● 書評(鹿島出版会『SD』誌 1998年2月号)


『 アンコールの神々 BAYON
中川武=監修 BAKU斎藤=撮影
B4判、88ページ、5,040円
1997年10月発行、小学館




アジア建築史構築にむけて

 今はアジア・ブームだという。それが建築界にもおしよせてきた。10年前にはアジアの建築の本など、出版社から見向きもされなかった。それがここ数年は続々とアジアの建築の本が出版されて、驚きでもあれば 喜ばしくもある。そのおかげで筆者も何冊かインド建築関係の本を出版させてもらったが、東南アジアの建築の研究に精力的に取り組んでこられた先駆者、千原大五郎氏の訃報に昨年接したのは残念なことであった。
 千原氏は筆者と同じく 本来 建築家であり、設計活動とともに研究活動を進めてこられたのだが、現在アジア建築の研究を精力的に展開しているのは、純粋な建築史家である中川武氏である。早大のアジア建築研究会のスタッフをひきつれて、日本から東南アジア、そして南アジアへと領域を拡大して、比較建築学の確立へと歩を進めている。1994年にはユネスコとの協力のもとに日本政府によるアンコール遺跡救済チームが活動を始め、その団長も中川氏が務めている。

 カンボジアのアンコール・ワットといえば誰知らぬものはなく、我が国でもすでに10冊以上の本が出版され、テレビ番組でも何度も採り上げられた。けれどもクメール王朝の建築遺跡はアンコール・ワットだけではない。9世紀末に王国の首都となったアンコールは、わずかずつ中心点をずらしながら15世紀初めまで栄えた都であり、多くの寺院や宮殿、その他の施設が建設された。「大きな都市」を意味するアンコール・トムはアンコール・ワットの大寺院の北側にあり、一辺が3kmのほぼ正方形をした周壁で囲まれている。その中心にそびえるのが、12世紀末から13世紀初頭にかけて造営されたバイヨンの大寺院である。
 そして本書は日本で初めて、アンコール・ワットではなくバイヨンを主とするアンコール・トムの紹介に全編を捧げる書である。バイヨンの修復活動の指揮をとる中川氏が監修し、撮影を担当するバク・斉藤氏の大型写真集の形をとる。解説は中川氏のほかに平山郁夫、川瀬由照、西本真一の諸氏がわかりやすく執筆している。写真は建築よりも彫刻に力点がおかれているが、バイヨンの特色をなして林立する四面塔の顔面群をはじめとする細部を、大型カメラであますところなく捉えて迫力がある。

 この大寺院が全面的に紹介されずに、その100年近く前に造営されたアンコール・ワットにばかり脚光が与えられてきたのにはわけがある。明快な形式と晴朗な造形によって古典的な美の極点を現前させたアンコール・ワットに比べて、バイヨンの寺院はもっと複雑怪奇で「歪んだ美」とでもいうべき存在であるからだ。ルネサンスに対するバロックとでも言ったらいいだろうか。建設途中におけるプランの変更や拡大といい、林立する塔の四面に観音菩薩であるのかシヴァ神であるのか、あるいは神格化した王(デーヴァラージャ)であるのか、本書の英語の表題にある「神秘的な微笑」を浮かべた顔面彫刻といい、ここには謎に包まれた過剰さがある。
 その建築の意味と全体像はなかなかに把握しがたい。本書はその謎のすべてを解き明かしてくれるわけではない。調査と考究は現在進行中である。その中間報告として、本書は寺院のヴィジュアルな姿と概要とを提示している。読者は読み進むにつれて、その謎解きに参加していく趣向である。

 調査と修復の結果はいずれ学問的な報告書として出版されることであろうが、まずは一般向けの写真集として編まれ、刊行された。それでも解説文はすべて和英併記である。今まで我が国では、アジアの建築を知るためには欧米の書物に頼らざるをえないという倒錯的な状態にあった。しかし近年のアジア建築研究の蓄積によって、いよいよ日本から世界に向けてアジアの建築を紹介し、情報を発信するようになりつつある。将来は、アジアの建築を知るにはまず日本の書物を参照するという時代が来ることだろう。そうなるようにするのが、アジアの経済大国である日本の義務でもある。今まで主にヨーロッパやアメリカの建築に目を向けてきた建築家諸兄も、ぜひ本書を手にとってアジア建築の息吹きに触れてもらいたいと思う。

(1997年 10月 神谷武夫)

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