国立芸術院 (ベジャス・アルテス宮殿 )
メキシコ合衆国の首都はシウダー・デ・メヒコ (Ciudad de México) と言い、英語に直訳すると シティ・オブ・メキシコ ですが、普通「メキシコ・シティ」と呼んでいます。人口 2.000万と言いますから、東京よりも大都会になります。かつて テノチティトランと呼ばれた アステカ帝国の首都であり、「メキシコシティの歴史地区とソチミルコ」が ユネスコ世界遺産に登録されているものの、スペインの植民都市として発展した都会なので、14世紀から 16世紀にかけて栄えた アステカ文明の面影は ほとんど ありません。スペインのコロニアル建築が建ち並ぶ 都市です。
かつて 私は マヤ・アステカ文明の遺跡を訪ねて、中米の メキシコ、グァテマラ、ホンジュラスを旅したことがあり、その写真ギャラリーを作ろうと思いながら、いまだに果たしていません。今回は マヤ文明ではなく、メキシコ・シティで 最も印象深かったコロニアル建築の「国立芸術院 (ベジャス・アルテス宮殿 )」を紹介することにしました(まずは、この方が ずっと たやすいので)。
ベジャス(ベリヤス)・アルテス宮殿(Palacio de Bellas Artes)は、メキシコシティ(シウダー・デ・メヒコ)の歴史地区にあって、メトロポリタン大聖堂と並ぶ 歴史的大建造物で、国立芸術院とも訳されます。ベジャス・アルテスというのは 英語に直訳すれば、ビューティフル・アーツ、あるいは ファイン・アーツ、すなわち 美術、芸術の意です。 パラシオ(宮殿)は 仏語のパレ、英語のパレスですが、かならずしも王侯貴族の館でなく、大規模で壮麗な建物は そう呼ばれます。この国立の宮殿は、博物館(ベジャス・アルテス美術館、建築博物館)と 大劇場(オペラハウス、コンサート・ホール)を合体したもので、日本でよく言う「文化センター」にあたりますが、日本では それを宮殿とは呼びません。
1987年にユネスコ世界遺産に登録された国立芸術院は、市の中心部の歴史地区にあって、アラメダ 中央大公園に面した1ブロックを占有して堂々と建っているので、四方から眺められ、また すぐ斜め向かいに建つ超高層のラテン・アメリカ・タワーの展望台からは 全景を見下ろせます。私が訪れた日は たまたま休館日でしたが、美術部門のディレクターである ミリアム・カイゼル (Miriam Kaiser) 女史に会って 特別に許可をもらい、内部の撮影をさせてもらいましたので、休館日のゆえに 誰も人のいない館内を、すべての扉を開けてもらって、自由な撮影ができました。
国立芸術院 鳥瞰
宮殿は 1901年にイタリアの建築家、アダモ・ボアリ(ポアリエとも)(Adamo Boari, 1863−1928) によってデザインされたものですが、竣工は 紆余曲折を経て 1934年になるので、古典様式の外観と、アール・ヌヴォ様式の屋根と、アール・デコ様式の内観とが 混交することになりました。竣工以来、その巨大な建物全体の重量により、地盤の悪さもあって、年々数センチメートルずつ沈下しているそうです。ボアリの設計になる前面広場は、1994年の完成です。
当時のメキシコ大統領であるポルフィリオ・ディアスによって敷地が選定され、メキシコ独立100周年記念の企画として 1905年に建設が始まりました。イタリア人建築家 アダモ・ポアリエと、メキシコの構造エンジニア、ゴンサロ・ガリタ (Gonzalo Garita, 1867-1921) の設計で着工するものの、メキシコ革命 (1910-17) の勃発によって 工事は長く 中断されます。革命により ディアス独裁政権は倒れますが、革命後に工事が再開され、工事の監理と細部の設計は メキシコ人建築家 フェデリコ・マリスカル (Federico Mariscal Pina, 1881-1971) に引き継がれ、1934年に ようやく完成しました。着工の30年後です。見た目は古典的ですが、構造的には当時最新の 鉄骨鉄筋コンクリート造の「近代建築」です。1934年というのは ニューヨークのロックフェラーセンターの完成年であり、伊東忠太の築地本願寺の竣工年でもあります。
国立芸術院、窓廻りと 側面入口
アール・デコの装飾と壁画
