SAN MARTIN CHURCH in FROMISTA
フロミスタ(スペイン)
サン・マルテン聖堂
神谷武夫
サフロミスタ
フロミスタのサン・マルティン聖堂

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ヨーロッパの夜明け

 今から5年前に、世界は「二千年問題」で もちきりだった。世界中のコンピューターが故障を起こして 大混乱をきたしてしまうのではないかと。その ちょうど千年前にも、ヨーロッパには「一千年問題」というのがあった。
 キリスト生誕後 千年の間、世界は安泰であろうが、ちょうど千年目に世界は滅んで 最後の審判が下り、善き人々は天国に行けるが、悪事を働いた人々は 地獄に落ちるだろう と言われた。いつの世も 悪事を働く人の方が圧倒的に多いのであるから、ヨーロッパ中の人々が 紀元一千年を前にしてパニックに陥り、戦々恐々として 日々を過ごした。
 ところが「二千年問題」が無事に切り抜けられたように、一千年めを迎えても、予期に反して 世界は滅びなかった

 そこで 安堵の胸を撫で下ろしたヨーロッパの人々は、神へのお礼まいりとして、いっせいに聖地への巡礼を始めたのである。その最大の聖地が、ヨーロッパの守護聖人である 聖ヤコブの遺体を祀った、スペイン西端の サン・チャゴ・デ・コンポステラであった。そしてヨーロッパ各地から サンチャゴをめざす巡礼路で 国際的な文化の交流が行われ、ここに初めて ヨーロッパ全体を統合する 共通文化が生れたのである。
 後にロマネスクと呼ばれるようになる その文化は、11世紀と 12世紀全体を通じて ヨーロッパの津々浦々に広まった。現代のEU統合の発端は ここにあると言ってもよい。

サン・マルティン聖堂の内部

 紀元二千年の文明を象徴するのが コンピューターであるとすれば、紀元一千年の文明を代表するのは 建築であったが、その原理と術は どちらも「アーキテクチュア(原術)」と呼ばれる。ロマネスク時代の人知と感性は 建築としてのアーキテクチュアに結集し、古代ギリシアとも ローマとも異なった、確たる「ロマネスク様式」の聖堂建築を 発展させたのであった。


サン・マルティン聖堂 平面図
(From " Castille Romane 1" by Abundio Rodriquez, 1966, Zodiaque)


ロマネスク様式の聖堂

 私もまた ピレネーを越えてサンチャゴへの巡礼の道をたどり、教区聖堂や修道院聖堂を訪ねてまわった。その中で、11世紀のロマネスク様式の典型を示していると思えたのは、スペインのフロミスタ村に残る サン・マルティン聖堂である。もともとは クリュニー会の修道院であったが、19世紀半ばに修道院は廃され、聖堂の建物のみが残っている。プラン(平面図)を見ると、ごく単純な 三廊式のバシリカ形式の建物である。

 バシリカというのは、古代ローマ時代に 市民の集会堂などに用いられた建築形式で、長方形のホールに 半円形の突起部(アプス)がついたものを、初期キリスト教が その聖堂形式に採用したのである。アプスには祭壇を置いて内陣とするが、ここでは中央の身廊だけでなく、左右の側廊の奥も 小アプスとしている。

サン・マルティン聖堂の東面、アプス

 プランの単純さにもかかわらず、その外観は 変化に富んだ立体的な造形である。バシリカの中に 十字架状のプランを浮きあがらせるように、高さの異なった屋根を架け、十字架の交点(交差部)には 八角形の塔を立て、さらに 前面ファサードの両側に 円筒形の鐘楼を設けている。このように 幾何学立体を組み合わせ、貫入させ、切削し、その壁面に半円アーチの開口部を穿つ、これが ロマネスク建築の原理である。建物の上に 大きな切妻屋根を架けて全体像を作る 日本の古典建築やギリシア神殿とは 対照的な方法であることがわかる。

  
交差部のドーム天井と 柱頭彫刻

 十字架状のプランは、東方の正教世界では 縦横の軸の長さが等しい「ギリシア十字」をなし、堂の中心への求心性を強めたのに対し、西欧のカトリック世界では、このフロミスタのように、縦軸が横軸よりも長い「ラテン十字」の形をとるので、内部は 奥行き方向が強調された空間構成となる。
 装飾の少ない、この厳格な幾何学立体の即物的な構成が、逆に深い精神性をたたえるのは、驚くばかりだ。ただ 半円柱の柱頭部分にのみ 形象的な彫刻がほどこされ、石の洞窟のような、禁欲的で清澄な空間に アクセントを与えているのである。

( 2004年6月 "EURASIA NEWS" )



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