自由学園 ・ 南沢 |
自由学園・高等部(旧女子部), 1934, 東京都 東久留米市 南沢
手前に半円形の体操館, 奥に食堂, 左右に教室棟
大芝生庭園を前にした、最もピクチャレスクな眺め
「自由学園」と聞けば、建築関係者ならすぐにフランク・ロイド・ライトが設計した、東京・池袋の「明日館(みょうにちかん)」を思い浮かべることでしょうが、現在 教育施設としての自由学園のキャンパスは、東京の西郊外の 南沢(みなみさわ)にあります。最近、何かのきっかけで ライトの弟子の遠藤新が設計した、その自由学園の校舎のことを思い出し、確か、その写真を十数枚、HP のどこかに掲載してあったはずだな と思って探しましたが 見つかりません。そういえば、HP ではなく、かつて「フェイスブック」をやっていた時に、「ファン・ページ」に作っていた「写真アルバム」においてだった ということを 思い出しました。
![]() ![]() ところが、次第に「フェイスブック」に 違和感をもつようになり、そのことを 私の HP の「お知らせ」欄に 書くようになりました。たとえば 2013年7月23日に、次のように書いています。
また、次のようにも 書いています。
![]() こうした やり方が、日本の Facebook だけなのか、アメリカの本部のやり方なのかは 分かりません。そして フェイスブックのシステムでは、増えてくる「友達」が「見た」ページや「書き加えた」ページが、 毎日 膨大に こちらのページに表示されるので、とても それら全部を 見たり読んだりしている時間は ありませんので、困ってしまいました。ついに 2016年の9月25日に「お知らせ」欄に 次のように書き、「フェイスブック」の利用を、全くやめてしまったのです。
私は それ以来、「フェイスブック」を 全く やっていません。 それまでに書いた分は 全部削除し、何も 新しい書き込みを していません。 「友達」だった人の 近況ページも 閲覧ページも、全然 見ていません。 私に宛てられたものがあっても 知りませんし、読んでもいません。 私への 友達リクエストをしたのに 何も反応がなく、ほったらかしにされている、と 気分を害した方も いるかと思いますが、私への連絡や 知らせたいことがある場合、あるいは 私の HP への感想や ご意見などは、どうか メールに書いて 送っていただくよう、お願いします。 また、私の HP のどこかのページで、私の うっかりミスによる 綴りや 記述の間違いや、「リンク切れ」などに気付かれた時にも、メールで お知らせいただけると 有難いです。 というわけで、遠藤新の設計になる 南沢の「自由学園 校舎」の、フェイスブックにおける「写真アルバム」も、消えてしまったわけです。 神谷武夫 ( 2025 /03/ 01 )
昔、平良敬一さんが創刊した『建築』という 意欲的な建築雑誌があり、1963年の7月に「自由学園 遠藤新」という特集号を出しました。そこに南沢の自由学園が詳しく載せられていたのですが、いつのまにか 私の所有していたその号が失われてしまい、見ることができません。その代わりに 1991年に中央公論美術出版から 遠藤の没後に出た『建築家 遠藤新作品集』を借りることができましたので、それと 遠藤新の息子(四男)の遠藤陶 (とう 1930- ) が書いた『帝国ホテル ライト館の幻影 孤高の建築家 遠藤新の生涯』を頼りに 本稿を書くことにしました(前者は、どういう人達が事業委員会を構成していたのか不記載であり、「遠藤新 経歴」の年表には、彼の私生活について あまり書いてありませんが)。
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(左)『 建築家 遠藤新作品集 』1991年、扉
遠藤新の 南沢の校舎群は、2019年には「ドコモモ 日本支部」によって「日本におけるモダン・ムーブメントの建築作品」のひとつに 選定もされましたので、その時の「写真ギャラリー」に もっと多くの写真を加えて 文章を付け、ここ「世界の建築ギャラリ−」のサイトで 紹介することにしました。 ![]()
遠藤新と言えば、なによりも フランク・ロイド・ライトの弟子として知られています。前に この HPの『フランク・ロイド・ライトの建築』の第4章に書いたように、