ベジャス・アルテス宮殿のデザインを最も特徴づけるのは アールデコ様式のインテリアと 細部意匠 ということになりますが、前に「インドのユネスコ世界遺産」の「ヴィクトリアン・ゴチックとアールデコ」のページに「アールデコ」について若干の解説をしましたので、その一部を再録しておきましょう。
そもそも アールデコ とは、フランス語の「アール・デコラチフ Art Decoratif」(装飾美術の意)の略であるが、1925年にパリで開かれた美術展、「現代の装飾・産業美術 国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Modernes) に基づいている。それは 1915年に開かれる予定だったものが 世界大戦によって延期され、10年後に実現した展覧会である。遅れた代わりに大規模なものになり、パリの グラン・パレをはじめとする いくつかの会場で半年間も開かれ、1,600万人もが 訪れたという。展示はフランス人のものだけでなく 外国館も建てられた国際的なものであったが、何よりも その内容が 普通の美術展でなく、「装飾美術」に特化した展覧会であったことに特色がある。したがって 建築的には それほど鮮明な傾向を示しては いない(若き ル・コルビュジエが「エスプリ・ヌヴォ館」を出品してはいたが)。 しかし この展覧会の作品群と、それに追随する美術傾向が、のちに「アールデコ」と呼ばれるようになったのである。
装飾美術や工芸美術においても、「アール・ヌヴォ以後」の新しい美術を目ざしていたにしても、出品者たちが 初めから 何らかの協定を結んでいたわけではないし、それぞれの作家には それぞれの個性があるのだから、なかなか全体像はつかみにくく、定義しにくい。見る人、論じる人によって「アールデコ」の内容は様々であった。大雑把に言えば、パリに発する両大戦間の 1920年代と30年代の 欧米(を中心とする)新しい装飾美術の傾向、ということになる。世界で最も有名な アールデコ建築作品といえば、ウィリアム・ヴァン・アレン (William Van Alen, 1882-1954)という建築家が設計した ニューヨークの摩天楼、クライスラー・ビル (Chrysler Building, 1928-30) になる。
国立芸術院、エントランス・ロビイと照明スタンド
メキシコにおける アールデコの代表作と言えば、メキシコシティの国立芸術院(ベジャス・アルテス宮殿)です。外観は 全体としては古典主義で、その上の方には アール・ヌヴォの要素が付加されています。メキシコ革命 (1910-17) で工事が長く中断したあとは、設計者が アダモ・ボアリから フェデリコ・マリスカルに変わって、1931年から 34年にかけて、当時流行のアールデコで行われました。
メキシコシティの金融街であったダウンタウンに位置し、大規模な公園(アラメダ・セントラル)の遊歩道に面して、イタリア直輸入の白大理石を使用した 絢爛豪華な建物となり、その内部には、ディエゴ・リベラ、ルフィーノ・タマヨ、ダヴィッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコといった、壁画運動で知られたメキシコ芸術界の7人の巨匠によって、現代絵画の大壁画が17点、各階に描かれました。リベラの《十字路の人物》は 1930 年代にニューヨークの ロックフェラー センター用に描かれましたが、共産主義的なメッセージが強いとして拒絶され、1934年にリベラが壁画として描き直したものです。宮殿のメイン ホールと上部 3 階分は、メキシコの芸術品のギャラリーになっています。また建物の各所に彫刻作品が設置され、ギャラリーばかりでなく 宮殿全体が美術館になっています。
国立芸術院、ロビイの吹抜け
建設は 当初1908年までに終了する予定でしたが、メキシコシティの地盤の悪さによる建物の沈下によって建設が延滞し、1910年のメキシコ革命で、さらに混迷を深めました。その後 設計者のボアリは 1916年にメキシコを離れ、建設は事実上中断されましたが、メキシコの建築家、フェデリコ・マリスカルが後を受けて再開され、1934年に完成しました。 建物の最上階には ガラス屋根の下、国立建築博物館がはいっていて、メキシコの有名な建築家の作品が展示されています。
国立芸術院 3階廊下と展示室シャンデリア
国立芸術院 シケイロスの壁画と 柱
