GELLERY of WORLD ARCHITECTURE
ソハーグ (エジプト)
白修道院と赤修道院

神谷武夫
白修道院
ソハーグの白修道院

BACK   NEXT


エジプトのコプト教会

 エジプトのキリスト教徒を コプトという。 元来これは エジプトのことをギリシア人が アイギュプトスと呼び、アラビア語にはいって キブトとなまったのが 語源であるから、コプトとはエジプト人のことであった。 それが キリスト教の一派をさすようになったのは、5世紀半ばに キリストの神人両性についての論争と、コンスタンチノープルの東ローマ帝国による支配への反抗とから、単性論的立場の 独立した教会を形成したことによる。
 単性論とは、キリストの人性と神性は一体不可分である という主張で、ローマ側の両性論、およびネストリウス派の人性論に対立するもので、その離反が決定的になったのは、451年の カルケドン公会議であった。


廃墟となった白修道院の三身廊、ソハーグ

 このコプト教会の成立よりも はるか以前から、エジプトは古代キリスト教の 隠修士たちの修行の地であったが、共住修道院の発祥の地もまた エジプトの砂漠地帯であった。 最も古いものは パコミウス (290頃〜346) がテーベの近くの タベンニシに設立したものと言われる。 まだ バシレイオスやベネディクトゥスの会則の作られる以前、エジプトやシリアの初期修道院は、このパコミウスの会則を用いる場合が多かった。
 エジプトに彼が開いた いくつかの修道院は いずれも現存していないので、どのような建築形式をもっていたのかは明らかでないが、ナイル中流域の ソハーグの近郊には、5世紀半ばの 白修道院 (デイル・アルアビアド) と 赤修道院 (デイル・アルアフマル) が、半壊しながらも 初期キリスト教の修道院の姿を今に伝えている。 白修道院が建てられたのは コプト教会成立直前の 440年であるから、これがコプト教会に特有の形式であったとはいえないが、それらは 「砂漠の修道院」 の、一つの典型的な形態であると言えよう。


砂漠の修道院

 6キロメートルばかり離れあった両者は、一方の外壁が 白っぽい石灰岩で作られていることから 白修道院、他方は 焼成レンガが積まれていることから 赤修道院と呼びならわされているが、本来は そこに祀られている聖人の名によって、前者は聖シェヌート修道院、後者は聖ビショイ修道院という。
 聖シェヌートは白修道院の創始者でもあって、パコミウスのような会則を作った 聖ビグルの甥であったから、ここではその会則が用いられたのであろう。 またネストリウス派とカルケドン派を批判したというから、これは最初のコプト修道院であったと言えるかもしれない。 もう一方の聖ビショイ修道院は やや年代が下がり ( 6世紀の建立とも言う)、規模もやや小さい。


白修道院 平面図 ソハーグ 460年
( from "Orient Byzantin" by Henri Stierlin, 1988)

 両修道院を訪ねて、まず驚くのは その外観である。 高さ 10メートルを超える 高い壁で囲まれた堅固な建物は、見なれたヨーロッパのキリスト教聖堂よりも、むしろ城砦のイメージに近い。 塔もなければ 鐘楼もなく、ただ四角い小窓の列があるのみの 石積みの巨塊は、シンボリズムやモニュメンタリティを拒否しているかのようで、これこそ名実ともに 「信仰の砦」 なのではないかと思わせる。


建築の形式

 聖堂のプランは両者ともほとんど同じで、三廊式のバシリカ形式をとるが、特徴的なのは、内陣部がトリコンク (三弁形) をしていて、3つの半円形アプスが 向いあっていることである。 デンデラやヘルモポリスなど、5世紀のコプト教会に この形式がしばしば見られるのは、彼らが重視した 「三位一体論」 の表現であるとも考えられる。 このトリコンクの形式は、ずっと後に ヨーロッパのライン地方の聖堂建築に受け継がれることになる。

   
赤修道院のトリコンクの内陣見上げと、白修道院のナルテックス

 両修道院とも 1168年にファーティマ朝によって 大部分が破壊され、身廊部分は廃墟のままとなっているが、トリコンクで囲まれた内陣の部分は生き延びて、今もなお コプトの聖堂として用いられている。
 聖堂の脇には 細長い部屋があり、ナルテックス (玄関廊)と同じく アプスを備えている。 その使途は明らかでないが、外部からの入口もあるから、食堂であったのではないかとも言われる。
 外壁には 上層にも窓があるので、天井の高い主身廊と 内陣以外は 2階にも部屋があり、それが修道士の寝室や集会室だったのだろう。 入口脇と いちばん奥とに、2階への階段が設けられていた。


古代エジプトのエドフ神殿

 私がここを訪れたのは 聖シェヌートの祝日の翌日であったから、エジプト中のコプト教徒が集まって、周囲にテントを張って 宿泊していた。 そこには多くの仮設店舗もできて、まるで市が立っているかのようだった。 この祭礼が終ると すべてが片付けられ、また通常の、孤立した 「砂漠の修道院」 に戻る。
 「信仰の砦」 と見えた造りは、実は 砂漠の中で外敵から身を守るための 防御の建築形式なのであって、それは 彼らが否定した古代エジプトの 異教の神殿建築から受けついだものなのである。

(2004年 4月 「中外日報」)

BACK   NEXT

© TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp