JIYU GAKUEN ( The School of Freedom)
遠藤 新・設計

自由学園南沢

神谷武夫

女子部

自由学園・高等部(旧女子部), 1934, 東京都 東久留米市 南沢
手前に半円形の体操館, 奥に食堂, 左右に教室棟
大芝生庭園を前にした、最もピクチャレスクな眺め



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《 フェイスブック について 》

 「自由学園」と聞けば、建築関係者ならすぐにフランク・ロイド・ライトが設計した、東京・池袋の「明日館(みょうにちかん)」を思い浮かべることでしょうが、現在 教育施設としての自由学園のキャンパスは、東京の西郊外の 南沢(みなみさわ)にあります。最近、何かのきっかけで ライトの弟子の遠藤新が設計した、その自由学園の校舎のことを思い出し、確か、その写真を十数枚、HP のどこかに掲載してあったはずだな と思って探しましたが 見つかりません。そういえば、HP ではなく、かつて「フェイスブック」をやっていた時に、「ファン・ページ」に作っていた「写真アルバム」においてだった ということを 思い出しました。
 かつて 私は 2011年から 2016年まで「フェイスブック」に登録して、当時は「ファンページ」という名称だった「FACEBOOK ページ」として、『INDIAN ARCHITECTURE インド建築』および『ISLAMIC ARCHITECTURE イスラーム建築』という2つのページを、苦労して作って 開設していたのです。

フェイスブック   フェイスブック
フェイスブックにおける、「INDIAN ARCHITECTURE インド建築」と、
「ISLAMIC ARCHITECTURE イスラーム建築」の、各 Wellcome ページの 扉
(ジャイサルメルの ティーロン胡と、コルドバの メスキータ)

 ところが、次第に「フェイスブック」に 違和感をもつようになり、そのことを 私の HP の「お知らせ」欄に 書くようになりました。たとえば 2013年7月23日に、次のように書いています。

● こんな、私が読んでもいない本が 読んだことになっているのは、なぜか? しかも、これを消すこともできない。Facebook のシステムというのは、奇妙奇天烈である。私自身が入れておいた、好きな本や映画は、すべて消されてしまった。そして、フェイスブック・ページの検索欄でも、「インド」といれても、私の「INDIAN ARCHITECTURE インド建築」が検索されなく されている(1年以上前から)。 Facebook というのは、信用できない。 (これをいれたのに、前回の、映画のことと同様、すぐに消されてしまった。)

 また、次のようにも 書いています。

● 私は「INDIAN ARCHITECTURE インド建築」と「ISLAMIC ARCHITECTURE イスラム建築」という二つの「フェイスブック・ページ」(以前は「ファン・ページ」と呼ばれていました)を作っています。私のホームページ、あるいはこれらのページに「いいね」をしてくれた方々 (インドは、1,800人余、イスラムは1,100人余)の眼の保養のために 写真アルバムを用意して、毎週1枚づつ スライド・フィルムをスキャンして 投稿してきました(現在は「ネパールの建築」と「スペインのイスラム建築」)。
 これらに対して、フェイスブックは毎日のように、広告を出して宣伝しろ と言ってきます。しかし、私は 商売をしているわけでは ありません。 毎日 500円も 1,000円も払って 広告を出してまで「いいね」や「ファン」の数を増やそうとは 思っていません。私が ホームページやフェイスブック・ページを公開しているのは、世の中に 情報を提供するためであって、それらによる金銭的利益は1円もありません。

フェイスブック
フェイスブックの Fasebook ページ

 こうした やり方が、日本の Facebook だけなのか、アメリカの本部のやり方なのかは 分かりません。そして フェイスブックのシステムでは、増えてくる「友達」が「見た」ページや「書き加えた」ページが、 毎日 膨大に こちらのページに表示されるので、とても それら全部を 見たり読んだりしている時間は ありませんので、困ってしまいました。ついに 2016年の9月25日に「お知らせ」欄に 次のように書き、「フェイスブック」の利用を、全くやめてしまったのです。

● 私が 一度も フェイスブックに広告を出さないので、いやがらせ をされます。毎週投稿する写真の「説明」が消されるようになり、ついには「ネパールの建築」の写真が 全部 消されてしまいました。こうしたことに、もう ウンザリしてしまいましたので、当分のあいだ、2つの「フェイスブック・ページ」に 写真を投稿するのは、やめにします。いつか 再開することがあるかどうか わかりませんが、今までのご愛読 ありがとうございました。      神谷武夫 ( 2016 /09/ 25 )