つまり日本人でライトの直弟子だったのは6人いたわけですが、遠藤新は一番古く、しかもライトが 帝国ホテルの仕事のために日本に滞在していた時の助手を ずっと務め、ライトの帰国の後は 工事の最後まで責任を持って携わったのですから、6人の日本人弟子の中でも 特別な存在だったわけです。 遠藤は田舎の出身でしたが 学業優秀で、支援者にも恵まれて 仙台二高から 東京帝国大学に進み、工学部(当時の 「工科大学」 )の建築学科に進学しました。主任教授だった伊東忠太の教えを受けたわけですが、ウマは合わなかったようです。建築界の大御所たる辰野金吾の東京駅に対しても 批判論文を書いています (1915)。「建築界の異端児」になる萌芽だったでしょう。学生時代に麹町の富士見教会で洗礼を受けましたが、必ずしも 熱心なクリスチャンではありませんでした。しかしこの教会で 羽仁吉一と 羽仁もと子夫妻の知遇を得たことが、将来 この夫妻が創立することになる「自由学園」の仕事につながります。 フランク・ロイド・ライトが 帝国ホテル新館(二代目 本館)の建築家に選ばれ、設計の完成作業のために来日したのは 1917年(大正6年)のことでした。帝大で「ホテル計画」を卒業設計とした遠藤新は、学生時代の大正2年に 渡辺譲の設計になる 古典様式の 旧・帝国ホテルを訪れ、支配人の 林愛作の知遇を受けていました。遠藤はライトの仕事に興味と共感をもっていたようで、新しく建てられるライトの新館に 期待していたのでしょう。新館の設計者にライトを選んだ林は、来日したライトの助手を求めて採用試験をしたようで、受験した ひとりの 遠藤新を採用しました。遠藤は 明治神宮造営局勤務の仕事をやめ、ライトの助手(ドラフトマン)として3ヵ月間、ライトに しごかれながら 製図に没頭することになります。
4月にライトが一時的にアメリカにもどると、遠藤も行を共にし、ライトの「タリアセン」で1年8ヵ月にわたって徒弟奉公をします。そこには、一つちがいのアントニン・レイモンドとノエミ夫妻もいました。1918年末に日本に帰国すると、翌年からは帝国ホテルの建設工事で、詳細設計と現場常駐監理で さらに ライトにしごかれ、教えられます。しかしライトの新館は 1921年に竣工するはずだったのが、独創的な設計と複雑な細部設計、変更に次ぐ変更で 工事は遅れに遅れ、予算は2倍に膨れ上がり、1922年4月には 旧・本館が火災で焼失、林愛作が責任を取って 支配人を辞任し、ついに ライトも7月に アメリカに帰国を余儀なくされ、二度と戻って来ません。遠藤新は その全てにわたって仲介するとともに、以後の 1923年9月の竣工(関東大震災の当日)までの設計監理の一切の役割を担いました。
自由学園は、羽仁もと子 (1873-1957) と 羽仁吉一 (はに よしかず 1880-1955) の夫妻が 1921年(大正10)に、雑司ヶ谷上がり屋敷(現在の 西池袋)に「自由学園女学校」として創立しました。4月15日に 本科1年生(60人)の入学式、5月5日に 高等科1年生(65人)の入学式が行われています。二人は49歳と42歳でした。ライトの設計になる校舎は、1922年6月に竣工して 披露宴が行われました(開校時には まだ工事中でした)。 ライトの『明日館』については 何冊か 本や 写真集が出版されていますので それをご覧いただくとして、本稿では 遠藤新の「南沢キャンパス」のみを紹介します。 ●『よみがえれ 明日館スピリット(F.L.ライトと自由学園)』羽仁結 著 それでも、池袋の「明日館」の写真を まったく載せないのも どうかと思い、先日 撮影に行ってきましたので(かつて何度も訪れているのに、撮影したことが なかったのか、あるいは 近くなので いつでも行けると思うからか、1枚も写真が 残っていなかったのです)ここに その日に撮った現状写真を 数枚 掲載しておきます。
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遠藤は その年に独立して「遠藤新 建築創作所」という名の設計事務所を始め、明日館の三つの「小食堂」の増築や、5年後の1927年(昭和2年)に、道路を隔てた 向かいの敷地に「講堂」の設計監理も行います。
![]() ![]() 自由学園が発展して 池袋の校舎が手狭になると、羽仁夫妻は 生徒のための広い天地を求めて、東京の西郊外(現在の 東久留米市 南沢)に 広大な田畑と雑木林を買い求め、ゆったりとした新キャンパスを建設することにします。施設の設計は 段階ごとに、明日館の建設に功があった 遠藤に委嘱します。それによって 遠藤新の名は、自由学園と切っても切れない関係となります。1925年には羽仁夫妻の家も設計しました。