オペラ劇場(コンサートホール)
国立芸術院内部の劇場は、クラシック音楽、オペラ、舞踊など 多目的で使用され、中でも 国立交響楽団、国立劇団、国立歌劇団、そして アマリア・エルナンデスの メキシコ国立民族舞踊団の本拠地としての公演が有名です。舞台は十分に広く、最新の設備を備えました。
美術部門のカイゼル女史に 劇場部門への紹介の労も取ってもらったので、劇場の内部も、照明をつけてもらって 撮影ができました。巾14メートルの舞台では、次の公演の大道具製作をしていました。
国立芸術院 オペラ劇場 客席
国立芸術院の 断面図と平面図
( From websites )
客席の上は 浅いドーム天井になっていて、その中央が円形のステンドグラスになっています。結構大きいのですが、1590人の客席の広さに比べると 小さく感じられます。そのデザインも 少々地味すぎる印象を受けました。
オペラ劇場 客席と 天井ステンドグラス
● 私が訪ねた22年後の 2009年に ベジャス・アルテス宮殿の館長に就任した テレサ・ビセンシオは、数々の改造と破壊をしたらしく、アール・デコのデザインの多くが失われたと 伝えられます。イコモス (International Council on Monuments and Sites、国際記念物遺跡会議) は、パリで ユネスコ世界遺産センターに対し、メキシコ政府が 文化施設に対する深刻な攻撃を行った、として 告訴したという話です。
オテル・グランデの ステンドグラス天井
TIFFANY STAINED GLASS CEILING of HOTEL GRANDE
in Ciudad de Mexico (Mexico City)
メキシコの首都 シウダー・デ・メヒコ(メキシコ・シティ)には、植民地時代に 多くの立派な建物が建てられました。内部の 中央ホール(ロビイ)が一番豪華なのは、国立芸術院よりも むしろオテル・グランデです(国立芸術院の東南 800メートルの街区に建っています)。 外観は やはり古典様式ですが、内部に入れば アッと驚きます。そのスタイルは、「アール・デコ」より一時代前の「アール・ヌヴォ」で、広いロビイの 燦然たる内装と 壮大なステンドグラス天井には、誰でも一驚することでしょう。 その写真を撮ってきているので、ここに紹介します。
オテル・グランデの ロビイ、メキシコ・シティ
私が訪れた頃には「オテル・グランデ」と呼ばれていましたが、今では「グラン・オテル・シウダー・デ・メヒコ」という長い名になっているらしい。この建物は もともとは ホテルではなく、「エル・セントロ・メルカンティル」という名の デパートでした。 1899年の開業だと言いますから、世界最初の百貨店として名高い、パリの「ル・ボン・マルシェ」 (1852年 開店) よりも 半世紀遅れで、ラテンアメリカ最大のデパートとして 建設されました。内部は、当時最先端の アール・ヌヴォのデザインですが、さらに 1908年に、その大ホールの天井いっぱいに フランス製の巨大ステンドグラスが設置されて、人々の目を見張らせました。フランスのガラス工芸家、ジャック・グリュベール (1870-1936) の製作になり、現存するステンドグラスとしては、世界で4番目に大きいと言います。
オテル・グランデの ステンドグラス天井
そのデパートは、世界恐慌の余波を受けて 1958年に閉店してしまいましたが、その 10年後の 1968年に ホテルに改造されて、再生しました。 世界各地の 初期のデパートというのは、贅をこらして作られ、中央に 大きな吹抜けのある 華やかなホールを設けるのを競いました。日本では、東京・日本橋の 三越本店 (1914 横河民輔 設計) で、今も ステンドグラス天井の中央ホールが見られます。
パリのオルセー駅舎が オルセー美術館に転用されたように、こうした古いデパートが ホテルや美術館に改造されて、その豪華な装飾や内部空間が 売り物になることがあります。アルジェリアの首都アルジェを 1991年に初めて訪れた時には「 501デパート 」という、壮大な中央ホールをもつ百貨店を見つけました。1901〜09年の建設だと言いますから、上述の メキシコ・シティのデパートと 同時代の建物になります。それが、2008年に再訪したら、その前年に改造されて「アルジェ近代美術館」(The Museum of Modern Art of Algiers) になっていました。 魅力的なリフォームが なされていたのに、美術館の故に 内部の撮影が禁止となっていたのは 残念。 八角形の 光りドーム天井が3つ並ぶ大空間は、美術館に転用しても、ライトの グッゲンハイム美術館のような 素晴らしい中央ホールになります。デパートだった時の中央ホールの写真を、下に掲載しておきましょう。