 私は それ以来、「フェイスブック」を 全く やっていません。 それまでに書いた分は 全部削除し、何も 新しい書き込みを していません。 「友達」だった人の 近況ページも 閲覧ページも、全然 見ていません。 私に宛てられたものがあっても 知りませんし、読んでもいません。 私への 友達リクエストをしたのに 何も反応がなく、ほったらかしにされている、と 気分を害した方も いるかと思いますが、私への連絡や 知らせたいことがある場合、あるいは 私の HP への感想や ご意見などは、どうか メールに書いて 送っていただくよう、お願いします。

 また、私の HP のどこかのページで、私の うっかりミスによる 綴りや 記述の間違いや、「リンク切れ」などに気付かれた時にも、メールで お知らせいただけると 有難いです。

 というわけで、遠藤新の設計になる 南沢の「自由学園 校舎」の、フェイスブックにおける「写真アルバム」も、消えてしまったわけです。

                            神谷武夫 ( 2025 /03/ 01 )






自由学園南沢キャンパス

 昔、平良敬一さんが創刊した『建築』という 意欲的な建築雑誌があり、1963年の7月に「自由学園 遠藤新」という特集号を出しました。そこに南沢の自由学園が詳しく載せられていたのですが、いつのまにか 私の所有していたその号が失われてしまい、見ることができません。その代わりに 1991年に中央公論美術出版から 遠藤の没後に出た『建築家 遠藤新作品集』を借りることができましたので、それと 遠藤新の息子(四男)の遠藤陶 (とう 1930- ) が書いた『帝国ホテル ライト館の幻影 孤高の建築家 遠藤新の生涯』を頼りに 本稿を書くことにしました(前者は、どういう人達が事業委員会を構成していたのか不記載であり、「遠藤新 経歴」の年表には、彼の私生活について あまり書いてありませんが)。

遠藤新作品集    ライト館の幻影      

(左)『 建築家 遠藤新作品集 』1991年、扉
遠藤新 生誕百年記念 事業委員会 編
32.5 cm,247 pp,中央公論美術出版, 18,000円
(右)『帝国ホテル ライト館の幻影 孤高の建築家 遠藤新の生涯』
遠藤陶 著,19 cm,229 pp,廣済堂,1,700円


 2015年の秋、9月20日の日曜日に、それまで 一度は訪れようと思っていた 南沢の 自由学園のキャンパスに、遠藤新の作品群を見に行きました。秋の学園祭の時だけ 一般公開していて、特別な許可を必要としていないからです。写真の現像と整理ができた1週間後に、その日のことを HP の「お知らせ」欄に 次のように書いています。

● 先日、南沢にある自由学園の、学園祭を兼ねた一般公開日に行ってきました。フランク・ロイド・ライトの弟子だった 遠藤新が、帝国ホテルが終わってライトがアメリカに帰国したあと、独立して設計したものです。その後 息子の遠藤楽が受け継いで 図書館や講堂などを設計し、また その他の施設も建てられましたが、遠藤新の手になる最初期の建物は 大事に使われて、外構を含めた当初のままの姿が 今も保たれているのを見ると、自由学園の創建者である 羽仁吉一、もと子夫妻の精神がよく伝えられているものとして、感銘を受けました。

配置図

自由学園 南沢、初期のエリア区分(学園の HP より
現在は 男子部が 中等部に、女子部が 高等部になっている。
3つのエリア間には、配置計画上の 何の関連性も認められない。

 建設されたのは 1934年ということですから、もう 80年も前のことです。目白にある、ライトの自由学園・明日館(重要文化財)は、それより 13年前の 1921年(大正10年)の建設です。南沢の校舎は、基本的に 明日館のデザインを踏襲していて ライト風なので、昔 訪ねた ライトの「南フロリダ大学」のミニ版 というところです。ライトほどに大胆な建物があるわけではなく、どの建物も 切妻の瓦屋根でおおわれているので、「和風ライト」といった趣です。
 年に一度の「お祭り」なので、構内に人があふれ、紙を切った「飾り付け」などもあるので、写真が撮りにくくて弱りました。人の切れ目を待っては 撮りましたが、なかなか うまくいきません。比較的良く撮れているものを選んで、「フェイスブック」に「写真ギャラリー」として 投稿しました。     (2015/09/26)

