屋根および内部の大半は失われてしまった。プランはバガルシャパトの聖フリプシメ聖堂の流れをくむ四アプス型だが、各コーナーの祭室およびその前室が すべて円形であるのが特異である(五ドーム型の最古の作例ともされる)。尤も、そうした内部構成は、矩形の外形プランをした厚い外壁の外からは、全くうかがい知れない。正面ファサードは 比較的よく保存されていて、入口の上にアーチ、その上に浅い切妻屋根が架かって、シンボリックであり、エレルーク・バシリカのポータルを思い起させる。周囲は貧しい家々に囲まれていて、聖堂の所在が わかりにくい。( PC.9, AA.500, EC.141dr, 301-4 )
カトリケーの近くに単室型の小聖堂(聖ヨヴハネス聖堂)が 半壊の姿で残る。赤茶色の石を主とする外壁が鮮やかで、入口のまぐさ石(リンテル)には 十字架が彫刻されている。ほとんど装飾はないが、南脇に 1297年のハチュカル(十字架石)が切妻屋根を戴いて立派である。聖ヨヴハネスとは聖ヨハネのこと。この周囲は かつては墓地になっていて、さらに小さな聖堂や、珍しい独立柱も立っている。( PC.8, AA.501, EC.184, MH.68 ) (EC.382 )アシュタラク地区に、5世紀のバシリカ聖堂もある。( PC.66, EC.93dr, 183 )
イェレヴァン市の都市計画は、1924年にアレクサンドル・タマニアンによって行われた。既存の小都市を新都市の中心部として、それを囲むように円形の「グリーンベルト」をまわした。既存の道路パターンを尊重しながら、都市の核としての 「共和国広場」(旧称 レーニン広場)と 「自由広場」(オペラ広場)を設けた。タマニアンの最大の功績と言うべきグリーンベルトは、今も半分ほどが 樹木の茂るカフェテラスになっていて、市民の憩いの場である。鳥のさえずりを聞きながら、たっぷり時間をかけて ビールを ちびり ちびりと飲み、本を読んだり 友と談笑したりするのが 市民の習慣である。
タマニアンによるイェレヴァンの都市計画図 中心部
カスカードの下の大通り公園は「タマニアン通り」と名付けられていて、入口寄りの中央に タマニアンの全身像が設置されている。彫刻家はアルタシェス・ホヴセプヤン (Artashes Hovsepyan)。共和国広場の近くのガヴァメント・ビル内には タマニアン記念館があり、彼の写真や図面、模型や資料が展示されている。近年は展示物が充実して、アルメニアの建築史博物館の役割も果たしているらしい。 アレクサンドル・タマニアン(1878〜1936)は1878年にロシアのエカテリノダール(現在のクラスノダール)で生まれ、ペテルブルグの芸術アカデミーで教育を受けた。ライトとコルビュジエの中間世代であるが、モダニストではなく、新古典主義の建築家だった。ペテルブルクで設計活動とともに 1917年からは芸術アカデミーの副校長も務めたあと、1923年にイェレヴァンに移り、以後アルメニア人として、新生アルメニア・ソビエト社会主義共和国 (1918-1991) のために活動した。妻はベヌワ家のカミッラ・エドワーズ。特にイェレヴァンの都市計画に打ち込み、1924年に承認された。数々の栄誉に輝き、1936年に 57歳で イェレヴァンで没した。筆者が訪れた作品は すべてイェレヴァン市内の、国立オペラ・バレー劇場+アラム・ハチャトリアン・コンサートホール、共和国広場の財務省ビル、市北東部の国立図書館および大学天文台の4件である。財務省ビルはアルメニアの 500ドラム紙幣に 透視図が印刷されている。
アレクサンドル・タマニアンの代表作である国立オペラ・バレー劇場+アラム・ハチャトリアン・コンサートホール。1930年に工事が始められ、1933年に一応オープンしたが、最終的にタマニアンの死後の 1953年に完成した。タマニアンは、劇場と音楽堂を背中合わせにして舞台を共有させるという、実に珍しい設計をした。どちらも円形を基本にしているので、全体は長円形になった。新古典主義の外観は、円形であることが柔らかさを与える。ホワイエが円周上に位置するので、細長すぎて狭い印象を与える。ホールはヨーロッパ風の作りだが 装飾過多にならず、適度なデザインである。バレー音楽『ガヤネー(ガイーヌ)』で名高いアラム・ハチャトリアン (1903-78) はアルメニア人で、 ソ連時代を代表する作曲家・指揮者の一人だった。アルメニア共和国の国歌も作曲している。