旧 501デパートの中央ホール、アルジェ(アルジェリア)
TOMB & HOUSE of LEON TROTSKY
トゥロツキー の 墓と家、メキシコ・シティ
絢爛豪華な「国立芸術院」や「オテル・グランデ」とは打って変わって、簡素な家と墓を、同じメキシコ・シティにあるから という理由だけで、ここに掲載しておくことにします (国立芸術院 の南 8.5 キロメートルの、コヨアカン地区)。
ロシアの最重要な革命家、レフ・トゥロツキー (1879-1940) が 長い亡命生活の末に、1937年に 画家でコミュニストだった ディエゴ・リベラと フリーダ・カーロ夫妻に招かれてメキシコに来住し、3年後に 60歳でスターリンの手先に暗殺された所です。
メキシコ・シティに行くことがあったら訪ねよう と思っていた、トゥロツキーの亡命していた最後の家ですが、今から 36年前には、「トゥロツキーの家」と言っても、「トゥロツキーの墓」と言っても、タクシーの運転手も 誰も知らず、持参した本に その住所が載ってなかったら、行き着くこともできなかったでしょう。当時は 観光客が訪れるということもない、トゥロツキーが暗殺された時のままの、質素な、ひっそりとした所で、「トゥロツキー記念館 」というより、数人のスタッフが資料の研究・整理をする「トウロツキー研究所」といった感じでした。
こんな所で亡命生活を送っていた者までも暗殺させた スターリン体制というのは、ずいぶんと残忍なものでした。スターリンによって粛清された者は 数知れず、トゥロツキーの妻も 子供たちも、ほとんど皆、どこかで殺されたという。
トゥロツキー の住家の 寝室と浴室
私が訪ねたのは 1987年ですが、その3年後の 1990年に、トゥロツキーの死後 50年を記念して、ここは「トゥロツキー博物館」( Museo Casa de Leon Trotsky)に転換され、その後 展示館も建てられたので、今では トゥーリストが訪れる観光場所のひとつと なっているようです。
それにつけても、レーニンの死のあと、スターリンではなくトゥロツキーがソ連を指揮していたら、世界はずいぶんと違うものに なっていたことでしょう(スターリンの亡霊のような、プーチンなどという男が現れることも なかったかも)。
資料室には、各国で出版された本が 壁一面に並んでいましたが、日本のものが見当たらなかったのは 何故でしょうか。澁澤龍彦や栗田勇が翻訳した トロツキーの『わが生涯』や『亡命日記(査証なき旅)』は、今の若い人にも読んでほしいものです。
「西洋の語録」に載せた、トロツキーの『わが生涯』からの引用:
「壁の上には澄みわたった青空が、そして すべてに降りそそぐ陽の光が見える。 生は美しい。 未来の世代に属する人たちが、人間の生活から、すべての悪、すべての抑圧、すべての暴力を拭い去り、そして そのすべてを享受するように。」
同じく、トロツキーの『亡命日記(査証なき旅)』からの引用:
「人生は容易ではない .... もし、自分を個人的悲惨から、また弱さ、すべての裏ぎり、愚かさからふるい立たせるような、自分を超えた偉大な理想を心に抱いていなかったら、虚脱やシニスムに陥ることなく、それを生きることはできまい。」
松田道雄は、『私の読んだ本』(1971,岩波新書) の中に、次のように書いていました(p.210)
「トロツキーの『ロシア革命史』も、そのころ 山西英一氏訳で はじめて読んだが、これには まったく打たれた。戦後に読んだ本で いちばんおもしろかった本は何かと きかれたら、ためらうことなく この本をあげる。」
現在のトゥロツキー 博物館、メキシコシティ (From website)
( 2023 /12/ 01 )
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