 遠藤新の 南沢の校舎群は、2019年には「ドコモモ 日本支部」によって「日本におけるモダン・ムーブメントの建築作品」のひとつに 選定もされましたので、その時の「写真ギャラリー」に もっと多くの写真を加えて 文章を付け、ここ「世界の建築ギャラリ−」のサイトで 紹介することにしました。




建築家・遠藤新

遠藤新
遠藤新(『建築家 遠藤新作品集』1991 より

 遠藤新と言えば、なによりも フランク・ロイド・ライトの弟子として知られています。前に この HPの『フランク・ロイド・ライトの建築』の第4章に書いたように、

 ライトの生前には「タリアセン・フェローシップ」に、日本人としては 天野太郎 (1952-53年) と 遠藤楽 (1957年) が徒弟として参加して、晩年のライトから 直接 教えを受けました。 遠藤新 (1917-22年) や 土浦亀城夫妻 (1923-25) は、フェローシップの設立 (1932) よりも ずっと以前の弟子で、岡見健彦(1829ー30年)は 設立直前の弟子です。(遠藤楽(らく)は、新の三男です)

 つまり日本人でライトの直弟子だったのは6人いたわけですが、遠藤新は一番古く、しかもライトが 帝国ホテルの仕事のために日本に滞在していた時の助手を ずっと務め、ライトの帰国の後は 工事の最後まで責任を持って携わったのですから、6人の日本人弟子の中でも 特別な存在だったわけです。
 遠藤新 (1889-1951) は 福島県相馬郡の生れなので、埴谷雄高 (1909-1997)の本籍と、島尾敏雄 (1917-1986) の故郷の近く(20〜30キロ 北)になりますが、建築家と文学者ですから、知己とはなりませんでした。

 遠藤は田舎の出身でしたが 学業優秀で、支援者にも恵まれて 仙台二高から 東京帝国大学に進み、工学部(当時の 「工科大学」 )の建築学科に進学しました。主任教授だった伊東忠太の教えを受けたわけですが、ウマは合わなかったようです。建築界の大御所たる辰野金吾の東京駅に対しても 批判論文を書いています (1915)。「建築界の異端児」になる萌芽だったでしょう。学生時代に麹町の富士見教会で洗礼を受けましたが、必ずしも 熱心なクリスチャンではありませんでした。しかしこの教会で 羽仁吉一と 羽仁もと子夫妻の知遇を得たことが、将来 この夫妻が創立することになる「自由学園」の仕事につながります。

 フランク・ロイド・ライトが 帝国ホテル新館(二代目 本館)の建築家に選ばれ、設計の完成作業のために来日したのは 1917年(大正6年)のことでした。帝大で「ホテル計画」を卒業設計とした遠藤新は、学生時代の大正2年に 渡辺譲の設計になる 古典様式の 旧・帝国ホテルを訪れ、支配人の 林愛作の知遇を受けていました。遠藤はライトの仕事に興味と共感をもっていたようで、新しく建てられるライトの新館に 期待していたのでしょう。新館の設計者にライトを選んだ林は、来日したライトの助手を求めて採用試験をしたようで、受験した ひとりの 遠藤新を採用しました。遠藤は 明治神宮造営局勤務の仕事をやめ、ライトの助手(ドラフトマン)として3ヵ月間、ライトに しごかれながら 製図に没頭することになります。

 4月にライトが一時的にアメリカにもどると、遠藤も行を共にし、ライトの「タリアセン」で1年8ヵ月にわたって徒弟奉公をします。そこには、一つちがいのアントニン・レイモンドとノエミ夫妻もいました。1918年末に日本に帰国すると、翌年からは帝国ホテルの建設工事で、詳細設計と現場常駐監理で さらに ライトにしごかれ、教えられます。しかしライトの新館は 1921年に竣工するはずだったのが、独創的な設計と複雑な細部設計、変更に次ぐ変更で 工事は遅れに遅れ、予算は2倍に膨れ上がり、1922年4月には 旧・本館が火災で焼失、林愛作が責任を取って 支配人を辞任し、ついに ライトも7月に アメリカに帰国を余儀なくされ、二度と戻って来ません。遠藤新は その全てにわたって仲介するとともに、以後の 1923年9月の竣工(関東大震災の当日)までの設計監理の一切の役割を担いました。