自由学園は、女子教育の必要性を感じていた羽仁もと子・吉一夫妻が出していた婦人雑誌『婦人の友』の実践の場として、1921年(大正10年)に創設した 小規模な「女学校」でした。南沢に校地を得ると、1927年に 男女共学の 小学校(初等部)を作り、1935年には「男子部」を作ります。女子部、男子部ともに、4年制の普通科(中学校)と3年制の高等科(高等学校)から成っていました。しかし 建築的には、1934年の「女子部エリア」の存在感が 圧倒的に強く、男子部エリアには 食堂も講堂もありませんでした(そこまでの資金調達が 追い付かなかったのでしょう)。 さて、ライトが 水平性を強調する「プレーリー様式」を作った きっかけは、1893年のシカゴ万国博覧会で 日本館としての鳳凰殿(平等院鳳凰堂をモデルにした木造建物)に天啓を受けたことだ と言われます。そのことが、帝国ホテルのプランが 平等院鳳凰堂を髣髴させることに なるのですが、自由学園の明日館のプランもまた その小型版を思わせます。それを受け継いだ遠藤新も、南沢のキャンパスや『甲子園ホテル』(1930) などで、平等院鳳凰堂的な 両翼を持った左右対称性と、水平線重視の設計を行うことになります。このページに掲げる各エリアのプランには、赤で中心軸線を 書き加えておきます。
南沢で 遠藤新が最初に設計したのは、「初等部」の建物でした。即ち小学校ですが、キャンパス全体の計画というのは無かったようです。おそらく、将来大きく発展するとは、羽仁夫妻も 思っていなかったのかもしれませんし、敷地は買い足していったのでしょう。国公立の学校とは わけが違います。上の「各部エリア図を見れば、キャンパス全体を貫くような軸線もなければ、中央広場やメイン・ストリートのようなものもありません。その中では 後述するように、「女子部エリア」だけが 整然とした 欧米風の小キャンパス計画のように見えます。 「初等部エリア」は、まず最初に3教室の一文字校舎をのみ建て、1、2年後に4教室と講堂を建てることになり、その配置案を練ったということですから、初めからこのエリアのサイト・プランがあったわけではなく、羽仁夫妻の計画の進展と資金調達の状況などから、その都度、遠藤が設計をしていったようです。そもそも 南沢のような 遠くの地にキャンパスを作ったのも、明日館のような都心(池袋)に 土地を買う資金がなかったからでしょう。広い田畑と雑木林を安く買いましたが、その周縁部を住宅地として切り売りしたりしながら、学園建設の資金を捻出していったのです。そういった厳しい条件の中で、遠藤は よく頑張ったと言えます。
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初等部の教室棟、は、正面の入口の左右に 大谷石の柱を4本建てていますが、こんなに太い柱が 構造的に必要だったわけではなく、帝国ホテルの仕事で ライトから学んだ 装飾柱です。木造瓦葺きのシンプルな建物なのに、これによって ずいぶん立派に見えます。 これが エントランスホールを兼ねた、多目的 中央教室です。
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自由学園 南沢、初等部平面図(『建築家 遠藤新作品集』1991 より ) 一文字教室棟の2年後に4教室を増築することになり、 一文字教室棟を延長して2教室を、中庭の左右に 大きめの独立2教室を配しました。それぞれの手前の小室は「教師室」と「応接室」とあります。
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自由学園の卒業生で 映画監督になった羽仁進は、学園を創立した羽仁夫妻の孫で、歴史家の 羽仁五郎の息子でしたが、50代半ばになってから、学園の初等部から高等部までの 13年にわたって 生徒だった時の思い出を 本にまとめています。自由学園というのが どんな学校だったかということが、たいへん面白く読めます。学校といっても 学科の勉強だけでなく、さまざまな肉体労働をしますから、ちょうど ライトのタリアセンでの、フェローシップの生活のようなものです。 女子部エリアは、遠藤新の会心の設計だったでしょう。キャンパスの一番奥に、伸び伸び ゆったりと 配置されています。自由学園は 2021年に創立100周年を迎えましたが、女子部エリアは、建設してから 90年です。女子部エリア校舎群の前の芝生大庭園は 実に広大で、自由学園側は 90年もの間、 遠藤の計画どおりに保全していて、一つも建物を建てませんでした。もちろん ここは 生徒の毎日の「体操場」でもあるのですが、地面は露出せずに、芝生で覆われています。学園の訪問者は 誰もが、手前の小高い所に着いたときに、その素晴らしい眺めを讃嘆します。
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自由学園 南沢、女子部の鳥瞰写真(自由学園の HP より )
![]() 南沢のキャンパスの中で一番広く、堂々としているのが、女子部エリアです。中心軸上に体操館、芝生中庭、食堂を並べ、その左右に2棟ずつ教室棟を配しています。このプランも、平等院鳳凰堂 ー 帝国ホテル ー 明日館 の系列にあると言えます。左側の講堂だけが左右対称から外れ、後からの付加のように見えてしまいますが。