イェレヴァン旧市街の北端の斜面に、階段状に6段のテラスを設け、それを左右の大階段が結ぶ大規模な施設である。そこを水が流れ下るので カスカードと名付けられた。頂部の塔状の戦争モニュメントはソ連崩壊による未完成なので物足りないが、基本的には 市心の下町ケントロン地区と、あとから発展した山の手とを結ぶ装置であると言える。設計はジム・トロシヤン、アスラン・ムヒタリヤン、サルキス・グルザディヤンの建築家グループで、建設はソ連時代の1971年に始まった。1980年に第1段階が完成し、第2段階は2002年から2009年までだが、その後も絶えず手を加え、改良している。
各テラスは床と壁面に幾何学的造形がなされ、至る所にアーチと噴水を組み合わせた装飾が施され、全体として大きな露壇式庭園を形成している。全て白っぽい石灰岩(トラヴァーチン)で造られて、そこに幾何学的なレリーフ彫刻がほどこされ、実に魅力的な世界を作っている。階段の下には地下空間があって、7段のエスカレーターで最上階まで登れるようになっている。途中の踊り場階には 展示ホールや小美術館もある。頂部からは市街が一望でき、アララト山まで見える。
アルメニアの建築家たちは、かつての日本の建築界のように、いかに近代建築にアルメニアの伝統を採り入れるかに腐心している。この新市庁舎の、伝統と現代が融合した造形には 妙に心をそそるものがある。 アルメニアの建築家で、カスカードの共同設計者でもあるジム・トロシヤン (1926-2014) の設計で、1980年代に建設がスタートしたが、経済的に難航し、2004年に竣工した。5階建てで、時計塔の高さは 47mである。付属施設としてイェレヴァン歴史博物館が組み込まれていて、その入口上の外壁には タマニアンによる都市計画図が大きくレリーフで描かれている。 カトリケー(聖母聖堂)*
カトリケーというのはカテドラルのことであるが、2001年に新しい大聖堂(カテドラル)が市内に完成したので、イェレヴァンで最も古いこの小聖堂(聖母聖堂)は、今もカトリケーと呼ばれている。ここには大きな三廊式バシリカの聖母聖堂 (the Holy Mother of God) が17世紀に建てられ、イェレヴァン市のカトリケーであったが、ソ連時代の1936年に 都市計画上の理由で取り壊されてしまった。ところが解体中に、その中から小聖堂が発見され、壁に書かれた碑文によると、それは1264年の創建であるという。市民の要望で保存されることになり、無事だった後陣とその手前の1ベイだけが現存し、カトリケーの名を受けついでいる。その1ベイの上にドームと唐傘屋根が残っているのは幸いである。背の高いドラムは 12角形をしている。( PC.10, AA.523 )
聖アナニアの礼拝堂のあったところに1693年に建てられた三廊式の聖堂で、前面に聖堂と同じ幅の、剛柱のポルティコがある。さらにその前面の聖アナニアの廟の上に、1835年に小礼拝堂とその上の鐘楼が建てられた。それと向かい合うように、ポルティコの上に小さな聖堂模型が鎮座している。聖堂にはドーム天井はなく、そのかわりにポルティコの屋上に、鐘楼のようなロトンダが建っている。聖堂の通称のゾーラヴォルとは「強健な」の意で、伝説に基づくらしい。1835年までは修道院だった。( PC.11, AA.523 ) 聖サルキス聖堂は古くからあったが、1679年の地震で崩壊し、何度も再建された。現在のものは1972年に 建築家 ラファイェル・イスライェリアン(1908-73)の設計で古い要素を残しながら再建された。唐傘屋根のドームは2000年、鐘楼は2009年に完成した。アニの石灰石 tufa で仕上げられている。市内のフラズダン川に面し、かつては総主教 (Patriarch) のカテドラルだったという。前面ファサードの、モダーンな天使のレリーフ彫刻が目を引く。
アルメニアのキリスト教受容 1700年を記念して建てられ、2001年に献堂した新しいカテドラル。アルメニアにおける最大の聖堂だが、国家による建設ではなく 篤志家たちの寄付によっている。建築家はステパン・クルクチヤン (1929-2004)。高さは 63メートルで、1,700席を擁する。本来 正教では、信者は 立って礼拝したのであるが、このカテドラルではカトリック風にベンチに座って礼拝する。それがアルメニアの現代の傾向である。また、西洋風にオルガンも備えられた。大空間の礼拝室は窓が多くて明るい。トルコのモスクのように、大きなシャンデリアも吊られている。しかし外観の、伝統的な形態を単純化した形態は、子供の積み木細工のような幼稚さが感じられる。もっと大胆に現代的な、21世紀の建築造形にすべきではなかったろうか。