自由学園・明日館(池袋)

 自由学園は、羽仁もと子 (1873-1957) と 羽仁吉一 (はに よしかず 1880-1955) の夫妻が 1921年(大正10)に、雑司ヶ谷上がり屋敷(現在の 西池袋)に「自由学園女学校」として創立しました。4月15日に 本科1年生(60人)の入学式、5月5日に 高等科1年生(65人)の入学式が行われています。二人は49歳と42歳でした。ライトの設計になる校舎は、1922年6月に竣工して 披露宴が行われました(開校時には まだ工事中でした)。
 自由学園と同年に、建築家でもあった 西村伊作 (1884-1963) の、芸術教育を重視する「文化学院」も、東京の駿河台に開校しています(西村の二女・ユリの夫が、建築家の 坂倉準三です)。西村自身の設計になる「文化学院」校舎は 関東大震災で全焼してしまいましたが、ライトの「自由学園」は 震災も 戦災も免れて 生きのび、今は「明日館(みょうにちかん)」と呼ばれて、1997年に 国の 重要文化財に指定されています。

 ライトの『明日館』については 何冊か 本や 写真集が出版されていますので それをご覧いただくとして、本稿では 遠藤新の「南沢キャンパス」のみを紹介します。

●『よみがえれ 明日館スピリット(F.L.ライトと自由学園)』羽仁結 著
  26cm、39pp、2002年、ネット武蔵野(羽仁結は 羽仁夫妻の孫)
●『フランク・ロイド・ライト 自由学園 明日館』宮本和義 撮影、谷川正巳 解説
  21cm、63pp、2016年、バナナブックス

 それでも、池袋の「明日館」の写真を まったく載せないのも どうかと思い、先日 撮影に行ってきましたので(かつて何度も訪れているのに、撮影したことが なかったのか、あるいは 近くなので いつでも行けると思うからか、1枚も写真が 残っていなかったのです)ここに その日に撮った現状写真を 数枚 掲載しておきます。

外観  ホール
自由学園・明日館、重要文化財、ホール 外・内部、池袋

食堂  食堂
自由学園・明日館の 食堂と照明器具

 遠藤新は、学園創立者 羽仁もと子・吉一夫妻と同じキリスト教会に通っていた縁から、自由学園の創立の校舎の設計者について相談され、当時帝国ホテルの仕事をしていたので、師のフランク・ロイド・ライトを紹介したのです。ライトは創立者(羽仁夫妻)の教育理念に共感するとともに、帝国ホテルの はかばかしくない進捗状況や 予算超過、火災などで苦衷していましたから、快く仕事を引き受け、短期間で(嬉々と?)基本設計をまとめあげました。現在の「明日館」です。実施設計と工事監理は 主に遠藤新が担当し、1922年(大正11年)にライトが帰米してしまうと、残りの設計と監理は すべて 彼が一人で行いました。

 遠藤は その年に独立して「遠藤新 建築創作所」という名の設計事務所を始め、明日館の三つの「小食堂」の増築や、5年後の1927年(昭和2年)に、道路を隔てた 向かいの敷地に「講堂」の設計監理も行います。

講堂  講堂
自由学園、遠藤新設計の 講堂 外観と内部

 自由学園が発展して 池袋の校舎が手狭になると、羽仁夫妻は 生徒のための広い天地を求めて、東京の西郊外(現在の 東久留米市 南沢)に 広大な田畑と雑木林を買い求め、ゆったりとした新キャンパスを建設することにします。施設の設計は 段階ごとに、明日館の建設に功があった 遠藤に委嘱します。それによって 遠藤新の名は、自由学園と切っても切れない関係となります。1925年には羽仁夫妻の家も設計しました。