![]() ![]() 自由学園・旧女子部体操館、外観と内部、1934 体操館は 広大な芝生庭園に面した 半円形プランの建物なので、キャンパスの中で 最も目立ちます。屋根は2段になっていて、その間のクリアストーリーからも 通風・採光しています。 帝国ホテルの建設で、安くて 彫刻しやすい石材をさがして ライトが選んだのが、宇都宮市 近郊の 大谷で採れる「大谷石」でした。帝国ホテルの大部分は大谷石で造られ、明日館でも多用されましたが、南沢の自由学園校舎は木造なので 少なめながら、ここかしこに大谷石が使われています。 ![]() ![]()
外廊下(回廊)のパーゴラの円柱は 鉄骨製か、細く、本数が多く立ち並んでいます。回廊から芝生庭園に 突き出すように設けられた、ライト風の大谷石の池には、円と正方形から成る水盤があり、講堂の前の池などにも 出てきます。
![]() 自由学園・高等部(旧女子部)食堂正面、1934
![]() ![]() 自由学園・高等部(旧女子部)食堂外部と内部、1934
![]() ![]() 自由学園、小食堂の暖炉と椅子、1934
大食堂の背後に 来賓用の小食堂があり、大食堂の暖炉と背中合わせに、大谷石の暖炉があります。大食堂のものは 水平線の目地が重ねられていますが、こちらは 斜線が強調されています。
![]() 芝生中庭の左右に2棟ずつの教室棟が建ち、それぞれ 長い蓮池を挟んでいます。 平屋の 古びた木造建物と共に、静かな 良い たたずまいを作っています。今どきの学校には 見られない風景です。
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羽仁夫妻はクリスチャンだったので、自由学園も 一応はキリスト教系の学校であり、講堂は礼拝堂も兼ねていましたが、特に十字架などは 無かったように記憶しています。内村鑑三が始めた「無教会派」の流れを汲んでいたのと、羽仁吉一がユニテリアンに近かったせいでしょう。
![]() ![]() 自由学園・男子部体育館、外観と内部、1936
最も目立つ体育館のファサードも 池袋の明日館風に、柱型の建ち並ぶデザインにされました。こうしたデザインの最初は、ライトによる、ロサンジェルスの『ストーラー邸』(1923) だったでしょう。
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![]() ![]() 作品集には、下の 遠藤自身による女子部の鳥瞰スケッチが載せられています。日付は1934年3月6日とあるので、女子部の設計が終わって 工事にかかってから描いたものと思われます。この絵の枠外、すぐ右下に男子部エリアが作られるのですが、このスケッチには 何ら それを予兆させるものがありません。男子部の教室棟は年表によると翌年の1935年だそうですが、この絵の時にはまだ、その構想さえなかったのでしょう。ですから今でも、最終的に女子部と男子部のエリアは 何の関連もなく、それぞれ独立して存在しているように見えます。ライトが しばしば広大な土地にグリッドを引き、その上に建物を配置したのとは、大違いだと言えますが、自由学園のキャンパスは 少しずつ計画が発展し、その都度 土地を買い足していったのだ ということを示しています。
![]() 2022年の3月に、遠藤新の設計になる 自由学園(南沢)の女子部エリアの校舎群と、その大芝生・中庭・池などを含む景観が、東京都有形文化財に指定されています。 2019年には「ドコモモ・ジャパン」が、「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の選定を進め、2019年度にその一つとして、自由学園南沢キャンパスの 遠藤新による一連の建築物を選定したことが、2020年7月に発表されました。ドコモモというのは、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の 記録調査および 保存のための国際組織」(Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movement)で、その日本支部が DOCOMOMO Japan です。
■選定された 自由学園南沢キャンパスの建築物は 以下の通りです。
2024年の6月には、自由学園内の二つの建物が、DOCOMOMO Japanによる「日本における
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