ギョク・ジャーミ(ブルー・モスク)* The Gyok Jami (Blue mosque) ペルシアによる支配の時代、1765年にペルシア人の総督フセイン・アリー・ハーンによって、マドラサとともに建てられたシーア派のモスク。イェレヴァンで最も古い建物のひとつであるが、ソ連時代の 1920年代に、モスクの機能は廃止されて、イェレヴァン歴史博物館として転用されていた。ソ連崩壊後の 1998年に イランの宗教省の協力によって修復され、アルメニアで唯一のモスクとして復活した。主にイェレヴァンに住むイラン人が礼拝に来る、金曜モスクである。広い中庭は緑が多くて、異教徒にとっても 快い散策、瞑想の場所になっている。
エレブニ EREBUNI *
エレブニ 城塞の 遺跡 *
イェレヴァン (Yerevan) の名が由来するエレブニ (Erebuni or Yerebuni) は、紀元前8世紀に アルギシュティ1世(Argishti 位 785−762 B.C.)によって建設された軍営都市で、ウラルトゥ王国の首都であった。ウラルトゥ王国というのはアルメニアの最初の王国で、紀元前9世紀頃に成立し、栄枯盛衰を経ながら前6世紀まで存続したらしい。
イェレヴァンの南西9km の郊外には、もうひとつの遺跡、カルミール・ブルール (Karmir Blur) の丘があり、ここには 前776年にティシェバイニ (Teishebaini) の城塞都市が築かれ、ウラルトゥ王国の宝庫が置かれていたという。これらの遺跡からの発掘品は、エレブニの小博物館に展示されている。
INDEX
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アララト県 ARARAT PROVINCE |
カトリケーと宮殿の遺跡
ドゥヴィンはイェレヴァンとホール・ヴィラプを結ぶ中間にあり、後者までは 43kmの距離にある。もともとは非常に起源の古い集落の上に ササン朝のホスロー3世が 335年に建設した都市で、コーカサスとペルシアやインドを結ぶ交易路にあって栄えた。ペルシアとアルメニアとの融和時代の4世紀末に カテドラルと カトリコス(総主教)の宮殿、修道院が建てられて、宗教センターとなった。5世紀のアルタシェス4世時代にはアルメニアの首都として繁栄し、人口は10万に達したという。カトリコス・ホヴハネス5世の時代の 640年に イスラーム軍に征服された。863年には回復したものの、13世紀の大地震と モンゴルの侵攻で壊滅した。
最初のカトリコス宮殿は 461-478年に建設された。ズヴァルトノットやアルッチの宮殿の発掘プランとの類似から、7世紀に総主教ネルセス2世によって改築されたと推測されている。宮殿の中心をなすのは4対の木造円柱が立つバシリカ式のホールだったが、柱頭は石造だったろうという。640年にアラブ軍によって破壊された。O. ハルパフキアンの復元図によれば、木造のハザラシェン(ラテルネンデッケ)天井が架かっていたようだ。( EC.172dr, 394-5 )
アララト山とホール・ヴィラプ修道院(ヴァンク)** アララト山と、ホール・ヴィラプ修道院 遠望。アララト山は ノアの箱舟がたどり着いたところ、という伝説があり、日本の富士山のように アルメニアのシンボルと見なされているが、現在はトルコ領。( PC.20, MH.226 )
ホール・ヴィラプとは「深い穴」の意。聖グレゴリウスが閉じ込められた地下牢獄があり、後にその上に小聖堂が建てられてた。 ( EC.115dr )
メナスタン ウルツァゾールの北東7km。メナスタンとは隠修士の庵(いおり)の意だが、小型の修道院をさすようだ。17世紀の小聖堂が、修復というよりは 復原工事中だった。( PC.19 )
平面図 (From "Architettura Armena" Paolo Cuneo, 1988, De Luca Editore)
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 ** ホヴハネス・カラペトの聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 ( PC.21, MH.222 )
INDEX
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ゲガルクニク県 GEGHARKUNIK PROVINCE |
聖タデヴォス・アラキャル聖堂 *