 自由学園は、女子教育の必要性を感じていた羽仁もと子・吉一夫妻が出していた婦人雑誌『婦人の友』の実践の場として、1921年(大正10年)に創設した 小規模な「女学校」でした。南沢に校地を得ると、1927年に 男女共学の 小学校(初等部)を作り、1935年には「男子部」を作ります。女子部、男子部ともに、4年制の普通科(中学校)と3年制の高等科(高等学校)から成っていました。しかし 建築的には、1934年の「女子部エリア」の存在感が 圧倒的に強く、男子部エリアには 食堂も講堂もありませんでした(そこまでの資金調達が 追い付かなかったのでしょう)。
 1949年には男子4年制の「最高学部」(大学部)が設置され、その翌年に 短大に相当する 女子2年制も開学しましたが、「エリア」と呼べるような施設配置ではなく、専用の建物が用意されたのみで、遠藤の設計ではありません。21世紀の 2024年には 女子部・男子部という制度を改めて、完全な男女共学化をしました。そのような歴史があるので、大正時代の 遠藤新の設計になる校舎としては「女子部」が最も堂々としていますし、池袋の ライトの「明日館」も、あくまでも 女学校だったのです。

 さて、ライトが 水平性を強調する「プレーリー様式」を作った きっかけは、1893年のシカゴ万国博覧会で 日本館としての鳳凰殿(平等院鳳凰堂をモデルにした木造建物)に天啓を受けたことだ と言われます。そのことが、帝国ホテルのプランが 平等院鳳凰堂を髣髴させることに なるのですが、自由学園の明日館のプランもまた その小型版を思わせます。それを受け継いだ遠藤新も、南沢のキャンパスや『甲子園ホテル』(1930) などで、平等院鳳凰堂的な 両翼を持った左右対称性と、水平線重視の設計を行うことになります。このページに掲げる各エリアのプランには、赤で中心軸線を 書き加えておきます。





初等部エリア(南沢)

 南沢で 遠藤新が最初に設計したのは、「初等部」の建物でした。即ち小学校ですが、キャンパス全体の計画というのは無かったようです。おそらく、将来大きく発展するとは、羽仁夫妻も 思っていなかったのかもしれませんし、敷地は買い足していったのでしょう。国公立の学校とは わけが違います。上の「各部エリア図を見れば、キャンパス全体を貫くような軸線もなければ、中央広場やメイン・ストリートのようなものもありません。その中では 後述するように、「女子部エリア」だけが 整然とした 欧米風の小キャンパス計画のように見えます。

 「初等部エリア」は、まず最初に3教室の一文字校舎をのみ建て、1、2年後に4教室と講堂を建てることになり、その配置案を練ったということですから、初めからこのエリアのサイト・プランがあったわけではなく、羽仁夫妻の計画の進展と資金調達の状況などから、その都度、遠藤が設計をしていったようです。そもそも 南沢のような 遠くの地にキャンパスを作ったのも、明日館のような都心(池袋)に 土地を買う資金がなかったからでしょう。広い田畑と雑木林を安く買いましたが、その周縁部を住宅地として切り売りしたりしながら、学園建設の資金を捻出していったのです。そういった厳しい条件の中で、遠藤は よく頑張ったと言えます。

初等部  講堂
自由学園・初等部の教室棟 1929と、中庭、講堂(食堂)1931

 初等部の教室棟、は、正面の入口の左右に 大谷石の柱を4本建てていますが、こんなに太い柱が 構造的に必要だったわけではなく、帝国ホテルの仕事で ライトから学んだ 装飾柱です。木造瓦葺きのシンプルな建物なのに、これによって ずいぶん立派に見えます。 これが エントランスホールを兼ねた、多目的 中央教室です。
 小講堂は食堂を兼ねているので、奥に 教材室 兼 厨房があります。伝統的な瓦屋根の方形造りであり、大谷石の柱もなく、まさに「和風ライト」です。左右の渡り廊下は 中庭側には壁が無くオープンであり、突き当りに 便所があります。こうした渡り廊下が中庭を囲んで諸室を結ぶというのは 明日館に倣った方法で、「女子部エリア」では もっと大々的に行われます。

配置図

自由学園 南沢、初等部平面図(『建築家 遠藤新作品集』1991 より
このプランは、帝国ホテルを髣髴させないだろうか。

 一文字教室棟の2年後に4教室を増築することになり、 一文字教室棟を延長して2教室を、中庭の左右に 大きめの独立2教室を配しました。それぞれの手前の小室は「教師室」と「応接室」とあります。

初等部
自由学園・初等部の応接室と大教室、1929

 自由学園の卒業生で 映画監督になった羽仁進は、学園を創立した羽仁夫妻の孫で、歴史家の 羽仁五郎の息子でしたが、50代半ばになってから、学園の初等部から高等部までの 13年にわたって 生徒だった時の思い出を 本にまとめています。自由学園というのが どんな学校だったかということが、たいへん面白く読めます。学校といっても 学科の勉強だけでなく、さまざまな肉体労働をしますから、ちょうど ライトのタリアセンでの、フェローシップの生活のようなものです。
 ● 羽仁進 著『自由学園物語』19cm、323pp、1984年、講談社、1,000円




女子部エリア(南沢)

 女子部エリアは、遠藤新の会心の設計だったでしょう。キャンパスの一番奥に、伸び伸び ゆったりと 配置されています。自由学園は 2021年に創立100周年を迎えましたが、女子部エリアは、建設してから 90年です。女子部エリア校舎群の前の芝生大庭園は 実に広大で、自由学園側は 90年もの間、 遠藤の計画どおりに保全していて、一つも建物を建てませんでした。もちろん ここは 生徒の毎日の「体操場」でもあるのですが、地面は露出せずに、芝生で覆われています。学園の訪問者は 誰もが、手前の小高い所に着いたときに、その素晴らしい眺めを讃嘆します。

鳥瞰写真

自由学園 南沢、女子部の鳥瞰写真(自由学園の HP より
手前が体操館、中庭の奥が食堂、左右が教室棟

配置図
自由学園 南沢、女子部平面図(『建築家 遠藤新作品集』1991 より

 南沢のキャンパスの中で一番広く、堂々としているのが、女子部エリアです。中心軸上に体操館、芝生中庭、食堂を並べ、その左右に2棟ずつ教室棟を配しています。このプランも、平等院鳳凰堂 ー 帝国ホテル ー 明日館 の系列にあると言えます。左側の講堂だけが左右対称から外れ、後からの付加のように見えてしまいますが。

体操館  体操館
自由学園・旧女子部体操館、外観と内部、1934

 体操館は 広大な芝生庭園に面した 半円形プランの建物なので、キャンパスの中で 最も目立ちます。屋根は2段になっていて、その間のクリアストーリーからも 通風・採光しています。

 帝国ホテルの建設で、安くて 彫刻しやすい石材をさがして ライトが選んだのが、宇都宮市 近郊の 大谷で採れる「大谷石」でした。帝国ホテルの大部分は大谷石で造られ、明日館でも多用されましたが、南沢の自由学園校舎は木造なので 少なめながら、ここかしこに大谷石が使われています。

池と庭  柱
体操館の横の池のある前庭、ランタン柱、1934

 外廊下(回廊)のパーゴラの円柱は 鉄骨製か、細く、本数が多く立ち並んでいます。回廊から芝生庭園に 突き出すように設けられた、ライト風の大谷石の池には、円と正方形から成る水盤があり、講堂の前の池などにも 出てきます。




女子部食堂

女子部

自由学園・高等部(旧女子部)食堂正面、1934

 これは 南沢の自由学園の シンボル的建物で、池袋の明日館の 中央ホールにあたります。遠藤は そのデザインも踏襲しました。ただ 前面の縦長窓の 格子パターンは 明日館のホールに比してずっと単純・簡素で、屋根の斜線とは関係なく、斜線を用いず、あっさりと 直角だけで構成しています。

食堂  食堂
自由学園・高等部(旧女子部)食堂外部と内部、1934

 2層分の高さの天井も、明日館のホールのような「船底天井」部分は小さく、大部分をフラットにしました。三方に2階のバルコニーがあるので、催しものがある時には 観客席になったでしょう。

暖炉  椅子
自由学園、小食堂の暖炉と椅子、1934

 大食堂の背後に 来賓用の小食堂があり、大食堂の暖炉と背中合わせに、大谷石の暖炉があります。大食堂のものは 水平線の目地が重ねられていますが、こちらは 斜線が強調されています。
 諸所に置かれている生徒用の椅子は「明日館」でも用いられていましたが、元をただせば、帝国ホテルの バンケット・ホールの椅子を 単純化、小型化したものです。六角形の背が いかにもライト風です。




女子部教室棟と講堂

教室棟
自由学園・旧女子部教室棟と講堂、1934

芝生中庭の左右に2棟ずつの教室棟が建ち、それぞれ 長い蓮池を挟んでいます。 平屋の 古びた木造建物と共に、静かな 良い たたずまいを作っています。今どきの学校には 見られない風景です。