聖タデヴォス・アラキャル聖堂 、6世紀のプトグニのカトリケーや7世紀のアルッチの聖グリゴール・カトリケーと近似したプランの「ドーム・ホール型」聖堂。ドームは20世紀初頭。近くのカルカゾール(カカヴァゾール)に木造のヴァンクがある。( PC.174, DOC.16 p.48, EC.372-3)
セヴァナ修道院(ヴァンク)* セヴァン湖に突き出た小さな半島状の丘の上に セヴァナ修道院(ヴァンク)があり、今はふたつの聖堂が残っている。聖母(アストヴァツァツィン )聖堂と、聖使徒(アラケロツ)聖堂である。
(From "Architettura Armena" Paolo Cuneo, 1988, De Luca Editore) 聖母聖堂と聖使徒聖堂は874年に王女マリアム Princess Mariam Siunetsi によって建立された。聖ステファノス聖堂は10世紀。ガヴィットは13世紀初めに増築された(Sasa) 。木製扉は1486年。( PC.175, AA.573-4, DOC.18-34 )
ハイラ修道院(ヴァンク)* ハイラ修道院(ヴァンク)、聖母聖堂は 9世紀。小チャペルは 10世紀、ガヴィットも 10世紀。小型の四アプス式聖堂に、角度のずれたガヴィットが増築されたという点で、ハリチのハリチャ・ヴァンクと似ているが、ハイラ・ヴァンクでは外見上、それとは気付かれない。( PC.181, DOC.18-34 )
(From "Architettura Armena" Paolo Cuneo, 1988, De Luca Editore)
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂(ハツァラト)*
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂はハツァラトとも呼ばれる。( PC.180, DOC.18-66 )
聖母聖堂の裏手の壁面と 境内の岩に刻まれた星型(ダヴィデの星)は、ここにユダヤ人のコミュニティがあったことを推測させる。アルメニア教会と共存していたらしいのは興味深い。
聖ゲヴォルグ聖堂(バティキアン)、聖ゲヴォルグとは守護聖人のゲオルギウス、竜を退治するゲオルギー、英語ではジョージ、仏語ではジョルジュ。 4-5世紀の単室聖堂もある。( PC.184-185, DOC.18-64 ) SURP ASTVATSATSIN (CAMO), 18-19c.
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂(カモ)( PC.177 )
聖母(アストヴァツァツィン)聖堂
ノラトゥス(ノラドゥズ NORADUZ ともいう)の 聖母(アストヴァツァツィン)聖堂。 ( PC.182, DOC.18-58 )
聖グリゴール聖堂、Sasaでは13世紀 ( PC.183, DOC.18-44 ) ノラトゥスの墓地(ゲレズマノーツ)Gerezmanots (Cemetery)。この地方は13世紀にはザカリア家の所有だった。ハチュカルの多くは13−17世紀。現在のノラティス村ができたのは19世紀。古いハチュカル(十字架石)群と、小さな墓地聖堂(聖アストヴァツァツィン)。( DOC.18-50, 56 ) 7ヘクタールの墓地に約 800を超えるハチュカルがあるという。隣に現代の墓地が作られている。Wikiでは 16-17世紀がハチュカルのリバイバル期で、多くのハチュカルが作られたという。特に有名な彫刻家は、Kiram Kazmogh (1551-1610) とその同時代人 Arakel and Meliset だという。これと並ぶ大きなハチュカル墓地が ナヒチェヴァンのオールド・ジュルファにあったが、1998年から2006年にかけてアゼリー人の ナショナリストたちによって壊滅させられた。
コタ修道院(ヴァンク)
コタ修道院(ヴァンク)の3アプス式 聖母(アストヴァツァツィン)聖堂 遺跡。
ヴァネ修道院(ヴァンク)* ヴァネ修道院(ヴァンク)、アルツヴァニスト村の南東にある2連の聖堂で、間に共通のガヴィットがある。 ホラタキの聖母聖堂は、EC.316 ( PC.188, AA.586, DOC.18-76 )
10th century monastery of Vanevan and large but broken medieval khachkar
マケニアツ修道院(ヴァンク)** マケニスのマケニアツ修道院 ( PC.191, DOC.18-80 )
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