講堂  塔
自由学園、女子部講堂、塔状デッキ、1934

 羽仁夫妻はクリスチャンだったので、自由学園も 一応はキリスト教系の学校であり、講堂は礼拝堂も兼ねていましたが、特に十字架などは 無かったように記憶しています。内村鑑三が始めた「無教会派」の流れを汲んでいたのと、羽仁吉一がユニテリアンに近かったせいでしょう。
 そしてまた 講堂は 食堂よりも大きな建物なのに、そうは感じさせません。女子部エリアは 全体が 中心軸線に則った 完全な左右対称の配置になっているので、そこから外れるこの講堂が、配置図上は 付けたりのように 見えてしまいます。一足遅れの建設企画だったのか、敷地形状に制約されてしまったようです。その配置が、この建物を小さく感じさせるのかも しれません。中心軸線上に置かれていたら、違っていたことでしょう




男子部エリア(南沢)

 男子部の配置も、中央に軸線があり、奥に体育館、広い中庭を挟んで シンメトリーに、左右に教室棟が配されていますが、食堂も講堂も無いので、女子部に比べると だいぶ見劣りがします。

男子部体育館  男子部体育館
自由学園・男子部体育館、外観と内部、1936

 最も目立つ体育館のファサードも 池袋の明日館風に、柱型の建ち並ぶデザインにされました。こうしたデザインの最初は、ライトによる、ロサンジェルスの『ストーラー邸』(1923) だったでしょう。
 しかし 男子部体育館は 構造優先の建物だからか、内部にライト調のデザインは 影をひそめます。 近年の 2022−23年に 大規模改修工事を行い、多機能学習環境の「ラーニングコモンズ」という施設に 用途変更したということです。

男子部
学園祭の 男子部エリア、1935

 例によって 中庭を囲むように、左右にシンメトリーに教室棟が建てられましたが、左側の棟は 遠藤新の息子の 遠藤楽の設計で 建て直されたようです。経過は良くわかりません。右側の 遠藤新の棟は 人が多くて、近くからの全景は 撮影できませんでした。中庭には 日時計があります。

男子部教室棟     平面図
自由学園・男子部教室棟と、配置図(『建築家 遠藤新作品集』1991 より

 作品集には、下の 遠藤自身による女子部の鳥瞰スケッチが載せられています。日付は1934年3月6日とあるので、女子部の設計が終わって 工事にかかってから描いたものと思われます。この絵の枠外、すぐ右下に男子部エリアが作られるのですが、このスケッチには 何ら それを予兆させるものがありません。男子部の教室棟は年表によると翌年の1935年だそうですが、この絵の時にはまだ、その構想さえなかったのでしょう。ですから今でも、最終的に女子部と男子部のエリアは 何の関連もなく、それぞれ独立して存在しているように見えます。ライトが しばしば広大な土地にグリッドを引き、その上に建物を配置したのとは、大違いだと言えますが、自由学園のキャンパスは 少しずつ計画が発展し、その都度 土地を買い足していったのだ ということを示しています。

女子部スケッチ
遠藤新による 女子部スケッチ、1934年3月6日





文化財としての認定

 2022年の3月に、遠藤新の設計になる 自由学園(南沢)の女子部エリアの校舎群と、その大芝生・中庭・池などを含む景観が、東京都有形文化財に指定されています。

 2019年には「ドコモモ・ジャパン」が、「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の選定を進め、2019年度にその一つとして、自由学園南沢キャンパスの 遠藤新による一連の建築物を選定したことが、2020年7月に発表されました。ドコモモというのは、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の 記録調査および 保存のための国際組織」(Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement)で、その日本支部が DOCOMOMO Japan です。

■選定された 自由学園南沢キャンパスの建築物は 以下の通りです。
遠藤新の設計になる 門、初等部/食堂・教室、
          女子部/食堂・教室・回廊・体操館・講堂、
          男子部/教室・体育館

2024年の6月には、自由学園内の二つの建物が、DOCOMOMO Japanによる「日本における
          モダン・ムーブメントの建築」として追加選定されました。
■遠藤新の息子の建築家・遠藤楽 (1927-2003) の設計になる、
          「自由学園 羽仁両先生 記念図書館」(1966年竣工)
          「自由学園 幼児生活団」つまり 幼稚園 (1967年竣工)

図書館
自由学園 羽仁両先生 記念図書館、遠藤楽の設計

                                ( 2025 /03/ 01 )


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